NANATETSU ROCK FIREBALL COLUMN Vol.367

原宿ロックンロールドリーム
       ~ロックアーティスト専門店激闘記
 

時代が狂っていたのか、俺たちが狂っていたのか!?
バブル狂騒時代に原宿に咲き乱れたロック・アーティスト専門ショップたち!
「Love Me Tender」「Get Back」「Gimmie Shelter」「Yardbirds/World Tour」
「Gun's Shop」「Keibuy Gallery」etc

遅刻したって残業すりゃ文句ねえだろう!
血を吐くまで酒飲んだこともないヤツなんて信用できるか!
バックルームで居眠りしてようが、酒飲もうが、売上げ良けりゃ問題ねえ!
俺たちはメンフィス・マフィア直系だ、アップルレコードの社員だ、ストーンズファミリーだ!俺たちの情熱こそが会社の理念だ!!

青春の残り火を激しく燃やし尽くした、愛すべきスタッフたちのあの異常な熱量は何だったのか。


最終回:夢の支柱

あれはまるで前世みたいな期間だった

 人間の記憶というものは、歳を取る毎に自分に都合よく書き換えられてしまうというが、原宿ロックンロールエンタープライズA社で働いた5年間の記憶の掘り起こし作業は、「よくあんな事出来たな」という快感と「まだまだ社会人として未熟だったな」という悔恨のない交ぜ状態の中で行ってきた。

 家族の為、お金の為、出世の為、独立の為、ノルマ達成の為等、当時の仕事仲間たちにはそれぞれの明確な目的があったはずだ。しかし俺にはそんな大層な目的も理由も何も無かった。
 「俺の愛するロックンロールの真髄ってヤツをお客さんに激しく熱く伝え続けたい」、その一心だけだった。それが俺のロックンロールドリームの実体だったのだ。社会人になってから既に数年が経過していたにもかかわらず、俺は呆れるような単細胞人間だったのである。だからこそ仕事に熱中出来たのかもしれないが。
 
 50年代から70年代までのロックヒーローたちが現役ロッカーのごとく人気を博していたロックシーンが完全に世代交代を果たした90年代初頭は、A社にとっても方向転換、世代交代を余儀なくされた時期だったはずだ。量産型のツアーグッズがロックアイテムの主流になり、アーティスト専門店はアーティストの魅力よりもツアーグッズをアピールするビジネススタイルが求められるようになった。
 そんな時期において、俺は在籍期間の後半はA社にとっては迷惑極まりない社員だったのだろう。一応は大卒者であり、一般企業を経て転職してきたはずなのに精神構造はまるで高校生レベルの中年社員の存在は、新しく入社してくる若い連中の教育上も決してよろしくないと代表や上層部はアタマを抱えていたに違いない。俺のロックンロールドリームとA社のロックンロール・ビジネスは、何時の時点からか徐々に乖離して行っていたのだ。

 今も逞しく存続しているA社において、KEIBUY JAPANやロックンロールバザール全国ツアーの業務の痕跡はほとんど無いと聞いている。エルヴィスの銅像が入口を飾り、アーティスト専門店が集まっていたロックンロール・ミュージアムも閉館して既に久しい。洋楽を取り巻く環境やネット主体になった物販ビジネスの在り方が、当時と現在ではまるで違うので致し方ないことだ。
 また個人的にも、目に見える思い出のモニュメントは無くてもいいと思っている。A社で働いた5年間で俺は青春の残り火を燃やし尽くしてしまったので、在籍期間はいわば自分の前世みたいなものだ。今後穏やかに老成していきたい自分にとって、前世のモニュメントがあると精神がかき乱されるかもしれない。何も無い方が却って冷静に記憶を検証し、当時お世話になった方々への感謝の念もより一層大きくなったりするものだ。


一流には成れなかったけれど・・・

 「これから30代、40代になっていくって嫌だよね。若くもなくて、シブクもない。早く黒人ブルースが似合う50代になりたいよ」

 ブリティッシュロック専門店「ヤードバーズ」のI店長がよく言っていた言葉だ。当時はまだブルースビギナーだった俺にI店長は時たまブルースの手ほどきをしてくれたものであり、早く50歳になりたいなんて思考に驚きながらも「一理あるな」と納得もさせられたものだ。

 主に80年代に活躍した某作家兼ロック評論家が、ロックとブルースを次の様に定義していたはずだ。

「ロックはその場を颯爽と駆け抜けていくための音楽。ブルースはその場にしぶとく居続けるための音楽」

この定義によって、ローリングストーンズが時折得意気にやってみせるブルースのコピーから感じる妙な違和感が僅かな論理性をもって理解出来たものだ。

 若かりし日と現在とでは、ロックとブルースの鑑賞時間の長さが完全に逆転した。50歳すらも当の昔に越えてしまった現在の俺は、「果たしてブルースの似合うシブイおっさん」になったのだろうか?しぶとく居続ける為の音楽を理解出来る精神年齢に達しているのだろうか?

