NANATETSU ROCK FIREBALL COLUMN Vol.465


第84回 エルヴィスゆかりの地~インディアナ州2025年前編

アップロード:2025年8月23日
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今回再訪するのはインディアナ州。この州はエルヴィスのラスト・ライブ(77年6月26日インディアナポリス・マーケット・スクエア)が行われたことでファンの中では強く印象付けられているかと存ずる。50年代のライブ会場2ヶ所とマーケット・スクエアは2023年にご案内済みなので、今回は70年代のライブ会場を全てご案内することにする。また70年代に宿泊した2つのホテルもおもしろいエピソードが残されておるんで併せて楽しんで頂きたい。伝説になるような名ライブこそ残されておらんようじゃが、70年代のインディアナ州のエルヴィスのステージ写真は何故か風格が滲み出ておるショットが多いので、エルヴィスとインディアナ州は相性自体が良かったのかもしれんな!

【目次】バーチャル・ロックンロールツアー エルヴィスゆかりの地
    第84回インディアナ州2025年前編

 ・Area No.は2022年度編からのインディアナ州内の番号
 ・Serial No.は「バーチャル・ロックンロールツアー」第1回からの通し番号です。
  
 Area No.4/Serial No.598  ステイト・フェアグラウンズ・コロシアム/インディアナポリス
 Area No.5/Serial No.599 旧ヒルトン・ホテル跡地/インディアナポリス
 Area No.6/Serial No.600 ロバーツ・ミュニシパル・スタジアム/エバンズビル
 【追加情報/再掲載】
   Area No.2/Serial No.222 アレン・カウンティ・メモリアル・コロシアム/フォートウェイン

 Area No.7/Serial No.601  エバンズビル・エグゼクティブ・イン/エバンズビル
 Area No.8/Serial No.602 アッセンブリー・ホール/ブルーミントン
 Area No.9/Serial No.603  ポプラー・ミッドタウン・モーターホテル跡地/ブルーミントン

【バーチャル・ロックンロール・ツアーのバックナンバー】

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SMW=スコッティ・ムーアのウェブサイト
EDD=「Elvis Day By Day」 
 エルヴィス・デイリー記録集
EPC=エルヴィス・プレスリー・イン・コンサート
 (ウェブサイト)
HAC=ヒストリック・アエリアルス
 (アメリカの空撮サイト)


 会場キャパの倍近くの大観衆を詰め込んで決行された70年代インディアナ州初ライブ!
 Area No.4/Serial No.598 ステイト・フェアグラウンズ・コロシアム/インディアナポリス
インディアナ州における50年代のエルヴィスのライブは、2都市(2会場)5回、内エルヴィスが大ブレイクした1956年以降は1回のみの開催。しかし70年代に入ると、6都市(8会場)、13回にわたって開催された。その第1回目が1972年4月12日州都インディアナポリスのステイト・フェアグラウンド・コロシアム(左写真)であった。
 当時の会場の公式キャバは6,500人だったが、この日は約11,000人という倍近くもの観客が集まった!このコロシアムは元々室内スポーツ会場であり、観覧席として予めセットされておる座席数が6,500であり、多分競技スペースが臨時アリーナにされて仮設席が運び込まれたのであろうが、それでも5,500人分が搬入されただけにアリーナは相当なすし詰め状態だったんじゃろう!
 この日のライブ以降、州都インディアナポリスでは別会場でもう1回ライブが行われたのみで、他は近隣都市で11回の開催なので、インディアナポリスには70年代はエルヴィスのライブに相応しい会場が無かったということじゃろう。

 ライブレビューを読んだ限りでは、すし詰め状態の会場では特に大きなトラブルも起ることなかったようじゃが、やはり観客からの熱気が異様に充満していて、エルヴィスは「今夜は暑いな~」と口走ったようじゃ(笑)すかさず女性ファンが「じゃあ脱いで!」って叫び、会場が大いに盛り上がったとか!
 この日のライブクオリティは、かなり控えめなトーンの記述に収められてはおるが、1972年当時の絶好調だったエルヴィスのパフォーマンスが繰り広げられたことは間違いないことを伝えておる!以下、一部転用しておこう。

