NANATETSU ROCK FIREBALL COLUMN Vol.381


第9回 エルヴィスゆかりの地~アーカンソー州前編/
突入!ロックンロール・ハイウェイ67


(上部スライダーは自動的に別写真へスライドし続けます。またカーソルをスライダー部分に置くとスライドが止まり、左右に矢印が表示されますので、矢印をクリックすると別写真にスライド出来ます。)

 「バーチャル・ロックンロールツアー」にご参加頂いておる方々、誠にありがとうございます。年明けは南国フロリダをご案内致しましたが、この度我らは再び内陸部に入り、アーカンソー州のエルビスゆかりの地へと向かいますぞ!
 アーカンソー州というと日本人には馴染みの薄い地域であり、政治に詳しい方が「元アメリカ大統領のビル・クリントンの出身地」と分かるぐらい!?しかしミシシッピー川を挟んでメンフィスの西隣のアーカンソー州は、デビュー直後のエルヴィスがテキサス州、ミシシッピー州と同様に決死の覚悟でライブ・サーキットを続けていた地域じゃ。エルヴィスやロックンロールの古い歴史の痕跡がアーカンソー州には多いぞお~。

 皆様をアーカンソー州へご案内するにあたり、ひとつお断りしておきたいことがある。この地域におけるエルヴィスの情報は確かに豊富じゃったが、ネット上では「情報の詳細確認」「事実の裏取り」が非常に難しかったことじゃ。年度、日時、場所等の基本情報がサイトによって異なっておる場合が多く、詳細の記述は少ない。更に2015年前後を境にして新情報のアップや旧情報の更新があまり見られないのじゃよ。これは「エルヴィスのアーカンソー情報」の世界に一度踏み込んだ者が、その後の調査に四苦八苦しておるってことなのか?
 自分の調査能力を棚に上げて意地悪な見方をすると、ネット情報の精度が“イマニ、イマサン”の割には情報のアウトラインのみ発信するサイトが多いので、アーカンソー州におけるエルヴィスの情報発信に対して何某かの制限がかけられておるのか?と勘繰りたくもなる(笑)これらの状況を踏まえ、わしの長年鍛え上げた(笑)“ロック勘”を交えてアーカンソー州の「エルヴィスゆかりの地」をご案内していくので、記述内容に関して2022年2月時点での「真実の可能性あり!」として受け止めて頂けることをお願い致す。

 

【目次】バーチャル・ロックンロールツアー エルヴィスゆかりの地~
       アーカンソー州前編 
突入!ロックンロール・ハイウェイ67

 ・御覧になりたいPoint番号をクリックすると、該当する解説文の先頭に画面が自動的にジャンプします。 

 
Point- 1  ロックンロール・ハイウェイ67/北側始点コーニング
 
Point- 2 KPOCラジオ・ステーション
跡地/ポカホンタス
 Point- 3
  キング・オブ・クラブス跡地/スウィフトン
 Point- 4 スウィフトン・ハイスクール・ジムナジウム/スウィフトン
 
 Point-プラスα  ロックンロール・ハイウェイ67調査上の要注意事項

 

 Point- 5  シルバームーン・クラブ跡地/ニューポート
 Point- 6
 ポーキーズ・ルートップ・クラブ跡地/ニューポート

 Point- 7 
ロックンロール・ハイウェイ67/南側始点ブラッドフォード
 Point- 8 ボノ・ハイスクール・ジムナジウム跡地/ボノ
 Point- 9  KWEMラジオ局/ウェストメンフィス 

 
【付 録】  バーチャル・ロックンロール・ツアー・Googleマイマップ「アーカンソー州前編」
         ~3回クリックでとっても簡単!バーチャル・ロックンロール・ツアー・マップ操作手順



 行け荒野を!おいらロッカー!!
Point-1 ロックンロール・ハイウェイ67/北側始点コーニング
ーカンソー州を北東から南西へ斜めに走るハイウェイ67。距離は325マイル(約520キロ)におよび、その内の111マイル(約180キロ)は「ロックンロール・ハイウェイ67」と名付けられておる!これはロックファンが勝手に付けた愛称ではなくて、今やGoogle-map上でも表記される公式な名称じゃ。
 「ロックンロール・ハイウェイ」とはいかにもありがちなネーミングじゃが、わしのようなオールドファンにとってはいざ実在しているとなるとやはり胸が躍るってもんじゃ。ついつい力石徹のテーマソング「行けえ~荒野を~おいらあ~ボクサー」を替え歌で口ずさんでしまったわい!

 
 ネーミングの由来は単純明快!ハイウェイ67は1950年代にエルヴィスをはじめとした将来のビッグ・ロッカーの卵たち、また多くのカントリーシンガーやブルースマンたちがアメリカ南部のライブサーキットをこなすために四六時中往来していた高速道路であり、彼らが出演していたミュージック・クラブ、宿泊していた安宿、憂さ晴らしをしていた飲み屋等がハイウェイ沿いや周辺に点在しておった区間が「ロックンロール・ハイウェイ67」じゃ!それらの施設は今ではほとんど姿を消してしまったが、ハイウェイ67に染み込んでいるミュージシャンたちの不滅のスピリットを永遠に讃えるために「ロックンロール・ハイウェイ67」という区間が公式に設定されたというわけじゃ。

初に「ロックンロール・ハイウェイ67案」を提唱したのは、アーカンソー州ランドルフ郡ポカホンタス出身のミュージシャンであるゲイリー・ガザウェイ。この方はトランぺッターとしてスティービー・レイ・ボーンやジョー・コッカーと共演しておるビッグ・セッション・ミュージシャン。ロックンロールの創世期を飾ったエルヴィス、ジョニー・キャッシュ、ジェリー・リー・ルイス、ロイ・オービソンらのゆかりの地がハイウェイ67沿いに点在していた事実をアーカンソー州の歴史に刻する意義を説いたのじゃ。

