|
(上部スライダーは自動的に別写真へスライドし続けます。またカーソルをスライダー部分に置くとスライドが止まり、左右に矢印が表示されますので、矢印をクリックすると別写真にスライド出来ます。) |
|
【エルヴィス・ハウス跡地イン・メンフィス】 エルヴィスのメンフィス時代の借家7件跡地一挙紹介!
プレスリー・ファミリーがトゥペロからメンフィスに引っ越してきたのは、EDDによると1948年11月6日とされておる。エルヴィスが13歳の時じゃ。ファミリーが最初に居を構えたのは「ワシントン・アベニュー370」の借家であり、家賃は週11ドルだったという。ファミリーがトゥペロからメンフィスに引っ越してきた理由については、「バーチャル~第5回ミシシッピー州編Point-13パーチマン刑務所」を参照して頂きたい! このおうちの写真は残っていないが、「Historic Aerials」というアメリカ各地の古い航空写真を公開しておるサイトがあり、「ワシントン・アベニュー370」に該当する家屋の写真が小さいながらも確認出来る!上写真①赤丸内であり、撮影は1958年なのでプレスリー・ファミリーが住んでいた約10年後ではあるが、住居らしきが建物が写っておる。味気ない航空写真も「この写真の10年前にエルヴィスがここに住んでいた」と思うと、じい~んとくるな!上写真②はストリートビュー2022年1月撮影の跡地。 2件目の借家は、1件目から徒歩2分ほど離れた場所にあり、エルヴィスとは何かと縁のあるポプラー・アベニューが目の前に走っておるポプラーアヴェニュー572にあった。こちらは貴重な写真が残っておる。(上写真③)引っ越しした正確な日付は分からないが、EDDには1949年6月17日にファミリーがこの物件を紹介されてチェックしに行ったことが記載されておる。バスルームとキッチンは共同、家賃は週9.5ドルだったという。1949年の夏頃にファミリーはこちらに引っ越したようじゃ。 しかし1949年年内にはプレスリー・ファミリーは有名なアパートメント、ラウダーデール・コーツへあらためて引っ越し、また年が明けた1950年1月にサム・フィリップスはサン・レコード・スタジオをオープンさせておる。メンフィスの地で、エルヴィスの歴史、そしてロックンロールの歴史の地殻変動が始まったと言えるじゃろう! この2軒目の借家は、上写真①のピンクの丸印が該当部分。上写真④はストリートビュー2023年11月撮影。 また右写真は「バーチャル~第3回テネシー州後編(2021年度版)Point-32」でご紹介した14歳のエルヴィス写真撮影地点。この撮影地点は2件目の借家からわずか90メートルの位置にあり、撮影時は1件目、もしくは2件目の借家在住時である。
上写真⑤⑥⑦が、エルヴィスが少年時代に過ごした住居の中でもっとも有名なラウダーデール・コーツ(低所得者用アパート)。ヒストリカル・マーカー(歴史的建造物記念表示板)によると、プレスリー・ファミリーは1949年10月から1953年1月まで住んでいたと表記されておる。映画「エルヴィス」の中でも、ミュージシャン志望のエルヴィスと反対するファミリーが口論する場面等、いくつかのシーンの撮影舞台としてラウダーデール・コーツが使用(もしくは再現)されておったな。 エルヴィス・ファミリーが住んでいたお部屋は現在は少々リノベーションされ、「エルヴィス・ルーム」としてデイリーでの宿泊も可能になっておる。The-Kingのボスも潜入に成功して(笑)、以前アップされた写真コラムに挙げておった!エルヴィスが夜中にギターの練習をしていたという地下の洗濯部屋はまだあるのか、わしとしてはソコが気になるな(笑) ラウダーデール・コーツは、東西南北約200メートルの敷地内に幾つかのアパート棟が建っており、Google-mapで検索した場合に指定される場所はその敷地内のほぼ真ん中。実際にプレスリー・ファミリーが住んでいた部屋を含む棟は敷地の北西角、ウインチェスター通りの東端、高速道路との連結道路前に位置しておる。 上写真⑦は⑤⑥が撮影された場所(赤枠内)のストリートビュー2023年1月撮影。写真⑦右側のヒストリカル・マーカーは、アパートの西側端に設置されておる。(写真⑦はアパート北側)