「楽天的な歌い方をするエルビス・アーロン・プレスリーは昨夜、ケープ・クルセイダー風にコロシアムに乱入し、疑念を抱く者を、彼が最近の過去だけでなく現在にも属していると確信させた。」

「先週から始まった16都市ツアーの8回目のワンナイト公演に出演した元メンフィスのトラック運転手は、満員の観客を魅了した。彼らが反応すると、37歳のショーマンも反応した。」

「エルヴィスは、観衆の気分に完璧に同調して、依然として気取って歩き、体を震わせ、うなり声を上げ、うめき声​​を上げ、クレッシェンドを上げて暴れ回っている。」

 「エルヴィスは、ビル・セントマリーの「Until It's Time For You To Go」など、他の人がすでに演奏した曲をいくつか取り上げた。しかし、RCA レコーディング界の巨万の富を持つ天才アーティストであり俳優でもあるエルヴィスは、1950 年代にティーンエイジャーのアイドルとなったあの動物的な魅力を今も保っている。新世代のスーパースターたちと競いながらギターを振り回す彼のサウンドは最高だ。」

 中には、アメリカ人らしい(?)ちょっとひねりを利かせ過ぎている独特の賛辞があった。
「プレスリーの曲とその扱い方には、確かに不可逆的ではないが、ある傾向が生まれつつあるのかもしれない。彼が録音した曲はあまりにも上手くできていたため、誰もそれに手をつけようとしなかった時期もあった。彼は従来のリーダーのイメージを変えてしまったのだ。」
 これはエルヴィスが歌った曲は既に完全に「エルヴィスの曲」となり、誰も歌えなくしてしまったということじゃろうな。50、60年代のアメリカン・ポップスはカヴァーの時代であり、他のシンガーもあらためてカバーしたくなるような歌い方もヒットの要素じゃったが、エルヴィスはそれを覆してしまった、とわしは解釈した次第じゃ!


アリーナ(仮設席スペース)を除く観客席の少なさが取り沙汰されてきたこのコロシアムじゃが、1939年のオープンから、エルヴィスのラスト・ライブの会場になったマーケット・スクエア・アリーナが1974年にオープンするまではインディアナポリスのメイン・コンサート会場として数多くのミュージシャンが出演し続けた。エルヴィスの出演の他に、ビートルズがインディアナ州で唯一開催したライブの会場にも選ばれておる。後発のマーケット・スクエア・アリーナは取り壊されたものの、コロシアムは改装を何度か重ねながらインディアナ・ファーマーズ・コロシアムと改称さえrて現在でも稼働中である。右写真ストリートビュー2019年5月撮影。



戦士の休息に相応しい、軍人記念塔を眼下にのぞむホテル
 Area No.5/Serial No.599 旧ヒルトン・ホテル跡地/インディアナポリス
上記ステイト・フェアグラウンズ・コロシアムのライブ当日、エルヴィスの宿泊先に関しては残念ながらパパラッチの隠し撮り等、証拠写真はネット上では発見出来なかった。テキストデータのみで、上記ライブレビューの中に“インディアナポリスのヒルトンに宿泊した”と記されておる。
 この「インディアナポリスのヒルトン」というのが少々厄介じゃった(笑)ヒルトンは現在様々なチェーンホテル企業を買収しておって凄まじい数の系列ホテルを擁しておる。その為か、各ホテルのウェブサイト等の情報ソースに歴史の記述がほとんどないのじゃ。

 エルヴィスがインディアナポリスに泊ったとされる1972年当時、当地にヒルトン・ホテルが存在していたことを証明する新聞記事だけはネットにアップされておった。上写真左側2枚は1970年5月にインディアナポリスに新規オープンする準備中のヒルトンの様子を報じた新聞記事であり、他にも同新聞の記事が幾つか見つかったが、どの記事にも建物全体の写真がなく、所在地の記載もない。(5W1Hを漏れなく記載するのが報道記事の基本じゃねーのか!?)
 このヒルトン・インディアナポリスの所在地に関して唯一手がかりになったのが、上写真左側に写っておるソルジャーズ&セーラーズ・モニュメントの尖塔(軍人さん方の功績を讃える記念塔)。写真の下に「ヒルトンのグラス・エレベーター(鏡張りエレベータ)からの眺め」と記されておる。
 また上写真右側は、1971年当時のHACによるモニュメント周囲の空撮写真。赤枠部分(もしくはその周辺)がヒルトン・インディアナポリスと思われる。

