NANATETSU ROCK FIREBALL COLUMN Vol.468


第87回 エルヴィスゆかりの地~オハイオ州2025年後編

アップロード:2025年10月9日
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2025年オハイオ州後編は、70年代に数々の名演を残したライブ会場を中心にツアーのご案内をしよう!ライブの回数やファンの盲目的な熱狂ぶりを基準にして、「我が州はエルヴィス・ファンにとってサイコーの記録がある!」とアピールしている州が幾つか見受けられるが、70年代のライブ・クオリティにおいてはオハイオ州がNo.1だったのでは?と思わせるだけの絶賛ライブ・レビューが数多く残されておる。この州にはロックの殿堂があるが、案外エルヴィスとの相性の良さが熾烈を極めた殿堂誘致合戦を征した最重要ポイントだったのでは?って妄想を駆り立てられるほどじゃ!出来るだけライブレビューを転載しておるんで、どうか余すことなく読んでみてほしい!

【目次】バーチャル・ロックンロールツアー エルヴィスゆかりの地
    第87回オハイオ州2025年後編

 ・Area No.は2023年度編からのオハイオ州内の番号
 ・Serial No.は「バーチャル・ロックンロールツアー」第1回からの通し番号です。

 Area No.19/Serial No.616  シンシナティ・ガーデンズ跡地/シンシナティ
 Area No.20/Serial No.617 リバーフロント・コロシアム/シンシナティ
 Area No.21/Serial No.618  リッチフィールド・コロシアム跡地/リッチフィールド

 Area No.22/Serial No.619 センテニアル・ホール/トリード
 Area No.23/Serial No.620 シェラトン・ウエストゲイト・ホテル跡地/トレド
 Area No.24/Serial No.621  ロックンロール・ホール・オブ・フェイム/クリーブランド

【バーチャル・ロックンロール・ツアーのバックナンバー】

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★ 本文中の表記について ★

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SMW=スコッティ・ムーアのウェブサイト
EDD=「Elvis Day By Day」 (エルヴィス・デイリー記録集)
EPC=エルヴィス・プレスリー・イン・コンサート(ウェブサイト)
HAC=ヒストリック・アエリアルス(アメリカの空撮サイト)


 名ライブ・レビューが伝える、シンシナティ奇跡の二夜
Area No.19/Serial No.616 シンシナティ・ガーデンズ跡地/シンシナティ
 オハイオ州シンシナティは、州都コロンバス、クリーブランドに次ぐ同州人口第3位の大都市じゃ。南側のケンタッキー州との州境にあり、西側のインディアナ州の州境までも僅か20数キロであり、このお隣2つの州との人的交流が盛んな立地ゆえに、オハイオ州内ではもっとも文化的に栄えた都市であるとwikipediaに記載されておる。

 50年代にはシンシナティにやって来なかったエルヴィスは、70年代に入ると1971年11月11日、1973年6月27日、1976年3月21日、そして亡くなる約50日前の1977年6月25日の4度ライブを行っておる。
 1971年、1973年のライブ会場はいずれもシンシナティ・ガーデンズ(上写真)であり、1924年の開場当時は全米で第7位の収容人員数約12,000人を誇っておった。そのパーセンテージは不明じゃが、建物の資材はレンガと石灰岩というフレコミじゃったらしいが、コンクリートを使用しないでエルヴィスのライブの熱狂に耐えられたのかと余計な心配をしたくなった!というのも、2回のライブはいずれも大絶賛されたライブ・レビューが残っておるからじゃ。音響設備のクオリティーが低い会場じゃったらしいが、「大観衆は熱狂するばかりで、音楽は聞いていなかったから音響設備の悪さも関係なかった」とされておるぐらいじゃ!
 まず71年のライブレビューから。(上ライブ写真はいずれも71年の撮影)
エルヴィスの夜は、キング・エルヴィスに圧倒されるために13,000人以上の観客がホールを埋め尽くし、彼らを引き裂き引き裂き、地獄に落とすエルヴィスの夜だった。彼のバックには約20人のオーケストラと、同規模のコーラスがいた。しかし、ほとんどの人はそれに気づかず、エルヴィスと彼のギターしか見えなかった。」

