NANATETSU ROCK FIREBALL COLUMN Vol.459


第78回 エルヴィスゆかりの地~ネバダ州、アリゾナ州 2025年編

アップロード:2025年5月23日
(上部スライダーは自動的に別写真へスライドし続けます。またカーソルをスライダー部分に置くとスライドが止まり、左右に矢印が表示されますので、矢印をクリックすると別写真にスライド出来ます。)

昨年度3回にわたってご案内したラスべガスのあるネバダ州、またその東南に位置するアリゾナ州を今回のツアーで再訪するぞ。エルヴィスのベガス情報といえばインターナショナル・ホテルとその周辺の豪華ホテルが大半じゃが、こぼれバナシ的なエピソードを拾い集めて他のゆかりの地も探し当ててみた!またアリゾナ州は70年代に行われた2ヶ所のライブ会場じゃ。どちらもライブ当日のネット情報が少なかったものの、ライブ当日の聞き逃せないエピソードだけは見つけたのでご紹介致します!


【目次】バーチャル・ロックンロールツアー エルヴィスゆかりの地
    第78回 ネバダ州、アリゾナ州
2025年編
 ・Area No.は2023年ネバダ州、アリゾナ州編からの番号
 ・Serial No.は「バーチャル・ロックンロールツアー」第1回からの通し番号です。
  
 【ネバダ州】
 Area No.19/Serial No.561 フーバー・ダム/ミード・マリーナ湖
 Area No.20/Serial No.562  サーカス・マキシマス跡地/ラスヴェガス
 Area No.21/Serial No.563 センテニアル・コロシアム/レノ
 
 Area No.12/Serial No.401  ★ラスヴェガス・インターナショナル・ホテル追加情報★
                           Part-3 コンベンション・ホール
                           Part-4 エルヴィス・スイート
 【アリゾナ州】
 
Area No .8/Serial No.564  ツーソン・コンベンション・アリーナ/ツーソン
 Area No. 9/Serial No.565 ASU・アクティビティ・センター/テンペ
 
【バーチャル・ロックンロール・ツアーのバックナンバー】

★右下地図をクリックすると拡大表示されます。(クリック↓)

★ 本文中の表記について ★

←このマークをクリックすると、
Google-map上の位置が表示されます。

SMW=スコッティ・ムーアのウェブサイト
SRW=サンレコードのウェブサイト
    
(※2023年から閲覧不可)
EDD=「Elvis Day By Day」 
     エルヴィス・デイリー記録集
EPC=エルヴィス・プレスリー・イン
     ・コンサート(ウェブサイト)
HAC=ヒストリック・アエリアルス
    (アメリカの空撮サイト)


干ばつで消えゆく、エルヴィス&アン・マーグレットが水上で躍動した湖
Area No.19/Serial No.561 フーバー・ダム&ミード・マリーナ湖/ネバダ州
 フーバー・ダムとは、ネバダ州とアリゾナ州の州境を流れるコロラド川のブラックキャニオンにある、1936年に完成したコンクリート製の重力式アーチダムじゃ。ラスベガスの南東約40キロの位置にある。フーバーダムによってせき止められたコロラド川の川幅が広がった流域がミード・マリーナ湖(左写真)じゃ。その湖畔は様々なマリンスポーツや釣りの愛好家たちが利用するリゾート地域になっておる。

 ミード・マリーナ湖の貯水量は米国最大であり、アリゾナ州、カリフォルニア州、ネバダ州、およびメキシコの一部に水を供給し、約2,000万人の人々と広大な農地に水を供給している。それでも湖は近年は干ばつと水需要の増加により、1983年以来満水量を下回ったままとなっている。(wikipediaより)
 エルヴィスは映画「ビバ!ラスベガス」」の撮影のためにミード・マリーナ湖湖畔を1963年7月24日にアン・マーグレットとともに訪れて3日間を過ごしたとされておる。
 エルヴィスとアン・マーグレットが実際に水上スキーに興じたシーンがダムの近くだったのか、また湖のどのあたりだったのか、上2枚の写真は(特に左側は当時の合成写真の様でもあるので)判断する材料にはなりそうもない。まあ2人の息の合ったツイン・ダンス・シーン同様に、ここでも撮影が順調に行われたことを証明するような微笑ましい写真ではある!
 エルヴィスとアン・マーグレットの2ショットの全てが、2人が映画の共演で初めて会ったとは信じられない様なグッド・コンビネーションのオーラに溢れているのであらためて驚いてしまう!これじゃあ、結婚前のプリシラが嫉妬するのも無理もない(笑)なお、映画の中でアン・マーグレット演じるヒロインの住処も、湖畔の家屋が撮影に使用されたんだそうじゃ。

