NANATETSU ROCK FIREBALL COLUMN Vol.342

原宿ロックンロールドリーム
       ~ロックアーティスト専門店激闘記
 

時代が狂っていたのか、俺たちが狂っていたのか!?
バブル狂騒時代に原宿に咲き乱れたロック・アーティスト専門ショップたち!
「Love Me Tender」「Get Back」「Gimmie Shelter」「Yardbirds/World Tour」
「Gun's Shop」「Keibuy Gallery」etc

遅刻したって残業すりゃ文句ねえだろう!
血を吐くまで酒飲んだこともないヤツなんて信用できるか!
バックルームで居眠りしてようが、酒飲もうが、売上げ良けりゃ問題ねえ!
俺たちはメンフィス・マフィア直系だ、アップルレコードの社員だ、ストーンズファミリーだ!俺たちの情熱こそが会社の理念だ!!

青春の残り火を激しく燃やし尽くした、愛すべきスタッフたちのあの異常な熱量は何だったのか。


第10回:意外なマスコミ効果&“365日戦えますか”!?

■ OLさんたちはロックがお好き!? ■

 1989年7月のギャラリーオープン以来、KEIBUYは経営の数字上では完全にビジネスベースに乗ったと言えるだろう。「ビートルズの絵」「アストンマーチン」に続く、単価が1,000万円を越える超大型超高値なアイテムは無かったものの、出品物の数と種類は膨れ上がり、ギャラリー来場者、入札者が増え続けたのである。
 2大出品物落札のニュースはマスコミ向けの恰好の話題となってTV、ラジオ、雑誌からの取材が相次いだことで世間への露出度が俄然アップした。出品物の話題性は元より、「超高値で落札された」という事実が当時のバブル経済期の世相にフィットしたのである。

 既に記憶はおぼろげだが、1989年秋から約一年間は、翌年のローリングストーンズとポール・マッカートニーの初来日公演の話題も相まって、週2~3回は様々なマスコミからの取材の申し込みがあったはずだ。とにかくマスコミへのKEIBUYの露出度、世間の注目度をアップさせることが最大のビジネス戦略になるので、取材の申し込みは全て受けた。
 俺はカタログ作りに忙殺されていたので、取材の対応はT部長とギャラリー接客員のKさんに全面的に受け持ってもらいたかったが、KEIBUY側スタッフ自身がTVや雑誌に登場するシナリオをもってやって来る取材者の対応はいつも俺が引き受ける場合が多かった。
 KEIBUYを新しいロックビジネスとして見事に舞い上がらせたT部長は、更なる会社の新規事業計画に参画していたので多忙を極めており、KEIBUY事業の実務はほとんど俺に任せたかったのだろう。
 だが正直なところ、Kさんにはもっとマスコミ対応に積極的になってほしかった。どうやらギャラリーでの素晴らしい接客能力に反してKさんは意外とシャイな一面もあるようで、取材にはどこか及び腰だった(笑)男性ウケするキャラ、容姿であるにもかかわらず、決して出しゃばり屋ではないようで、そのどこか謙虚で恥ずかしがり屋な性格が却ってギャラリーでの接客効果に繋がっていたのかもしれない(笑)

 マスコミへの露出効果というものは、取材の都度、売上の数字やギャラリー来客数にどの程度反映されるかは把握しずらいものである。しかし一度、その効果のスゴサに個人的に驚いたことがあった。アルバイト/転職情報誌「フロムA」が巻頭カラーグラビア8ページにわたって「新しい若者ビジネスはこれだ!」といった具合で、ギャラリー内はもちろんのこと、オークション出品物を20点ほど掲載して下さるとともに、俺の顔写真までドカン!とアップしてくれたことがあった。
 「フロムA」の大盤振る舞いによって、前勤務先の連中から続々と連絡が入ることになったのだ!しかも女性たちからの連絡が圧倒的に多かった。こう言っては彼女たちに失礼かもしれないが、大企業に勤めるオフィスレディの重大な目的のひとつは、社内で優秀な男性を見つけて幸せな結婚に結びつけることだ(笑)そんな彼女たちが、どうしてアルバイト/転職情報誌を見ていたのかが誠に不思議だった。