 ゲイリーの提唱にアーカンソー州立大学のマイケル・ラスター、アーカンソー・フォークライフ・プログラムのディレクターであり、ラジオ番組Arkansongsの共同創設者兼ホストである音楽史家のスティーブン・コッホが賛同したことで「ハイウェイ設立委員会」が発足。委員会の働きかけにより、やがてアーカンソー州議会が討議を行い、2011年10月に「ロックンロール・ハイウェイ67設立案」は可決された。
 ちなみに当初は「ロカビリー・ハイウェイ67」と命名される予定じゃったが、ロカビリーという言葉が1950年代当時の差別用語「ヒルビリー」(山に住む田舎っぺ)を連想するとのことで却下されて、代概案としての「ロックンロール」が正式名称となった。

ーカンソー州の調査に苦戦したことは冒頭で述べたが、まず「ロックンロール・ハイウェイ67」からして資料が少なくて内容も乏しい。公式サイトもなく、申し訳程度な内容のFacebookのみ。州発信サイトも詳しい説明は設立に至るまでの経緯のみで、肝心な南北両始点の具体的な記述が無い。その他報道サイト、私設サイトでは、南北両始点の表記がてんでんばらばら。 「Rock n' Roll Highway67」でネット検索すると、Google-map提供の右上写真地図が表示され、レッドラインがロックンロール・ハイウェイ67とされておったが、ストリートビューでレッドラインの南北両端周辺をチェックしたところ、何の標識も見当たらない。
 周囲の自力検索を続けた結果、北側始点は上地図上のレッドライン北端より更にハイウェイ67を北上して、ミズリー州とアーカンソー州との州境にあるコーニングという地域において「ロックンロール・ハイウェイ67」の標識を発見!ストリートビュー上では道路名の文字表記はされないが、ここを北側始点と見なすべきであろう。(左写真ストリートビュー2019年10月撮影)


★ロックンロール・ハイウェイ67の区間や点在するPointの位置は、当ページ巻末付録「バーチャル・ロックンロール・ツアー・Googleマイマップ/アーカンソー州前編」で俯瞰、一覧出来ます★

 上記コーニングをロックンロール・ハイウェイ67の北側始点、南側を上地図レッドラインの南端として両地点の距離を測定してみると約105マイル。公式発表の111マイルには数マイルほど足りない。そこで更に調べたところ、上記の区間とは別に、
アーカンソー州とテキサス州との州境にあるミラー郡テクサーカナという街を貫く区間のハイウェイ67がロックンロール・ハイウェイ67に追加されていた。
こちらの区間をプラスした合計距離が111マイルと推測される。(テクサーカナ周辺地域に関しては、次回後編でご案内予定です)
トリートビューでロックンロール・ハイウェイ67を根気強くなぞっていく過程で非情に不可解だったのは、「ロックンロール・ハイウェイ67」というストリート名が表記された標識があまり見られないことじゃ。上述したコーニング(北側始点)にもありきたりの道路標識のみ。「ここからがロックンロール・ハイウェイ67デス!」といったモニュメントではない。
 北側始点コーニングから約55キロ南下した地点に、「ロックンロール・ハイウェイ67イン」というモーテルがある。(右写真)最初に日本語表記の“イン”を見てしまったため、このモーテルの地点が「ロックンロール・ハイウェイ67の入口(イン)だ!」と勘違い(笑)
 このモーテルは一応インテリアがフィフティーズ・ロックンロール調に統一されてはいるが、ハイウェイ管理組織とは無関係。(某観光サイトには、エルヴィスやジョニー・キャッシュが宿泊したという記述があるが、その裏付け情報は無し)
 しかしモーテルはそれなりの目立つ標識を設置しているのに、「ロックンロール・ハイウェイ67」の始点はペラペラの看板1枚って、一体どういうことじゃ?立派な看板を設置しても、質の悪いロックファンがかっぱらってしまうのだろうか?それならおいそれと動かせない立派な石碑の様なモニュメントでもドンッ!と設置すればいいのに!

 では以降、ロックンロール・ハイウェイ67を北側始点コーニングから南下しながら、エルヴィスゆかりの地をご案内していこう!

■Google-map上の位置(北側始点コーニング周囲)■



「サン・レコードからデビューしたエルヴィス・プレスリーです。宜しくお願い致します!」
Point-2 KPOCラジオ・ステーション跡地/ポカホンタス

  Point-1内で紹介したモーテル「ロックンロール・ハイウェイ67イン」から僅か100メートル南下した地点に、エルヴィスがハイウェイ67を通る度にマネージャーのボブ・ニールとともに訪れていたKPOCラジオ局があった。もちろん目的は「僕のレコードをかけて下さい」デアル!
 当時KPOCでDJをしていたボブ・ニコルソンの短いコメントがネット上で紹介されていた。
「エルヴィスはシャイだが、とても礼儀正しい若者だった」
ホント、若き日のエルヴィスに対する「礼儀正しい」「気配りが素晴らしい」という記憶の声は多いのお~。


 上左写真は、当時のマネージャーであるボブ・ニールとのツーショット。撮影場所は不明だが、エルヴィスの表情やヘアスタイルから1955年初頭と推測出来る。将来のキングが、まだラジオ局を周って頭を下げていた頃と思われるのでイメージ写真として掲載しておくぞ!
 
