NANATETSU ROCK FIREBALL COLUMN Vol.460


第79回 エルヴィスゆかりの地~ミネソタ、アイオワ州 2025年編

アップロード:2025年6月9日
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2023年初頭以来2年半ぶりにカナダとの国境周辺、五大湖近くの州を訪れてみよう!今回は世界最大の淡水湖スペリオル湖を臨むミネソタ州とその南隣りのアイオワ州じゃ。この辺りの州は回数こそ多くはないが、50年代、70年代に主要都市ではしっかりとエルヴィスのライブが行われており、ライブ情報も宿泊先情報もネットで散見することが出来る!熱狂的なファンの女の子が執念でつかんだ極秘のエルヴィス宿泊情報や、エルヴィスの運命を予見したレビューの残るライブ等、興味深いエピソードが残るゆかりの地ばかりなので、最後までお楽しみ頂きたい!

【目次】バーチャル・ロックンロールツアー エルヴィスゆかりの地
    第79回 ミネソタ州、アイオワ州
2025年編
 ・Area No.は2022年ミネソタ州、アイオワ州編からの番号
 ・Serial No.は「バーチャル・ロックンロールツアー」第1回からの通し番号です。
  
 【ミネソタ州】
 Area No.4/Serial No.566  カルホーン・ビーチ・クラブ/ミネアポリス
 Area No.5/Serial No.567 メトロポリタン・スポーツ・センター跡地/ブルーミントン
 Area No.6/Serial No.568  ダルース・アリーナ/ダルース
 Area No.7/Serial No.569  ラディソン・ホテル/ダルース
                          
 【アイオワ州】
 
Area No.3/Serial No.570 ホテル・フォート・デモイン/デモイン
 Area No.4/Serial No.571 ブラウン・ホテル跡地/デモイン
 Area No.5/Serial No.572  ヒルトン・コロシアム/アイメス
 
 【バーチャル・ロックンロール・ツアーのバックナンバー】

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★ 本文中の表記について ★

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SMW=スコッティ・ムーアのウェブサイト
SRW=サンレコードのウェブサイト
    
(※2023年から閲覧不可)
EDD=「Elvis Day By Day」 
     エルヴィス・デイリー記録集
EPC=エルヴィス・プレスリー・イン
     ・コンサート(ウェブサイト)
HAC=ヒストリック・アエリアルス
    (アメリカの空撮サイト)


 14歳の少女の思い込みからたどり着けた、エルヴィスの宿泊先
Area No.4/Serial No.566 カルホーン・ビーチ・クラブ/ミネソタ州ミネアポリス
 1950年代におけるミネソタ州でのエルヴィスのライブは、1956年5月13日の1日のみ。昼間セント・ポールのセント・ポール・オーディトリアム、夜間にミネアポリスのミネアポリス・オーディトリアムでダブル・ライブをこなしておる。(「バーチャル~カナダと国境周辺州後編」参照
 5月13日は当然ミネアポリスの方で宿泊した可能性が高いが、私設エルヴィス・サイトの数々には宿泊先の記載はない。SMWのミネアポリスのライブ記録を細かくチェックしてみると、当時14歳の女子高生が血眼になってエルヴィスの泊っておるホテルを探しまわったという当時の“追っかけ記録”が綴られた、本人からSMWに送られてきた長~い手紙の転載があり、その中に
「私はエルヴィスは“カルホーン”に泊っていると思っていました。それはスカーニングさんがそこで働いていたからです」という記載があった。

 この手紙の内容だけではエルヴィスが“カルホーンに泊まった”という証拠にはならんので、まずカルホーン自体を
調べたところ、1940年代に完成した高級コンドミニアムであり(上写真)、1950年代に館内の一部はホテルとして営業されておったことが判明。施設の正式名称はカルホーン・ビーチ・クラブであり、上写真の左側(南)にはブデマカスカという湖が広がっておる。そして「Historic Minneapolis Minnesota」というFacebookにはカルホーンが紹介されており、その中に「私の母が、カルホーンで偶然にもエルヴィス・プレスリーとエレベーターで出くわしてサインをもらったと言っていました。1956年のことだと思います」というコメントが寄せられておった!これはエルヴィスがカルホーンに宿泊したという小さな証拠になるじゃろう!