「黒いベルと、至るところに金色のスパンコールをあしらったケープをまとったエルヴィスは、当時と現在が奇妙に融合したショーを披露した。彼は、最近のヒット曲と昔の素晴らしい曲の両方を歌っており、とても今風で、ちょっと変わったヒッピーのよう。彼の歌声は、誰にとっても間違いなく魅力的だ。」

「ガーデンズの悪名高い音響システムでさえ、何の害も与えなかった。それは彼に何の恩恵も与えなかったが、彼はリージェンシー時代の放蕩者のように、見た目も音も素晴らしかった。エルヴィスがパフォーマンスを始めた頃と同じく、回転する骨盤は重要なアイテムであり、相変わらずワイルドで制御不能!ワイルドな骨盤を守るために、ステージ前には警官隊が配置されていた。これほどの素晴らしい熱狂は、今まで見たことがない!!」

 お次は73年のライブ・レビューじゃ。(上写真3枚、左写真は73年撮影)

「エルヴィスは、中年女性、丸い目をした10代の若者たちの悲鳴、男性エスコートの困惑したが夢見るような笑顔の中、“CC ライダー”を大声で歌った。幅4インチの白いベルトは、熟れたお腹をかろうじて隠している。夢を見ているようだ・・・でも 私のカレンダーには1973年と書いてある。
 昨夜、プレスリー・ペルヴィスは現実のタイムマシンを動かした。観衆は50年代にかぶりつき、まるで誰かが解凍しようと考えた20年間冷凍庫に放置されたバナナスプリットのように飲み込んだ。セーラー服を着た少年の笑顔はそのままだった。視線や身振りで心を萎縮させる生々しく破壊的なセックスもそのままだった。」

「50年代リバイバルは、最初は面白くて良いこととして始まった。なぜなら、どこに向かっているのかを知るには過去を振り返る必要があるから。しかし、それは止まらなかった。それは熱狂的な執着となったのだ。ニューヨークのあるラジオ局は1955年以降の番組を一切放送しなかったが、歴史上どの局よりも多くの広告費を獲得したと言われている。」

「ロックは高い山道を盲目的に疾走していたが、突然深い溝に突き当たり、その橋を渡ることができない。ロックに乗っていた人々の半分はカントリー ミュージックに戻っていた。残りの半分は崖からハートブレイク ホテルへとまっさかさまに突進しており、どうも動こうとしていないようだ。」

「アメリカン・ヘリテージ・ディクショナリーでは、「キャンプ」を「風変わりで下品、または陳腐だと一般に考えられているマナーや趣味に対する気取りや評価」と定義している。あるいは、「ユーモアとして評価される陳腐さや不自然さ」とも言える。私にとって、それはエルビス プレスリーだ。それ以上でもそれ以下でもない!」


「エルヴィス絶賛ライブ・レビュー」は数あれど、その中でもわしにとっては表現力において“ベスト5に入る”ほど、2本とも名レビューじゃ~。エルヴィスの音楽やアメリカの文化が骨肉化しておる人種にしか、こんなレビューは書けない!

シンシナティ・ガーデンズはシンシナティの中心地から北へ約10キロほど離れた郊外にあった。2018年に取り壊されて、跡地は2023年8月時点で整地されたままになっておる。右写真はストリートビュー2023年8月撮影。
 エルヴィス史上に残る名ライブが二度も行われた会場の跡地としてはあまりにも寂しい風景じゃ。かと言って、早く商業ビルでも何でもいいから何か建ってくれ、とも言いたくない!?


