NANATETSU ROCK FIREBALL COLUMN Vol.338

 

時代が狂っていたのか、俺たちが狂っていたのか!?
バブル狂騒時代に原宿に咲き乱れたロック・アーティスト専門ショップたち!
「Love Me Tender」「Get Back」「Gimmie Shelter」「Yardbirds/World Tour」
「Gun's Shop」「Keibuy Gallery」etc

遅刻したって残業すりゃ文句ねえだろう!
血を吐くまで酒飲んだこともないヤツなんて信用できるか!
バックルームで居眠りしてようが、酒飲もうが、売上げ良けりゃ問題ねえ!
俺たちはメンフィス・マフィア直系だ、アップルレコードの社員だ、ストーンズファミリーだ!俺たちの情熱こそが会社の理念だ!!

青春の残り火を激しく燃やし尽くした、愛すべきスタッフたちのあの異常な熱量は何だったのか。


原宿ロックンロール・ドリーム/ロックアーティスト専門店激闘記
第6回:日本初のマンスリー・ロックオークション「KEIBUY JAPAN」と30年前のカタログ製作の実態

 1回休憩した連載「原宿ロックンロールドリーム」を再開しよう。 今回は俺が配属された「オークション事業部」の基本業務を中心に書いてみたい。
 入社当時はまだ通信オークションのみの事業であり、「ゲットバック」「ラブミーテンダー」「ギミーシェルター」「ヤードバーズ」「ハリウッド」の5つの専門店から集めた高値のアイテムをカタログに掲載し、各店の会員名簿にある全会員にカタログを郵送して専用はがきによる通信オークションを促すというシステムだった。
 「オークション」とは「競売(きょうばい)」であり、ひとつの商品に対してもっとも高値を提示した希望者=落札者に商品購入権利がある。欧米では「オークション」というシステムは既に市民権を得ていたが、商品を定価で買うことしか知らない日本人にはオークションの意味すら浸透していない時代だった。「オークション」を認知している日本人は、「どこそこの欧米オークションで、日本人のお金持ちが超高値の歴史的名画を落札した」というニュースを知っている限られた者ぐらいだっただろう。
 そんな「オークション未知数時代」に、ロックアイテムのオークション事業をスタートさせたA社のベンチャー企業精神は業界を越えて特筆ものだった。 今ならばそんな最新鋭の事業部に配属されたことは非常に光栄なことだったと理解出来るのだが、俺は入社僅か三~四ヶ月目でカタログ製作の全権を任されることになったので、事の重大さや有難さをまったく認識することなく業務へ没頭することになった。
(※使用している写真は必ずしも当時の物ではありません。あくまでもイメージです)

■バブル時代のビジネス・シンボルだった「オークション」とその出品アイテム■

 オークションとは、「希少価値のある物(この世にひとつしかない、数量が少ない物)を希望者同士で購入金額を競い合わせてより高値で売る」ということだ。大量生産品を流通させて売りさばくのではなく、他の誰も持っていない(自分だけしか持っていない)物に所有者は限りない喜びを感じることが出来る人間の異常な優越感を当て込んだビジネスである。まさにバブル時代が生み出した、バブル時代ならではのビジネスである。

「そんなビジネスがあったのか」
俺もオークション・システムには驚いたものだが、各専門店から今まで見たことも無い、または洋楽雑誌の中でしか見たことがないアイテムが提供されてくる事自体に興奮してしまい、それがカタログ製作をいち早くマスターした原動力にもなった。

ロック・アイテムにおけるオークションアイテムの一例をあげてみよう。
アーティスト使用楽器
アーティスト着用衣装
アーティスト使用アイテム
直筆サイン入りレコードジャケット&写真
直筆手紙
ゴールドディスク
オリジナル・キャラクターズグッズ
貴重レコード(初版、廃盤、ジャケ違い盤、プロモーション盤等の非売品等)
オリジナルフォト、アーティスト直筆絵画&リトグラフetc.

