NANATETSU ROCK FIREBALL COLUMN Vol.449

第68回 エルヴィスゆかりの地~テネシー州/メンフィス2024年後編

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「バーチャル~エルヴィスゆかりの地」巡りの旅2024年のファイナルはテネシー州メンフィスで迎えよう。デビュー前後のエルヴィスと関わりの深かった場所6ヶ所へご案内して本年の旅の〆とするぞ!エルヴィス最初のGFと言われたディクシー・ロック嬢の著書によって判明した新しい場所情報や、ブルームーンボーイズと名乗る前の“仮のバンド名”情報、エルヴィスの通ったご飯屋さん情報もあるので要チェックですぞ。テネシー州メンフィスのエルヴィスゆかりの地はまだまだ存在するので来年度も乞うご期待じゃ。

【目次】バーチャル・ロックンロールツアー エルヴィスゆかりの地
    第68回 テネシー州/メンフィス2024年後編

 ・御覧になりたい番号をクリックすると、該当する解説文の先頭に画面が自動的にジャンプします。
 ・Area No.は2021年度編からのテネシー州メンフィス内の番号、
  Serial No.は「バーチャル・ロックンロールツアー」第1回からの通し番号です。

 Area No.49/Serial No.492  テイラーズ・レストラン跡地
 Area No.50/Serial No.493 リッツ・コーヒー・ショップ跡地
 Area No.51/Serial No.494  メンフィス・プレス・シミター・ビル 

 Area No.52/Serial No.495 ベルビュー・パーク 
 Area No.53/Serial No.496  ピーボディ・ホテル
 
Area No.54/Serial No.497 クラリッジ・ホテル

【バーチャル・ロックンロール・ツアーのバックナンバー】

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SMW=
 スコッティ・ムーアのウェブサイト
SRW=
 サンレコードのウェブサイト
 (※2023年から閲覧不可)
EDD=「Elvis Day By Day」
 エルヴィス・デイリー記録集
EPC=エルヴィス・プレスリー・イン・
 コンサート(ウェブサイト)


 R&R誕生に貢献したサンスタジオ隣接カフェ
 Area No.49/Serial No.492  テイラーズ・レストラン跡地
 
 メンフィス名所の中でも最重要ポイントのひとつである「サン・スタジオ跡地」は、約3年前の「バーチャル~」第1回目でご案内済じゃが、その際に併せてご紹介するのが筋ともいうべきレストランを掲載し損ねておった。サン・スタジオの建物の東南の角の部分にあった「テイラーズ・レストラン」じゃ。
 このレストランはサン・スタジオがオープンする四半世紀も前からこの場所で営業を続けており、サン・スタジオにとっては“地元の大先輩”でもある。上写真左側は営業当時の入口、上写真中央は女性オーナーのデル・テイラーさんと娘さん。上写真右側は1957年当時のメニュー。

 また右写真は、サム・フィリップスと若きエルヴィス2人の珍しいお食事の写真。テーブルの真ん中にはケーキ、エルヴィスの前にはアイスクリームが写っておるって、そんなことはどーでもよくて(笑)、この写真が「テイラーズ・カフェ」でのショットの“可能性が高い”ので参考写真として掲載しておくぞ。(下部掲載の「リッツ・コーヒー・ショップの可能性もあり)

 テイラーズはサン・スタジオのお隣りさんにもかかわらず、レストラン自体の資料すら少なく、SMWにも最低限の情報しか掲載されていない。某英字サイトの“メインフィス思い出バナシ”の中に、サム・フィリップスやマリオンお姉様の他、エルヴィスをはじめとしたサン・スタジオ使用者たちが年中訪れては、食事を摂ったり、コーヒーで一服したりしておったそうじゃ。
 またサンスタジオ内にミュージシャンたちが作詞作曲をするための適当なスペースやデスクがなかったために、ミュージシャンたちはテイラーズのテーブルで譜面や紙面にペンを走らせることも珍しくなかったという!
 別サイトでは、“That's All Right”の録音の前々日(1955年7月3日)、ここでサム社長、マリオンお姉様、スコッティで、エルヴィスのレコーディング起用が検討されておったとか。「とにかく誰にも似てないわよ」というマリオンお姉様の言葉に殉じてみることにしたスコッティは、彼女からエルヴィスの連絡先(電話番号)を受け取ったということじゃ。