白亜の殿堂の“ホワイト・エルヴィス”
 Area No.20/Serial No.617 リバーフロント・コロシアム/シンシナティ

 上記シンシナティ・ガーデンズで名ライブを披露したエルヴィスは、会場をリバーフロント・コロシアムに移して1976年、1977年と更に二度オハイオ州シンシナティでのライブをこなした。
 いきなり余談で恐縮じゃが、当時シンシナティに本拠地を置くメジャー・リーグ球団レッズが“ビッグ・レッド・マシン”と呼ばれて70年代最強時代を迎えており、1975年、1976年と連続してワールドシリーズを征しておる。(1978年に来日した時は巨人軍をコテンパにやっつけた!)シンシナティという都市全体がレッズの活躍により異常に盛り上がっていたのがこの頃じゃ。
 そのレッズの本拠地球場がリバーフロント・スタジアムであり、エルヴィスはスタジアムにほぼ隣接して建てられていた屋内競技場リーバーフロント・コロシアムの方に出演した。こちらもホワイティーな美しい外観じゃ。(左写真)
 リバーフロント・スタジアム&コロシアムが建ち並ぶ光景を当時のシンシナティの人たちは「白亜の殿堂エリア」と呼んでおった。“リバーフロント(川の畔)”という名は、両会場の南側を流れるオハイオ川沿岸という意味合いから命名されたらしい。

 コロシアムの外観を意識したわけではないじゃろうが、1976年のライブ(ナイトショー)ではエルヴィスは極力装飾が抑えられた純白のジャンプスーツで登場しておる。(下写真左から3枚。下写真右端はマチネーの別衣装)見方によっては、当時深刻な問題になりつつあった(?)エルヴィスの肥満状態がより目立ってしまうようなジャンプスーツでもあり、残されたライブ・レビューの冒頭も「エルヴィスはこれ以上太ってしまうと唇は顔から押し出されてしまうだろう」という懸念から始まっていた。外見の指摘は仕方がないとして、ライブの方は概ね好調であったようじゃ。

「“アメリカ・イズ・ビューティフル”を歌うだけで観客に悲鳴を上げさせることができるのは、エルヴィス・プレスリーだけである。日曜午後のリバーフロント・コロシアムで彼が“琥珀色の波打つ穀物”について歌うと、満員の17,540人の観客から少女のような叫び声が上がった。」

「次の歌詞に対する観衆の反応はさらに激しいものだった。“果実の茂った平原の上に、紫色の山々の荘厳さを”とプレスリーは歌った。「果実の茂った」に達すると、彼は一瞬、最前列に座っていた女性たちへ視線を落とした。彼はすぐに、エルヴィス特有の冷笑を彼女たちに見せた。女性たちは席から飛び上がった。悲鳴を上げながら、片手をステージに伸ばし、もう片方の手で頭を打ち付けて恍惚とした。スターの座に就いてから20年経っても、プレスリーほどの反応を得るパフォーマーはいない。観客の称賛が決定要因であるなら、彼がロックンロールの王様であるという称号に疑問の余地はないだろう。」


「プレスリーが聴衆に音楽的に与えたものは、ほとんどが思い出だった。彼は全体的に無関心な様子で、「バーニング・ラヴ」では歌詞を忘れてしまった。彼は眉をほんの少し上げるだけで観客が悲鳴をあげるのを楽しんでいるようだった。
 コンサートの最初の 3曲でアコースティック ギターを弾いただけであり、音楽史に革命を起こしたエレキギターという楽器にさえ触れなかった。彼の体重や曖昧な表現についてのジョークにもかかわらず、プレスリーは歌をうまく表現する能力がある。彼の「ディス・タイム・ユー・ゲイブ・ミー・ア・マウンテン」と新しいシングル「ハート」の演奏は、コンサートの終わりに起こったような出来事によって悲劇的に覆い隠されがちな力強い声と幅広い音域を明らかにした。」


 上写真は、ライブ終了後に76年当時のガールフレンドのリンダ・トンプソンと一緒に車でリバーフロント・コロシアムを後にするエルヴィス。

 そして1977年6月25日、エルヴィスの生涯で最後から2番目のライブ(左写真)じゃが、残されたレビューでは最悪だったとされておるので多くは紹介せんぞ・・・。
 まだエルヴィス存命中にもかかわらず、「キングは死んだ」と題されており、エルヴィス・ファンであるライターさんの悲痛な願いで〆られておった。