 ひとつだけ分っていることがある。それはA社時代の経験によって、まるでブルースマンの如く、今日まで何とかしぶとく食い繋いでこれたことだ。取扱い情報はロックばかりではなかったが、約30年にも渡って情報発信メディアの製作と原稿(記事)執筆の仕事を頂けてきた。まあこれは自慢でも何でもなくて、要するに売れっ子、一流には成れなかったということでもあり、また俺はそれでも職種を変えることの出来ない不器用な社会人ということでもある(笑)


ロックンローラーからブルースマンへ!?

 売れっ子、一流ではない者の仕事の実体を吐露してみよう。それは「依頼仕事の選り好みが出来ない」「スケジュールがタイト」ということである。
 例えば、依頼人から「先生!我が社のためにお願い致します」なんて“おまんじゅう”でも渡されながら好条件を提示されるなんてことはまず無い。基本的に「この条件で出来ないなら、他に頼むぞ」といった駆け引きが含まれた依頼がほとんどである(笑)

 縁のなかったジャンルの音楽の原稿を書いたことなんて数知れず。医療や住宅関連といった門外漢ともいえるジャンルの取材、執筆もまた然り。数日間徹夜でもしないと仕上げられない紙面やウェブサイトのページ作りを引き受けたことも少なくない。
 「全てはお客様満足度の為!」なんてどこかのCFのキャッチコピーの様なヒューマニズムに駆られているわけでもない。正直なところ「(この依頼は)困ったな。割に合わねえな」と感じることが多いが、不思議と「出来ないな」とはならないのだ。

 俺のこうした開き直りと突貫の精神は、KEIBUY JAPAN時代に養われたものだ。約3年間毎月のように「締切まで残り〇日しかない」というプレッシャーや、「何を書いたらいいのか分からない」といったお手上げ状態を克服しなければならなかったKEIBUY JAPANの業務に比べれば、その後30年間に頂けた仕事の依頼はどれも恐ろしくないのである。恐ろしくなければ何だって取り掛かれるものだ。
 ここであえて自分にツッコミを入れるとすれば、納品してきた作品の完成度が甘いから、いつまで経っても一流になれないのかもしれない(笑)

 実質製作者一人状態で月刊誌の締切に追いまくられた日々がロックンロール・ライフならば、その後の乏しい技術ながらもしぶとく生きて来た日々はブルース・ライフ!そんな一種の自惚れ(勘違い)でもって、俺は自分の人生の後半を美化している。いいじゃないか、自惚れの無い青春ほど味気なく、寂しい思い出はない!



東南アジアでも活きたロックンロール・エクスペリエンス


 1998年9月10日午後4時過ぎ、俺は羽田空港から機上の人となった。中華航空機にて台湾でストップオーバーした後にタイ・バンコクへ入るためだ。更にラオス、ベトナム、カンボジア等の周辺諸国を周遊してからバングラディッシュ、インド、ネパール、パキスタンへ向かう予定だった。無期限のユーラシア大陸放浪の旅に出たのである。旅の資金は、長らく自分の部屋を占拠していた大量のレコード、CD、書籍等を全て売り払って工面した。

 青春時代をロックンロールで塗りつぶした大概の野郎にとって、アジアはからっきし興味の無い地域であろう。かくいう俺自身も、アジア諸国なんて地球上の位置と首都名ぐらいしか知らない国ばかりだったが、この時の放浪体験が人生の大きな転機になった。それから今日に至る約20年間の半分以上を東南アジアで過ごすことになったのだ。

 勿論食い扶持は、タイと周辺諸国を往復しながらのメディア作り、取材/執筆である。俺の取材スタイルは、取材対象の下調べ期間は最低限に留めて、刑事のごとく現地での聞き込み取材を最優先してきた。一人でも多くの現地在住者に話を聞くために、現地の日本語情報メディアや飲食店等の情報発信地や収集地を片っ端からアポなしで訪問した。
 お陰様で「何を書いたらいいか分からない」場合でも、取材した多くの方のお話の接点、共通点を整理整頓していくうちに記事の骨格が出来上がって来るという方法論を会得することが出来た。まさに「記事は足で書け」である。

 良く言えば怖いもの知らず、悪く言えば図々しい俺のフットワークの精神的基盤を作ってくれたのは「ロックンロールバザール」での体験である。日本全国の主要都市に入って、昼間は現地のマスコミやミュージックショップ等に出向いて物販イベントのアピールを続けた「ロックンロールバザール」。責任者、担当者への事前のアポ取りなんてまどろっこしいことはせず、飛び込み訪問でまず先方を驚かせる!プロモ期間中ギリギリまで「他に訪問するべき場所、人はないか」と貪欲であり続ける。この戦法がアセアン周回取材において大いに役立っている。