テイラーズ・レストランは1977年にオーナーのデル・デイラーさんが経営権を他者に売却して経営から手を引き、その後1981年に完全に廃業となった。現在はサン・スタジオ・カフェになっておる。下写真左側はストリートビュー2023年9月撮影。下写真中央、右側は、サン・スタジオ・カフェ内にディスプレイされておるテイラーズ・レストランのメニュー(表紙側)と灰皿。


メンフィス餃子はR&Rパワーの源だった!
Area No.50/Serial No.493 リッツ・コーヒー・ショップ跡地
 サン・スタジオのすぐ近くには、上記したテイラーズ・レストランの他にもう一軒、ミュージシャンたちが通ったレストランがあった。それはテイラーズ・レストランの目の前で終点となるマーシャル・アヴェニュー(ユニオン・アベニューとの合流地点)をわずか60メートルほど西側へ戻った位置にあったリッツ・コーヒー・ショップじゃ。(左写真)
 こちらはご夫婦が経営するお店であり、1949年テイラーズ・レストラン東側の路地を隔てた東真隣り(住所はユニオン710)に開店して、1953年にマーシャル・アヴェニューの方へ移転しておる。

 テイラーズとの違いは、リッツはブレックファスト、ランチ、ディナーを提供する本格的な食事処であり、ミュージシャンだけではなく、地元のビジネスマンも通っておったことじゃ。夕方のディナータイムが終わると(午後5~6時)閉店する営業スタイルであり、店内は目立つディスプレイもなく単なる地元の“ご飯屋さん”に徹しておったそうじゃ。それでも手作り餃子(メンフィスの餃子ってどんな味?)が評判を呼んで大層繁盛しておったそうじゃ。エルヴィスもメンフィス餃子を食べたんじゃろうかのお?(笑)
 リッツの存在を紹介しておった某英文コラムによると、サンスタジオを使用していたミュージシャンは全員こちらでしっかりと腹ごしらえをしておったとか。テイラーズとリッツはお互いに商売の棲み分けが成立しておったという。

 経営者であるご夫婦がいずれも高齢を迎えたこともあり、リッツ・コーヒーショップは1971年に閉店した。紹介コラムには、「お客はミュージシャンばかりではなかったが、サンスタジオの隆盛、エルヴィスの登場とともにお店は繁盛し、僅か20年あまりで風のように消えたレストランだった」と記載されておる。
 右写真はストリートビュー2022年3月撮影の跡地。赤丸部分にリッツ・コーヒーショップがあった。写真右端にはサン・スタジオが写っておる。


 エルヴィスのデビューから最期まで報道を続けた新聞社
Area No.51/Serial No.494 メンフィス・プレス・シミター・ビル
 エルヴィスが初めてマスコミ(紙メディア)に掲載されたのは、EDDによると1954年7月28日発行のメンフィス・プレス・シミターとされておる。(左写真右側)
 前日の7月27日サン・レコードのマリオンお姉様はプレス・シミターへエルヴィスのインタビューを取付け、同日のランチタイムにエルヴィスは同社のビルへ出向いて取材を受けておる。
 掲載された記事の内容は簡単なエルヴィスのプロフィール、7月5日にレコーディングした“That's All Right”と7月30日のメンフィス・オーバートン・パーク・シェルでのライブの宣伝である。

 またインタビューとともにプレス・シミター・ビル内(上写真左側)で写真撮影も行われておる。この写真も対外的に初めて公開されたエルヴィスの写真である。

 ちなみにエルヴィスは7月15日にサム・フィリップスの指示によりメンフィスのブルーライト・スタジオで初のプロモーション用写真の撮影(左写真)を行っておる。(「バーチャル~第12回 バック・イン・テネシー州②」 Area No.37参照)
 こちらは女性カメラマンによる、女性ファンうけを狙ったような“あま~い色男風”の写真。プレス・シミターの写真は一般読者を対象としたビシッとキメタ“デキる男風”!?どっちが好みですか?じゃなくて(笑)、両方の写真に写っておる男性はとても19歳の同一人物には見えんわい。やっぱりビッグスターになる者は、初めから“様々な魅力”を兼ね備えておるもんなんじゃな!