 
 上写真3枚は、ミネアポリス・オーディトリアムのバックステージで撮影されたエルヴィスとファンたちの交流写真。3枚ともミネアポリス・スタージャーナル・トリビューンという現地新聞の記者による撮影であり、特に左側の写真は今でもエルヴィスとファンとの友好関係が題材となったネット記事のイメージ画像によく転用されておる。
 そして上写真左側の右から2人目の女の子が、上述した“エルヴィスはカルホーンに泊っている”と当時思い込んでいて、SMWに手紙を送ってきたテディ嬢。彼女はカルホーンではエルヴィスに会えなかったが、ミネアポリス・オーディトリアムのバックステージに入ることが出来て、念願叶ってエルヴィスと対面することが出来たのじゃ。右端の女性は、テディ嬢が手紙の中で触れていたスカーニングさん。スカニーニングさんは現地プロモーターの娘であり、テディ嬢がバックステージに入れるように色々と知恵を授けたとか(笑)なお彼女が働くプロモーターのオフィスも、テディ嬢がSMWへの手紙で綴っておる通りにカルホーン内にあったそうじゃ。

 カルホーン・ビーチ・クラブの建物の建設は1928年に始まったが、大恐慌のために完成が約18年も遅れた。第二次世界大戦後に建設が完了し、活気のある社交クラブとなった。1950年代初頭の財政難によってクラブは破産に追い込まれ、建物は1954年にホテルに改装され、プロム、パーティー、昼食会、宴会、結婚披露宴などの社交イベントの場として宣伝された。また上層階はファッショナブルなアパートに改装された。WTCN(現在のKAREテレビとWWTCラジオ)はその頃、ラジオとテレビのスタジオを2階と3階に移転した。(以上、wipipediaより)現在は「ビーチ・クラブ・レジデンス」と改称されて営業が続けられておる。右写真ストリートビュー2023年10月撮影。



1971年11月ツアーのスタート・ライブはカラー写真無し?
 Area No.5/Serial No.567 メトロポリタン・スポーツ・センター跡地/ミネソタ州ブルーミントン

 1971年11月5日、この年のラストツアーはミネソタ州ブルームミングトン・メトロポリタン・スポーツ・センター(左写真)からスタートした。同州では1956年5月以来約15年半ぶりのライブである。
 残念ながらライブレビューはネット上で見つからなかったが、この日のライブに関するいくつかの特徴的な事実を記しておきたい。

 まずバックシンガーの布陣からインぺリアルズがこの日から消えた。1966年に発表したゴスペル・アルバム「ゴールデン・ヒム」のセッション以来、エルヴィスをサポートしていたこのゴスペル・バンドはツアー参加からわずか1年あまりでキングの舞台から降りてしまったのじゃ。
 理由は色々と憶測を呼んだものじゃが、どうやらパーカー大佐が「バックシンガーごときにぎょうさんのギャラを払えるか!」と勝手にインぺリアルズをクビにしたという説が強い。言い換えれば、代わりに採用されたスタンプス、J.D.サムナーの初登場がこの日じゃった。信頼するバック・メンバーと大佐とのこの類のトラブルに、エルヴィスは生涯付き合わされておるのじゃ・・・。
 次にエルヴィスがマントを派手に広げてライブのラストを飾るアクションは、この日からスタートしたこと。(そのアクション写真が見つからないが・・・)マントを広げるアクション自体は、その後「How Great Thou Art」「The Impossible Dream」「Bridge」を歌う時にも見られるようになった。
 更に、この日のライブのカラー写真が見つからないことも記しておきたい。10日後のミズーリ州カンザスシティでのライブとエルヴィスが着用したジャンプスーツがまったく同じであることから、現在のところネット上にアップされた写真は、両日のライブ写真データがごちゃまぜになっておる。ベルトもマントの裏地も、またTCBバンドやスイート・インスピレーションの衣装まで同じなので判別が付かないが、わしになりに両日の写真の細かい違いを探して精査した結果、どうやらこの日のライブ写真でカラーは現在のところ無しじゃ。

 メトロポリタン・スポーツ・センターのオープンは1967年。それから4年後、エルヴィスのライブによって初めて15,000人のキャパを大幅に上回る超!大入り満員(17,400人)の日を迎えることになった!長過ぎる会場名は地元では短縮名「メット・センター」と呼ばれており、1982年からはこの短縮名が正式名称になった。
 なお1976年10月17日にもこの会場でエルヴィスのライブが行われておる。また1982年1月15日、2023年にその短い生涯が映画化されて大ヒットした、ヘヴィメタル界の伝説的ギターヒーローのランディ・ローズが、飛行機事故で死亡する約二ヶ月前にこの会場に出演しておる。メット・センターは1994年に取り壊され、現在は巨大ショッピングモールの駐車場になっておる。右写真ストリートビュー2017年5月撮影。


