
| アップロード:2025年10月23日 |
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テキサス州の西側、ニューメキシコ州との国境近くの街オデッサにおいて、エルヴィスはハンク・スノウ音楽一座の一員として4回(もしくは5回)ライブを行っておる。うち3回(もしくは4回)はオデッサ・シニア・ハイスクール・フィールドハウスが会場じゃった。「バーチャル~テキサス州2024年後編」において“オデッサ・ハイスクール~”としてご案内済じゃが、当時は「ハイスクールとシニア・ハイスクールが同一なのか否か」がいまひとつ解明出来ておらんかったが、この度の再調査で同一であることが分かり(シニア・ハイスクールが正式名称)、また少々あらたな付属資料と写真が見つかったので再掲載、再案内するぞ。この会場におけるエルヴィスのライブは、最初は1955年1月4日という説が存在するが、この日はSMWでは不確実情報とされており、EDDには記載無し。事実を証明する証拠資料が未だ発見されていない。その後、1955年2月16日、5月31日、10月14日には確かに行われた。5月31日は隣町ミッドランドと併せて夜2回のライブじゃ。(左写真は2月16日の新聞広告) ライブ写真はネット上には未だに無いが、新しいテキストデータとしては、まず当時オデッサの大学に通学しながらシンガーとしてのデビューを目論んでおったロイ・オービソンがエルヴィスのライブを見た時の証言が短いながらも見つかった。(2024年度編の調査では、わしが見落としていただけだったようじゃ。失礼した!)「エルヴィスのシンガーとしての本能的なエネルギーは衝撃的だった」 この情報に関しては掲載サイトによってライブの日付が異なっており、オービソン・マニアによると「ロイはオデッサの前にもエルヴィスを見ているはずだ!」とのこと。 またEDDによると、1955年2月16日のライブはルイジアナ・ヘイライド出演時のサポートメンバーであるフロイド・クレイマー(ピアニスト)が参加しており、観客数は約850人。一部の資料では4,000人という記録も残されておるが、4,000人という数字はちょっと怪しいかも!?右写真は1940年代のオデッサ・シニア・ハイスクールのイヤーブック(卒業アルバム)内の学内写真。どの建物がフィールドハウスに該当するのかは不明。 右写真左側は、1955年5月31日のダブル・ライブ、午後7時半スタートのミッドランドでのエルヴィス。その後ハンク・スノウ一座とともにエルヴィスはオデッサに移動した。右写真右側は、ロイ・オービソンがエルヴィスのライブを見た1955年に結成したボーカル・グループ、ティーン・キングス。 既にオデッサのTV番組に出演するようになっていたロイ・オービソンは、亡くなる前に「テレビ出演の際にエルヴィスと共演したことがある」と語ったとされておるが、エルヴィス・マニア側からの見解によると、「エルヴィス単独、およびブルームーンボーイズがロイ・オービソンと一緒にテレビ出演したことはない」としておる。スコッティ・ムーアも生前にこの噂に関しては否定しておったことがSMWに記載されておる。
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若きキングと成熟したキング両者の声を吸収した現存するライブ会場![]() ![]() 1955年に合計4回行われたオデッサ・ライブの内、4月1日のみこちらピース・エクター・カントリー・オーディトリアム(左写真)で行われておる。1954年にオープンしたこの会場の収容人員数は5,000人。当時のヤング・エルヴィスの集客力からするとデカ過ぎじゃ。 またこの会場では1976年5月30日に21年ぶりにエルヴィスのライブが行われており、この時はキング・エルヴィスの集客力からすれば逆に小さ過ぎじゃな(笑)当日は昼夜2回のライブであり、2回とも大入り満員で合計1万人以上の観客が集まった。1976年には会場名はエクター・カントリー・コロシアムと改称されておった。