 全てが一品もの、もしくは限定生産品であり、定価で売っても最低云十万円から高額なもので、何百万、何千万単位になるアイテムも当たり前。実働時代が古いアーティスト(エルヴィス、ビートルズ、60年代のローリング・ストーンズ等)関連のアイテムならば、より高い値段が付けられる。 保存状態によっても価値が上下するのだ。

 上記の貴重品が提供されるのは各専門店からだけではなく、全国のマニアックなファンからの出品依頼も少なくなかった。これは「委託品」と位置づけられ、落札された場合は落札金額から出品手数料として最終落札金額の10%が差し引かれて出品者に支払われるシステムだ。この10%という手数料は非常に出品者にお得な設定であり、出品者が増えて行った要因にもなった。

 オークション用アイテムは通常は店舗に特別扱いされて派手にディスプレイされていたが、T部長は俺によくアドバイスしていたものだ。

「この世にひとつしかない、数が少ないアイテムは、それ相当の扱いをして、特別な購買システムを作るべきなんだ。それがそのアイテムを使った(アイテムと関わった)アーティストへの礼儀でもあるんだよ」

 T部長の“アーティストへの礼儀”という言葉に、俺の身体に電流が走った!俺は常々洋楽雑誌やレコードの解説書において、ライター諸氏が無責任で言いたい放題の文章を書いていることに腹を立てていた。

「オマエラ一体なんぼのもんじゃい!どうして素晴らしい音楽を提供してくれるアーティストへの礼儀をわきまえないのだ」
「俺は評論家ではなくて、この希少なアイテムを通してアーティストの魅力をあらためてロックファンに伝える“ロック紹介屋”になるのだ」

 オークション・カタログには掲載アイテムの写真とともに、その希少度、価値を伝える解説文が必須だ。新しい“ロック紹介屋”になる覚悟を決めた俺は、まずは解説文の執筆にのめり込んでいくことになる。


■ 完全アナログ作業だったカタログ製作の概要 ■

 現在の紙媒体製作作業は、DTP(デスクトッププリンタ)システムを使いこなせれば個人でもスムーズに作業を完了出来る。DTPシステムならば、デジタルカメラで写真撮影をし、文章を入力執筆し、編集アプリでページレイアウトを作り、最終的に画像データ、文章データをレイアウトデータに合体させる。そしてプリンタで出来上がった全データを素早く印刷出来るのである。冊子製作の場合は最終データを印刷所へ電子メールシステムで送信する。技術上は一人でも膨大なページのデータ作りが、デジタルカメラとPC一台でスムーズに行うことが出来るのである。

 しかし当時の紙媒体製作はPCではなくワードプロセッサー(ワープロ)の使用が主流であり、まだデジタルカメラも一般化してなかった。既にマッキントッシュやウィンドウズの初期型は出現していたが、名も無き編集部が導入する時代ではなかった。では当時の紙媒体作りの実態、工程をご紹介しよう。

① カタログ掲載用アイテムを選定して各ページへの振り分けをする。またごく簡単な各ページのレイアウトを手書きで作成しておく。
② 商品の写真撮影→写真屋さんにフィルムを現像してもらう。
③ ②で作った簡単な各ページのレイアウト(写真用スペースと解説文用スペースとを分けておく)をワープロで作成して、解説文スペースに解説文を入力する。
④ ③で製作しておいた解説文入りページレイアウトデータをワープロ直結のプリンターで印刷する。
⑤ ④で印刷したページ紙面を、印刷所に提出する版下台紙にスプレー糊で貼り付けていく。
⑥ ⑤で作成した印刷所提出用の版下の写真張り付け用スペースのサイズに合わせて、掲載アイテムの写真を方眼定規とカッターを使ってカットしてからピンセットとスプレー糊で貼り付けていく。
⑦ 版下へ写真貼り付けが終了した後、版下台紙の表面をトレーシングペーパーで覆う。写真を雑誌等からの切り抜きで代用する場合は、切り抜きを貼り付け指定部分にトレーシングペーパーの上から添付しておき、トリミング指定(%指定)を記入しておく。

 文書にすると簡単なようだが、当時はカメラ、ワープロ、カッターナイフ、方眼定規、スプレー糊、ピンセット、トレーシングペーパー等の数多くの小道具を駆使する完全アナログ作業であり、デジタルカメラとPCのみ使用するDTPよりも使う神経の種類が遥かに多かった。小、中学校時代に習った図画工作の応用作業みたいなものだ!