サファランズ・アベニューの借家は僅か3ヶ月ほどで退去したプレスリー・ファミリーの生活記録はまったく残っていない。現在跡地は更地になっておる。(左写真⑧) 1953年3月26日にプレスリー・ファミリーはアラバマ・アベニューにあったビクトリア調の洒落た外観のアパートに引っ越した。(下写真⑨⑩)家賃は月50ドルだったとか。引っ越しの約2ヶ月後の6月3日、エルヴィスはヒュームズ・ハイスクールの卒業式を迎え、無事卒業証書を授与された。アラバマ・アベニュー入居時代にエルヴィスの学生時代は終わったのじゃ。 なおEDDには、“少なくとも1955年6月中にラーマ・アベニューへ引っ越した”とされておるので、アラバマ・アベニューでのファミリーの生活は約2年3ヶ月に及んだことになる。 このアパートがいつまで存在していたのかは不明。かつての所在地は2つの高速道路の交差地点付近であり、現在周囲は更地になっており、長い間何も建てられていない様子である。(下写真⑪ストリートビュー2022年3月撮影)
プレスリー・ファミリーのメンフィスでの6軒目の住居であるラマー・アベニューの借家については「バーチャル~メンフィス・テネシー後編」(2021年)のPoint-31で少々ご案内した。この家屋について、この度新しい情報が入手出来たので加筆しておこう。 2024年2月21日メンフィス・シェルビー郡のリー・ハリス市長がこの家屋をメンフィスの新しい歴史建造物に指定して、近い将来に廃屋と化した建物を修復するプランを発表した。 市長さんの談話が掲載されたネットニュースにおいては、プレスリー・ファミリーがこの家屋に入居していたのは1955年5月~10月とされておる。 上写真⑫は、エルヴィスが家屋の前の小さな庭でキャデラックを洗車する様子。また⑬⑭⑮はリヴィングでくつろぐエルヴィスの姿を、ボブ・ニールが派遣したPR写真用のカメラマンが撮影したとされておる。 某英字サイトにおいては、⑬⑭⑮はラマー・アベニューの次の引っ越し先だったゲットウェル・ストリートの借家での撮影としており、いずれにせよ、スターになる直前の借家時代のエルヴィスの貴重で鮮明な画像によるオフタイム・ショットじゃ。 ラマー・アベニューの借家跡地は長らく木造(らしき)建物が建っており、近年まで「託児所」が経営されておったが、廃業後に建物は火災に遭って一部焼失したまま現在まで放置されておる。(下写真⑯ ストリートビュー2023年9月撮影)一部のサイトでは跡地に残っている黄色の建物そのものがプレスリー・ファミリー入居時の家屋そのものとの説を唱えてはおるが、EDDによると当時の建物はレンガ造りだったとしておる。 プレスリー・ファミリーのメンフィスでの7軒目、最後の借家はゲットウェル・ストリートにあり、1955年11月からオウデュポン・ドライブに引っ越す1956年5月までファミリーは入居しておった。 下写真⑰は1980年代にまだ存在していた家屋の写真。⑱はストリートビュー2022年7月撮影の跡地。⑰⑱2枚の写真内の青枠部分の排水溝がどうやら同一のようじゃ。目の前を走る通りの名の英語の綴りはGetwellじゃが、Google-mapの日本語表記は“ジェットウェル”。跡地周辺は現在駐車場になっておる。オウデュポンの家の南約2キロ、車では僅か3~4分の位置じゃ。 |