 参考のためにもう1枚の写真(左写真)をご紹介するが、これは「Elvis Las Vegas」もしくは「Elvis Hoover dam」のワードでネット検索するとヒットする。撮影データは「1956?」のみ。1956年のラスヴェガス・ライブ期間の休暇でエルヴィスはこの地域を訪れたのかもしれないが、数々の私設エルヴィスサイトでの情報記載は見つからなかった。あくまでも参考資料として掲載しておくぞ。

 ストリートビューで湖の周囲を辿ると、wikipediaに記載されておる以上に湖の干ばつが進んでおり、もはやリゾート地として機能してはいないような深刻な状況になっておる。自然状況による被害だけは、栄えあるエルヴィスゆかりの地であってもどうにもならない・・・。
 右写真はダムの貯水量の少なさが分かるストリートビュー2014年6月撮影。10年前の撮影なので現在はもっと貯水量は減っており、もはやダム自体が無用の長物になりかねない状況のようじゃ。



N・シナトラやT・ジョーンズの応援にエルヴィスがやって来た!
Area No.20/Serial No.562 サーカス・マキシマス跡地/ネバダ州ラスヴェガス

 昨年度(2024年)のネバダ州編にて、3回にわたってラスヴェガスのエルヴィスゆかりの地をしらみつぶしにご案内したはずじゃったが、事前調査の段階で一ヵ所重大な見落としがあった!調査隊のまめ鉄君を厳しくシメにゃならんな!(笑)
 エルヴィスは1970年8月6日、1974年9月3日の2回、ラスベガス最大のカジノ&ホテルであるシーザース・パレス(左写真)内にあった劇場サーカス・マキシマスにやって来ていたことがネット上にアップされておった!

 まず1970年8月6日は、この日フランク・シナトラ主催のシーザース・パレス開業4周年記念パーティーが催され、祝典演目としてシナトラの娘ナンシー・シナトラのショーが行われた。招待されたエルヴィスは正装姿でこの祝典にやってきた。(上写真3枚)
 ナンシー・シナトラのショーは途中からボーイズ・グループのオズモンズも出演し、ナンシーとともにほのぼのとしたショーを披露した。映画「スピードウェイ」(1968年公開)での共演でナンシーと意気投合したこともあって、エルヴィスは喜んでシーザーズ・パレスへ足を運んだと言われておる。残念ながらこの日のエルヴィスとナンシーの2ショットはネット上では見つからなかった。
 なお同様のヴェガス写真の中でエルヴィス、ナンシー、シナトラが談笑しておるが(右写真)、こちらは約1年前の1969年8月29日に行われたナンシー・シナトラ主賓のパーティーであり、会場はインターナショナル・ホテルであったのでお間違えの無いように。

 次に1974年9月3日エルヴィス2度目のサーカス・マキシマスでの記録は、この日開催されたトム・ジョーンズのライブをエルヴィスが観に来た時じゃ。(下写真3枚)この時は当時のガール・フレンドの一人シェイラ・ライアン嬢を伴って現れた。
 なお1968年6月18日には、フラミンゴ・ホテルでのトムのライブもエルヴィスは鑑賞しており、この時はバックステージでのトムとの写真が残されておる。(「バーチャル~ネバダ州2024年中編Area No.7参照」)
 
 この日のトム・ジョーンズのライブでは、エルヴィスはラストソングがスタートすると突然ステージへ上がり、当時お得意の空手スタイルのステージ・アクションを披露して大喝采を浴びたとされておる。(当ページ・スライド写真、上写真下段右側参照)

 サーカス・マキシマスは2000年に閉鎖され、同じ場所には「コロシアム・アット・シーザース・パレス」という新しい劇場が建設されておる。サーカス・マキシマス/コロシアムの歴代出演者たちは、そのリストの中にエルヴィスの名が無いことが不思議なぐらい、見事なまでに歴史的超一流ミュージシャンばかりじゃ。コロシアムのキャパは4,100人であり、これはインターナショナル・ホテル(現ウェストゲート・ラスヴェガス)の3,000人を上回る規模。右側ストリートビュー2022年10月撮影。