 ワープロで作った写真張り付け用スペースに商品写真が入り切らなかったり、写真が不鮮明な場合は再撮影も必要だ。(現在なら画像処理ソフトでデータサイズ調整が可能)
 文章用スペースに解説文が入り切れなかった場合は、DTPではQ数や文字スペースを若干修正すれば解決する場合もあるが、当時のワープロにはそんな気の利いた細かい機能は無く、文章量を削除するしかなかった。根が文章屋の俺にとっては、原稿削除作業は時には途方もなく苦痛でもあった。
 また当時のカタログはまだ全ページモノクロ印刷だったので、モノクロ写真撮影にも神経を使った。カラー写真の様な鮮やかな色合いで観る者を惹きつけられないだけに、被写体の陰影の付け方が撮影の重要ポイントであり、照明の位置や角度に苦慮した。
 最終印刷をよりよくする為に、ワープロのデータ印刷も質の良い外付けの印刷機を使用しており、当時は印刷時間にそれなりの時間を要した。
 総じて当時のカタログ製作のアナログ作業は、現代のDTP作業の3~4倍の時間がかかっていたことは間違いないだろう。

 まだまだ薄っぺらいカタログではあったが、偉大なロック・アーティストたちのアイテムの写真と解説文が全て自分の手によって世の中に紹介されていく事実に酔いしれていくのにさほど時間はかからなかった。その快感とT部長の的確な指導により、アナログ作業のポイントと全工程を俺は短期間のうちにマスターすることが出来た。“好きこそものの上手なれ”である。


■ 自分の美的センスの“見せどころだった”額装指定 ■


 カタログ掲載アイテムの選定(上記①)と写真撮影(上記②)の間には、もうひとつ重要な作業があった。アーティスト直筆サイン入りジャケットや写真等は、仕入れた段階では現物オンリーの状態がほとんど。興味の無い者が見ればただのジャケットや写真だ。またこう言ってはロックアーティストたちに失礼だが、特に1970年代以降のロックのレコードジャケットは凝り過ぎて意味不明なデザインや絵画センス的に少々稚拙な物が多かったので、これ等を額装屋さんに持ち込んでサイン入りアイテムの周囲を美的に引き立てるマットと額を選定して美しい額装品に変身させるのだ。
 またサイン入り写真自体が古ぼけて貧相だったり、メモ帳や紙きれに書かれている場合は、コイツをグレードをアップさせるような別写真を雑誌等から探し出してカラーコピーして一緒に額装してもらうのだ。
 更にサイン自体が細いボールペンで書かれている場合は、その筆跡を鮮やかに見せる為の額やマットを選ばなければならない。
 額やマットには様々な材質や色合いがあり、自分の額とマット選びのセンスによってアイテムの見栄えが大幅に変わって来る(価値が上がる)ことが堪らない快感となった。後ほどアイテム数が激増した時期は、一日中額装屋さんに入り浸っていたものだ。

 額装屋さんで過ごす時間が長くなったこともあり、額装作業を担当する女性Kさんと次第に仲良くなって飲みに行ったりしたものだった(笑)やはり仕事上のお付き合いをするお相手とは仲良くしておくべきであり、やがてKさんは値引きサービスはもとより、俺が知らなかった細かい額装テクニックを積極的に提案してくれて、オークションアイテムのグレードアップに大いに貢献して下さった。
 新しい額装テクニックのひとつは円形カットである。マットの中に埋め込むジャケットや写真は四角形なので、額装屋さんが常備している通常のマットカッターで事足りるのだが、ある時レコード盤を埋め込みたかった俺は円形カットを申し出た。するとKさんは円形カット用特殊カッターの有無を全国の支店に確認してくれて、後日わざわざ支店から取り寄せてくれて俺のリクエストに応じてくれたのである!
 もうひとつは面金加工。これはマットをカットした断面に薄くて細い金色の金属板をはめ込む装飾法である。これによってカットされたマットの下から顔を出しているジャケットや写真が四辺の面金加工により豪華に見える。価値の高いアーティストのサイン入りアイテムに早速採用したものだ。

 更に額装品をより豪華に見せるアイディアとして、Kさんは様々な額装品が掲載された来客用サンプル品カタログの中から金属製のネームプレート入りの額装品写真を紹介してくれて、額装における新しい知恵を授けてくれた。
 金属製ネームプレートの作成は異業種の専門店へのオーダーであり、またプレートはマットをカットして埋め込むよりもマットの上にセットした方が見栄えが良く、セッティングは誰でも簡単に出来る。つまりネームプレートの導入は額装屋さんのマットカットの作業台代はかからないのだ。それでもKさんは俺にネームプレートのセッティングを紹介、推奨して下さった。