「エルヴィス、私たちはあなたを愛しています。でも、もうこんなことはしないで下さい。我々はあなたの葬儀を観に来たのではありません。絶頂期のあなたを思い出したいのです。」

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【追加情報】
 1977年6月25日シンシナティでのエルヴィスには、ドーデモイイかもしれないエピソードが残っておる。これは「バーチャル~オハイオ州2022年後編 Area No.12」でご紹介済じゃが、エルヴィスは当日の昼間、突然宿泊中のネザーランド・ヒルトンをジャージ姿のまま飛び出し、徒歩数分の距離にあったストーファー・インにねぐらをチェンジした!
 ヒルトンのルームエアコンが壊れていた事と、食事が美味しくない事が理由じゃったとか。ヒルトンを飛び出し時をパパラッチに隠し撮りされたエルヴィスは髪の毛もぼさぼさで、顔の表情はかなり不機嫌そうじゃった。
 同伴中のガール・フレンドだったジンジャー・オールデンは近年発表した自伝の中でこの一件について触れており、「エルヴィスは別のホテルをとった後、ヒルトンで待機中だった私にすぐに電話してきて、『ホテルを変えたから早くおいで~』と笑っていました」とのことじゃ。

 かつて白亜の殿堂と呼ばれたリバーフロント・スタジアムとリバー・フロント・コロシアムは現在も稼働中。コロシアムは「ヘリテイジ・バンク・センター」と改称されて、主に地元アイスホッケー、バスケットボールチームの本拠地として利用されておる。右写真ストリートビュー2024年3月、コロシアム東側からオハイオ川に架けられたテイラー・サウス・ゲート橋上からの撮影。写真左端に旧リバーフロント・スタジアム(現グレート・アメリカン・ボール・パーク)も写っておる。


 エルヴィスが不死鳥スーツで熱演した会場跡地は、現在野鳥の天国!
Area No.21/Serial No.618 リッチフィールド・コロシアム跡地/リッチフィールド
 1975年7月10日、18日、1976年10月23日の三度にわたり、オハイオ州リッチフィールドのリッチフィールド・コロシアム(下写真)でエルヴィスはライブを行っておる。
 エルヴィスのライブ記録を追っておる方のために、一応説明しておくが、この3回のライブは多くの私設エルヴィス・サイトで「クリーブランドのクリーブランド・コロシアム」と記されておるが、正確な都市名はリッチフィールドじゃ。
 リッチフィールドとはエリー湖の湖畔、クリーブランドの中心地から30キロほど南下した地域であり、住所もクリーブランドではなくリッチフィールドじゃ。混乱されないようにな!

  「バーチャル~」では、今まで何度もネット上で数多くある70年代のエルヴィスのライブ写真を転載してきたが、ライブ写真からはエルヴィスの好不調が判断しずらいことは既に諸君は理解されておることじゃろう。しかし上写真3枚の1975年7月10日のライブは、写真から連想出来るようにエルヴィスは絶好調だったようじゃ。ライブ・レビューは、まるで「75年最高のクオリティ・ライブ」の様な書かれ方をしておる!まあ御覧あれ!!

「伝説のエルヴィス・プレスリーは昨夜、リッチフィールド・コロシアムに集まった22,000人の熱狂的なファンを圧倒し、人生は本当に40歳から始まるのだということを見せつけた。少なくともエルヴィスにとってはそうだ。」

「確かに、彼の白いスパンコールの付いたジャンプスーツは、今ではサイズが2サイズほど大きくなっている。そして、彼の青黒い髪は少し薄くなり、彼の熱烈なファンでさえ、彼が以前ほど髪を揺らしていないことを認めるだろう。しかし、彼の声はかつてないほど良く響き、それが彼を20年以上にわたってロックンロールの王者にしたのだ。」