久しぶりに連絡のあった彼女たちは口々に言った。

「好きな事やってるのね~良かったじゃない!社内で結構話題になっているわよ」
「朝の〇〇TVにもこの前出てたでしょう!びっくりして(朝食の)味噌汁吹き出しそうになったわ」
「随分痩せたみたいだけど、水を得た魚みたいに活き活きしてるんじゃない?今度ギャラリーに遊びに行くわね!」
「親戚の男の子がロック好きだから、カタログ送ってあげてよ」
「世の中にはおもしろい業種(オークションのこと)があるのね~。でもロックだからあなたにピッタリ!」

 別に彼女たちに“やましい”事をした事実はないが、企業人から完全に脱皮出来た自分の姿を前職場の知人たちが知ってくれたお陰で、何だか前職場に対して“オトシマエ”をつけられた気分になったものだ。
 それに女性の知り合いからの反応が多いという事は、男性としては嬉しくないはずがない!しかも彼女たちを特別なターゲットにしたわけではなく、あくまでも予想外の反響だから余計に気分がいいものだ。彼女たちからの連絡は、毎月のカタログ作りで既に体力の限界寸前まで追い込まれていた俺に新しいエネルギーを与えてくれた。

「限界なんか、もっと先だ」
「まだまだ自分の許容範囲を越える努力が足りないのだ」


■ 何でもいいからしゃべってくれ! ■

 たくさんの取材の中で、もっとも困惑した依頼が某ラジオ局からのものだった。ラジオ出演ということでラジオ局のスタジオに呼ばれたので、DJさんからのインタビューの受け答えをするものだろうと軽~く考えており、「話題のKEIBUY事業」の実態、オモシロエピソードでも聞かれるに違いないと想像していたが、事実はまったく違った。
 スタジオ内にDJさんが待っていることもなく、番組担当のディレクターみたいな方からとんでもない要求を突き付けられた。

「これは生番組じゃないから、番組の最初に君のプロフィールを後で入れとくよ。君は10分から15分くらい、何でもいいからしゃべってくれ」

 後にも先にも、こんな奇妙な番組出演依頼を受けたことはない!ラジオ出演前(録音前)の俺とディレクターの会話はこんな感じだった。

「何でもって、何をしゃべったらいいんですか?」
「そうだね。今日は我々のスタジオにふらりと遊びに来てみましたあ~って感じで頼むよ。お仕事の話題は出さないでくれ」
「はあ?KEIBUYの話はダメなんですか」
「アピールしちゃったら、スタジオに遊びに来たって事にはならないから」
「参ったな・・・それじゃあ、ローリングストーンズが来年初来日する噂が高いから、ストーンズの話とかでもいいですかね?」
「ああ、それでもいいよ。とにかくリラックスして、話したいことを喋りまくってくれよ」

「リラックスして~」なんて言われても、いきなり一人でスタジオに入れられてリラックスしてしゃべろなんて、出来るわけねーじゃねえか!酒でも用意してくんなきゃ、やってらんねーよ(笑)世の中には、時々ワケワカンネー要求をしてくるヤツがいるもんだ。緊張はしなかったが、マイクしかない無人のスタジオに入ってみるとキツネにつままれたようなミョーチクリンな気分になった。

しかしこういう事態に陥ると、開き直れるのが俺の強み!?

「じゃあ言われた通りに、本当にしゃべりたいことをしゃべってやる!」
「あとでボツにしたければ、勝手にどうぞ」

名前と身分とKEIBUYの業務内容を手短に述べた後、俺は本当にストーンズの持論をしゃべりまくった。

「ラジオをお聞きの皆さんの中でも既にご存知の方が多いかもしれませんが、今ローリングストーンズが初来日するかもしれないって話題でロックファンはもちきりです。今日はストーンズ・ナンバーに関して、日本には間違って伝わっていると思われる情報をこの際正しておきたいと思います!」
「そのナンバーは日本公演でも演奏されるかもしれないので、どうか歌詞の内容を正確に把握しておいて下さい。大人気アルバム『スティッキー・フィンガーズ』に収録された、名バラードとの誉れ高い“ワイルド・フォーセス”というナンバーについてです」

 話の趣旨としては、その昔、某有名ロック評論家が著書の中で、この曲はキース・リチャーズがヤク中になってしまった恋人アニタ・パレンバーグへの哀歌であると論じていたことをやり玉にあげ、自分なりの別の解釈をブチかましたのである。