ラスヴェガス・ヒルトン、レイクタホー以外の唯一のネバダ州ライブ
 Area No.21/Serial No.563 センテニアル・コロシアム/ネバダ州リノ
 エルヴィスの1970年代のネバダ州におけるライブは、“ロングラン地獄”のラスヴェガス・ヒルトン・ホテルと、セミ・ロングランだったレイク・タホー・サハラ・ホテルの二ヵ所のみと思い込んでおったが、もう一ヵ所ありました!
 レイク・タホーの街から真北約70キロ、レイク・タホー同様にカリフォルニア州との州境に位置するレノという街のセンテニアル・コロシアム(左写真)で1976年11月24日にエルヴィスのライブが行われておった。
 
 このレノという街、西側はカリフォルニア州の山岳地帯、それ以外の方角は広大なネバダ州の砂漠地帯であり、地図で見る限りでは“陸の孤島”。
 街の歴史を少々調べても、20世紀初頭に金の産出地として一時的に栄えたものの、やがて鉱物採掘場は廃坑となり、1930年代から人口も減少していった模様。1980年になってカジノによる観光業によって復興し始めたようじゃが、よくもまあ復興前の地域をパーカー大佐がブッキングしたもんだと驚いた。たまたま1976年11月24日にレイクタホーのサハラ・ホテルがブッキング出来なかったための代替え地かとも思ったが、その日付前後にサハラ・ホテルのライブは無し・・・。しかしながら、1976年に9度行われたツアーのうちの8度目のスタート地がレノであった。
 マスコにほとんど注目されなかったのか、収容人員数7,500の会場にはお客があまり入らなかったのか、ネット上ではライブレビューはなく、写真もピントのブレた数枚のオーディエンスショットのみ。幸運にもライブの告知ポスターの写真はあった!(左写真)
 なお数多くの私設エルヴィス・サイトでは、この日のライブに関する記述はほんの僅かで同じ内容じゃ。“この年8度目のツアーを、リンダ・トンプソンを伴ってエルヴィスはここからスタートさせた”。

 センテニアル・コロシアムのオープンは1965年。上記したリノの歴史からではこの時期の建設はとても意外じゃが、エルヴィスの前にはビーチボーイズがオープン直後にライブを行った経緯がある。既にリゾート地として賑わっていたレイク・タホーから観光客が流入していて、60年代から街の復興の兆しがあったのかもしれない。現在会場の名称はリノ・スパークス・コンベンション・センターとされておる。右写真ストリートビュー2022年7月撮影。


 未だ知られざる“監獄ホテル”の使い勝手!?
  Area No.12/Serial No.401 インターナショナル・ホテル追加情報 
                  Part-3 コンベンション・ホール  

 「バーチャル~ネバダ州ラスヴェガス編②」にて、エルヴィスのラスヴェガスの活動拠点にして、ラスヴェガス唯一の出演場所であった旧インターナショナル・ホテル(後にヒルトン・インターナショナル。現ウェストゲイト・ラスヴェガス)へご案内した。その際エルヴィスがステージに立ったホテル内のインターナショナル・シアター(Part-1)を主体としてご紹介し、「ラスヴェガス編③」ではエルヴィスが当時のボクシング世界ヘビー級チャンピオンだったモハメド・アリを訪ねた「アリ・スイート」(Part-2)をご紹介した。今回はさらに二ヵ所の場所を追加情報として掲載させて頂くぞ。

 Part-3は、1969年8月1日インターナショナル・ホテルでの初演の翌日に、ホテル内でエルヴィスの記者会見が行われた場所じゃ(上写真)。私設エルヴィス・サイトのほとんどは“Press Conference”(記者会見場)としか記載しておらんが、ホテル内の広大なコンベンション・ホールの一画を仕切って行われた。
 エルヴィスは「ライブを行うことが待ち遠しかった」「三週間のリハーサルを終えて、選曲を含めて準備万端である」と述べ、また出演してきた映画の脚本やサウンドトラック用のレコーディングにうんざりしていることも素直に吐露しておる。ようやく自分自身が納得出来る場所(ライブ会場)に回帰したことの喜びがダイレクトに伝わってくるインタビューじゃ。