  上左写真のソルジャーズ&セーラーズ・モニュメントの背景、献花台、三角形の植え込みの位置からヒルトンの跡地を推察してみたストリートビュー写真(2024年5月撮影)が右写真じゃ。(現在WIBCというFMラジオ局ビルが建てられておる)可能な限り周囲のビルの建築年度や用途を調べてみたが、ほとんどのビルが1980~1990年代に建てられており、ヒルトンとの関係を示す記述は無かった。
 紛らわしいことに、現在ソルジャーズ&セーラーズ・モニュメントの近くにヒルトン系ホテルが2つ存在するが、いずれもモニュメント周囲のラウンドアバウトに面してはおらず、上層階からの眺めを推測してみても上写真右側の景色にはならないので、エルヴィスが泊ったヒルトン・インディアナポリスとは関係ないようじゃ。


 “骨盤は動かなかった”がチケット販売記録は大幅更新
Area No.6/Serial No.600 ロバーツ・ミュニシパル・スタジアム/エバンズビル
 エバンズビルはインディアナ州都インディアナポリスから69号線を約230キロ南下した位置にある、同州で人口第三位の大都市。1972年6月13日、1976年10月24日の二度エルヴィスはエバンズビルのロバーツ・ミュニシパル・スタジアム(左写真)にてライブを開催しておる。
 上写真.3枚は1972年の撮影じゃが、この日のライブレビューはネット上には無いので、代わりに前日6月12日のインディアナ州フォートウェインのアレン・カウンティ・メモリアル・コロシアムでのライブレビューを後ほど掲載しておくので参考にしてくれ。この会場は「バーチャル~インディアナ州2022年編Area No.2」で1957年3月30日のライブ状況のみご紹介しておるので、76年のライブ状況もこの際にご確認のほどを。

 1976年のエバンズビルのライブにおいては、当時の新聞記事によると地元で凄まじいチケット争奪劇が起こったようで、その辺の状況も含めて新聞記事を一部引用しておこう。

 
「ファンは、最高の席を確保しようと、スタジアムのチケットカウンターで何時間も待ち構えていた。チケット購入の一番乗りを目指して17 時間も待ち構えていたファンの一番良い席は12 列目だった。
 地元紙は購入者からの多数の苦情を取り上げた。一部のファンは、チケットが地元企業や地元警察に買い占められたか、早めに転売されたと信じていた。」
 
 「スタジアム関係者は、座席のセクションをめぐる混乱と、多数のファンがチケットを購入したために需要が高まったことを理由に、座席が確保されていないことを否定した。
 チケットをめぐる論争にもかかわらず、コンサートは完売した。13,600枚以上のチケットが販売され、これは当時のロバーツスタジアム史上最大の有料コンサート観客動員数となった。多くのファンが開演の2時間前にスタジアムに到着し、他のコンサート参加者と会話を交わしたり、キングについての話をしたりしていた。」

 「エバンズビル・プレス紙のジェームズ・シマンスキーは、エルヴィスは無気力だったと評したが、“エネルギーと熱意を失った代わりに伝説的な地位を獲得した”と指摘した。
 エバンズビル・クーリエ」紙のスコット・ヒルのコンサート評は、より好意的なものだったが、“伝説的な骨盤は例年のようには動かなかったが、脚は動いており、悲鳴を上げる大勢の観客にとってはそれで十分だった”と記している。エルヴィスは1時間強演奏し、彼の最も有名な曲24曲の全部または一部を歌った。

