NANATETSU ROCK FIREBALL COLUMN Vol.366

原宿ロックンロールドリーム
       ~ロックアーティスト専門店激闘記
 

時代が狂っていたのか、俺たちが狂っていたのか!?
バブル狂騒時代に原宿に咲き乱れたロック・アーティスト専門ショップたち!
「Love Me Tender」「Get Back」「Gimmie Shelter」「Yardbirds/World Tour」
「Gun's Shop」「Keibuy Gallery」etc

遅刻したって残業すりゃ文句ねえだろう!
血を吐くまで酒飲んだこともないヤツなんて信用できるか!
バックルームで居眠りしてようが、酒飲もうが、売上げ良けりゃ問題ねえ!
俺たちはメンフィス・マフィア直系だ、アップルレコードの社員だ、ストーンズファミリーだ!俺たちの情熱こそが会社の理念だ!!

青春の残り火を激しく燃やし尽くした、愛すべきスタッフたちのあの異常な熱量は何だったのか。


第29回:社会復帰を後押ししてくれた後輩たちと、未知の音楽との出会い

欲しい物があれば何でもあげるよ!

 原宿ロックンロールエンタープライズA社を退職直後は、とても再就職をする気にはなれなかった。KEIBUYカタログを約3年間毎月製作し続け、その後ロックンロールバザールで約10ヶ月間日本全国を飛び回って気力も体力も使い果たした、というよりも、それまでの自分を支え続けてくれたロックンロールという名の強力なマジックが解かれてしまったみたいな抜け殻状態になったのだ。
 ロックンロールバザール期間中、「俺は地方の純粋なロックファンに喜んで頂ける仕事をしているのだ」という充実感から芽生えた極めてポジティブな退職の決意だったはずだが、いざ退職して一人になると脱力感に覆われる毎日が待っていた。綺麗な夕日を見る為に、夕暮れ時になるとアパートから徒歩20分くらいの場所にある多摩川の土手を散歩することが唯一の外出になるような生活になってしまった。

 真昼間からアパートの部屋の中でぼんやりと過ごしていると、部屋の中を占拠している大量のレコード、CD、ロック関連の書籍の存在すらがうざったくなってきたものだ。

コイツラを入手するために、俺は学生時代から一体どれだけの金を使ってきたのか?
使った金は惜しくはないが、この5年間で元をとったといえるのか?
それともコイツラのお陰でこの5年間飯が食えたと考えるべきなのか?
俺はコイツラから離れないと、本当の自由を手に入れることは出来ないのではないか?
そもそも俺が描いていたロックンロール・ドリームとは一体何だったのか?

とかなんとか、生産性のない自問自答を繰り返すばかり。新しい美意識、価値観を得なければいけないと、ムキになってクラシックのCDばかり聞いていたものだ。

 そんな観念肥大気味で無気力な当時の俺を労わってくれたのが、俺よりも先にA社を退職していた若手スタッフたちだった。みんなロックンロールバザールの最中に打ち解けることが出来た者ばかりであり、彼らは代わる代わる手土産持参で俺のアパートを訪ねてきてくれた。中には「親父が隠し持っていた高級ウイスキーをくすねてきましたよ!」なんていう大変に可愛いヤツI君もいた(笑)
 大して貯金も無く、後輩の訪問を歓迎する気の利いた酒の肴なんて出せないから、俺は代わりに気前よく言い放った。
「レコードでも本でも、俺の部屋の中で欲しい物があったら何でも持っていけよ!」

 レコード5枚組の豪華ボックスセットでも、イギリスで少数限定発売された超貴重写真集でも、60~70年代のオリジナルシングル盤でも、後輩たちの触手がのびたアイテムは惜しげもなく譲った。中には俺のレコードラックの中のレコード1枚1枚をすさまじい勢いでチェックする後輩もいた(笑)
 「マジっすか!」「本当にコレ、もらってもいいんですか!」
そんな驚きの声が止まない後輩たちを見ながら、俺はふと思った。自分のコレクションを中古品店に売っ払えばそれなりの小銭が入って少しは生活の糧になるだろう。しかしそんなことをしても毎晩飲むビールの備蓄が増える程度であり、慰問に来てくれた後輩のもてなしに使う方が遥かに有意義だ!



ありがとう、後輩たち。みんな元気にしているかい?


 当年1993年は、日本初のプロサッカーリーグであるJリーグがスタートした年である。更に翌年開催されるサッカーワールドカップ・フランス大会への日本初出場を祈願しよう!と国中がサッカー一色に染まった年でもある。丁度「ロックンロール・バザール」が終了した頃が「ワールドカップ・アジア最終予選」が行われていた時期に当たり、バザール終了後の抜け殻状態の中で、日本代表チームの奮闘を俺は生まれて初めて国粋主義者になったように応援していた。
 残念ながら日本代表チームはあまりにも衝撃的な結末で終わった「ドーハの悲劇」によってワールドカップ出場の夢は叶わなかったが、11月からはJリーグが再開。そんな時、会社の後輩の中でもっともサッカー好きだったF君は、Jリーグのゴールデンカードだったヴェルディ川崎対横浜マリノスの一戦のチケットをプレゼントしてくれて一緒に国立競技場へ観戦に行ったこともあった。