エルヴィスの母校。“あの時がエルヴィス・プレスリーの始まりだった” Area No.45/Serial No.488 ヒュームズ・ハイスクール プレスリー・ファミリーがメンフィスに引っ越した直後、1948年11月から1953年5月までエルヴィスが在籍していたハイスクール。1953年6月3日の卒業式の2ヶ月前、上記Area No.44のアラバマ・アベニューの借家に引っ越してからわずか2週間後の4月9日、エルヴィスはハイスクールのバンドの一員として「Annual Ministreal」という催事(日本流に言うと、校内謝恩会みたいなもの?)のタレント・ショーに出演した。 EDDでは、この時の思い出をエルヴィスは次のように語ったとされておる。「それまでの僕は校内で仲の良い友達もいなかった。だけどみんながタレントショーで演奏するバンドに僕を入れてくれたんだ。Teresa Brewerの“Till I Waltz Again With You”を歌った~」。また当時のエルヴィスの学友たちは口を揃えて「あの時が“エルヴィス・プレスリーの始まり”だった」と語っておる。 公的には“エルヴィス最初のガールフレンド”とされておるディクシー・ロック嬢はエルヴィスの3歳年下で同校の在籍者。1955年5月6日同校のジュニア・プロム(ハイスクール最終2学年の生徒が参加出来るダンスパーティー)にエルヴィスが駆け付けてロック嬢と撮影した写真が有名じゃ。ちなみに幾つかの英字サイトではジュニア・プロムのパーティーは同校校内で行われたと記載されておるが、実際は別の場所じゃ。(次回の「バーチャル~」でご案内予定デス)。 ヒューズ・ハイスクールは現在でもエルヴィスが通っていた頃と同じ場所に位置し、外観もほとんど変化なし。近年「ヒュームズ・プレパラトリー・アカデミー・ミドル・スクール」という中学校になっておったが、右写真右側のストリートビュー(2022年3月撮影)で確認すると、廃校になっておるように見える。Google-map上でのスクールの表示は消えておる。 正面入口へと続くなだらかな階段の横には“エルヴィス・プレスりーの母校(ALMA MATER OF ELVIS PRESLEY)”と表記された標識が設置されておる(右写真左側)。 |
Sing ! “危険が迫ったら歌え ”の訓えはこの方だった! Area No.46/Serial No.489 イースト・トリッグ・バプテスト・チャーチ跡地 「偉い牧師さんが言った。危険が迫ったら歌えと・・・」 これは映画「エルヴィス」の中に挿入された、エルヴィスの短い回想シーンで語られる言葉じゃな。眼鏡をかけた黒人の牧師さんが、ゴスペル合唱団へ向かって力強く「Sing !」と。あの牧師さんは一体誰なんじゃろうと気になっておったものの、映画内でも映画関連情報でも具体的な紹介は見当たらなかった。しかしこの度「恐らくこの方であろう!」と突き止めたので、その牧師さんが司る教会とともにご案内しよう。 メンフィスの中心地から西へ4.5キロほど離れた場所にイースト・トリッグ・バプテスト・チャーチという教会があり、少年時代のエルヴィスが通い、ゴスペルを聞いていた教会じゃ。この教会の黒人牧師さんが左写真のウィリアム・ハーバート・ブリュースター氏じゃ。(1897年7月2日に生まれ、1987年10月14日没) ブリュースター氏はメンフィスで影響力のあったアフリカ系アメリカ人のバプテスト説教者であり、牧師、歌手、作曲家、詩人、そして地域社会のリーダーだったのじゃ。 1949年に彼はラジオ番組の司会も務め、それが彼の教会からWHBQで放送されておった。彼の音楽プログラムと合唱団は、教会の礼拝によく出席していた若きエルヴィスに大きな影響を与えたとメンフィスの歴史サイトのひとつに明記されておった! 