(左写真は1955年の新聞広告) 1955年、1976年ともにライブの詳細はネット上では見当たらないのが実に不思議じゃ。エルヴィス史上において、21年という時を隔てて同じ会場でライブが行われ、しかも会場自体が現存しておる例は少ないのに“思い出のキング・ライブ”的ショート・コラムすらお目にかかれない。来たる2026年は1976年から50年目に当たるので、オデッサでのキングの知られざる軌跡に光が当てられることに期待したい。 なお1976年5月30日にエルヴィスが宿泊したホテルで隠し撮りされた写真は、「バーチャル~テキサス州2025年補遺編 Area No.70」にて ご紹介しておるのであらためて御覧頂きたい。(下写真は1976年のライブ撮影。左側、中央がナイトショー、右側はマチネーの撮影。)
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![]() ゲーンズビルはテキサス州第3の大都市ダラスの北約100キロに位置する小さな街。アウル・パークは、かつてゲーンズビルを本拠地にしておったマイナーリーグ球団アウルズ所有の野球場である。(左写真)上記エクター・カントリー・コロシアムでのライブの二週間後、1955年4月14日にエルヴィスはゲーンズビルにやって来た。この時の記録は新聞広告(右写真))以外では、わずかにwikipediaのアウル・パーク記述の中で、“有名になる前のエルヴィス・プレスリーがライブを行い、わずか150人の観客の前で演奏した”とされておる。 EDDにはこの日のライブに関して次の様な短い記載があるので転載しておこう。 「ゲインズビルではほとんど知られていないエルヴィスは、ほんの一握りの観客しか集められなかった。彼は観客の少なさに動揺しているように見えたが、戻ってきて埋め合わせをすると誓った。結局、彼は戻ってこなかった。」 この時期、既にダラスやヒューストといったテキサス州の大都市ではそこそこの数の観客を集め始めていたエルヴィスだったが、まだインターネットもなく情報の伝達スピードが遅いこの時代では、大都市から100キロ離れた田舎町には大都会のニュースにも影響力が薄かったのじゃ。 ていたメジャー・リーグのカブスと同じシカゴへ移転した。アウルズがゲーンズビルを去った後も球場はそのまま残され、2015年に取り壊される時点では、存続していた最古のマイナーリーグ使用球場のひとつとされておった。上写真は、恐らく取り壊される直前の撮影と思われる。現在跡地にはアパートが建てられておる。 右写真ストリートビュー2023年5月撮影。左上Google-mapマークをクリックしてストリートビューで確認すると、2008年当時球場の残骸の写真が見られるが、この位置から東に少しずれた場所でストリートビューでは、2023年5月時点での右写真の様子が見られる。 |
閑古鳥ライブの翌日は、めげずに310キロ移動してダブル・ライブ!
![]() 観客数わずか150だった上記ゲーンズビル・アウル・パークでのライブの翌日、エルヴィス一行は西へ約310キロ離れたスタンフォードという街で、一晩2ライブをこなしておる。スタンフォードは1900年代初頭に2つの鉄道の始発点となったことで周辺地域との間で人的交流が盛んになり、1907年にはスタンフォード大学も設立された。その後鉄道路線は廃止され、大学も閉鎖されて大きな発展を迎えることがなく今日に至っておる。wikipediaの人口推移表によると、エルヴィスがやってきた1955年(50年代中期)あたりが歴代でもっとも人口が多かったが、それでも約5,000人ほどじゃ。左写真は、ハイスクール・オーディトリアムとランドアップ・ホールのダブルライブの新聞広告。 1955年4月15日、エルヴィスはまず午後7時からスタンフォード・ハイスクール・オーディトリアムに登場した。(右上写真)この学校のシンボル・ペットマークはブルドッグであり、野球、フットボール、バスケ等のスポーツチームのニックネームはすべてブルドッグス。“ハウンドドッグ”が発表された後のライブだったら、エルヴィスは替え歌 にして拍手喝采だったかも!?