「エルヴィスは、ストーカー行為、からかい、おどけ、飛び跳ね、ギターをバトンのように振り回し、汗まみれのスカーフとおそらくもっと汗まみれのキスで女性たちを熱狂させた。しかし、ほとんどの観客は彼の歌を聴きに来ており、彼は彼らを失望させなかった。わずか1時間余りのステージで、彼は21曲を歌い、36枚のスカーフを配り、20人の女性にキスをした。」

「プレスリーの歌唱力は、50 年代に世界を震撼させたときよりも、今日の方がさらに驚異的だ!」

「ライブ終了後アナウンサーが『皆様、エルヴィスは会場を去りました』と言った。いや、エルヴィス・プレスリーのショーに勝るものはないだろうし、おそらく今後もないだろう!」
 8日後の10月18日のライブのレビューは見つからなったが、ライブ写真では10日同様にエルヴィスの表情はいいので、ライブも好調だったと信じておこう!(上写真左から2枚は7月18日撮影。上写真右側は1976年10月26日)
 なお1975年7月10日と18日のジャンプスーツのデザインは対照的じゃが、18日の奇妙な装いのモチーフは“トーテムポール”なんだとか!

 1974年に開場したリッチフィールド・コロシアムは、クリーブランド中心地のどの開場よりも多い収容人員数22,000人を誇る大型会場であり、エルヴィスは3回のライブ全てで満員にしてみせた。
 二つの高速道路のジャンクション付近に建っていたコロシアムは、90年代に入ると都市部からの遠さ、イベント開催時のジャンクション周辺の交通渋滞が深刻な問題となり、1994年に閉鎖、取り壊しとなった。
 跡地は現在空地のままになっておるが、周辺は最近では“野鳥の天国”と化し、バードウォッチャーに人気のポイントとか!(右写真ストリートビュー2024年7月撮影。写真左奥にコロシアムが建っておった。)Google-mapには跡地にHistorical Landmarkの表記がされておる!
 
 余談ではあるが、この会場は映画「ロッキー1」の脚本のベースになったボクシングの試合、モハメッド・アリ対チャック・ウェブナー戦(1975年3月26日)が行われた会場じゃ。挑戦者のウェブナーは“圧倒的不利”の戦況の中で最終ラウンド残り19秒までアリの猛攻に耐え続け、「絶対に諦めない!」という不屈のファイティング・スピリットを「ロッキー」の脚本のテーマを探していたシルベスタ・スタローンに与えたと言われておる。エルヴィスがこの会場に初めて登場する約7ヶ月前じゃ。


細部にエルヴィス出演時の痕跡が残っている現役のライブ会場
Area No.22/Serial No.619 センテニアル・ホール/トリード
 1977年4月21日から5月3日までは、エルヴィス生涯で最後から3番目のツアーが組まれた期間であり、この時は五大湖のひとつエリー湖の南側周辺の州を周回しておった。その中で4月23日に、エルヴィスは1956年11月22日以来20年半ぶりにオハイオ州第4の都市トリードにやって来た。
 20年半前は当地スポーツ・アリーナにおいて、エルヴィスはライブ史上初めてゴールド・ジャケットを着用した。これはバーナード・ランスキー製であり、後のヌーディーズ製のモデルにもなったタイプじゃ。(「バーチャル2023年オハイオ州後編」Area No.6参照」