  上記ライブレビュー同様に、Wikipediaにも1976年のライブ観客動員数が当時のロバーツ・スタジアムの観客動員記録を更新したことが記されておる。この記録は、エルヴィス以降にも数多くのロックコンサートが開催されておる同会場において、2011年に閉鎖になるまで破られなかった記録だったようじゃ。
 ライブレビューを読む限りでは特筆すべきクオリティのライブではなかったようじゃが、それでも会場単体での観客動員数の記録を残していることは、全米各地に残るエルヴィスの無数の小さな勲章のひとつといえるじゃろう。
 ロバーツ・スタジアムは21世紀になるとオーナーが代わるごとに改修、改称が繰り返されたものの2011年に閉鎖、2013に解体された。現在は新しいオフィスビルが建てられておる。右写真はストリートビュー2023年6月撮影。


ニューヨーク制覇の余韻の中にいたエルヴィス!
【追加情報/再掲載】 Area No.2/Serial No.222
アレン・カウンティ・メモリアル・コロシアム/フォートウェイン

【1972年6月12日のライブレビューから】

 このレビューはEPCに転載されたものであり、演奏曲毎のライブ描写もありかなりの長文!ここでは総括的な部分を中心として端折ってご紹介するが、当日のエルヴィスのご機嫌ぶりが充分にうかがえるので、レビュー全文を読んでみたい方はこちらからどうぞ!

 このコンサートを聴くと、エルヴィスがマディソン スクエア ガーデンでのコンサートの大成功の後もまだ興奮状態にあることが分かる。彼のプロ意識はフォート ウェインでも続いており、すべての曲に対する彼の関心がはっきりと伝わってくる。会話が少ないのは良い点もあるが、ファンである私はいつもエルヴィスのステージ上のおしゃべりを楽しんでいる。このコンサートではエルヴィスがふざけているところもあるが、それは続けてほしいと思う程度だ。他の夜のように、一般のファンが何のためにお金を払ったのか疑問に思うようなことはなかった!

 エルヴィスはワイルドなオープニングリフのあと、THAT'S ALL RIGHT を歌い始める。今夜のファンはロックする準備ができている! ジェリー シェフのベースは最初から最後まで目立っている。ジェームスがインストルメンタルを演奏すると、エルヴィスはチャーリー・ホッジからアコースティック ギターを受け取り、少しかき鳴らしてニヤリと笑い、それからギターをチャーリーに返す。エルヴィスは順番を間違えて言葉を少し落としてしまうが、それ以外は素晴らしいオープニングを提供してくれた。

エルヴィスは「1956年にエド・サリバン・ショーに出演した時、腰から上だけ撮影されながらこの歌を歌ったんだ。こうやって立たないと、この歌は歌えないんだ!当時の私の声はもっと高かったからさ。そうしないとギアが外れちゃうよ」というセリフでライブを再開する。この時点で、エルヴィスは観客を期待で叫ばせている。「あんたは何もできない、アイーーー」とエルヴィスはからかう。「あんたは何もできない、アイーーー」とエルヴィスは繰り返す。「あんたは私が何をするか知らないだろう、ほら」。エルヴィスはもう少し冗談を言うが、聞き取れない。「ここには母親がたくさんいるぞ!」(「ハウンドドッグ」の歌詞のパロディじゃろう!)

HOUND DOG はついにスローモーションで始まり、2 番目の詩の後、エルヴィスは超スピードで演奏し、観客を熱狂させる。最後の行でエルヴィスは「まあ、お前はウサギを捕まえたことなんてないだろう」と叫び、観客は悲鳴!そしてエルヴィスは 3 秒間の休止の後、「お前は俺の友達じゃない」と言って歌い終えたのだ!



 “ホテル・キング”を夢見た男のホテルにキングは泊った!
Area No.7/Serial No.601 エグゼクティブ・イン/エバンズビル
1972年、1976年の二度のエバンズビル・ライブにおいてエルヴィスが宿泊したホテルが、こちらエグゼクティブ・インじゃ。1972年に宿泊した時の写真が1枚ネットにアップされており(上写真右側)、地元の警察署の現場のお偉いさん方と一緒のショットじゃ。エルヴィス側の要請により21人もの警備用警察官がエグゼクティブ・インに招聘されて、エルヴィス一行が陣取ったフロア全体の警備を請け負ったという。彼らのほとんどは、ロバーツ・スタジアムでの警備も併せて担当しておった。