「大体、タイトルはワイルド・ホース(Wild Horse)ではなくて、ワイルド・ホーセス(Wild Horses)と複数ですよ」から論じ始めたのだ。ここではしゃべりまくった詳細は割愛するが、長らく積もりに積もっていた有名ロック評論家たちに対する俺の「一家言」というか、「テキトーな事を書いたり、言ったりしてんじゃねーよ!」ってな怒りが凝縮されたような内容だったと思う。

 持ち時間はあっという間に終わってしまい、ディレクターさんの「そこまで!」の合図を受けて俺はスタジオを出た。経過時間を確認しながらしゃべったつもりはないが、自分なりにうまくまとめた気がした。ディレクターさんは呆れかえったような顔をしていて、良かったとも悪かったとも言わなかった。
 生番組ではないので、後ほどボツにされる可能性が高いことを覚悟していたから、俺はさっさとラジオ局を後にした。多少興奮状態だったのだろう。番組名も放送予定日時も聞くのを忘れていた(笑)またラジオ局から放送を録音したテープが送られてくることもなかったので、俺はてっきりボツにされたものとばかり思っていたが、10日ぐらい後に思わぬ人物から連絡が入った。ローリングストーンズ・ファンクラブの当時の会長K氏である。

「ラジオ聞いたよ。君っておもしろい事言うねえ~。いつも原宿のギャラリーで働いているの?今度遊びに行くよ!」

 どうやら録音当日にしゃべった事が実際に放送されたらしかった(笑)K氏の前のファンクラブ会長が俺の前職場で知り合った池田氏であり、K氏は池田氏から何度も俺の話を聞いていたという。
 それは概ね好意的な話だったようであり、それからK氏は池田氏のお墨付きである俺を訪ねるために(笑)頻繁にギャラリーに訪れて下さるようになり、しばらくは懇意にして下さったものだ。一度ご自宅に招待されて、「ギミーシェルター」を何軒も開けるほどのものすごい数量と種類のK氏のストーンズ・コレクションに圧倒されたものである。

 先述した「フロムA」を見て連絡をしてきてくれた女性たち同様、K氏もまた“前職場がらみ”で連絡を頂くことになったともいえるだろう。大手町の一部上場企業と原宿のロックンロール・エンタープライズ、この水と油の様な相容れない職場が、俺がマスコミに登場することで奇妙に繋がったことがちょっぴり愉快ではあった!


■ 72時間戦えますか? 365日働けますか?? ■

 カタログ郵送希望者の増大とともに重要課題になった「カタログ郵送料」の大幅削減対策を、カタログを「第三種郵便物」扱いにしてクリアする話は前回に書かせて頂いた。さらに「第三種郵便物」に付随するもうひとつのエピソードもご紹介したい。
 当時「第三種郵便物」には、冊子の半分近くを「商売目的ではない純然たる記事で構成する」という絶対条件があった。「第三種郵便物」の名義貸しを許可してくれた「Ⅿ誌」の代表からは、「半分が無理なら、せめて30%は記事にしてほしい。そうすればもし郵政からチェックが入った場合は自分が何とかするから」とのご高配を受けたが、カタログ掲載品の解説文以外にそれなりの分量のコラム的記事を用意しなければならなくなったのだ。

 咄嗟に頭に浮かんだのは、ローリングストーンズ・ファンクラブ前会長の池田氏と、現会長のK氏、ドアーズ・インターナショナル・ファンクラブ会長のN氏の3人。更に「ゲットバック」からビートルズ評論家兼小説家のM氏と、「ヤードバーズ」から同じく音楽評論家のT氏を紹介して頂いた。
 彼らは喜んで原稿を寄せてくれたが、彼ら以外のライターさんたちは原稿料が高過ぎてとても依頼できなかった。彼らのライターとしてのプライドが高いのか、KEIBUYの事業が好調なので原稿料をふっかけられたのか?(笑)いずれにせよ、外部への原稿依頼はわずか数回で断念せざるをえなくなり、結局は俺が書かなければならない事態になってしまった。