 このKPOCラジオ局の当時の住所が記載されたサイトには地図も掲載されていたが、ソイツが記載住所よりも更にハイウェイ67を400メートル南下した位置?住所が正しいのか、地図が正しいのか??またKPOCラジオ局の存在を記念するギター付きの立派な標識の写真もネット上で公開されておるが(上中央写真)、肝心の撮影地点(標識設置場所)がまったく不明???
 また上述した住所の場所はGoogle-Map上で「KPOC Radio(廃業)」と表記されているので今のところ「正」としておく。上右写真はストリートビュー2016年6月撮影のものであり、空き地部分にラジオ局があったと思われる。一応ストリートビューを最大拡大表示して、空き地の奥まで標識らしき物体を探してみたが見当たらず。既にかっぱらわれてしまったのであろうか・・・。2016年以前のストリートビューでは、この空き地部分は周囲が仮設建物や塀で囲まれていて確認出来ず。
■Google-map上の位置


 2010年12月9日、回禄に消えた「ハートブレイク・ホテル」初演の地
Point-3 キング・オブ・クラブス跡地/スウィフトン

ーカンソー州のほぼ真ん中に位置するジョージア郡スウィフトン。1955年12月9日、エルヴィスはスウィフトン・ハイスクールのジムナジウム(体育館)でコンサートを開き(下記Point-4参照)、その後深夜に当地にあるミュージック・クラブ「キング・オブ・クラブス(当時の店名はB&Iクラブ)」にも出演しておる。

下写真は2008年7月に撮影された正面入口。開業当時やエルヴィスが出演した当時の古い写真は今のところネット上では公開されていないようじゃ。)

カビリーやオールドロックのファンにとって「キング・オブ・クラブス」は、ハイウェイ67沿いに点在していた多くのミュージック・クラブの中でもっとも有名じゃ。1951年にオープンしてからしばらくは「B&I Club」と名乗っていたが、キング・エルヴィスが出演したこともあってか、後に「キング・オブ・クラブス」に改名。こちらの方がオールドファンにとっては馴染み深いようじゃ。エルヴィスをはじめ、ジェリー・リー・ルイス、ジョニー・キャッシュ、カール・パーキンス、ロイ・オービソン、ソニー・バージェス、ファッツ・ドミノらがツアーサーキットの途中で入れ替わり立ち代わり出演していたことで名高いクラブなのじゃ!
 「キング・オブ・クラブス」を初めとした当時のミュージック・クラブ/バーに関する乏しい資料を探しまくっていると、「クラブ」とか「ライブハウス」ではなくて、「ジューク・ポイント」「スピーク・イージー」「ホンキートンク・バー」「ロードハウス・クラブ」といったブルースやオールド・ロックの世界観特有の表現が目に付く。要するに「酒と女と音楽が絡み合って成立する、不謹慎だが魅力的な南部のバー」という表現じゃ。実在していた場所や当時の実態調査に俄然熱が入ってしまうわな!

 エルヴィスが出演した出来事がキング・オブ・クラブスの長い歴史の中でハイライトであり、既にサンレコードからメジャーレーベルであるRCAビクターへ移籍契約を終えていたエルヴィスの出演に対して、クラブ側は450ドルという大金を支払ったとされておる。通常の出演料は一晩10ドルだったので、エルヴィスの扱いは破格じゃ!

 左写真は、出演当夜にキング・オブ・クラブスまでエルヴィスを追っかけてきた地元の女性ファンとのショット。当夜クラブ内で撮影された希少な1枚のようじゃ。しかし彼女たちはどう見ても高校生!深夜に街はずれのミュージック・クラブまで憧れのスターを追っかけちゃうって、いつの時代も女の子たちの熱情はスゴイもんじゃな!

ルヴィスはミュージック・タイムのオープニングに出演したジョニー・キャッシュの客演で登場。ジョニーはエルヴィスが参加したことでクラブ内がエルヴィス・フィーバー化したことに気を使ったようで、3曲演奏しただけで引っ込んだらしい。そんなジョニーに対して逆にエルヴィスの方が気を使い、「ジョニーは3曲しか歌わなかったが、出演料を全額払ってあげて下さい」とクラブのオーナーだったボブ・キングに頼んだそうじゃ。ボブは、ジョニーのプレイも褒めたたえて通常の倍の出演料20ドルをジョニーに支払ったという。(エルヴィスの出演料の5%未満じゃけど!)

 この晩のエルヴィスは、サン・レコード時代のレパートリーと、ビル・ヘイリーの「ロック・アラウンド・ザ・クロック」、プラターズの「オンリー・ユー」等を熱唱。さらにボブ・キングの回想によると、「この曲は近い内に全国テレビで演奏します」というMCの後に、まだ未発表だった「ハートブレイク・ホテル」まで披露したという!スコッティ・ムーアのサイトをはじめ、この件を記載する多くのサイトは「恐らくハートブレイク・ホテルが初めて人前で披露された機会」としておる。

 「ハートブレイク・ホテル」がエルヴィスの手に渡るまでの経緯をあらためて調べてみたが、メイ・ボーレン・アクストンとトミー・ダーデンが曲を作ったのが1955年10月。翌11月の10日にナッシュビルで開催された「カントリー・アンド・ウエスタン・ミュージック・ディスクジョッキー・コンベンション」に参加したエルヴィスに(左写真)、アクストンは持参して来た「ハートブレイク・ホテル」のデモ(歌:グレン・リーブス)を聞かせたことがサン・レコードのサイトに記載されておる。

 公式発表によるレコーディングは、年明け、1956年1月10日じゃ。ということは、アクストンからデモを聞かされてから約一ヶ月後のキング・オブ・クラブス出演時にエルヴィスが「ハートブレイク・ホテル」を披露することは時間的に可能。レコーディングまでの試運転、お客の反応チェックのタイミングを考えると、キング・オブ・クラブスで歌ったという情報の信憑性は高いな!