更に調べたところ、歌手としてレコーディングした2曲「Move On Up a Little Higher」 (1946年) と「Surely, God is Able」 (1949年) は、100万枚以上を売り上げた初の黒人ゴスペルなんだそうじゃ! ブリュースター氏と教会について、エルヴィスは1957年「Jet」というメディアのインタビューにおいて、次のように語って紙上に掲載されておる。(右写真) 「多くの人は私がこのビジネス(ロックンロール)を始めたと思っているようですが、ロックンロールは私が生まれるずっと前から存在していました。有色人種(黒人)のようにあの種の音楽を歌える人はいません。正直に言うと、私はファッツ・ドミノのように歌うことはできません。私はそれを分かっていますが、いつもそういう音楽が好きでした。私は子供の頃、ブリュースター牧師の教会、メンフィスのイースト・トリッグ・アベニューにあるバプテスト教会のような、カラフル(人種差別のないという意味)な教会によく行っていたものでした」 ブリュースター氏は写真によっては映画「エルヴィス」に出演した牧師さん役の俳優さんと容姿も似ていらっしゃるし(下写真左側)、「Sing !」は間違いなくイースト・トリッグ・バプテスト・チャーチのブリュースター氏の訓え(おしえ)じゃ! なおエルヴィスが歌った「ピース・イン・ザ・バレー」についてブリュースター氏は、「私が今まで聞いた中で最高のゴスペル録音のひとつだ」と語ったと云われておる。 イースト・トリッグ・バプテスト・チャーチは現在は元の場所から少し離れた位置に移転しておるが、オリジナルの建物は現存しておる。(右写真右側。ストリートビュー2022年8月撮影)どうか、このわしが訪れるまで取り壊さないでいてほしい! なお、教会の東側約100メートルの場所からは、エルヴィスが1954年8月18日にライブ出演したベルビュー・パークが広がっておる。 |
デビュー前のエルヴィスも遊びに行っていたメンフィス市民憩いの公園 Area No.47/Serial No.490 リバーサイド・パーク まず上写真左側はpinterestに最近アップされたものであり、1948年の撮影とされておる。同年11月にプレスリー・ファミリーがメンフィスに引っ越してきた直後と思われる。左からエルビス、グラディス・ママ、ヒューバート&ティナ・ティプトン夫妻、そして夫妻の男の子デニス。ティナ・ティプトンの二人の妹はグラディス・ママの二人の兄弟ジョニーとトラヴィスと結婚しておったという。 ティプトン・ファミリーはプレスリー・ファミリーの後を追うように、メンフィスにやってきたという 上写真中央2枚はエルヴィスと、Area No.46で上述した“最初のガール・フレンド”だったディクシー・ロック嬢とのお戯れのご様子。撮影はEDDによると1953年春(spring)とされておる。上写真右側は、ヒュームズ・ハイスクール時代の知り合いの女学生たち(?)とリバーサイド・パークにドライブに出かけた時の撮影とされておる。(撮影日時は不明) リバーサイド・パークには9ホールのゴルフ コース、ピクニック エリア、自然遊歩道、ミシシッピ川を見渡す駐車場が含まれていて、メンフィスの地元民にとっての憩いの公園じゃ。現在の名称は、メンフィスで凶弾に倒れた黒人公民権運動のリーダーだったマーティー・ルーサー・キング・ジュニアを偲んで、マーティン・ルーサー・キング・ジュニア・リバーサイド・パークと命名されておる。下写真左側はwikipediaに添付されているパークの写真であり、パークの北端付近と思われる。 なお、上地図左下にマッケラー湖という表記があり、湖というよりも正確にはミシシッピー川から分かれて東側に流れ込んだ短い支流じゃ。この川岸の何処かでエルヴィスは1960年7月8日に側近者たちとボート遊びに興じた写真が残されておる。(下写真中央、右側)この位置が今回特定出来なかったので、参考写真として掲載しておこう。 |
「その時歴史が動いた!」前日に行われたトライアル・セッション!