 本来であれば、オークション出品物の解説文とかけ離れた純然たるロック記事を書くのは苦でもなんでもない。しかし既に睡眠時間以外の全ての時間を業務に費やさざるをえない毎日の実態を考えると、新たに記事を書くことは拷問みたいなものだった。出品物の数が増え続けていたので、優先順位としてはその解説文の執筆が先である。残った僅かな時間を使って記事を書くことは、一度絞った雑巾を、あらためて逆から絞り直して最後の水分を出し尽くすようなものだった。実際のオークションとは関係のない記事・・・それを創出する事は時間的にも体力的にももはや不可能だったが、やらなければカタログは「第三種郵便物」にならないのだ。

 苦肉の策として捻り出したアイディアは、エルヴィス、ビートルズ、ローリングストーンズ以外は、一アーティスト一品と決めていた出品ルールを破り、アイテムを複数出品したアーティストに関するアルバム評や人物紹介を書くことにした。また記事の枠をアーティストではなく出品物の種類に設定して、例えば貴重なポスター、リトグラフ、写真といったアイテムそのもののロック界での歴史や逸話も記事のネタにした。こうして「第三種郵便物」としての規定を強引にクリアしていった。皮肉なことにこのアイディアが結構読者や社内のスタッフに好評だったことで、俺の苦労は随分と報われたものだった。

 代表にも好評価を頂いた。
「ロックアイテムそのものの意義や歴史の記事はおもしろいね。新しいロックビジネスの参考になるよ」
“新しいビジネス”というフレーズに正直なところゾッとした。ここまで言われたら、記事の執筆を止められないではないか。いっそ「君の記事はおもしろくないから、別の者に書かせなさい」と言われた方がどれだけ楽か(笑)

 そして1989年晩秋の頃、俺を心底ゾッとさせる事態になった。ローリングストーンズとポール・マッカートニーの初来日公演が決まったのだ。しかもストーンズが翌年2月、ポールが3月と、立て続けである!ロックンロール・エンタープライズである会社として、またロック・ニュー・ビジネスを手掛けるKEIBUYとして、最高のシチュエーションになったのである。
 思えば、この頃の社内がもっとも希望に溢れて盛り上がっていた頃だ。代表は、自社ビルの構想をデザイナーに描かせて代表室に飾り始めた。社内のスタッフも、一ロックファンに戻ったような表情で活き活きと出社してくる。定例の月一度の飲み会も俄然盛り上がり、「ついに俺たちの時代が来たんだ!」といった逞しい咆哮に宴は包まれていた。しかし俺の本音はまったくの真逆であり、ストーンズとポールの来日の報は絶望でしかなかった。

「ストーンズ、ポール・ブームに巻き込まれたら、俺は殺されるかもしれない」

 TVやラジオのアナウンサーが「ストーンズが」「ポールが」と口に出すと耳を塞ぎたくなったものだ。これ以上、出品物が増えてマスコミ対応も増えてしまったら、到底俺一人の手には負えない。新しいスタッフを採用してもらっても、指導する時間もなければ、業務マニュアルすら作る時間もないし、どうやって作っていいのかも分らない。
 大体俺自身がT部長からマニュアルを用意されてはいなかったので全て自己流で覚えてきた仕事ばかりだ。そんなことを赤の他人が果たして出来るのだろうか?A社入社以来、俺は初めて「俺流」で貫き通してきた自分の業務姿勢を激しく悔いたが、時既に遅しだった。

売上増大→出品物増大→カタログページ数増大→カタログ郵送料増大→(第三種郵便物認可による)原稿執筆量増大

 目の前に突きつけられた課題をクリアすると、すぐに別の課題が浮かび上がって来るのだ。J社に入社してから一年もの間、T部長の指導もあって次々と現れる課題をクリアしてきたが、これ以上はもはや自力では限界の状態だった。そこにストーンズとポールの初来日ニュースだ。ストーンズとポールが悪魔か死神に思えても無理はないだろう!
 その当時抱いた恐怖感は今でも鮮明だ。俺はどうやってそれを振り払い、自分自身を支えて仕事に向かったのだろうか。ただただ、「ロックンロール命」という信じて疑わなかった信仰が、絶対に俺に夢、新たなる幸福を運んできてくれるに違いない!そんな何の根拠もない無垢過ぎる希望だけだったと思う。俺は確かに企業戦士からロックンロール・エディターに変身出来たのかもしれない。しかし精神年齢は学生レベルのままだったのだ。(つづく)

(※使用している写真は必ずしも当時の物ではありません。あくまでもイメージです)

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