時を越えて伝えたい、代表、上司、同僚たちへの謝罪と感謝

 A社を退社してからの30年の時間の流れは、情報メディアの形態を紙媒体からインターネットへ、掲載情報の更新サイクルを月刊、週刊から“分刊”へ、メディア製作も手作業のアナログ方式からパソコンを駆使する完全デジタル方式に変えた。
 A社在籍当時に現代の技術の半分でも存在していたら・・・と思わないこともないが、現代の技術を駆使するためには様々なアプリケーションの習得がまず要求される。またデスクワークのスピード化が実現すれば、その分他の業務も遂行しなければならない。結局いつの時代に働いていようとも、仕事に没頭していれば労苦の度合いは大して変わらないのだ。

 30年という年月を経てもA社で会得した業務の基本の数々が通用するという認識に至った時、A社への限りない感謝の念とともに俺はある種の不思議な感覚に包まれた。それはメディア作りにおいても、イベント業務においても、手取り足取り教えられた記憶がないのにどうして基本が会得できたのか。極端に言えば、最初からほぼ「ぶっつけ本番」だったのである。A社の代表、KEIBUY時代の上司T部長、各店の店長さんたちから体験談を伺いながらの真似事からのスタートだったはずだ。
 ということは、業務に慣れるまではヘマをやらかし、収支で赤を出し、会社にも周囲の者にも迷惑をかけていたことは容易に想像できる。それにもかかわらず、代表やT部長は何も言わずに密かに俺が掘ってしまった穴を埋めて下さり、辛抱強く俺を自由に働かせてくれていたのだ。
 横槍がほとんど入らない状態で暴れさせて頂けたからこそ、業務の基本を心身の奥底にまで叩き込むことが出来たのだろう。あらためてA社の懐の大きい優しさに深く感謝した次第である。

 僅か5年で潰えた俺のロックンロール・ドリームだったが、夢を支え続けてくれた柱は今も揺るがずに健在である。(おわり)


あとがき

 2014年10月、16年ぶりに無期限の放浪の旅に出発する前、俺はA社の通販システムを利用してロックTシャツを10枚ほど購入させて頂きました。品物が届いて開封する時は、少年時代のように胸がときめきました。ロバート・ジョンソン、ジム・モリソン、ジョン・レノン、ピート・タウンシェンド、パティ・スミスといった少々マニアックなラインナップによるロックTシャツは、思惑通りに欧米人旅行者との親睦に大いに役立ってくれました。A社在籍時代の思い出を書き残したいと願うきっかけになったものです。
 昨年の初頭にある事業計画の為に生涯三度目の放浪をスタートさせた三ヶ月後、バンコクに立ち寄った際にコロナ禍によるロックダウンを喰らって身動きが取れない状態となりました。当然事業計画は頓挫せざるを得なくなり、ぽっかりと空いた時間を活用した「原宿ロックンロールドリーム」のスタートでした。

 以降、30回にわたって俺個人の体験を綴った駄文にお付き合い下さった方々、心より御礼申し上げます。

 依然として続いているコロナ禍の中で、俺は毎日必ず楽しい未来を想像するようにしています。俺にとっての楽しい未来とは、コロナ明けに東南アジア諸国の周回を再開して、あらためてコネクションを作っていくことから始まります。以前の周回時に知り合ってから懇意にして下さった方々の大半は帰国されたので、コネクション作りは一からやり直しに近い状態でしょう。あらためてロックンロールバザール魂を発揮して飛び込み訪問をやるつもりです!

 インターネット全盛時代にどうしてそんな前時代的なアクションに拘るのかと一笑に付す方もいらっしゃるでしょう。コロナ禍で人と人との交流が禁じられているだけに、人生や仕事においてもっとも大切なことは何だったのかを全人類が気が付き、それを速やかに実践することが許される時が訪れれば、俺がA社在籍時代に培った戦法があらためて活きてくると信じたいのです。

 最後に、この連載を承諾して下さったThe-Kingのボスにも感謝の意を表します。

 俺が東南アジア生活を続ける限り、人生をしぶとく生き抜くための普遍的なバイブルを与えてくれたA社の御恩に報いる様な仕事は出来ないでしょう。せめてもの罪滅ぼしの場をボスが提供して下さったと思っています。かつて華々しく存在したロックアーティスト専門店のスピリットを、現代まで正統的かつ頑固にキープしているのは恐らくThe-Kingのボスただ一人です。そんなボスが作り上げたビジネスの端っこでこの連載を出来たことが幸いでした。

 The-King、そしてA社の限りない発展を願いながら連載を終了させて頂きます。
 夢はいつか潰えることがあるかもしれません。しかし夢の支柱は永遠に不滅です!


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