 ちなみに、直筆サイン入りのアイテムが立派に額装された後に更なる難作業があった。額の表面(おもてめん)はガラス張りであり、写真撮影の際にはガラスに自分自身や照明が映ってしまうのだ。 割れやすいガラスを慎重に額から外した後に写真撮影をして、撮影終了後はこれまた慎重にガラスを額にセットし直なさないとならない。
 単純作業ではあるが、写真撮影が長引くと握力と腕力が落ちるので、ガラスの出し入れの際に額装されているアイテムや額を傷つけないように神経を使わなければならなかった。

 オークションアイテムの選定、額装、写真撮影、ワープロ入力、手作業によるアナログなカタログ製作、これだけの作業を一人でこなすのが俺の当時のノルマだった。ただし当時はカタログ掲載品数がせいぜい15~20、カタログのページ数にして8ページ程度だったので、全ての作業の重要ポイントを会得するには好都合な状況ではあった。


■ 有難かった上司のざっくりな指導方針 ■

 手前味噌で恐縮だが、俺の額装のセンスによって、T部長はカタログ製作の全権を俺に任せることにした語ったことがあった。
「俺は色々と仕事を教えたけれど、額装に関しては何にも教えてないよ。それでも自分のセンスだけでいい額装しているじゃないか。だからカタログ作りを任せることにしたんだ!」
 このコメントだけではなく、T部長はロック業界、出版業界、オークション業界の実作業に闇雲に一直線でぶつかっていった俺を、絶妙のタイミングと巧みなアドバイスによって叱咤激励して下さった。当時はそんな感謝の念を抱けるゆとりはなかったが、今にして思えばT部長がいらっしゃらなかったら俺は「原宿ロックンロールドリーム」を体現することなく、いつの間にか野に下っていたと思うのだ。

「君のロックに対する情熱は店舗の連中と同じだ。だから採用したんだよ」
「俺がオークション事業をデッカクしてみせるから、それまでオマエラ(各店の店長さんたち)待っていろ、それぐらい大見栄切っていいんだよ」
「サラリーマン根性なんて捨てちまえ」
「企業理念なんか関係ない!俺たちは情熱でやっているんだ」

 部下の能力、持ち味を細かく分析して、パズル化した事業にピースとして部下たちをはめ込んでいく。それが適材適所を実現できる正しい上司の在り方みたいに言われている昨今だが、T部長の俺に対する評価と指導法の基準は、誠にざっくりとしたロックに対する情熱とセンスだけだったようだ。
 「一人の部下を自然に活かす方法」という懐の大きい育成術であり、俺にはそれがフィットしたのだと思う。 「原宿ロックンロールドリーム」を書きたい!その思いの根底にはT部長への感謝の念を書き記したいという気持ちは実に大きい。

■ 下克上こそロックンロール! ■

 オークション事業部は正式には「KEIBUY事業部」と名付けられていた。競売(きょうばい)の別読みが「けいばい」であり、それをローマ字化してKEIBUYと命名されたようだ。
 外部からの出品依頼が増えていったことで、月刊オークションカタログ「KEIBUY CATALOGUE」は短期間のうちにページ数も増えて行き、当然俺の作業時間も増えていった。カタログ製作をマスターしたとはいえ、所詮覚えたてのレベルに過ぎなかったので、早急に求められたのは作業の効率化、スピード化だった。

 時は1989年春。
 T部長から同年7月号よりカタログの一部カラー化と更なる増ページ、そして同時期に洋画スター専門店の「ハリウッド」を閉鎖する代わりに「オークション・ギャラリー」を開設する計画を聞かされた。オークションに出品されるアイテムを常時展示するスペースが「オークション・ギャラリー」である。カタログ作りに没頭する俺はオークション事業部/KEIBUY事業部の収支には無頓着だったが、どうやら業績は非常に好調なようだ!

「カタログが一部カラー化になってページ数も増えれば、より雑誌スタイルに近づけることが出来る!」
「ギャラリーがオープンすれば、アイテムを一堂に集めて魅力的なディスプレイに精を出せる!!」

 冷静になって考えれば、カタログ製作時間が膨れ上がり、額装の手配もより込み入り、ギャラリー管理という仕事も加わるわけであり、到底自分一人の手には負えなくなる危険性は大だ。そんな状況を見込んでいたT部長は新しいスタッフを俺の編集アシスタントとして採用してくれたが、この人物がまるで使いものにならなかったから到底期待は出来なかった。それでも自分の仕事が一気にグレードアップしていくような事業計画に、俺は胸を躍らせていた。その浅はかな希望の根底には、どうしても拭い切れないコンプレックスが影響していた。