 1976年10月16日。“この少年は1年もたないだろう”
 Area No.6/Serial No.568 ダルース・アリーナ/ミネソタ州ダルース
 ミネソタ州ダルースとは、州都セントポールから北へ約200キロ、同州とウィスコンシン州とカナダとの間に横たわる世界最大の淡水湖スペリオル湖の西端沿岸にある人口約8万人の港湾都市じゃ。エルヴィスは1976年10月16日、丁度2年ぶり、1974年10月2日セントポールのシビック・センター以来(「バーチャル~カナダとその国境周辺州後編」Area No.2参照)のミネソタ州のライブをダルースで行った。(翌日は、上記Area No.5 ブルーミントンでライブ。)

 ダルースでのライブは翌1977年4月29日にも行われており、この2回のライブはいずれもダルース・アリーナ(左下写真)が使用され、地元の優秀なコラム二ストが丁寧で冷静なライブ・レビューを残していてネットでも閲覧出来るので一部引用しておこう。新聞記者の報道義務的なレポートや音楽評論家の専門的なツッコミとは一線を画する、コラムニストらしい温かくも預言者のような指摘が印象的じゃ。
 まず1976年のライブレビューから。

「エルヴィスが歌えば歌うほど、観衆は彼を愛した。彼らが最も彼を愛したのは、彼が首から汗まみれのシルクのスカーフをステージの端までたどり着いた数少ない熱狂的なファンに回し始めた時だった。」

「41歳のプレスリーは驚くほど健康だ。今は少しがさつになったが、まだ引き締まっている。金の錦織りで縁取られた白いスーツは、彼をこの世のものではないように見せているが、ある意味ではそうでもない。エルヴィスは、自身のノスタルジアをうまく​​利用して長く人気を維持した数少ないエンターテイナーの 1人であり、若者、年配者、さらには高齢のさまざまな観客を集めた。しかし観客の大半は、ハートブレイク ホテルがポピュラー音楽の流れを永遠に変えたころの、現在30歳代の人々だった。」


「エルヴィス・プレスリーは単なるエルヴィス・プレスリーではない。12人編成のオーケストラ、10人のバックシンガー、そして舞台裏で何人かの人は、多くの人にとっての夢をつかむことに成功したこのユニークなシンガーを自分たちの水先案内人として必要としているのだ」

 更に1977年のライブ・レビューじゃが、こちらは「エルヴィスの魔法は未だ健在」「かなり太ってしまっているが、巷で噂されているよりはずっと健康的に見える」といった好意的な見方をしているが、最後の最後で暗示的な一節が書き残されておる。

 評論家の間では、エルビスの勢いが衰えつつあると評するのが流行り始めているが、ミシシッピ州テューペロ出身のこの少年を過小評価するのは危険だ。彼が20世紀半ば以降のポップ カルチャーに与えた衝撃は疑いようがないが、(何故だか)ラジオ コメンテーターのポール・ハーベイが1955年に言った言葉が思い出される。“この少年は1年もたないだろう”。

 エルヴィスはこのライブの三ヶ月半後に亡くなるが、レビューの最後で「この少年は1年ももたないだろう」という50年代のラジオDJのトンデモナイ失言が“別の意味”での予言として思い出されるようなライブだったのじゃろう・・・か?わし個人的には、このような表現はコラムニスト独自の感性が生んだ予言であり、エルヴィスを愛するが故の悲しくも美しい指摘にも思える。

 スペリオル湖沿岸に面した敷地に建てられておるダルース・アリーナは、現在はダルース・エンターテイメント・コンベンション・センターと改称されて現役のイベント会場として稼働中である。右写真ストリートビュー2017年5月撮影。
 なお、右写真左側や、当ページのスライド写真の中に映るアーチは、ミネソタ州とウィスコンシン州を繋ぐジョン・A・ブラニック橋の上部に架かっており、ダルースのシンボル的役割を果たしておる。