辺の同業クラブが時代の推移とともに廃業したり火事で消滅する中、キング・オブ・クラブスは21世紀を迎えても繁盛を続けておった。2001年に企画されたサン・レコードの歴史を披露する作品「Good Rockin’Tonight:The Legacy Of Sun Records」のDVDには、エルヴィス出演日に共演していたカントリーシンガーのソニー・バージェズが2000年前後にキング・オブ・クラブスで演奏するシーンが収録されておる。You Tubeに同作品がフルバージョンでアップされておるので、是非確認されたし!(クラブでの演奏シーンは、53分51秒あたりから)
 
 残念ながら2008年に長年のオーナーだったボブ・キングが83歳で逝去した後、創業60周年を迎える前年の2010年12月11日に火事で全焼してしまい、長かった営業の歴史に幕が降ろされた。クラブの中には、出演した数多くのロッカー、カントリーシンガーたちの秘蔵の写真等が数多くディスプレイされておったらしいが、それらは火事によって永遠に葬られてしまった。
 店内写真をネット上で検索した結果、嘘か誠か、火事前日にクラブを訪ねていたという人物のブログが見つかり、その中に店内写真が掲載されておった。(左写真)
 「それまでクラブ内の写真を撮ろうと思ったことは一度もなかったが、この日は何故か撮りたい気分に駆られた」とコメントされておった。まあ写真の方が貴重なので、撮影日やコメントの真偽はどうでもいいか!

 下写真2枚は、「King of Clubs burns in Swifton」のタイトルで某英字報道サイトに掲載されていた2011年12月14日付の記事からの転用。左側の消防車が写っておる火事現場の写真は、現場状況とは関係のないは単なる視覚効果の為のものとも思えるので、エルヴィスが「ハートブレイク・ホテル」のゴールドディスクを手にする写真を重ねて、わしなりのクラブへの哀悼の意を示した次第。右写真は火事翌日の現場の残骸を伝えるショット。


 ストリートビュー撮影の写真はこちら下2枚。左側は2008年6月撮影で、在りし日のクラブの全容が見れる。下右側写真は2016年6月、跡地には何も建てられていない模様。
■Google-map上の位置■






希少でステキな素人ショットが残された田舎の学校ライブ!

Point-4 スウィフトン・ハイスクール・ジムナジウム/スウィフトン

 Point-3のキング・オブ・クラブスに出演する前、エルヴィスはスウィフトン・ハイスクールのジムナジウム(体育館)でジョニー・キャッシュとの共演ライブを行っておる。ライブに関する詳細はネット上では見当たらないが、素晴らしい2枚の写真が残されていて、アングル、エルヴィスのポーズや表情がとてもいい。良い意味でプロショットらしくないのじゃよ。またこの時期のエルヴィスのステージショットは少ないので、大変希少でもある!
 撮影はセンスに長けたファンではないか?と勘ぐってみたところ、スコッティ―・ムーアのサイトでは撮影者メリー・ルー・キャンベル(Mary Lou Campbell courtesy)とされておった。
 「メリー・ルーさんって誰なんじゃ?」と思ったら、Point-3のキング・オブ・クラブスご案内パートに掲載した写真の中に写っていた女の子じゃった(下写真、左端がメリー・ルーさん)でもその写真もまた彼女の撮影との表記が!
 メリー・ルーさんって、自分が写った写真を自分で撮影出来る特殊能力の持ち主だったのか?ってアホみたいな疑問を元にちょっとネット検索したところ(笑)、左のステージショットは、当時13歳じゃったタラ・チャップマンという女の子が撮影者という説を見つけた。

 タラちゃんは、後にお父さんにグレースランドに連れて行ってもらった際、お庭でエルヴィスに歌ってもらい、更にグレースランド内の撮影を許可されたというエピソードまで付いてきた!う~ん、わしとしてはタラちゃん撮影説を信じてみたい!(笑)
 ステージ写真の方は、エルヴィスの部分のみトリミング、更に画像修正されたバージョンがネット上で数多くアップされておるが、ここで掲載した写真はトリミング無しのオリジナル・プリント・バージョンじゃ。

注目

 ここで、上の写真でエルヴィス着ているホワイト系ジャケットとパンツに注目してくれ。これはThe-King製のホワイト系ナッソースーツ(左写真)と同種の趣きがあってグレイトじゃ!
 エルヴィスの写真を目一杯拡大して生地のチェックを試みたが、なんせ写真が古過ぎて、肉眼で確認出来る写真の濃淡が生地の模様なのか画像自体の粗さなのか判別できんわい(泣)まあ、こういう鑑定はThe-Kingのボスにお任せするとして、参考までにわしのオキニだったThe-King製同系スーツをピックアップした次第じゃ。
 このジャケット(スーツ)は2008年に発表されてソッコーでソールドアウトになった優れモノ!(SP-133)左写真はジャケのみじゃが、The-Kingはスーツとして発表しとるので、専用ページで確認してみれくれ!


 しかし、待てよ~上写真が必ずしもホワイト系とは限らんわい。右写真のように薄いピンク系だったのかもしれん。(SP-423)当時からエルヴィスはピンク系を見事に着こなして世の大人たちの度肝を抜いておったからな!既成ファッション概念にとらわれなかったエルヴィスのダイナミックなセンスは、The-Kingのナッソーならやはりコレじゃろう!
 The-Kingはその後も、ホワイト系ナッソー&ナッソー・スーツを発表しているので、この際だからぜ~んぶチェックしておこう!