 進学高校や一流大学に入学出来なかった俺は、学生時代は両親や親戚から常に何となく蔑まれていた気がした。折角親のコネで入社出来た一流企業にも馴染むことができず、相変わらず女性にもモテナイ・・・そんな時に「ロックへの情熱とその実践力で事業成績が上昇する」と信じることが出来たオークション事業部「KEIBUY」との出会いは「人生の夜明け」だった。
 「元々ロックンロールとは下克上のアートじゃねえかっ!俺はこれからロックンローラーに成るのだ」
下克上とは、卑しい者が世間的な勝者を凌駕することだ。落ちこぼれヤロウにとってこれ以上の快感はなかったのである。


■ 僅かなオフタイムも奪われて行く・・・ ■

 当時の俺の唯一の息抜きの場所は、原宿ラフォーレ正面入り口右斜め前の交差点から地下鉄「表参道駅」へと緩やかな坂道が続く表参道から小さな路地を入った一画にあった小さなバー「Zest」だった。
 「Zest」は、前職場で入社直後から親しくなり恋仲にもなりかけた社内の女性と密かに逢引きを重ねていた思い出の場所だった。“密かな逢引き”とは大袈裟だが、その女性は俺と親しくなるにつれてどういうわけか先輩女子社員たちから女子ロッカー室内で嫌がらせを受けるようになり、平日に彼女とデートする場合は「Zest」で待ち合わせをしていた。「Zest」は彼女が紹介してくれた店だったのである。
 地下にある隠れ家然とした佇まいや、こじんまりとした店内の古いヨーロッパ調の洒落たインテリアが素敵だった。故松田優作の人気テレビドラマ「探偵物語」の最終回のロケに使われたバーでもある。(松田優作が演じた探偵の工藤ちゃんが、暴漢に刺されるシーン)
 カタログ製作が佳境を迎える前、早めに会社を出てふらりと一人で「Zest」に立ち寄っては、“思い出深い”I.W.ハーパーを飲みながらほんのひとときカタログ製作の重圧と使命感から自分を解き放っていたのだ。

 表参道に立ち並ぶたくさんの大きな街路樹が夜風に泰然と吹かれている光景も大好きだった。また「Zest」の近くには「オリエンタル・バザール」があった。ビートルズが来日した際にホテル缶詰め状態を強いられたジョン・レノンが密かにホテルを抜け出して骨董品を買い漁ったとの伝説が残されている骨董品屋兼雑屋である。ほろ酔い気分で「Zest」を出てから夜風にうねる街路樹の音が聞こえると、ジョン・レノンの名曲「夢の夢」の歌詞の一節が思い出されてはうっとりとしたものだ。

通りを歩いてみると
熱さに揺れる木々の囁きが
聞こえたような気がした
雨が降り始めた時 誰かが僕の名前を呼ぶ
おかしな感じで踊る 二つの魂

まさに街路樹に語りかけられている幻聴に俺は酔いしれていたのである!

 そんなささやかなオフタイムも、増大の一途を辿っていたカタログ製作時間に塗りつぶされていき、いつしか「Zest」へ立ち寄ることもなくなった。それどころか、1989年3月号の締切りに追われてしまってお袋の最期を看取ることも出来なかった。自分の全てを犠牲にしなければ「オークション・カタログ」は成立しない。そんな来たるべき恐ろしい現実の足音が確実に近づいてきていたのだ。
 自分を奮い立たせる屁理屈はただ一つだった。
「俺の他に誰がやるんだ。誰もいないじゃないか。だったら俺がやるしかない!」 (つづく)


■原宿ロックンロールドリーム第5回
 「店舗もカタログも店長の意向任せ!自由奔放さが愛された各専門店の横顔~ギミーシェルター&ヤードバーズ編」
■原宿ロックンロールドリーム第4回 
 「店舗もカタログも店長の意向任せ!自由奔放さが愛された各専門店の横顔~ゲットバック&ラブミーテンダー編」
■原宿ロックンロールドリーム第3回 
 「さらば企業戦士たちよ、そして、ウェルカム・トゥ!?ロックンロール・エンタープライズ」
■原宿ロックンロールドリーム第2回 
 「円高経済、接待天国、MTV、ジュリアナ東京とイケイケガールたちetcこれが昭和末期/バブル時代の実態だ!」
■原宿ロックンロールドリーム第1回 「序章」



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