 メンフィス・プレスシミターは、19世紀末期から20世紀初頭にかけて複数の新聞社の吸収合併を何度か経た後、1928年に同名の新聞社を名乗ってスタートを切り、1983年まで存続したメンフィスの代表的な一般大衆向け新聞じゃった。サム・フィリップスはプレス・シミターへエルヴィスを積極的にアピールし続けており、同社撮影の写真の幾つかは現在でも露出度が高い。
 左写真左側は、1955年2月5日ニューシングル“Baby Let's Play House”のレコーディングのためにサンスタジオに集まったブルームーンボーイズが撮影されたショット(EDDより)。
 左写真右側は、1977年8月17日エルヴィス死亡のニュースを報じたプレス・シミターの第一面。悲しい報道ではあるが、「ハートブレイク・ホテル」の歌詞の一節を巧みに織り込んだ「A Lonely Life Ends on Elvis Presley Boulvard」という大見出しのセンスが実に秀逸じゃ。

 かつてはシミター・ビルと称されたメンフィス・プレス・シミターのオフィスビルは、現在ナポレオン・ホテルに改造されて稼働中である。
 Google-map投稿写真をチェックした限りでは、新聞社だった形跡は何も残されておらんが、外装はシミター・ビル時代の威厳ある佇まいが維持されておる。右写真ストリートビュー2023年2月撮影。なお、建物の北西角(右写真左側部分)から西へ僅か40メートル移動した位置は、1954年8月14日にエルヴィスがライブを行ったグッドウィン・インスティテュート跡地である。(ヒストリカル・マーカー有~「バーチャル~第12回 バック・イン・テネシー州②」 Arean No.33参照



 エルヴィス・“プレスコット”・アンド・ヒズ・ヒュームス・ヒルビリーズ
Area No.52/Serial No.495 ベルビュー・パーク 
 サン・レコードのミュージシャンとして1954年7月17日にメンフィス・ボン・エア・クラブで初ライブを行ったエルヴィスは、その一ヶ月後8月16日にベルビュー・パークという大きな野外公園内にあるベースボール・フィールドでライブを行った。この時の記録は新聞3社の広告しか情報らしきものは残されておらん。
 少々ガッカリしていたところ、新聞広告を読んでみたら大笑い!3社ともエルヴィスの名前がエルヴィス・プレスコット
(Elvis Prescott)と表記されておった!いずれも地元の新聞なので、デビューしたてとはいえエルヴィスも複雑な心境だったに違いない!?しかも3社のうちの1社は、上記のメンフィス・プレス・シミター!20日ほど前にエルヴィスを取材したんじゃなかったっけ?(笑)なにをやっとるんじゃ、まったく!

 Elvis Prescottの誤植はさておき、バンド名がまたおもしろい。まだブルームーン・ボーイズと名乗っていなかったのか、ヒズ・ヒュームス・ヒルビリーズ(His Humes Hilbilies)、またヒルビリー・コンビ(Hillbily conbine)とされておる。“ヒュームス”とはエルヴィスが卒業した高校の名前。ひょっとして、ほんの短期間だけこのバンド名で出演していたのであれば大発見ではある!
 さらに当時はまだエルヴィスらが演奏する音楽の呼称が曖昧だっただけに、1社の広告内では、「ヒルビリー・セレナーデ」と表現されておった。これはこれで、なかなか悪くはない表現じゃな。ライブに関する情報は無いが、小さな広告から“ハナシのネタ”にはなりそうな表記だけは発見したのでご紹介した次第じゃ!
 この日ベルビュー・パークのフィールドではマイナーリーグのオールスターゲームが行われ、エルヴィス・プレスコット・アンド・ヒズ・ヒュームス・ヒルビリーズは、午後8時頃にベースボール・ゲームの余興として出演したようじゃ!