キング宿泊に相応しい、世界最大の淡水湖を臨むレイクビュー豪華ホテル
 Area No.7/Serial No.569 ラディソン・ホテル/ミネソタ州ダルース

 二度のミネソタ州ダルースでのライブの際、エルヴィスはいずれもダルース・アリーナから車で僅か3分、距離にして800メートルしか離れていない地元の老舗ホテルであるラディソン・ホテルに宿泊した。上写真左側の円筒形の高層ビルがラディソン・ホテルであり、360度パノラマでダルースの街を鑑賞出来る構造じゃ。写真中央上の濃い水色の部分がスペリオル湖であり、エルヴィスはスペリオル湖が一望できるレイクビュー側1515室に宿泊したとされておる。
 またラディソン・ホテルのエルヴィスは、パパラッチに1枚隠し撮りされており(上写真中央)、これは1976年にホテルの建物西側の駐車場から館内へ通じる従業員用出入口から入る際に撮られたものじゃ。
 さらに上写真右側は、従業員用出入口へ通じる1階エレベータ乗り場で写されたものであり、これは地元の新聞記者の撮影じゃ。エルヴィスの背後にジンジャー・オールデン(最後のガールフレンド)が写っておるので、1977年宿泊時の撮影であることが分かる。

ラディソン・ホテルの歴史のスタートは20世紀初頭であり、第1号館はダルースの別の場所に建てられた。エルヴィスが宿泊したスペリオル湖近くのラディソン・ホテルは1970年にオープンした。20世紀には全米各地に幅広くチェーン展開をしていたラディソン・ホテルも、21世紀には別の大手ホテル・チェーンに売却されたそうじゃが、このホテルは未だにラディソンを名乗っておる。現在の名称はラディソン・ホテル・ダルース・ハーバー・ビュー。
 右写真はいずれもストリートビュー2023年8月撮影。左写真は、南側の正面入口。右写真は49年前にエルヴィスがパパラッチに隠し撮りされた西側の従業員出入口(赤枠内)


宿泊年度不明ながら、エルヴィス宿泊の可能性大な2つのホテル
 Area No.3/Serial No.570 ホテル・フォート・デモイン/アイオワ州デモイン
 Area No.4/Serial No.571 ブラウン・ホテル跡地/アイオワ州デモイン

 アイオワ州の州都デモインでは、エルヴィスは1956年5月22日、1974年6月20日、1977年6月23日の3度、いずれもベテランズ・メモリアル・オーディトリアムでライブを行っておる。(「バーチャル~第22回」Area No.1参照)
 デモインでの宿泊先情報は2件あり、まず1件がホテル・フォート・デモイン(上写真左側)。1918年にオープンした当地の老舗豪華ホテルであり、数多くネットにアップされている当ホテル関連コラムには必ず“エルヴィス・プレスリーが宿泊した”と記されておる。1956~57年のエルヴィス大全盛時代では、ツアーの先々でエルヴィスはこの類のVIP向けホテルを使用しており、それは恐らくパーカー大佐によるエルヴィスの権威付けの方針でもあったのじゃろう。

 もう1件はブラウン・ホテル。このホテルに宿泊したという情報は、ネット上では現在「Note on Iowa」というFacebookにのみ掲載されておる。しかしこのFBには、ブラウン・ホテルのカフェにエルヴィスがやって来て、女性従業員が差し出したホテルのポストカードの裏面に“バンドとともにこのホテルに宿泊していたエルヴィス”がサインをしてくれたと記載されている。しかもサインには“1956”と書かれておる!(上写真右側)サインをもらった女性が「エルヴィスはこのホテル(ブラウン・ホテル)に泊っているんだわ!」と勘違いした可能性もなきにしもあらずであり、果たして1956年のデモインのライブではエルヴィスはどちらのホテルに泊まったのであろうか?

 また右写真は1977年デモインのホテルからライブ会場に向かう時にパパラッチが隠し撮りした1枚じゃが、ホテル名が分らない・・・。70年代のツアーでは、エルヴィスはヒルトンやシェラトンといった大手チェーン・ホテルに宿泊する場合が多かったが、ここは何処のホテルだったのじゃろうか。
 これまでご紹介したネット上のデータと写真から、1956年はブラウン・ホテル、1977年はホテル・フォート・デモインという可能性はありじゃ。なお、両ホテルともにライブ会場のベテランズ・メモリアル・コロシアムまでは至近距離にあった。(ホテル・フォート・デモインが車で3分1.5キロ、ブラウン・ホテルは車で1分450メートル)

 ホテル・フォート・デモインは、エルヴィスをはじめとしたビッグ・ミュージシャンや映画スターたち、また歴代のアメリカ大統領たちや世界各国からの賓客が宿泊した歴史を重ね、現在も「ホテル・フォート・デモイン・キュリオ・コレクション・バイ・ヒルトン」として稼働中。(下写真左側ストリートビュー2024年5月撮影)
 一方ブラウン・ホ」テルに関する詳細はネット上で乏しく、オープンやクローズした時期も不明じゃが、何故かかなりの種類のポストカードが残されていて海外オークション・メニューをささやかに賑わせておる。現在跡地にはアイオワ州政府事務所ビルが建てられておる。(下写真左側ストリートビュー2024年5月撮影)