Area No.48/Serial No.491 スコッティ・ムーア・ベルズ・アヴェニュー・ハウス 1954年7月5日、エルヴィス、スコッティ、ビルのブルームーン・ボーイズとなるトリオは、サン・スタジオで記念すべき第一弾シングルThat's Allright”をレコーディングした。ついにロックの歴史が音を立てて動き出した日じゃ!人類の歴史上でこの日が無かったら、諸君やこの七鉄も存在しなかった!なあ~んてオハナシはさて置き、その日の前日7月4日、翌日のレコーディングに備えた3人のセッションが行われた。場所は、当時のスコッティの自宅だった。スコッティ亡き今、それを証明出来るのは奥様のボビー・ムーアさん。2023年6月にアメリカのyou tuberがアップした動画内で、奥様ははっきりと「7月4日」と証言されております! 上写真左側はスコッティ宅の前で撮影されたスコッティと子供さん、さらに元々奥様が所有していたという車コンパーチブル1953も写っておる。このコンパーチブル1953は、ブルームーンボーイズ3人による初のライブツアーの際に使用された車じゃ~♪当時の家屋そのものが撮影された写真は見つからないだけに非常に貴重な1枚じゃ! 上写真右側は、当時スコッティとビルが在籍していたスターライト・ラングラーズの星型のショーサインが飾られておる自宅内の奥様じゃ。 上写真は、このページのトップArea No.41にて紹介した「Historic Aerials」というアメリカ各地の古い航空写真を公開しておるサイトで検索した、スコッティの自宅付近が写った航空写真(1958年撮影)。 サム・フィリップスから「エルヴィス・プレスリーという“可能性のありそうな”男の子がいるんだが、君たちでちょっとテストしてみないか」と提案されたスコッティは、プレスリー宅へ電話。エルヴィスは映画を観るために外出中であり、グラデス・ママに伝言をことづけることに。その伝言が「サム・フィリップから紹介されたスコッティ・ムーアです。僕の家でちょっとセッションをしてみないか」じゃったらしい。実はビルもすぐ近くに住んでおり、セッションにはスコッティの家が好都合だったのじゃ。 7月4日のセッションは特別に白熱した演奏になったわけでもなく、スローなバラードを何曲かやっただけのお遊び程度のものだったらしい。それでもスコッティはサム・フィリップスに「おもしろそうなシンガーではあるね」と連絡したという。そして7月5日のレコーディングを迎えたというわけじゃ。 7月5日のレコーディングが最初は冴えない状態が続いたにもかかわらず、エルヴィスが鼻歌交じりで歌い出した“That's Allright”から演奏は本格化していき、最終的には「やれやれ、こんな曲を発表したら俺たちは街から追い出されるぜ」というスコッティの言葉に象徴されるトンデモナイ出来栄えによって完了したエピソードは有名じゃな! しかしながら前日のセッションに対するスコッティの極めて控えめコメントは、13日後の7月17日にボン・エア・クラブで行われたエルヴィスをシンガーに起用した初のライブ後のコメントにも似ておる。 「少なくともスターライト・ラングラーズよりもエルヴィスが歌うブルームーン・ボーイズの方が化けそうだ」 当時のスコッティの本職はクリーニング屋さんの店員。ビルはタイヤ工場の工員。一日も早くバンド活動に専念したかったスコッティ、そしてビルはエルヴィスに感じた“小さな可能性”に賭けてみたというわけじゃ。 1954年7月4日のセッションの録音記録は残されておらん。もし“ありもしないはずの”録音テープが見つかりでもしたら、それこそロック・メモラビリア・オークション史上最高値が付くことは間違いなしじゃな!(笑) エルヴィスよりもスコッティのファンだったというジミー・ペイジがとんでもない金額を付けて落札しそうじゃ!(笑) スコッティがこの家にいつまで住んでいたのかは不明であり、現在見られる家屋がスコッティ在住時と同じであるかどうかも不明。(右写真ストリートビュー2022年11月撮影)ただし上述した動画では同じ家屋として撮影、説明されておるふしもあるが、やはりビミョー。 スコッティ・ファミリーが住んでおった当時の敷地前のストリート名は“Belz Street”だったが、現在は“Eldridge Avenue”に変更されておる。こうした住所名や番地の変更はマニアを悩ませる調査上の大きな障害であるので、わしよりも先に住所名変更を突き止めてネット上で発表して下さった方に心より感謝申し上げます! |
バックナンバーを 御覧になる場合は 各バナーをクリックして下さい。 (赤枠のバナーは テネシー州/メンフィス2021、22年編) |
||||
c | ||||
GO TO TOP |