 


 さて本題に戻ってスゥイフトン・ハイスクール・ジムナジウムでのライブ情報の〆といこう。メリー・ルーさんの当日のコメントをネット上で見つけたので大意をご紹介しておくぞ!
「エルビスはピンク色のキャデラックに到着しました。ジムナジウムには多分300人が詰め込まれていました。エルヴィスは歌い始めるとすぐに私たちを魅了しました。彼が特別な何かだとわかりました。彼の性格、才能には何かがあったのです。彼はカリスマ性を持っていました。私たちは皆、ジムナジウムのフロアでエルヴィスに恋をしたのです。ショーの後、私は彼と一緒に写真を撮ってもらい、ずっとその写真を持っていたものです!」 
 その後彼女は友達と一緒にキング・オブ・クラブスまでエルヴィスを追っかけていったのじゃ!

 スウィフトン・ハイスクールは現在ミドル・ハイスクールになっており、エルヴィスが演奏したジムナジウムは1966年に同じ場所で建て替えられて現在に至っておる。(左写真右側は、2019年8月ストリートビュー撮影)
■Google-map上の位置■



Point-プラスα ロックンロール・ハイウェイ67調査上の要注意ポイント!
 ここまで「バーチャル・ツアー・アーカンソー州編」に参加頂いたことでロックンロール・ハイウェイ67に興味を持ち、さっそくご自身で調べてみよう!と思い立った方の為に、注意事項を記しておこう。ネット調査を始めたらすぐにぶち当たってしまう不要かつ手ごわい壁があるので、早めにお教えしておきたい次第じゃ。

●その1~ ロックンロール・ハイウェイ67に関する仔細が分かりやすく記載された資料が無いために起こってしまうネット調査トラブルじゃが、ロックンロール・ハイウェイ67の全行程は、現在の「ハイウェイ67」の一部であると思いがちじゃ。しかし実際は、スウィフトンの北約30キロに位置するウォールナット・リッジという街からスウィフトンに向かっては、
「ハイウェイ67」から外れて「367号線」がロックンロール・ハイウェイ67に指定されておる。
この事実を知っておかないと、スウィフトン周辺地域のゆかりの地探しに激しく迷うことになるので、本格調査の前に絶対に押さえておくべき重要ポイントじゃ。(左地図参照)

●その2~ Point-3のキング・オブ・クラブスがあったスウィフトンから更に約30キロ南下した位置にニューポートという街があり、ここに「ロックンロール・ハイウェイ67・ミュージアム」なる博物館がある。ネット上では概略しか紹介されていないので今回はご案内を避けるが、ロックンロール・ハイウェイ67沿いに点在していたミュージック・クラブの位置が表記された博物館製作の簡易地図を公式サイトで閲覧することが出来た。(右下写真)
しかしこの簡易地図における「キング・オブ・クラブス」の位置が間違っておった!
 簡易地図は「キング・オブ・クラブス」の場所が、367号線とJackson Road 73 との交差地点付近と表記されておるが、実はその北のJackson Road 74との交差地点だったのじゃ。掲載した地図写真が小さくて分かりずらいが、「キング・オブ・クラブス」は地図上の上から2番目の★の位置と表記されているが、実際は1番目の★の位置じゃ。
 これは簡易地図に表記されたJackson Road73との交差点付近のストリートビューによる現状写真が、かつてその地に店舗が存在した形跡がまったく見られなかったことに端を発し、試しに周囲をストリートビュー散策しまくってようやく気が付いたのじゃ。
 運良く2008年度版のストリートビューも閲覧出来たので、2011年に火事で消滅した「キング・オブ・クラブス」の在りし日の姿まで確認出来たのじゃ。(上記Point-3参照)
 ロックンロール・ハイウェイ67・ミュージアム作成の地図なので疑いもしなかったわしの単純過ぎる調査姿勢にも問題があるが、以上の2点を自力で解明出来るまでに機転の効かないわしは丸2日もかかってしもうたわい。どうして誰も指摘しておらんのじゃバカモノ!(あ~スッキリした!)



シルバームーンには、真実よりも多くの伝説がある」
(by 元アーカンソー州知事)
Point-5 シルバームーン・クラブ跡地/ニューポート
1
950年代半ばから1960年代初頭にかけて、アーカンソー州において最大規模のミュージック・ナイトクラブが、ニューポートにあったシルバームーン・クラブ。収容人員1,250人を誇り、ニューポートの第二次世界大戦軍需経済ブームをきっかけに1944年に設立。ニューポートには大規模な軍事基地/ニューポート飛行場をあり、大戦時には街の人口が2倍に膨れ上がったそうじゃ。多くの軍人のためにも、地元のビジネスオーナーは娯楽やレクリエーションに対する人々の欲求を満たすことを目指したという。そしてナイトビジネスのシンボルがシルバームーン・クラブだったのじゃ。


 エルヴィスをはじめとした数多くのミュージシャンたちがハイウェイ67を使ってニューポート入りした後にシルバームーンで演奏していたことは言うに及ばず、ニューポートはメンフィスとも車で1時間強(約100キロ)の距離にあったためにメンフィスからも多くのミュージシャンが流れ込んできておった。シルバームーン・クラブの出演料は他のクラブよりも高く、優秀なミュージシャンたちに人気が高かったという。
 エルヴィスは1955年7月21日、10月24日の2回シルバームーン・クラブに出演しており、上右写真は10月24日クラブ内での撮影とされておる。(演奏写真は見つからず)

ルバームーンが大盛況だった原因は、将来のビッグミュージシャンが出演していた質の高い音楽ライブの提供だけではなく、非合法だったギャンブルが黙認されていたことも大きい。またお客の質を落とさないためにも、ミュージッククラブでは珍しいドレスコードがあったという!それにもかかわらず、酒やギャンブルによる客同士のトラブルは茶飯事であり、普段は女性客はあまり寄り付かなかったという説もある。それでもエルヴィス出演時は女性客だらけだったんじゃろうな!