 20年待った街のママ、パパ大集合!エルヴィスよ、わが青春よ、永遠なれ!!
 Area No.5/ Serial No.572 ヒルトン・コロシアム/アイオワ州エイムズ

 ミネソタ州の南側に隣接するアイオワ州における1950年代のエルヴィスのライブは、ミネソタ州と同じく2ヵ所のみ。1956年5月22日州都デモインのデモイン・ベテランズ・オーディトリアム(「バーチャル~第22回」Area No.1参照)、翌23日スーシティのミュニシパル・オーディトリアム(同Area No.2参照)じゃ。
 デモイン・ベテランズ・オーディトリアムは70年代にも2回(74年6月20日、77年6月23日)ライブが開催されたが、その他の都市では、1976年5月28日にエイムズという街にあるヒルトン・コロシアムで行われた。エイムズは州都デモインの真北50キロにあり、ヒルトン・コロシアムは、アイオワ州立大学の広大なキャンパスの中に1971年に建てられたスポーツ・イベント会場である。

 エイムズにエルヴィスがやって来たのは勿論この日が初めてであることから、ライブ・レビューの冒頭はなかなか感動的じゃ(笑)

「エイムズ-20数年とさらに1時間後、エルビスが金曜日の夕方エイムズにやって来た。14,500人のアイオワ州民が準備を整えていた。本当に準備万端だった!
 50年代半ばにエルヴィスにキャーキャー言っていたお母さんたちは、エルヴィスが腰を振ると悲鳴をあげた。額を拭うと悲鳴をあげた。そして、ああ、とエルヴィスがため息をついたときも・・・。お母さんたちはまだ悲鳴をあげていた、.というか泣いていた。エルヴィスはとても美しかった。スパンコールのついたベストを着けたパウダーブルーのスーツを着た彼は本当に美しかった。そして少し太っていた。」

 また大観衆が待ちに待ったエルヴィスの登場シーンや、観客の大歓迎の様子に対するエルヴィスの一種自虐的な発言やアクションも、とてもおもしろく描写されておる。

エルヴィスは歓喜の声を受けながらも息を呑んだ。そして“まだ何もしてないよ”と言った。それは本当だった。彼は観客の熱狂的な歓声の中、膝を股関節内で回したりした。“これがすべての始まりだったね”と言った。」

「観客の熱狂をよそに、自分自身を笑い飛ばし、かつての自分自身や自分の作品を真剣に受け止めないように振舞う彼の能力こそ、彼の人気を保っている要因の一つである」

 そしてレビューの締め括りは、当時のエルヴィスのライブに駆け付ける観客たちの真意とライブの価値そのものが、独特のリアリティを伴って書き尽くされておる。いつの時代のキングの描写も、世俗的な装飾など必要ない!1976年5月28日アイオワ州エイムズでは、そう思わせる素晴しいライブが繰り広げられたと信じておきたい!

「If You Love Me Let Me Know」、「Jailhouse Rock」、「How Great Thou Art」、そしてもちろん「Hound Dog」。最近録音された「You Hurt Me」は、観客の絶賛を得て2度演奏された。
「素晴らしい!」と、ドーソン通り853 番地に住むデール・ウィルソン夫人は言った。彼女の夫とウェストランド1224番地に住むジェームズ・ストウは、5週間前、割り当てられた10 枚のチケットを購入するために雨の中一晩中立っていた何百人もの人々のうちの1人だった。「ああ、とても気に入りました」と、936カーン ストリートのディーン・チャーチ夫人は言う。「最高だと思いました」と、153リンウッド・アベニューのジョン・パジェット夫人も言う。「彼に会うのを20年待ちました。ただ、ただうれしいです」と、6440インディペンデンス・アベニューのコンラッド・ドアン夫人も言った。ほとんどすべての母親たちが、娘時代と同じように感じていたし、父親の中にもそう感じた人がいた!

 アイオワ州立大学の男子バスケットボール・チームであるサイクロンズの本拠地会場であるヒルトン・コロシアムは、サイクロンズがこの会場で劇的な勝利“ヒルトン・マジック”を飾ることでも有名じゃ。上記ライブ・レビューから察すると、ヒルトン・マジックは、エルヴィス・マジックまで呼び起こしたようじゃな(笑)
 会場以来改称されることもなく、現在でも現役のスポーツ会場、イベント会場としてヒルトン・コロシアムは稼働しておる。右写真ストリートビュー2015年10月撮影。


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