 このコンベンション・ホールは、約1年後に映画「エルヴィス・オン・ステージ/That's the way it is」用の演奏のための最終的なリハーサル会場(1970年8月上旬)としても使用された。映画のリハーサル場は、「バーチャル~カリフォルニア州2025年編」(前回)でご案内したハリウッドのMGMスタジオやRCAスタジオ、更にこのコンベンション・ホールと三ヶ所で行われ、それぞれに撮影されて映画の中へ断片的に挿入されておる。
 右側地図は現ウェストゲイト・ラスヴェガスの1階の見取り図。(画像をクリックすると拡大画像が見られます)
ピンク色の部分がコンベンション・ホール。この中の何処か一画が仕切られて記者会見、またはリハーサルが行われたのじゃ。赤丸内が636回ものソールドアウト・ライブが繰り広げられたインターナショナル・シアター。青枠内は新しく設置されたエルヴィス記念館じゃ。

 上写真3枚、下写真3枚はいずれもコンベンション・ホールでの撮影。上3枚は、ハリウッドのMGMスタジオからリハーサル場を移した直後の撮影と思われる。MGMスタジオ時同様に、エルヴィスの風貌がミュージシャンらしくワイルド!下3枚はリハーサル後半の撮影か。前半よりも俄然本番を意識したようなエンターテイナー的な風貌に変化しておるようじゃ。



Area No.12/Serial No.401 インターナショナル・ホテル追加情報 
                       Part-4 エルヴィス・スイート
 インターナショナル・ホテルの最上階に設置された超豪華なペントハウスが、同ホテルのオープンからエルヴィスが死去するまでの約8年間は「エルヴィス・スイート」と呼ばれたエルヴィス専用フロア(専用ルーム)じゃった。随分とネット上で検索しまくったものの、現時点ではエルヴィスが宿泊していた当時のスイート内の写真は見つからなったが、玄関外周りを含めて、僅かな関連写真を掲載しておくので御覧頂きたい。

 上写真左はホテル最上階部分の外装。上写真中央はエルヴィス・スイートの玄関プレート。上写真右側は玄関前フロア。(いずれもエルヴィスの死後、空き室時の撮影と思われる)「2335」のナンバー入りルーム・キーの写真は、エルヴィスが使用していたルーム・キーとして某オークションに出品されていた物。(最低落札希望金額が500ドル程度だったこともあり、真偽のほどが怪しいがご参考までに)
 下写真左側は、エルヴィスの死の約半年後、1978年の早い時期にテレビ放映されという「エルヴィス・スイート」の動画の静止画。エルヴィス使用時のエッセンスをもっとも感じられる動画なので、僅か36秒とはいえyou tubeでチェックしてみてくれたまえ。
 下写真中央は、上記した動画よりももっと後、1989年8月に撮影された写真を集めた動画から。まだエルヴィス使用時の調度品がそのまま設置されていると思われる。映画「エルヴィス」では「エルヴィス・スイート」はかなりけばけばしくデコレートされておったが、実際はもっとシンプルだったようじゃ。(you tubeはこちら)下写真右側は映画「エルヴィス」で使用された「」エルヴィス・スイート」のセット。
 「エルヴィス・スイート」は、一時期観光客向けの「エルヴィス・ツアー」の中に組み込まれて数多くのファンが拝観したようじゃが、21世紀になって取り壊されることに。現在は「スカイヴィラ」の名称で一般公開されておるものの、エルヴィスが長期滞在していた頃の雰囲気は一切なく、豪華な調度品で飾られた“ありきたりな”超ハイクラス・スイートになっておる。(you tubeの映像はこちら


若きリンダ・ロンシュタッドもエルヴィスを観た!だろうか?
 Area No.8/ Serial No.564 ツーソン・コンベンション・アリーナ/アリゾナ州ツーソン

 アリゾナ州でのエルヴィスのライブは1956年に2回、それから14年後の1970年にフェニックスのメモリアル・コロシアム(「バーチャル~2023年アリゾナ州編」Area No.6参照)、さらにツーソンという街で1972年11月9日と1976年6月1日に行われた。ツーソンでは1956年6月10日以来の開催(「バーチャル~2023年アリゾナ州編」Area No.2参照)となった。70年代のライブ会場は両日ともにツーソン・コンベンション・センター(左写真)じゃ。