 ベルビューパークは、現在Google-mapの航空写真で確認すると(右写真右側)、ジェシー・ターナー・パーク内の北東に位置するベースボール用のフィールド名になっておる。
 前回の「バーチャル~2024年前編」でご案内したイースト・トリッグ・バプテスト・チャーチは真西200メートルの位置にある。



 ユニオン・アベニューで開業100年を迎えるエルヴィス因縁のホテル
  Area No.53/Serial No.496 ピーボディ・ホテル

 ピーボディ・ホテル(上写真左側)は、現在アメリカの「歴史保存ナショナル・トラスト」によって歴史保存プログラムに登録されておるメンフィス一、またアメリカでも有数の歴史的名ホテルであ~る。エルヴィスの生涯、特に1950年代に度々登場するピーボディ・ホテルをざっくりと調べたところ、メンフィスの住人にとって自分の生涯における記念すべき祝賀日をピーボディ・ホテルでお祝いをすることが輝かしいステイタスになっておるようじゃ。
 何かとステイタス、しきたりに拘るパーカー大佐は、ピーボディ・ホテル内に数多く所有していたオフィスのひとつを構えていたという説もあり!また2014年にランスキー・ブラザースの店舗がピーボディ・ホテルへ移転してきたことも、やはり大佐同様の意図もあったのかもしれない。
 
 エルヴィス史において最初にピーボディ・ホテルが登場するのは、1953年にヒュームス・ハイスクール在籍時に開催された自身の学年が対象となったジュニア・プロム。(日付は不明)この開催場所がピーボディ・ホテルじゃった。ジュニア・プロムとはハイスクール最終学年より一学下(日本の高校なら2年生)が参加できるダンスパーティーである。
 エルヴィスは4歳年下の新入生レジス・ウィルソン嬢をエスコートして(上写真中央)ジュニア・プロムに参加。パーティー会場はピーボディ・ホテル内のオリエンタル・ボールルームじゃった。(上写真右側)。エルヴィスはダークブルーの貸衣装スーツにブルー・スゥエードシューズを履いておったそうじゃ。
 このオハナシ、これまでパーティーの日時は1955年5月6日で、エスコートのお相手は一般的にはエルヴィスの初めてのガールフレンドと言われるディキシー・ロック嬢が定説じゃったが、最近になってディキシー嬢の著書やインタビューによってそれまでの情報の誤りが発覚。詳しくは下記Area No.55でご紹介する。

 次にエルヴィス史でピーボディ・ホテルが登場するのは、1954年7月26日にサン・レコードとの契約、更に1955年11月30日サンレコードからRCAへの正式移籍契約の場として使用された時じゃ。(左写真左側RCA移籍契約)。左写真右側は契約内容の明細書コピーであり、契約に際してのパーカー大佐の取り分、エルヴィスやEPエンタープライズ社長のヴァーノンの受取額等が記されておる。
 この日は、サンスタジオ内にてエルヴィスの楽曲が録音されたマスターテープの譲渡契約が行われ、その後RCAのお偉いさん方の待つピーボディ・ホテルへ移動してから移籍契約が果たされた。ホテル内の場所は一部のサイトでは“パーカー大佐の部屋”とされておった。
 サンレコードでのマスター譲渡契約時の写真はここには掲載していないが、上写真と参照するとエルヴィスが着替えておるのが分かる。その他の残された写真から判断するとは、ピーボディ・ホテルには父ヴァーノンも母グラディスも同行しなかったようじゃ。(サム・フィリップスの姿も見えないが、ボブ・ニールは上写真でいつも通りの笑顔で写っておる)


 更に上写真3枚の通り、1956年7月28日にピーボディ・ホテルで大ブレイクした直後のエルヴィスのフォトセッションが行われた。ホテルまでやって来る前にエルヴィスは散髪に行ったものの、運悪く駐禁の切符を切られた有名なアクシデント(笑)のあった日じゃ。スタンドカラーにリボンが仕込まれたシャツ、どんなシチュエーションでもクールじゃな!