って、ライブ情報が無いのでショーモナイ空想に耽ってしまった(笑)************************************************************************************* スタンフォード・ハイスクールのライブ終了後、エルヴィス一行は西へ約3キロほど離れたラウンドアップ・ホールに移動して午後9時からライブをスタート。 ラウンドアップホールは、スタンフォードの街はずれの大平野地帯に造られた1930年から現在も続いておる「テキサス・カウボーイ・リユニオン(通称TCR)」敷地内南西角地にあるダンス・イベントホール。残念ながら当時の写真は見つからなかったので、TCRのFacebookに掲載されておる現在の写真を転載しておこう。(下写真3枚)
TCRとは、テキサス・カウボーイの歴史に敬意を表して設立されたカウボーイ愛好家たちの組織であり、ロデオや乗馬等のカウボーイ・イベントが現在も開催されておるようじゃ。上写真が掲載されたFacebookのトップページには「エルヴィス・プレスリーがかつてここで演奏した!」と表記されておる。エルヴィスは1955年6月17日にもラウンドアップ・ホールで再度ライブを行っておる。 上写真右側はストリートビュー2013年3月撮影によるラウンドアップ・ホール。廃墟の様に写ってはおるが現在も稼働中。上記Facebookには2024年4月28日アップの短いプロモ・ビデオもアップされておる。 |
深夜720キロ移動&4時間出演!翌日は500キロ移動&三ヶ所でトリプル・ヘッダー!! コーパス・クリスティーは、テキサス州の南端に近い、メキシコ湾岸の街であり、住所上のコーパス・クリスティーは湾岸から内陸(南北)に向けて約170キロ、東西は最大約17キロの細長い地域が該当する。エルヴィスは1956年4月16日にコーパス・クリスティーのメモリアル・オーディトリアムでライブを行ってちょっとした騒動に巻き込まれておる。(「バーチャル~テキサス州2024年中編」Area No.56参照)その前年1955年7月3日には同地のホウダウン・クラブでライブを行っておる。 ホウダウン・クラブに関する情報はほとんどネット上にアップされておらんが、当日のライブ情報は少々ネット上で散見出来る。まず、前夜がルイジアナ・ヘイライド出演であり、ルイジアナ州シュリーブポートから西へ約700キロも離れたコーパス・クリスティーにエルヴィス一行は弾丸移動して、しかも広告によるとライブ開催時間は午後4時から8時まで!共演者の記載がないので、ブルームンボーイズ単独出演だったのであれば3ステージはこなしたことになる。(広告に記載されていない地元のミュージシャンも出演したという説有り!)前日深夜に車で長距離移動をして、コ ーパス・クリスティーで少々仮眠でもとった後に3ステージとは凄まじいハードスケジュールじゃ。さらに翌日は1日で別々の三ヶ所でライブというトリプルヘッダー!(下記Area No.77参照)若さとは時たま驚異的なエネルギーを発揮するもんじゃし、7月2日にキャッシュボックスのカントリーミュージック担当DJから「注目の男性シンガーNo.1」に選ばれてエルヴィスはご機嫌だったにしてもヤバ過ぎるテンションだったんじゃな! またこの日は、長時間出演をこなすために少なくとも通常のセットリストには無い2曲をエルヴィスは歌った。テッド・ダフィンズ・テキサンズの「Born to lose」とレイ・チャールズの「Mess arounds」じゃ。 既にエルヴィスのボディーガードとして同行していたレッド・ウェストによると、(恐らくこの日)エルヴィスは会場で“リズムを刻むだけでもいいから”と地元のミュージシャンの中からドラムを叩ける人物を臨時参加させたそうじゃ。
上写真はコーパス・クリスティー地元のブロガーの記述をもとに、HACで跡地を検索した結果の1956年の空撮写真。ブログには“ウエーバーロードとエーバーハート・ロードの間のサウス・パドレ・アイランド・ドライブ沿い”、“現在跡地は家具店の入ったショッピングモール”とされておる。HAC空撮写真とGoogle-mapとを参照した結果、ホウダウン・クラブは上写真赤丸部分に写り込んだ建物の可能性が高い。なお新聞の広告内に表記された住所4320 Lexington Ave.は現在消滅しておる。上写真右側ストリートビュー2023年3月撮影。
