NANATETSU ROCK FIREBALL COLUMN Vol.463


第82回 エルヴィスゆかりの地~イリノイ州2025年編

アップロード:2025年7月23日
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前回まで3回続けてきた「2025年五大湖周辺州の旅」も今回イリノイ州を訪ねて完結じゃ。イリノイ州はエレクトリック・ブルースの聖地シカゴがあるだけに、ブルースに多大な影響を受けたエルヴィスがシカゴブルース関連の場所を訪ねた形跡を探し回ったが、ネット上ではみつからず残念。2023年のツアーでは紹介し切れなかった場所と、70年代のライブ会場/宿泊ホテルへのご案内となるが、70年代のイリノイ州でのエルヴィスには何故か良くも悪くも達観した雰囲気に覆われておる。これってブルースの魔力?とかショーモナイ想像をしてしまったが、とにかくイリノイ州ツアーはこれがラスト!どうか最後まで楽しんでいただきたい。

【目次】バーチャル・ロックンロールツアー エルヴィスゆかりの地
    第82回 イリノイ州2025年編

 ・Area No.は20233年度編からのイリノイ州内の番号
 ・Serial No.は「バーチャル・ロックンロールツアー」第1回からの通し番号です。
  
 【追加情報/再掲載】      
 Area No.3/Serial No.226  シカゴ・スタジアム跡地/シカゴ
 
 Area No.4/Serial No.585 サウスモア・ホテル跡地/シカゴ
 Area No.5/Serial No.586  ショアランド・ホテル/シカゴ

 Area No.6/Serial No.587  アッセンブリー・ホール/シャンペ―ン
 Area No.7/Serial No.588 SIUアリーナ/カーバンデール
 Area No.8/Serial No.589 アーリントン・パーク・ヒルトン/アーリントン・ハイツ

 
【バーチャル・ロックンロール・ツアーのバックナンバー】

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SMW=スコッティ・ムーアのウェブサイト
EDD=「Elvis Day By Day」 
 エルヴィス・デイリー記録集
EPC=エルヴィス・プレスリー・イン・コンサート
 (ウェブサイト)
HAC=ヒストリック・アエリアルス
 (アメリカの空撮サイト)


 “エレクトリック・ブルースの地”シカゴのエルヴィス
 【追加情報/再掲載】 Area No.3/Serial No.226  シカゴ・スタジアム跡地/シカゴ
 イリノイ州シカゴといえば、20世紀の半ばに南部の黒人たちの民族大移動により、エレクトリック楽器によるアーバン(都会的)ブルースが誕生した街じゃ。エルヴィスはシカゴのシカゴ・スタジアムにて1970年代に6度(7ステージ)もライブを開催しており、ライブの実態が大いに気になる場所じゃ!
 シカゴ・スタジアムに関しては「バーチャル~イリノイ州2022年編Area No.3」にてご案内済であり、この時はエルヴィスの衣装が珍しくジャンプスーツでは無かったことに焦点を当てた。左写真は1972年6月17日の昼間のライブ写真じゃ。このライブ写真以外の機会は全てエルヴィスはジャンプスーツを着用しておるので、今回そちらもご紹介しておこう。
 
 まず1972年6月16日のライブ写真は下写真3枚。この頃のマントは“取って付けた”様ではなくて衣装の一部としてスマートにデザインされていてクールですな~。当ページ最上部のスライド写真に用いたマント姿の写真もこの日のライブ写真じゃ。おどけるエルヴィスの姿に笑顔で反応しておるスイート・インスピレーションズのお姉様方も若くてセクシーですね~(笑)
 左写真、ブルーのジャンプスーツ姿のエルヴィスは、6月17日の夜間ライブじゃ。この当時、ローリング・ストーンズのミック・ジャガーが“キングみたいになりたくて”この種類のジャンプスーツを真似して着ておったが、正直なところミックは小柄で体系がスマート過ぎて全然似合っておらんかった。(ミック・ファンの方、スイマセン)というか、ジャンプスーツはエルヴィス以外はイケませんな!
 