 1967年にウィンスロップ・ロックフェラーがアーカンソー州知事に就任してからは州全体のギャンブルの取り締まりが強化され、既に50年代の賑わいを失っていたシルバームーン・クラブは大打撃を受け、オーナーは“ロックンロール史の中では由緒ある”このクラブを55,000ドルで地元の農民に売却してしまったそうじゃ。売却された後、エルヴィスの知人であり、Point-3でご紹介した「キング・オブ・クラブス」でエルヴィスと共演したソニー・バージェズが経営陣への参画を打診されたが、ソニーは断ったという噂がある。

 1987年に火事で建物が完全に消滅したことでシルバームーン・クラブの歴史は閉じられたが、しばらくして跡地には下写真の通りの新しい建造物が建てられ、壁面の一部にはクラブの看板にあしらわれていたロゴがペイントされた。(ストリートビュー2016年6月撮影)この建物は「シルバームーン・バンケットホール」と名付けられ、2016年にはFacebookも開設されてミュージック・クラブとしても再スタートした形跡がある。しかし2021年3月には洪水被害の為に「閉鎖」と告知されておる。Google-mapでは「史跡」の表示があるのみ
■Google-map上の位置■

 なお、元オーナー(多分3代目)の子息が、エルヴィスの故郷トゥペロにおいて、「ワトソン・アイス・ハウス・シルバームーン・クラブ」を開店して、元祖シルバームーンのスピリットを継承した経営をしておるとの情報も見つけたが、Google-mapでは「アイスクリーム店」と表記されておる? 確かに店舗の裏側にはエルヴィスらロックンロールスターの壁画が描かれてはおるんじゃが・・・。




エルヴィスはとても素敵なキッズだなって思いましたよ”!?
Point-6 ポーキーズ・ルーフトップ・クラブ跡地/ニューポート

 Point-5シルバームーン・クラブから367号線を約1キロほど南下した場所に、ニューポートのもうひとつの人気ミュージッククラブ「ポーキーズ・ルーフトップ・クラブ」があった。エルヴィスは1955年3月2日に出演したという公式記録が残っておる。この日は当地の「USアーモリー」でのコンサートとのダブルヘッダーであり、ポーキーズ・ルーフトップ・クラブへエルヴィスが登場したのは午後10時とされておる。
 シルバームーン・クラブに比べてネット公開されておる資料が非常に少ないポーキーズじゃが、オープンは1950年代初頭のようで、 KNBY / KOKRラジオ局(左下写真、右側の建物)の敷地北端に建てられた当初は平屋建てのバーベキューレストランじゃった。
 左写真2枚は恐らくオープン当時のものと思われる。写真では分かりづらいが、建物の屋上(ルーフトップ)がライブバー・スペースに利用されていた。やがて天候に関係なくライブが開催できるように二階建てに改築されたらしい。


 エルヴィス出演当日の記事等はネット上では一切見つからなかった。(サンレコード、スコッティ・ムーアのサイトにも詳細の記載は無し)僅かに見つけた関連記事は、当時のシルバームーンのマネージャーだったアルフレッド・マッカラー氏がポーキーズに出演した時にエルヴィスに会ったという短い供述と、ポーキーズのオーナーがエルヴィスに送ったアドバイスのみ。まずアルフレッド氏のエルヴィス評は以下の通り。

「ポーキーズは多くの場合は地元のバンドがダンスのために演奏しているだけでしたが、時々ビッグネームがやって来ることもありました。エルビスについては名前は聞いてましたが会ったことがありませんでした。 ポーキーズ出演の夜はチケットは完全に売り切れ状態でして、エルヴィスはとても素敵なキッズだなと思いましたよ」

 あのなあ~って内容のコメントじゃが(笑)、やっぱり目上の者のエルヴィスの心象自体は悪くないんじゃな~。次にオーナーのポーキー・セラーズがエルヴィスに送ったというアドバイス。

「君は素晴らしい声を持っているね。それを活かして業界で大成功するためには、“アクションをクリーンにした方がいい/ You better clean up your act”」。

 ライブ詳細記事も写真も見つからなかったが、エルヴィスが出演した当日にライブスペースに置かれていたピアノが「ロックンロール・ハイウェイ67・ミュージアム」に展示されておる事実が発覚。(右写真)
 このピアノは専門の検察官の入念な鑑定と、当時このクラブに出演していたソニー・バージェスの証言によって、間違いなく1955年3月2日当時にポーキーズで使用されていたピアノであることが正式認定された。エルヴィスが当日に弾いたか、否かは不明。

 現在ポーキーズ跡地には車輛部品販売店が建てられておるが、KNBY / KOKRラジオ局の建物は史跡として当時のまま残されておる(下左写真)
 スコッティ・ム―ア・サイトの調査団によると、2008年時点では車輛部品販売店の敷地内にはポーキーズ営業当時の立て看板用支柱の土台残骸があるという。ストリートビューで確認すると、2016年6月撮影時点でもその残骸は見ることが出来る。(下中央、右写真)
■Google-map上の位置■