 アリゾナ州ツーソンといえば、70~80年代の全米を代表する歌姫だったリンダ・ロンシュタッドの生まれ故郷であり、彼女は大スターになった後もツーソンに住居を構えていて、大のリンダ・ファンだったわしのタリナイ脳みそにもツーソンという都市名がインプットされたもんじゃ(笑)
 何故かwikipediaには記載が無かったが、リンダ・ロンシュタッドは少女時代から熱狂的なエルヴィス・ファン。確かわしの中学生時代に日本で発行されておったFM雑誌に人気シンガー物語みたいな漫画があり、「リンダ・ロンシュタッドの巻」では、少女のリンダがラジオから流れてくるエルヴィスの歌声に陶酔しておるシーンが描かれておったのをよく覚えておる!1978年に発表されたリンダのアルバム「リビング・イン・ザ・USA」では「ラブ・ミー・テンダー」の素晴しいカバーが披露されておった。

 さて1970年代に行われた2度のエルヴィスのツーソンのライブは、現在のところネットにアップされたライブ写真は、動画の静止画像的な低クオリティのものか、遠目のオーディエンス・ショットしか無いのが残念。テキストデータも、他州ではほぼ例外なく地元サイト等で読める「懐かしいライブの記憶」的な記事も無いに等しい。要するにライブ当時の地元マスコミのお仕事が未だに封印されたままなのじゃ。これは一体どういうことなのか?
 唯一、ライブ当時の地元メディアのライブレビューを掲載しておるEPCにおいて1972年11月9日の僅かなライブ・レビューが掲載されておるので紹介しておこう。

「ラスベガスから連れて来た大編成の金管楽器バンドをバックに迎えたプレスリーは、「ドント・ビー・クルー」、「ワン・ナイト・ウィズ・ユー」、「ハートブレイク・ホテル」、「アイム・オール・シュック・アップ」のアップビートな演奏と、ビートルズの「ゲット・バック」などのより現代的な曲を組み合わせた、洗練されたパフォーマンスを披露した」

「ステージに彼が登場すると、高い位置の席に座っていた一人の女性がこのスーパースターを見て悲鳴を上げた。パフォーマンス中、警察は最前列にいた数人の女性がステージに登ってシンガーに触れようとしたのを制止する必要があった」

「プレスリーは、ファンに彼の有名な思わせぶりな視線を存分に浴びせ、時折、お礼としてスカーフを投げ、ため息や悲鳴を誘った。そのほとんどは30代と思われる観客は、各曲が終わるたびにプレスリーに熱烈な拍手喝采を送った」

「37歳のエルヴィスは、推定 96,722,000 枚のシングルを売り上げ、32本の映画に出演した。彼の官能的な笑みとヒップを揺らすリズムは、1954 年に「That's All Right, Mama」や「Blue Moon of Kentucky」で大ヒットしたときとほとんど変わっていない」

以上、お世辞にも適切なライブ・レビュー、報道記事には読めない。これだけが全てではないはずなので、プロショットのライブ写真といい、ライブ詳細記事といい、お蔵入り(?)になっていたメディアの記録に今後光が当てられることを期待したい。

 僅かな追加情報をおひとつ。1972年のライブで12曲目に歌われた「ラブ・ミー・テンダー」は、ブートレッグ音源の解説サイトにおいて“当時の同曲のライブでは出色の出来だった”と記載されておった。それを目にして、ついつい「当時駆け出しのリンダ・ロンシュタッドが会場にいて感動し、後々のカバーを決意したのかも!?」とわしは勝手に想像してみたわけであります!情報が少ない場合はあれこれ空想を膨らませてみたくなるもんです!!

 またEPSに転載されていた1976年6月1日のライブ・レビューにはライブに関する記述はなく、この日のエルヴィスの興業収益が史上ナンバーワンになったことのみ報じておる。
「エルビス・プレスリーは、この日ツーソン・コンベンション・アリーナの単独公演で興行収入トップの座を奪還した。昨年10月に演奏したイギリス人歌手エルトン・ジョンに一時的にその座を奪われたが、6月1日にここで行われた完売公演でプレスリーの集客力は再び発揮された。プレスリーの出演の興行収入は 113,495 ドルとなり、エルトン・ジョンの記録である93,000 ドルの入場料を楽々と上回った。プレスリーとジョンの両名ともアリーナの 9,000 席を埋めたが、プレスリーのチケットの方が高額だったため、新記録となった。」