 下写真は、左から1976年10月14日、1976年10月15日、1977年5月1日のライブ写真。概してシカゴ・スタジアムでのエルヴィスのショットにコンディション不良や精神不安定を感じさせるものはないようじゃ。
 76年10月14日のライブレビューがジャンプスーツにも触れていて結構オモシロイ!一部引用しておこう!
「驚き!エルヴィスは今でも派手なスーツを着こなせる。」

「安心してください、女性の皆さん。エルヴィスはあなたがたが恐れているほど太ってはいません。ロックンロールの王様は木曜の夜シカゴスタジアムに戻り、満員の観客に、彼の特許であるハイカラー、フレアレッグ、ラメをちりばめたスーツを今でも着こなせることを披露した。ガードルが邪魔になったのは、熱狂的な女性ファンにキスをするためにかがんだときだけだった。
 彼が街に来る前、ゴシップコラムニストたちは、エルは41歳のおばあちゃんに変貌したと書いていた。しかし、彼は私たちを騙した。残念ながら、それが唯一のサプライズだった」。


 1977年のライブは、前年10月のライブからわずか半年後に開催されており、その短いインターバルに驚きの声を上げたマスコミもあったようじゃが、「プロモーターに訊いてみても、“でもチケットは完売ですから”」としか返答がなかったそうじゃ(笑) 72年、76年のライブが素晴しかっただけに、平均的なクオリティに終わった77年のライブに関してはライブレビューでは多くは語られてはいない。良心的な視点からは「エルヴィスはラッシュモア山みたいなものだ」と賛辞を書くのが精一杯だったようじゃ。ラッシュモア山とは、アメリカ初代大統領のジョージ・ワシントンをはじめとする4人の建国の父たちの顔が花崗岩の壁に巨大な彫刻として掘られた岩山を中心とした国立記念公園じゃ。実に的を得た表現ではあるが、その他、ライター魂とエルヴィス愛が入り混じった複雑な心情をほんの少しだけ読むことが出来た。

「ノスタルジー的見地からは何の問題もない。生きた伝説は楽しいものだ。昨年秋にプレスリーを見るのは楽しかったが、この日シカゴ・スタジアムで初めてエルヴィスを見た人たちにとって、マスコミは報じているほど太ってはなく、良い下着を着けていれば問題なかっただろう。エルヴィスの豊満な肉体を実際に見る機会は、エルヴィスがそれほど素晴らしいショーを披露していないという事実を補うには十分だっただろう。しかし半年で2度エルヴィスを観る人たちにとっては、エルヴィスがそれほど素晴らしいショーを披露していないことに気づかないのは、痛々しいほど不可能だったことは事実だ」


エルヴィスが“泊まった”ではなく“隠れていた”と報道されたホテル
 Area No.4/Serial No.585 サウスモア・ホテル跡地/シカゴ

 ロック史に永遠に語り継がれるエルヴィス大ブレークが起きた1956年の翌年、1957年のエルヴィスは年初1月6日にニューヨークで「エド・サリバン・ショー」に出演後は3月末までライブもTV出演も無し。この期間は2作目の出演映画「ラビングユー」の撮影に当てられておった。
 そして3月26日シカゴのアンフィシアターからツアーが再開されることとなった。(「バーチャル~2022年イリノイ州編 Area No.1参照」)左写真はゴールド・スーツでアンフィ・シアターに登場したエルビスじゃ。
 
 アンフィシアターでのライブ記録をあらためてチェックしてみると、SMWをはじめとしていくつかの地元サイト等で、1957年3月27日(ライブ前日)からエルヴィスとパーカー大佐はシカゴのサウスモア・ホテル(右下写真)の南棟に居たと記されておる。
 気になるのは、いずれのサイトも「滞在した stay」ではなく「隠れていた hide」と記されておることじゃ。ファンが巻き起こす騒動から逃れるためにエルヴィスが滞在先のホテルの部屋に閉じ籠っていたのであれば別に不思議はないが、何故「隠れていた」と記されておるのか。一時的に避難していただけだったのか?いずれにせよ、エルヴィスはライブ前にサウスモア・ホテルでリラックスしていたことだけは確かじゃ。その後、ライブ前にアンフィシアターに隣接したクラブハウス「サドル・アンド・サーロイン・クラブ」((「バーチャル~2022年イリノイ州編 Area No.2参照」)で共同記者会見を開いておる。

 1920年代にオープンしたサウスモア・ホテルは、エルヴィスが“隠れていた”当時はシカゴでも有数の高級社交クラブ的なホテルだったが、1960年代からギャングたちが立ち入り始めてから風紀が悪化し、結果としてギャングがホテルを乗っ取ってしまう事態となった末に閉鎖。建物も1977年に取り壊された。現在跡地周辺は土地再開発によって環境が様変わりしており、チェイス銀行の小さなオフィスが跡地の南端に建てられておる。右写真ストリートビュー2024年8月撮影。