 また野球好きだったT君もプロ野球の日本シリーズを観戦しようと誘ってくれ、一緒に西武ライオンズ球場に出掛けた。

 Jリーグ観戦と日本シリーズ観戦が終わると、ロックンロールバザール開催中に後輩の中でもっとも劇的に意識を改革してくれたK君が、風光明媚で名高い地域にある実家に俺を招き、三泊四日の旅行のセッティングまでしてくれた。K君のご実家が振舞って下さったご当地名物のお味は今も忘れられない。さらにK君のお父上からは、地元の新聞社に就職を世話しようかとまで言って頂いた。

 再就職の当ても新しい目標もなかった俺は、後輩たちの訪問、ご厚意によって随分と気が紛れ、力付けられたものだ。1993年の晩秋、初冬をこうして明確な記憶のもとに穏やかに振り返ることが出来るのも彼らのお陰だ。彼らのご厚意の数々がなかったら俺はなかなか社会復帰も出来ずに生活無能力者に成り下がっていたかもしれない。

 どうして彼らはあんなにも俺に優しくしてくれたのだろう。もしかしたら、俺が新しいロックンロール・・・を・・・ことを・・・いや、そんな妄想は却って彼らに失礼というものだろう。
 生粋のバンドマンだったT君はバンド活動を続けながら、几帳面な性格がアルバイト先の飲食店で認められて店長になった。
男前なパンク野郎のくせに涙もろいI君は、彼女との生活を優先するためにバンド活動を止めて“かたぎ”の道を選んだ。
シルバーや革の細工が得意だったK君は、ご両親の援助を受けて自らの工房を立ち上げた。
怖いもの知らずで世間知らずだったF君は、前衛劇団に入った。
残念ながら、彼らとはもう20年あまりも連絡を取り合っていない。彼らが今も息災であることを祈るばかりだ。


またしても、原宿に救われた

 1994年春、A社を退職してから約半年ぶりに原宿を訪れることになった。ひと口に原宿と言っても、JR原宿駅竹下口から竹下通りに入り、更に明治通りを越えると周囲の様相は一変する。明治通りは国境みたいなものだ。その向こう側はまるで別の国に入り込んだように閑静な住宅街が北東に向けて広がっていて、個性的なファッションショップや雑貨店が点在しているのだ。カフェや飲食店も洗練された内装センスを売り物にしているような店が多い。竹下通りが騒がしいオコチャマや若者の街ならば、こちらは大人たちの憩いの地域といった風情だ。

 5年も原宿で働いていて気が付かなかった別世界の一画で、俺は安堵の溜息をついていたはずだ。
「これで当面は生活に困ることはないだろう」
 4ヶ月ほど前にライター契約をした新興の洋楽レーベルであるG社から初めて仕事の依頼があり、G社から翌月発売予定のCDの試聴盤15枚を受け取ったばかりだった。
 前職のA社と同じくG社の事務所は原宿にあったが、G社は明治通りを越えた大人たちの地域に位置していた。無職状態だった俺は1993年の年末発行の求人誌に掲載されていたG社の「洋楽CD解説書執筆ライター募集」に応募し、幸運にも選考に合格してライター契約をすることが出来た。
 
 しかし契約したものの一向に仕事の依頼がなかったが、ゴールデンウイーク向けに発売するという新譜の解説書依頼をようやく頂けることになったのだ。解説書はCD1枚につき3,000~3,500字、報酬は1枚9,000円。15枚の依頼なので合計135,000円の収入になる。
 また口約束とはいえ、G社代表から今後は大型連休に合わせて一斉にリリースされる新譜の大半の解説書執筆を優先的に回して頂けるという言質もとることが出来た。A社を退社してから二ヶ月ほど無職状態だった俺は、貯金が底をつく寸前の年末に自主CD製作会社に再就職を果たしていたが、お給料が安かったことから別口のアルバイトも探していたので、G社からの定期的な依頼は誠に有難かったのである。
 大手企業のサラリーマン生活に耐え切れずに「ロックの仕事がしたい!」と飛び込んだのが原宿の会社。それから5年後に文無しの困窮状態を救ってくれたのも、偶然とはいえまた原宿の会社だったのだ。



ヒーリングミュージックにワールドミュージックにトランス。Not Rock n' Roll
新しい出発

 G社のライター選考条件は、「好きな洋楽のアルバム3枚の解説文の送付」だった。俺はA社勤務時代に個人的な趣味で書き散らしていた原稿の中から、「ドアーズ・ファースト」「デビット・リー・ロス・バンド・ファースト」「シューベルト・さすらい人幻想曲/マウリツィオ・ポリー二」をピックアップし、清書してからG社に送りつけた。どうせなら、毛色の違う3枚を選んだ方が腕前のレンジの広さをアピール出来るだろうと踏んだのだ。