 ピーボディ・ホテルは屋上に棲み処のあるアヒルがロビーを行進するショーが宿泊客をほっこり和ませることでもまた有名じゃが、我々ロックファンとしてロビーに注目しておきたいのは、エルヴィスをはじめとした、宿泊した有名アーティストのメモラビリアがディスプレイされておることじゃ。エルヴィス・メモラビリアは上記した契約書が綺麗に額装され、訪れる数多くのロックファンを迎えておる。(左写真)

 ピーボディ・ホテルは現在でも稼働中であり、かつてエルヴィスご用達のテーラーであった「ランスキー・ブラザース」が2014年にビール・ストリートから移転してきており、今では1階のテナントスペースの過半数を占めておる。右写真はユニオン・アベニュー側からのストリートビュー(2023年9月撮影)。ユニオン・アベニュー側へせり出した茶色の庇のほとんどにランスキー・ブラザースのロゴマークが入っておる。
 ピーボディ・ホテルの創業は1869年とされており、現在のユニオン・アベニューへ移転したのは1925年。来年で丁度移転100周年となり、まさにユニオン・アベニューのシンボルとして屹立し続けておる。


ディクシー・ロック嬢の著書によって明らかになった新情報!
Area No.54/Serial No.497 クラリッジ・ホテル

 上記ピーボディ・ホテルのご案内の際に紹介した通り、1955年5月6日エルヴィスの母校ヒュームス・ハイスクールのジュニア・プロムのパーティーが行われ、エルヴィスが当時のガールフレンドだったディクシー・ロック嬢と写っておる会場は、長らく信じられておったピーボディ・ホテル(もしくはハイスクール内)ではなく、ピーボディ・ホテルと同じくメンフィスの老舗大型ホテルのクラリッジ・ホテルであった(上写真3枚)。
 これは2021年7月になって発表されたディクシー・ロック嬢の著書「Unlocked~Memors Of Elvis First Girlfriend」の中で明らかにされた新しい情報じゃ。ホテル内の部屋は“Ballroom”とされており、アメリカのyou tuberの動画によると、クラリッジ・ホテルは現存しておるものの、かつてBallroomが位置していた場所は完全に改造されてオフィススペースになっておった。
 ジュニア・プロムが開催された前日、エルヴィスはアラバマ州モビールでライブを行った後に車を飛ばして一人でメンフィスに戻ってディクシー嬢の晴れ姿を祝福するためクラリッジ・ホテルに駆け付けたのじゃ。EDDによれば、この夜スコッティとビルはエルヴィス抜きでアラバマ州バーミンガムで演奏したとされておる。翌5月7日には3人はフロリダ州デイトナビーチでのライブのためにあらためて集結した。エルヴィスはディクシー嬢のために1日お仕事をお休みしたっつうわけじゃ!

 なおディクシー嬢とプリシラ・プレスリーはエルヴィスの死後に親交を深めるようになり、一部では“2人は親友にまでなった”と報じられておる。「Unlocked~」はグレースランドの公式ホームページの中にも掲載されており、そこにはプリシラからの紹介文も添えられておる。
 
「ディクシーの心温まる本は、エルヴィスのファンだけでなく、名声を得る前の彼の初期の人生に興味がある人にとっても必読の書です。彼女の物語は、まるで彼女と一緒に生きているように感じるという点で魅力的です。」 by プリシラ・プレスリー

 エルヴィスがあらためてクラリッジ・ホテルに登場したのは、約6年後の1961年2月25日。メンフィスの26の慈善団体のためのチャリティーコンサートをメンフィス・エリス・オーディトリアムで行った日の記者会見の場としてクラリッジ・ホテルが使用された。(サイトによっては、同ホテルの“昼食会”という表記もある)
 またこの場でエルヴィスは、RCAから7千5百万枚以上のレコード売上を記念したダイアモンドがちりばめられた時計を贈呈されたとされておる。
 レコードという音楽媒体が一般的に普及し始めた当時、7千5百万枚という売上枚数はとてつもない数字じゃ!ダイヤモンドの時計ごときのご褒美では割に合わない!?この時計の写真はネット上では発見出来なかったが、後にエルヴィスは気前よく誰かさんにプレゼントしてしまったのであろうか!

 1924年に客室400を擁してオープンしたクラリッジ・ホテルは、ピーボディ・ホテルとともにメンフィスの豪華老舗ホテルとしての歴史を重ねてきており、ほとんどの関連サイトでは現在でもホテル業が継続されておるように紹介されておる。
 しかしストリートビュー2022年9月撮影では(右写真)集合住宅クラリッジ・ハウス・コンドミニアムと表記されておるので、ホテル業は既に幕が降ろされておるおるようじゃ。建物の外観は往年のスタイルが維持された状態である。


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