Point-7 ロックンロール・ハイウェイ67南側始点/ブラッドフォード
 ロックンロール・ハイウェイ67を北側始点コーニングから南下しながらエルヴィスゆかりのポイントをご紹介してきたが、コーニング側から見ればハイウェイの終点にあたる南側の始点がブラッドフォードという地域にある下写真の地点。ストリートビューを南側から見みると、この地点で初めてハイウェイ67上で「ロックンロール・ハイウェイ67」の表示が出てくる。

 御覧の通り、北側始点コーニング同様に何の変哲もないド田舎の高速道路であり、標識も何もないのがまったく不可解。
 わしのストリートビューのチェックが甘いのかもしれんので、「ロックンロール・ハイウェイ67とか名乗っておいて、標識ひとつ設置しない怠慢ぶりは何事じゃ!」ってダイナマイト・シャウトをかますのは今のところ控えておこう。
 時間の許す限り、ブラッドフォードをはじめとした周辺の街を調べてみたが、ロックンロール・ハイウェイ67の始点とされるべき要素はどうしても見つからないので、とりあえずこのPoint-7に関しては今回はかる~くスルーさせて頂くので悪しからず。
Google-map上の位置


まるで旅芸人!サンレコード三羽烏が人口311人の村のお祭りに呼ばれちゃった!
Point-8 ボノ・ハイスクール跡地/ボノ
 ここで「ロックンロール・ハイウェイ67」から外れて、アーカンソー州内の別の場所にあるエルヴィスゆかりの地もご案内しよう。
 Point-3キング・オブ・クラブスの場所から北東約30キロにあるボノという小さな小さな街、ここにあったボノ・ハイスクール・ジムナジウム(体育館)へ1955年9月6日にエルヴィスご一行がやって来た。しかも、ジョニー・キャッシュ、カール・パーキンスとの共演である!
 エルヴィスのアーカンソー州でのライブ記録を闇雲にネットチェックしていると、「観客が多過ぎて会場の床板が壊れた」という記事がかなりの頻度でヒットする。その会場こそボノ・ハイスクール・ジムナジウムだった。

 Google-mapをそれなりに拡大しないと表示されてこないボノ。サンレコードのサイトによると、当時の人口はたったの311人!そこへエルヴィス、ジョニー、カールのサンレコード三羽烏が集まったって、彼らはまるでド田舎の村祭りに呼ばれた旅芸人同然ではないか!三羽烏を観るために周辺の街から1,152人が体育館に集まったんだそうじゃ!
 人口311人って、ひとケタ足りないサンレコードの誤記だろうと調べてみると、wikipediaには1950年の人口が352人とされておるんで、間違いなさそう!しかも会場の床板が壊れる事態を伴ったこんな希少で重大なライブ記録が何故かスコッティ・ムーアのサイトでは詳細の記載が無い・・・。写真や新聞記事をネットで探したが、たったの1枚のみ。(上写真、バックステージでの撮影)ここもやはり後の現地調査が必要な場所じゃわい!

 このコンサートは学校側が修学旅行の資金を調達するために企画されたようで、収益の一部によって無事旅行は出来たそうじゃ!ライブ当日の詳細はサンレコードのサイトのみネットに公開されておるが、これが結構おもしろい。ハイスクールの小さな駐車場から溢れ出た車の群れは約300メートル離れた大通り沿いまで続き、キャデラックで到着したエルヴィスは駐車できるスペースを探すのに苦労したそうじゃ。
 またエルヴィスは当日履いていた黒のペグパンツが「サイズが大き過ぎて動きづらいよ」と観客に向かってジョークを飛ばし、「え~うそ~パンツ脱いじゃうの~」って女の子たちがキャーキャー大騒ぎしたとか(笑)、カールの履いていたブルースゥエード・シューズが(バックステージで?)ファンに踏まれてカールが歌詞同様の台詞を返したとか!肝心のライブ演奏に関しては、床板が壊れたぐらいだから当然ヒートアップしたことじゃろう!

 ハイスクールのあった跡地を住所を頼りに2015年6月に撮影されたストリートビューで見てみると(右写真)、校舎は完全に無くなっており、エルヴィスらが演奏した細長い体育館の方は残されておる。
■Google-map上の位置■


 ブルームーンボーイズ初のラジオ出演ライブは何処だったのか?
Point-9 KWEMラジオステーション/ウェストメンフィス
う一ヶ所、「ロックンロール・ハイウェイ67」上からは外れているポイントをご案内するぞ。ミシシッピー川を挟んでメンフィスの街の西側、アーカンソー州ウエストメンフィスにあるKWEMラジオステーションじゃ。(1959年にKWAMに改称)サンレコードからデビュー直後の1954年8月1日、エルヴィスとブルームーンボーイズはこのラジオ局放送のカントリーミュージック番組用のライブを行ったとされておる。これが真実であるとすれば、ブルームーンボーイズが初めてテネシー州外に遠征した記念すべきライブじゃ。しかし困ったことに、この日のラジオ番組用の演奏場所については、下記の通り3つの説があるのじゃ。

①ウェストメンフィスにあったKWEMラジオステーションは、エルヴィスのデビュー前にウェストメンフィスからメンフィスへ移転していて(右写真左側)、そもそもブルームーンボーイズはウェストメンフィスには行っていないという説。メンフィスのKWEAM主催番組に出演したとすれば、会場は何処なのか、現時点で不明。
②ウェストメンフィスのラジオステーションの近くにはエイボン・シアターという劇場があり、ブルームーンボーイズはここで演奏をしたという説。(上写真右側)
③ブルームーンボーイズがウェストメンフィスで演奏したのは②のエイボン・シアターではなく、P&Gという中古車販売店所有の駐車場だったという説。
以上3つの説にはどれも決定的な確証が今のところ掴めなかった。