ステーブンビルのシティ・レクリエーション・ホール(左写真下段)でのスタート時間は午前10時とされておるので、エルヴィス一行は前夜のうちにコーパス・クリステーを出発しておるはずじゃ!ルイジアナ州シュリーブポートを発った前々日の夜から約1日半の間に約1,200キロの移動をこなしながらの超ハードスケジュール! ステーブンビルからデ・レオン経由のブラウンウッドビルまでは約90キロの距離なのでこの移動はさほど大変ではなさそうじゃが、とにかくエルヴィスご一行様、大変にお疲れ様でございましたとしか言いようがない!(※デ・レオンのライブは「バーチャル~テキサス州2024年中編 Area No.55」、ブラウンウッドビルは「テキサス州2024年補遺編 Area No.69」でご案内済じゃ。) このトリプル・ヘッダー・ライブに関しては詳しい資料はネット上には少ないので、当日の状況は全て憶測の域を出ないが、気になるのはハードスケジュールの中でのエルヴィスの体調じゃ。トリプルヘッダー・ライブの真ん中、デ・レオンでのエルヴィスの様子をとらえた写真は存在するので、「バーチャル~」では再掲載じゃが今一度確認してみてくれ~。(下写真3枚)
の古いモノクロ写真と比べても、外見にほとんど変化がないまま建物が現存しておるようじゃ。なおシティ・パーク運営のFacebookでは、この場所でエルヴィスがライブを行ったことを伝えており、「その時の写真をお持ちの方は是非ご連絡下さい。歴史的な人物に敬意を表したいと思います」とコメントされておる。右写真ストリートビュー2018年12月撮影。周囲は美しい緑で覆われた公園なので、エルヴィスが木々を背景にした上写真3枚は実はステーブンビルでのショットではないか?と勘繰りたくもなる! |
「ついに、“あの野郎”が出てきやがったんだ」byボブ・ルーマン![]() キルゴアはダラスの真東200キロにあり、お隣りのルイジアナ州との国境まで100キロ、国境を更に真東へ20キロ行くとルイジアナ・ヘイライドの本拠地シュリーブポートへ至る。エルヴィスは1955年5月20日にキルゴアのKOCAラジオステーションに出演しておる。(「バーチャル~テキサス州2024年補遺編」Area No.67参照)その約三ヶ月後の8月12日キルゴアを再訪し、当地のベースボール・パークであるドリラー・パーク(上写真)でライブを行った。当時キルゴアの高校生だった後のカントリー/ロカビリー界のスター、ボブ・ルーマンがこの日をライブを観た時の供述がEDDに掲載されておる。 「ついに、あの野郎(This cat)が出てきやがったんだ!」と、後にカントリー界のスターとなるボブ・ルーマンは後年回想している。「赤いズボンと緑のコート、ピンクのシャツと靴下を身につけ、顔には冷笑の表情を浮かべ、マイクの前に5分くらい立っていたと思うが、その後、彼はアクションを起こしたんだ。」それから少女たちが叫び始め、当時高校生だったルーマンは背筋に電流が走るのを感じた。自分の人生の進路が決まったことを悟ったのだ。 ボブ・ルーマンは“生”エルヴィスの登場に衝撃を受けたようじゃが、しっかりとステージ衣装を覚えておるのはさすが(笑)お蔭で(ボブ・ルーマンの記憶が正しいとすれば)ネットにアップされていた唯一の“キルゴアのエルヴィス”(とされる)写真データが間違いであることが分かった! 右写真2枚はGoogle-mapに投稿された2018年5月撮影されたもの。右写真左側は、ドリラーパークの略歴が刻されたメモリアル・プレート。第二次世界大戦終了後、帰還したプレーヤーたちがこの球場に集まり、スタンドはキャパいっぱの3,000人の観衆で埋まったことが紹介されておる。残念ながらエルヴィスがライブを行ったことに関しては触れられておらんかった(笑) |
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