 エグゼクティブ・インは、「エルヴィスが泊った」という名誉の事実以上に、地元ではハチャメチャなキャラながらも生涯ホテル・キングを目指していたオーナーのボブ・グリーンの存在が有名だったようじゃ。2009年にネットにアップされた、1991年に逝去したボブ・グリーンの追悼記事は次のような一節で始まっておる。

「エグゼクティブ・イン全盛期にはエンターテイメントの中心地でした。1970年代には、ファッツ・ドミノ、リトル・リチャード、ボブ・ホープがエグゼクティブ・インのショールームで演奏していた時代がありました。エルビス・プレスリーやレッド・スケルトンが訪れていた時代もありました。ダウンタウンのバーを出て、午前3時半に「ザ・エグゼクティブ」に立ち寄り、おいしくて安い朝食を食べることができた時代もありました。若き日のバーバラ・マンドレルに偶然出会えたかもしれない。彼女の父親は、この人気急上昇中のカントリー歌手をエバンズビルの賑やかなホテルに宿泊させていました。」
(左写真は1970年ファッツ・ドミノ・ショーの告知ポスター)

 鉄鋼業と炭鉱業で巨額の富を得たボブ・グリーンは、1967年にエグゼクティブ・インをオープンさせた。その原因の発端がおもしろい!裸一貫の叩き上げのボブ・グリーンは気性も激しく、ある晩飛び込みで宿泊を依頼したホテルが満室でチェックイン出来なかったことに腹が立ったらしい(笑)「次は必ず泊まるからな!」と捨て台詞を吐き、その後自分のホテルをオープンさせてしまったという!
 将来的にはエグゼクティブ・インをラスヴェガスにあるカジノ・ホテルのようなエンターテイメント性溢れる豪華ホテルにしたかったようじゃ!フランク・シナトラへの出演オファーは欠かさず、「いつか日程が合えば~」が口癖だったとか!

 ちなみに、ボブ・グリーン氏ほどの富と名声のある人物の所有するホテルならば、氏の意欲や夢を継ぐべく新たな投資者や後継者が現れてきそうじゃが、実際の後継者たちはホテルや敷地の単なる引き取り手にだったようじゃ。ボブが経営を仕切っていた当時のホテルの設備やサービスは一流ホテル・レベルではなく、大幅な改善が困難だったことが原因だという。エグゼクティブ・インは安い宿泊料金に見合ったサービスに留められておったのじゃ。(エルヴィスへの特別の配慮はまた別だったんじゃろうが)その反面、宿泊室の稼働率は常時驚異的な80%にも達していたという。良心的な経営とその先の夢への展開の両立ってのは難しいものですな・・・。

 ボブ・グリーンの死後は何人かオーナーが変わり、現在はヒルトン系ダブル・ツリー・ホテルになっておる。エグゼクティブ・インの建物が完全に取り壊しになったという事実はネット上にはなく、当時の施設の一部が現在でも使用されているという情報もある。右写真ストリートビュー2023年1月撮影。
 なお、ホテル周囲の敷地もボブ・グリーンは当時所有しており、1980年にはトム・ジョーンズを筆頭としたビッグ・アーティスト専用の10,000人を収容出来るコンベンションホールも敷地内に建設しており、それは現ダブルツリー・ホテルの西側に位置するフォード・センター・アリーナと思われる。


“花の天国”で聴衆の心に再び咲いたエルヴィス愛
Area No.8/Serial No.602 アッセンブリー・ホール/ブルーミントン
 1974年6月27日、1976年5月27日の二度、インディアナ州ブルーミントという街でエルヴィスのライブが開催された。州都インディアナポリスから南西へ約70キロ、上記Area No.6のエバンズビル方面へ69号線を南下する途中に位置しておる。
 ブルーミント(Bloomington)という街についてチョイトwikipesiaをくぐってみると、街の名前の由来は、19世紀に入植してきた者たちがこの地域で花々が咲き乱れる美しい光景を“a boom heaven(花の天国)”と呼んだことが由来とされておる。20世紀以降の人口は数万人前後の推移を続けていて、その大半は広大なキャンパスを誇るインディアナ大学の学生たちや大学職員たちという典型的な学園都市とのことじゃ。
 美しい花が咲き誇る学園都市ってのは結構なオハナシじゃが(笑)、なんでこの類の街が、というかロック・コンサート開催に相応しいとは考えにくい街をパーカー大佐は二度もブッキングしたんじゃろうか?という疑問はわしだけはなく当時の音楽ライターさんも同様だったようで、1974年のライブレビューも駐車場のチェックから始まっておったから思わず納得してしもうた!