 エルヴィスやアル・カポネに信頼された、セキュリティ万全のホテル
Area No.5/Serial No.586 ショアランド・ホテル/シカゴ
 果てしなく続いたエルヴィスの70年代のライブツアーでは、宿泊先として利用されたホテルの大半はヒルトンやシェラトンといった大型チェーン・ホテルであり、またマスコミの追随をかわす目的だったのか、時折ローカルの名もない小ぎれいなモーテルだったりしたもんじゃ。
 そんな70年代のエルヴィスのホテル・ライフの中で、とびっきり豪華な老舗ホテルが、シカゴのショアランド・ホテルであった。(左写真)ショアランド・ホテルを紹介する幾つかのコラム・サイトには必ず「エルヴィス・プレスリーが数回(Several times)泊まったと記載されておるので、70年代に合計6日(内、昼夜2回1度)行われたシカゴのライブの際は、ほぼ毎回ショアランド・ホテルがキングの宿泊先に選ばれていたとして間違いないようじゃ。

 
ショアランド ホテルは、イリノイ州シカゴのハイドパーク地区にある歴史的なホテル。1986年に米国国家歴史登録財に登録された。1926年にオープンし、家具だけで200 万ドルを費やしたと言われている。
 13階建てで1,000 室の客室、クリスタル ボールルーム、一流レストランのある大きな宴会場、天井高 30 フィートの清潔なロビーを備えていた。テラコッタの外観にはガーゴイルやその他の精巧な石細工があしらわれていた。このホテルではシカゴのエリートの結婚披露宴やパーティーが数え切れないほど開催されている。
(以上wikipediaより)

 エルヴィス以外の代表的な顧客はシカゴのキング・オブ・ギャング、アル・カポネじゃ。カポネはホテル内に“特別な仕事部屋”もレンタルしておったという。ちなみに映画「アンタッチャブル」の中で、ロバート・デニーロ扮するアル・カポネのホテル内のシーンがいくつかあるが、映画での設定は(多分)同じくシカゴにあったレキシントン・ホテルの方ではないかと。
 常に抗争相手から付け狙われておるキング・オブ・ギャングが安心して利用出来るだけの、部外者たちからガードする対策に長けたホテルだったのであろう。このホテルでエルヴィスが撮影された写真は、パパラッチの隠し撮りでさえ1枚もない!(のが残念ではあるが)

 時が経つにつれホテルは壮麗さを失い始め、1970年代に75万ドルでシカゴ大学に売却された。その後、このホテルは寮となり、ショアランド・ホールとして知られ、約650人の学生たちが住んでいた。しかし、2004年春、大学は維持費の増加と新入生の間での人気の低下を理由に、ショアランド・ホールの寮としての使用を2009年春学期まで終了された。その後、歴史的保存を専門とするシカゴの開発業者に引き渡された。(以上wikipediaより)

 現在元ホテルの建物はショアランド・アパートメントの名の高級分譲マンションに改造されて稼働中じゃ。なお上モノクロ写真は、写真左上にSHOLELANDの看板が見えるので、ホテルとして経営されていた頃の撮影じゃ。ネット上で閲覧出来る他の写真のほとんどは絵葉書用にレタッチされておるので、この写真は希少である!ホテルから経営権を買収したシカゴ大学の図書館で保存されていたものである。右写真はストリートビュー2022年7月撮影。

 一時的なダイエットに成功したエルヴィスは好調だったのか!?
Area No.6/Serial No.587  アッセンブリー・ホール/シャンペーン
 1976年10月14日から10月27日までのライブツアーに関する総評をネットでチェックしたところ、「エルヴィスは30ポンド(約15キロ)の減量に成功して8月のツアー(8月28日~9月8日)よりも調子が良かった」という記載を見付けた。上写真3枚は1976年10月22日シャンペーンという街でのライブ写真じゃが、確かにお顔のむくみも無くなって幾分ほっそりしたようには見える。「エルヴィスがダイエットに成功し~」とレポしたのは当時の女性ライターだったらしく、女性らしい“エルヴィス・ウォッチャー”的視点で判断したんじゃろうな。
 シャンペーンのアッセンブリー・ホール(左写真)でのライブのレビューもネットに掲載されておったので期待してチェックしたところ、ライブ自体に関する賞賛は特に見当たらず、この時期のライブ・レビューにありがちな、一部の観客の一方的な興奮ぶりや、エルヴィスのスカーフ・サービスの描写にほぼ終始しておる。