 1956年のライブが話題性豊富だったためか、1977年のトリードでのライブ(センテニアル・アリーナ~上写真)の情報は、ネット上でほとんど見つからない。ステージ写真のエルヴィスも疲れ切った様子のショットばかり。着用していたジャンプスーツは、1977年のツアーで頻繁に着用されておった通称“エジプト・サンダイヤル”であり、他のライブとの見分けも付きづらくて困ってしまったわい。その代わり!?、ライブステージに上がる直前のショットが3枚ほどネット上で拝めるのでご紹介しておこう。(下写真3枚)
 ステージへ向かうエルヴィスは、淡々と仕事場に行く感じであって、何だか冴えない表情じゃ。ライブレビューが見つからないので実際のライブ・クオリティが分らないが、良い予感はしないショットじゃな。
 アメリカのマニアが撮影した現在のセンテニアル・ホールの動画がyou tubeにアップされており、その動画によるとこのホールはエルヴィスが出演した約40年前と基本的な構造がほとんど変化していないことが紹介されておるので、ほんの一部を動画の静止画で転載しておこう。
 下写真左側は、エルヴィスが出演した当時のアリーナ席からのショット。(動画内に挿入されておった写真)
 下写真中央がマニア撮影の動画(静止画)。上写真、下写真ともに青枠でくくった部分がエルヴィスが控室からアリーナスペースへ抜け出した出入口横の消火器。ケースの色は黒から赤に塗り替えられておるが、消火器のセット位置はまったく変わっていない。
 下写真右側が、控室側から撮影された出入口を扉を開けた時のアリーナの現在の様子。右端に写る階段が、上写真右側でエルヴィスが昇っておる階段であり、ステージへと続く(仮設?)通路に繋がっていたのではないか、と撮影者のマニアさんは説明しておる(ようじゃ)。ライブ情報が無い中で、せめてもの有難い会場情報として転載させて頂こう。
 トリードは何かとエルヴィスと縁浅からぬクリーブランドの西、エリー湖南沿岸を約170キロ移動した位置にあり、トリード大学のキャンパス内に1976年に開場したセンテニアル・ホールは、トリード中心地の西約6キロの位置にある。
 エルヴィス、フランク・シナトラ、ボブ・ディランらビッグ・アーティストたちのライブがセンテニアル・アリーナ開場直後から次々と開催され、メインのスポーツ・イベント開催とともに、オハイオ州内の重要なコンサート会場として現在でも稼働中じゃ。現在の名称はサベージ・アリーナ。右写真右側はストリートビュー2023年6月撮影。


56年エルヴィス初の“ゴールドジャケットのライブ地”も、77年の宿泊ホテルはひっそりと閉鎖
Area No.23/Serial No.620 シェラトン・ウェストゲイト・ホテル跡地/トリード
 上記センテニアル・アリーナでのライブ当夜、エルヴィスが宿泊したホテル。1977年当時の名称が「シェラトン・ウエストゲート・ホテル」もしくは「シェラトン・ウエストゲート・モーターイン」。その後2020年に取り壊される前までは「シェラトン・ウエストモア」だった。
 このホテルに関する情報は現在ネット上にほとんどなく、営業期間中の写真すら無い。左写真は閉鎖直前にアメリカのマニアが撮影した貴重な動画の静止画。マニアさんに言わせると、このホテルの優れた点は、エルヴィスらスーパースターが身を隠して出入りしやすい従業員用の通用口がたくさんあることとか(笑)

 エルヴィスがシェラトン・ウエストゲイトに泊ったという情報の信憑性はネット上のテキストデータから察するしかなく、隠し撮り写真も見つかっておらん。ただしGoogkeのChat-GPTによると、営業期間内はエルヴィスが泊った部屋にメモラビリアを展示する等のサービスを行っていたとのことじゃ。

 このホテル周辺には、過去も現在も似たような外観の別のホテルが幾つか建っており、それだけに動画撮影したマニアさんのサイトに寄せられる地元民のコメントも過去の記憶が混濁気味なことが分かる!?現在の建物がリノベされて使用されているのか、建て替えられたのか、それも不明。結局現在残されておるシェラトン・ウェストゲイト・ホテル時代の住所3536secor Rd.が位置情報の最重要情報じゃ。
 ちなみに最初にChat GPTで住所を問い合わせたところ、別の住所が提示されてきた。「3536 secor Rd.では?」と再度問い合わせたところ、「先ほどは大変失礼致しました。仰る通りの住所でございます」とご丁寧な返信が来てホッコリしてしまったわい(笑)現在跡地には高級アパートメントが建てられておる。右写真ストリートビュー2023年6月撮影。