「観客たちはキャデラック、モントレー、LTD、グラン トリノに乗って到着し、駐車場最前列の車にはコロンバス、インディアナポリス、ケンタッキー、オハイオ、イリノイ、さらにはテキサスやアラバマのナンバープレートが付けられていた。クルーカットやバリバリの髪型はいくつかあったが、DAはいなかった。そしてジーンズ、T シャツ、白ソックスの代わりに、彼らは夏用のスーツ、白のパンツと靴、派手なハワイアン シャツ、ネクタイ、かつらを身につけていた。」

 上記レビューには、ブルーミントンまで、周辺州や遠いアラバマ州やテキサス州からもファンが駆け付けていたことが記されており、この状況をパーカー大佐は予めしっかりと読んでおったんじゃろうな。大佐がご存命だったら、是非ともそのヨミの真相を聞いてみたいもんじゃ。
 肝心のライブ・クオリティの記述は、多少ありきたりではあるが賛辞のオンパレード。花の天国で大観衆の心にエルヴィスという大きな花が時空を越えてもう一度咲き誇ったようじゃ。

「1956年にエルヴィス・プレスリーがエド・サリバン・ショーに歴史的出演を果たした当時10代だった子供たちが、18年経った今でも彼らの想像力をかき立てる魔法を再び体験しようと、木曜の夜に大挙して集まった。」

「エルヴィスは生え際が後退し、腹部が膨らんでいたにもかかわらず、魔法はまだそこにあった。人々はエルヴィスについて興奮して語り、プログラム、光沢のある写真、ボタン、ペンダント、スカーフを買い漁り、かつてのように情熱がまだ湧き出ることを期待していた。」
「業界で 20 年を過ごしたプレスリーの演技は、洗練されたプロフェッショナリズムにまで洗練されている。彼は自分の回転について自虐的であり (「ショーツを直そうとしているだけ」)、観客が「エルヴィス」と叫ぶのを真似する。彼は観客を侮辱しているか、単に楽しんでいるか、あるいはその両方かもしれない。」

「セットの半分が過ぎた時点で、彼はすでに11 曲を演奏しており、各曲の平均演奏時間は70秒である。彼は、Teddy Bear、Steamroller、Big Boss Man などのヒット曲と、Let Me Be There、Bridge Over Troubled Waters などのより現代的な曲をミックスしている。」

「彼はほとんどの場合、控えめに、直接的に、滑らかに、正確に歌い、1954年に国中をひっくり返した荒々しい南部のソウルに自分の声が入り込むことを決して許さない。しかし、その控えめさが、おそらく20年経った今でも彼がロッド・マッケンのような声を持っていない理由だろう。」

(文中のロッド・マッケンとは、60~70年代に活躍した、作詞作曲家、歌手であり“時空を越えた才能の持ち主”と評されておった。)


 アッセンブリー・アリーナは、地元のプロバスケットボール・チームのオーナーの親族であり、会場改修資金の提供者である方の名前から「サイモン・スコット・アッセンブリー・アリーナ」と改称されて現在でも稼働中。1971年のオープン時から、開催されるスポーツや音楽イベントを“よりダイレクトにダイナミックに鑑賞出来る”ために観客席スタンドが急勾配であることもまた有名な会場でもある。右写真ストリートビュー2018年7月撮影。