 「エルヴィスは、小道具として首からアコースティック ギターを下げ、最初の曲を歌い始めた。監獄ロックやラブ ミー テンダーを歌い、昔のような雰囲気を醸し出した。すると、手下が動き出した。エルヴィスは歌いながら、赤い服を着た男に頭を傾けると、男はキングの首に長い白いスカーフをかけた。それから、エルヴィスはステージの端まで歩いていき、長い白いスカーフで実際の、あるいは想像上の一滴の汗を拭い、首からスカーフを引き抜いて、ステージの端にいる女の子の一人の手に落とした。それから、別のスカーフを求めて頭を傾け、この動作を何度も繰り返した。」

「このように優遇された若い女性たちは、エルヴィスが自ら汗を流して作ったスカーフを受け取ると、喜びのあまり小躍りした。何度かエルヴィスは片膝をついて、待っていた若い女性にキスをした。その時、おばあさんのような声で嫉妬に駆られた誰かが叫んだ。「あの若い子たちは、あなたのことをありがたくなんて思っていないってば!」

「エルビスは、太った腰で踊ることはできないが、それでも、彼のショーマンシップだけでも絶叫のような称賛を受けるに値する。時間が経って彼はセクシーにはなれなかったかもしれないが、それを売り出す方法を既に学んでおり、12.50ドルのチケットを25 ドルで売る転売屋の商売まで成立させてしまうのだ」


 この日エルヴィスは果たして好調だったのか、そうでもなかったのか?1976年10月の別の日のライブレビューに気になる指摘を見付けた。それは「少し体重は落ちたが、エルヴィスは終始元気が無くて歳を取ってしまったように見えた」という記述じゃ。
 そこでわしが突然思い出したのが、当時エルヴィスは「コーヒーゼリーでダイエットを試みていた」という説じゃ。毎日大量のコーヒーゼリーを食べていたエルヴィスは「コーヒーゼリーはいくら食べても安心なんだ」と周囲に語っていたというが、う~ん・・・コーヒーゼリーばっかりじゃあ、ツアーをこなすエネルギーなんざ湧いてこんよなあ・・・。
 コーヒーゼリー・ダイエットって、確か1970年代の終り頃に日本でも評判が広まった記憶があるが、やがて多量のカフェインの摂取が問題視されていつの間にか下火になったって、ツマンナイ昔話をしてしまったが、たまには脱線気味の内容もいいかと!?

シャンペーンは州都シカゴの真南170キロに位置する、イリノイ大学の主要学部のキャンパスを擁する人口8万人の都市。
 1963年にオープンしたアッセンブリー・ホールは、後にテキサス州ヒューストンに巨大な世界初の屋根付きベースボール・スタジアム「アストロ・ドーム」が完成するまでは北米地域最大の屋根付きスタジアムであった。常設席約15,500の他に円形スタジアム特有の移動式席(約1,000席)の設置が可能であり、エルヴィスのライブにはこの移動席まで含めてキャパいっぱいの約17,000人の大観衆が詰めかけた。現在はステート・ファーム・アリーナと改称されて稼働中じゃ。右写真ストリートビュー2023年9月撮影。


お祭り大好きな学園都市で、エルヴィスも一時疲労回復?!
Area No.7/Serial No.588 SIUアリーナ/カーボンデール

 カーボンデールとは、南北に長いイリノイ州(南北約700キロ)のほぼ南端に位置し、上記シャンペ―ンと同じくこちらは南イリノイ大学の広大なキャンパスを擁する学園都市であり、人口はシャンペーンの四分の一の約2万人。
 wikipediaでカーボンデールをチェックしてみたら、毎年のハロウィーンで群衆が大騒ぎすることで全米にその名が知れ渡っている街だという。そんなお祭り大好き人間が集まった街!?へエルヴィスは1976年10月27日にやって来た。ライブ会場となった収容人数約8.300のSIU(南イリノイ大学)アリーナ(左下写真)がすし詰め状態になる約11,000人、計算上では街の人口の半分以上がエルヴィスを観に集まった。さすがはお祭り大好きな街だけのことはある!もちろん、カーボンデールでのエルヴィスのライブはこの日が初めて(で最後)である。

 1976年度10月ツアーのラストのライブとなったこの日、エルヴィスはかなり疲労の色が濃かったものの、この時期としては珍しい曲ごとに解説されたライブ・レビューを読むと全体的には“悪くはない”クオリティのパフォーマンスだったようじゃ。ライブレビューの一部を引用しよう。