 結果としてクラシック・アルバムを1枚選んだことが奏功だったのか、解説書執筆の依頼を受けたCDの半分はクラシックを基調としたヒーリング・ミュージックだった。残り半分はヨーロッパ各地のミュージシャンによる現代版民族音楽。1枚だけ既に楽曲著作権の切れた50~60年代のシングルヒット曲を集めたポップスのオムニバス盤があったが、それ以外はロックとはかけ離れた音楽ばかり。

 一方このライター稼業よりもひと足先に就業が決まっていた再就職先である自社CD製作会社D社は、KEIBUY JAPAN時代の上司であるT氏からの紹介だった。CDを作りたい個人や、インディーズレーベルからの依頼を受けて、音源が録音されたマスターテープ製作以外の全てのCD製作を請け負う会社だ。盤面印刷、CDジャケットや帯の製作、CDプレス工場への発注等、CD盤が商品として完成するまでの全行程の管理が主な仕事だった。
 D社は設立後間もない会社だったので、会社紹介用のパンフレットや全製作作品を掲載する定期刊行物の出版も予定されており、紙媒体製作経験者として採用して頂いた次第だ。しかしここでも取扱い音楽のほとんどはロック以外!当時はコンピューターミュージックやトランスミュージックのブームがヨーロッパで最盛期を迎えようとしており、その類の音楽制作を目指す日本人のアマチュアからの製作依頼が多かった。

 どちらの仕事もロック糞詰まり状態の中で悶々としていた当時の自分にとっては、これまで関わり合いの無かった未知の音楽との出会いに直結する有難い仕事になってくれたものだ。図書館に通って世界各国の民族音楽やクラシックの歴史を調べる作業に追われた休日、また当時の自分にとっては得体の知れない存在だったトランスミュージックの音楽性やジャケットの美的センスに向き合う体験により、自分の生活全てを覆っていたぶ厚いロック色が霧が晴れて行くように払拭されていくことになった。
 もちろんどちらも慣れない内は楽な仕事ではなかったが、自分の趣味嗜好の全てをぶち込むのではなく、新しい世界を学びながら収入を得ることが出来る仕事との巡り合わせは幸運だったと言えるだろう。


こんなものを一人で作れるはずがないだろう!

 重い腰を上げての再就職活動において、忘れられない奇妙で理不尽な体験もあった。先述した「洋楽ライター募集」の広告が掲載されていた同じ求人誌の中にあった「音楽雑誌編集者募集」に導かれて訪れたB社での出来事だ。
 B社事務所のあるビルの前まで来た時、どこかで見た記憶のあるビルだと思った。その記憶が思い出せないままビル内のエレベータに乗ると妙な寒気に襲われ、気分の優れぬままに面接を受けた。
 歌謡曲情報を取り扱う新しい定期刊行物の編集者を募っていることが面接官より明かにされたのだが、履歴書とともに5冊ほど持参したKEIBUYカタログを見せて編集経験者としての自己アピールをしたところ、面接は予想外の展開になった。面接官は、KEIBUYカタログを見ながら憤り始めたのである。

「これだけの内容の冊子を毎月、それも3年間一人で作っていたなんて到底信じられないな。本当なんですか?」
面接官は、あたかも「ハッタリをかますにもほどがあるぞ、お前!」と言いたげだ。
俺は返す言葉を失った。
しかし何か返答しなければいけない。
「僕を雇って頂ければ、本当かどうかお分かり頂けます」

 やがて面接官は上司らしき者を呼び、二人であらためてKEIBUYカタログをガン見。時折俺をチラ見する上司の顔にも「よくもまあ、そんな嘘八百を吐けるなコノヤロー」と書いてある(笑)俺もB社側もお互いに埒が明かないまま面接は中途半端に終了。そして帰り際になって、ようやく見覚えのあるビルの記憶が蘇った。
 かつて人気を博したOという芸名の女性アイドル歌手が飛び降り自殺をしたビルであり、歌手Oがビルの前で血を流しながら倒れている衝撃的な写真が当時の写真週刊誌に掲載され、それが俺の記憶の中に刻まれていたのである。

 結局面接後はB社からの連絡は一切無かった。B社側にしてみれば、俺は大ぼら吹き、もしくはアリエナイ様な仕事量をこなしてきたバケモノのどちらかであるので相手にされなかったのだろう。またその後、B社が発行を予定していたという歌謡曲雑誌にもお目にかかったことはなかった。
 人生で唯一「嘘つき」扱いされた面接試験。エレベータの中で襲われた突然の寒気。実在したのかしないのか分からないB社の雑誌。思い出された芸能界の暗い側面。亡くなったアイドル歌手Oの美しい笑顔。
 ロックンロール・ドリームがまるで風船が音を立ててしぼんでいく様なダウンした時期だっただけに、B社とのわずかな関わりは今となってはおかしな懐かしさを運んでくる。
 仮にB社に採用して頂いて歌謡曲雑誌を作り続ける自分を想像してみたが、やはり到底アリエナイ姿であって想像のピントがまったく合わない!大嘘つきかバケモノに判断されて却って良かったのかもしれない(笑)(つづく)


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