上記①の真偽に関しては、KWEMラジオステーションはメンフィス移転後もウェストメンフィスの方も同時に稼働していたという説もあるので?じゃ。
②はエルヴィスが演奏した写真まで掲載しているサイトがあるが(左写真、左側)、その写真はどう見てもデビュー直後のエルヴィスではないのでやはり?じゃ。
③はライブ広告の写真を見つけたが、文字の書体が現代風であって後ほど偽造された広告写真っぽくもあり、これもまた?じゃ。(左写真右側)

計な調査などをせずに普通に判断すれば「地元メンフィスの①だろう」となるが、演奏場所が不明なのじゃ。現在の調査段階では、とりあえずウエストメンフィスのKWEMラジオステーション提供の②か③か、どちらかの可能性が高い。
 当時のウェストメンフィスは数多くのナイトクラブが軒を連ねる「南のラスベガス」と呼ばれたほど賑わっており、ここに演奏にやって来るカントリーやブルースのミュージシャンは後を絶たなかったほどじゃ。またKWEMラジオステーションは、夜間ライブの前にミュージシャンたちが訪ねては“電波攻撃”を依頼していたほど業界では名の知れた存在だったのじゃ。
 更にエルヴィスはサンレコードからデビューする以前よりKWEMの「サタデーナイトジャンボリー」なる番組に何度も出演しておった。エルヴィスと同じローダーデール・コーツ(プレスリー一家が長らく住んでいたアパート)に住んでいたビル・ブラック、また既にギタリストとして最初のキャリアをスタートさせていたスコッティ・ムーアも同番組に出演した経緯があり、ブルームーンボーイズの3人がエルヴィスのデビュー後にあらためてウェストメンフィスまで出演に出向くことはむしろ必然じゃろう。

 試しにローダーデール・コーツからメンフィス・アーカンソー・ブリッジを通ってミシシッピー川を渡るルートでウェストメンフィスのKWEMラジオ・ステーションまでの距離を測定してみたら、わずか20キロほど。楽に行き来が出来る距離じゃ。(右写真は、1940年代当時のメンフィス~ウェストメンフィス間の木造陸橋上の道路)
 仮に1954年8月1日に出演しなかったとしても、若きエルヴィスは間違いなくウェストメンフィスのKWEMラジオ・ステーションとは繋がっておったということじゃ。
 なお、スコッティ・ムーアのサイトでは、ツアースケジュール内にラジオ・ステーション名の記載があるのみ。(詳細無し)サン・レコードでは“ウェストメンフィスに遠征した可能性あり”という記述に留まっておる。
■Google-map上の位置■

【参考】
 ウェストメンフィスのKWEMラジオステーションに関して、更に調査を混乱させる事態を発見してしもうた。同ステーションは2015年にインターネットストリーミング・ステーションとして、かつての場所に復活!「ブルースやロックンロール隆盛の為のポイント」としてステーション内は華々しくコーディネイトされておる。
 正面入口近くには、KWEMラジオ局の略歴が印された標識も設置されておった。
 しかしストリートビューで標識を拡大表示できる2018年6月撮影の写真では、この標識の部分が白く塗り潰されておるのじゃ。(右写真)「エルヴィスが訪れた事実」は記されておったものの詳細の表記は無かったが、何か重大な表記ミスの指摘があったのじゃろうか?


頭でお断りした通り、アーカンソー州のエルヴィス関連のネット情報は基本情報ですら曖昧で、まつわるエピソードも真実なのか伝説なのかはっきりしないものが多い。ということは、今まで世界中の「自称エルヴィス探検者」たちはアーカンソー州の調査を徹底していなかったということじゃろう。もしくは謎が多くて挫折した者が多かったということじゃろうな。探検者、またファンにはとっては、アーカンソー州は未だにミステリアスなゾーンということじゃ。
 アーカンソー州はミシシッピー川を挟んでメンフィスの西隣に位置していることもあり、今後メンフィス調査の途中で新しい情報を得られる可能性が高いと期待しておるので、いつの日かあらためてアーカンソー州に切り込んでみたいと思っておりまする!

 しっかしロックンロール・ハイウェイ67の基本情報の少なさ、各サイトの曖昧さには参ったわい!たかが南北の正確なスタート地点を知りたかっただけなのに、ついには2010年1月20日記録の「アーカンソー州高速道路委員会議事録」まで読まされる羽目になった!全460ページ内の190ページ目にやっとある程度納得出来る記述が見つかったものの、それでも公式議事録でさえ記述の仕方が大雑把なのでガックシ・・・。
「議事録でさえ正確な記述がないって、アメリカ南部の土地柄がもたらす、ある種ユルイ習慣の結果なのか?」って感じたわい。まあこんなモンに目を通して深夜に一人で喜んだり、考え込んだりしておる大馬鹿野郎は、ただいま世界中でわしだけなんじゃろうなあ(笑)でも多少なりとも諸君が「ロックンロール・ハイウェイ67」に興味を示してくれればそれでわしは満足じゃ!
 引き続きアーカンソー調査を続行中なので、次回は「後編」といきたい。あらためて皆様のご参加をお待ちしておりやす!


【付録】 バーチャル・ロックンロール・ツアーGoogleマイマップ「アーカンソー州前編」

下地図の内容をここでは気にされる事なく、

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当ページでご紹介してきた全Pointが再度、通し番号入り赤マーク(各番号はPoint番号と同じ)で表示されます。
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      ※詳しい操作方法は、地図下の赤いバナー「3回クリックで~」にてご確認下さい。 

                                       
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