 ~この夜最も強力な曲「YOU GAVE ME A MOUNTAIN」の力強いバージョンを披露した。大きな拍手の後、彼は「JAILHOUSE ROCK」を歌いたいと言い、この曲を演奏している間、ファンが大量に押し寄せてきた(警備員が多数いて厳重だったにもかかわらず)。エルヴィスは「JAILHOUSE ROCK」を(50年代の声のトーンで)本当に超高速バージョンで演奏し、その後、スローテンポのエンディングで動き回った。」

 続いて「HELP ME」、続いて「ALL SHOOK UP/TEDDY BEAR/DON'T BE CRUEL」のメドレー、そして「AND I LOVE YOU SO」、そして「FEVER」と続き、エルヴィスは脚を大きく動かし、歌詞を「ベルトが落ちるまで!」に変えて、「スリム」になることをいかに楽しんでいるかを見せつけた。

 最後のイントロとHAIL,HAIL ROCK N'ROLLの後、エルヴィスは(彼が知る限り)彼の最新アルバムはHURTであると発表し、彼の声の力強さをまだ聞いたことのない人は、この曲で本当にそれを聞くことになっただろう!


 個人的には、エルヴィスは確かに「良い」ショーを披露したと感じている。今夜の「POLK SALAD ANNIE」の精彩を欠いたバージョンでは、エルヴィスは疲れを感じているようだったが、48時間も経たないうちにグレイスランドに戻って最後の正式なレコーディングセッションで歌っている。

 カーボンデールでの彼の声と10月29日のレコーディングは、彼がかなり素晴らしく、ファンを楽しませていたことを証明しているのfだ。いつかこのカーボンデール ショーのサウンドボードが実現することを願っている!このツアーとカーボンデールの「完売」ショーでは、エルヴィスは最初から最後まで「興味深い」ショーを続けていたのである。


 カーボンデールの人口の推移を見てみると、2万人に到達した1960年代以降、ほとんど増減がなく、学園都市としての特徴が維持され続けている。1971年に行われた、カール・パーキンスとジューン・カーターが出演した「ジョニー・キャッシュ・ショー」と1976年のエルヴィスの超満員ライブは街の伝説的イベントとして語り継がれておる。SIUアリーナは現在バンテラ・センターと改称されて稼働中である。右写真はストリートビュー2023年10月撮影。


リンダ・トンプソンとの“ラスト・ランデブー”ホテル
Area No.8/Serial No.589 アーリントン・パーク・ヒルトン/アーリントン・ハイツ

 1970年代に合計6日(内、昼夜2回1度)を数えたシカゴ・スタジアムでのライブ・スケジュールの内、1976年10月14日だけは上記Area No.5ショアランド・ホテルではなく、シカゴ郊外アーリントン・ハイツという地域にあったアーリントン・パーク・ヒルトンにエルヴィスは宿泊した。シカゴの定宿ショアランド・ホテルがたまたまブッキング出来なかったのか、理由は不明じゃ。アーリントン・パーク・ヒルトンからシカゴ・スタジアムまでは約43キロ、車での所要時間は約30分。
 上写真右側の女性は当時のガール・フレンドのリンダ・トンプソン。彼女を伴ってホテルやライブ会場に出入りするのはこの日が最後だったとネット情報では記載されておる。

 1970年代にオープンしたこのホテルに関するネット情報も写真も乏しく、左上写真は経営がヒルトンからシェラトンに変わった2002年以降の撮影。しかも2008年に閉鎖された後の撮影写真じゃ。ホテルビルの外観はラスヴェガスのインターナショナル・ホテルによく似ており、屋上にプールがあったそうじゃ。近くには広大な緑地公園や競馬場があり、上層階からの景観は良かったらしい。

 シカゴの中心地から離れている立地からか、宿泊客よりも各種コンベンションの開催で収益を上げておったホテルらしいが、隣りにトロピカル・リゾートが建設されたことでコンベンション開催に不向きになり、2008年にトロピカル・リゾートもろとも共倒れになったとされておる。
 トロピカル・リゾートの方は取り壊されたが、ホテルは閉鎖された以降は高層アパートメントに改造され、ワン・アーリントン・アパートメントの名称で現在も稼働しておる。かつてエルヴィスが宿泊し、建物が現存しておるホテルの中でも元アーリントン・パーク・ヒルトンは未だwipipediaに書き込まれることもない、もっとも地味で無名な部類の存在かもしれない。右写真ストリートビュー2019年3月撮影。


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