 メンフィス・マフィアの善行伝説も残る!?花の天国・元女子寮ホテル
Area No.9/Serial No.603 ポプラー・ミッドタウン・モーターホテル跡地/ブルーミントン
 “花の天国ブルーミントン”でエルヴィスが泊っていたホテルは、超高級スイートでも、使い慣れた大手チェーン・ホテルでもなかった。それは女学生たちの寮だった!
 と言い切ってしまったら語弊があるが、そのホテルはポプラー・ミッドタウン・モーターホテルという、元々インディアナ大学に通う女学生たち専用の女子寮が改造された大型のモーターホテルじゃ。左写真は1974年、「エルヴィスが泊る!」という情報を得たファンたちがホテル前でたむろっている様子(写真内左)や、エルヴィスが到着した時(写真内中央下)の写真等を掲載した地元新聞。

 1964年に女子学生寮としてオープンした当初、この建物はまったく人気がなかったそうじゃ。『ブルーミントン・ゼン・アンド・ナウ』誌は、この居住区を「質素で、活気がなく、冷たく、退屈」と評し、ある女子学生クラブ会員の「まるで誰かが何も考えずにこの建物を設計したかのようだった」という発言を引用しておるほどじゃ。
 やがて女学生たちを惹きつけるアメニティを次々と導入して設備の充実に努めた後にホテルに改造され、1974年にエルヴィス一行を迎え入れるに至った。当時のブルーミントンにはエルヴィスが泊るに相応しいホテルがなかったとされておる。実際にパーカー大佐が事前視察に訪れて「エルヴィスの宿泊OK!」を出したんだそうじゃ。

 エルヴィスはライブ終了後は次のライブ地へと移動したが、取り巻きの連中は貸切られていた8階フロアにもう一泊したという。当ホテルで一行の警備にあたっていた警備員からは意外な証言が出ておる。それは取り巻き連中(メンフィスマフィア)のお行儀がとても良かったということじゃ!「彼らは、まるで自分たちの行動の全てがキングの評価に繋がる厳命されているようだった」とまで語っておる。「どうせエルヴィスはいないし、大佐もいないし、どんちゃん騒ぎしてしまえ!」ではなかったようじゃ(笑)
 また「エルヴィスは今夜(ライブ当夜)もここに泊っている」と思い込んでいるファンがホテル周辺に殺到した際、取り巻き連中はあたかも「エルヴィスが使った」と思わせるように、ホテルの枕、シーツ、部屋の備品などを階下に群がるファンに向けて投げ落とすサービスまでしたらしい!

 さて、エルヴィスのポプラー・ミッドタウン・モーターホテル宿泊に関する小さな謎がひとつある。それは1976年二度目のブルーミントンでのライブの際もここに泊ったのかどうか?ということじゃ。ネット情報では、1976年に関しては一切触れられてなく、引用されているエピソードも全て1974年の出来事ばかりじゃ。
 そこで気になる写真をご紹介しよう。パパラッチによる隠し撮り写真じゃが、アッセンブリー・アリーナへ向かうためにホテルの出入口から姿を表した後、車に乗り込むエルヴィスとリンダ・トンプソン嬢をとらえた下写真中央、下写真右側の2枚じゃ。これは「1976年ブルーミントン」とされておるが、ホテル名の記載はない。下写真左側は、在りし日のポプラー・
ミッドタウン・モーターホテルの建物側面(東西両側)にあった出入口の写真。(ストリートビュー2018年撮影)下写真中央に写っている背景(壁面)とそっくりな様にも見える!1976年もエルヴィス一行はこのホテルを利用した可能性は大じゃ。

建物の老築化により、ポプラー・ミッドタウン・モーターホテルが2023年年末に取り壊されることが公表された際、地元サイトが哀悼記事をネットにアップしておる。
「エルビス・プレスリーはここで眠りました。」
「“今月末か11月末までに撤去されるでしょう。でも安心してください。爆発させるつもりはありません。”と資本計画・施設担当副社長は言う。1964年のオープン以来、この謎めいた建物で暮らしたり働いたりしてきた何千人もの人たちは、この“音もなく、派手に”ホテルが消滅することを歓迎するかもしれない。」

 現在跡地は緑化整備された空地になっており、新しい建造物が建てられる予定はなさそうじゃ。右写真ストリートビュー2024年5月撮影。(背景に写っている建物は、ホテルが存在していた頃からホテル北側に隣接していた駐車場。)

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