 ロックの殿堂入り第1号はやはりエルヴィスだった!
 Area No.24/Serial No.621 ロックンロール・ホール・オブ・フェイム/クリーブランド
「アメリカ人は面白い国民だ。彼らは偶然の幸運に頼り、まぐれ当たりを計画し、周到に準備して奇跡を起こし、実験に命を懸け、素晴らしいミスを繰り返し、嘘の中で真実を求め、矛盾に勝利する。そして後々博物館に入れて表彰する」(byジャン・コクトー)

 ごく一般的にも有名な「ロックの殿堂」。その本部/展示博物館はオハイオ州クリーブランドにあるのじゃ。正確にはエルヴィスゆかりの地ではないが、思い起こせばエルヴィスは殿堂入り第1号の一人であり、ロックの殿堂はグレースランドと提携しながら定期的にエルヴィス関連の品々の展示会を開催しておるので、特別に「バーチャル~」にカウントすることにしよう!

 「ロックの殿堂」とは、ロック音楽の歴史、およびその発展に影響を与えたアーティスト、プロデューサー、エンジニア、その他の著名人や人物が表彰され、博物館に関連アイテムや資料を展示する組織」である。設立及び表彰は1986年であり、博物館が開館したのは1995年。メンフィス、フィラデルフィア、デトロイト、シンシナティ、ニューヨークらが殿堂博物館招致合戦を繰り広げ、最終的にクリーブランドに決定した。
 1986年の第1回目の殿堂入りアーティストは、エルヴィス他、チャック・ベリー、ジェームズ・ブラウン、レイ・チャールズ、サム・クック、ファッツ・ドミノ、エヴァリー・ブラザーズ、バディ・ホリー、ジェリー・リー・ルイス、リトル・リチャードの計10人(組)。また非演奏者として、アラン・フリード、サム・フィリップス、ジョン・ハモンドも表彰されておる。
 
 冒頭で紹介したジャン・コクトー(フランスの詩人兼画家)の言葉の一部を、ローリング・ストーンズのミック・ジャガーが1989年の殿堂入り表彰の式典で行ったスピーチに転用しておった!ミックらしい、実にウェットに富んだ名スピーチじゃった!(と、わしが勝手に思っておるだけじゃがな!)
 1998年8月8日から1999年9月5日まで、ロックの殿堂において「エルヴィス・イズ・イン・ザ・ビルディング」が開催された。この1年間に及ぶエルヴィス・トリビュートは、1986年にRRHOFに最初に選出され、「ロックンロールの王様」として知られるエルヴィス・プレスリーという一人のアーティストに捧げられた初の展示となった。グレイスランドは、この特別なトリビュートのために、エルヴィスの生涯と伝説的なキャリアを網羅した代表的な遺品を多数提供した。(wikipediaより)
 その後も「エルヴィス展」の類が博物館で度々催されておる。エルヴィスはやはり抜群の集客力と話題性があるのじゃ!上写真2枚は、常設されておるエルヴィス・コーナー。

 殿堂組織が発足した当時は、エルヴィスを筆頭としたヴィンテージ・ロッカーたちが次々と殿堂入りを果たし、その選考には人種差別もなく、表彰式典では選ばれしアーティストとそのご家族たちの微笑ましい祝福の光景が見られたものじゃ。しかし年を追う毎にロックの殿堂の評判は芳しくなくなっておるのも事実。表彰者選考員たちの中に音楽的専門家が少なく、単なる音楽好きの高齢者たちの好みの選考になっておるとの悪評が絶えないらしい。公然とロックの殿堂を非難する若手ロッカーも少なくない。また殿堂入りという名誉欲しさにロビー活動をしておる往年のアーティストもおるんだとか!?そもそも、組織名や選考基準が曖昧なんじゃから、もう一度設立された当時の表彰者たちの功績を再考することで原点回帰を図ればええんじゃないかと!

 ロックの殿堂(博物館)は、五大湖のひとつエリー湖の南沿岸に建てられており、上記クリーブランド・パブリック・オーディトリアムからは北へ僅か500メートル、徒歩8分の位置じゃ。右写真はストリートビュー2024年6月撮影。


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