ツーソン・コンベンション・アリーナは大中小3つのイベントホールを擁する複合施設コンベンション・センターの敷地内にあり、収容人員数約9,000人のアリーナのオープンは1971年。翌年行われたエルヴィスのライブが最初の超大入り満員となった。右写真ストリートビュー2023年4月撮影。
 なおコンベンション・センターでは2016年に大統領選挙に出馬したトランプ候補の演説が行われたが、地元の警察や警備サービスに対して未だ8万ドル以上の報酬金の未払いがあるそうじゃ!(wikipediaより)また中型ホール(約2,300人収容)は、現在「リンダ・ロンシュタッド・ミュージック・ホール」と命名されておる。


“君は僕がここまで成功するとは思わなかっただろうね”
 Area No.9/Serial No.565 ASU・アクティビティ・センター/アリゾナ州テンペ

 1977年3月23日、エルヴィスは“生涯最後”のツアーをアリゾナ州テンペのASU・アクティビティ・センターでスタートさせた。“生涯最後”という括りについて異論のある方もいるじゃろうが、詳細は文末に記述致すのでご了承頂きたい。またこの日は、アリゾナ州でのエルヴィスのラスト・ライブとなった。

 テンペはアリゾナ州の州都フェニックスの都市圏内にあり、会場名のASUとはArizona State University(アリゾナ州立大学)の略であり、アクティビティ・センターは大学キャンパス内のイベントホールじゃ。左写真通り、アクティビティ・センターは巨大なUFOの様な建物であり、周囲の景観も含めて、これが大学キャンパス内とはやはりアメリカはスケールが違う!

 現在ネット上ではこの日のライブレビューは見つかっておらんが、私設エルヴィスサイトの数々には共通の短い記述が見られる。それはエルヴィスがステージに上がる直前にスタッフの従弟のビリーに向かってささやいたイミシンな言葉じゃ。

 「君は僕がここまで成功するとは思っていなかっただろうね “You didn’t think I’d make it, did you?”」

 血縁者として身近な存在であり、素の自分を熟知し、赤の他人に対するような余計な気遣いの要らない従弟にだからこそ言える、「これから“終わりが始まる”のだ。しっかり観ておいてくれよ」といったある種の決別宣言であり、また偉大な者特有の己の行く末を暗示している言葉でもあるのではないじゃろうか。ビリー後は、「その後エルヴィスは“とんでもないショー a hell of a show”を披露したよ」と語っておる。とんでもないショーとは、一体全体どんなショーだったのか?ライブの詳細をこれからもネット上で検索し続けていきたいものじゃな!

 “生涯最後のツアー”に関してじゃが、当初この日スタートしたツアーは約2ヶ月間ぶっ通しで行われる予定じゃったので“生涯最後の~”と各資料で形容されておる。実際にはツアー開始からほどなくしてエルヴィスは体調を崩し、3月31日ルイジアナ州バトンルージュでのライブ後に急遽ツアーを中断。メンフィスに戻って行きつけのバブテスト病院に入院する等20日間治療、静養した後、4月21日ノースカロライナ州グリーンズボロからツアーを再開させることになる。この4月21日から6月26日インディアナ州インディアナポリスのライブまでが“実質的なラストツアー”と呼ばれる場合もあるのじゃ。
 なおエルヴィスが休養しておる20日間に当初組み込まれてキャンセルになったライブ・スケジュールは、パーカー大佐が次にプランニング中だったツアー日程の最初に組み込まれる予定だったとされておる。

 収容人員数約15,000人のASU・アクティビティ・センターは、1974年のオープン以来アリゾナ州最大級のスポーツ&イベント会場として現在でも稼働し続けており、現在はデザート・ファイナンシャル・アリーナと改称されておる。
 1977年のエルヴィスのライブの約半年前、1976年10月15日にライブ出演したイーグルスが、世紀の名曲「ホテル・カリフォルニア」を初めてライブ演奏した会場としてもロック史上にその名を刻する会場じゃ。右写真ストリートビュー2024年7月撮影。


「バーチャル・ロックンロール・ツアー」のバックナンバーは「一覧ページ」に全ての回のバナーを貼ってあります。
「バーチャル・ロックンロール・ツアー一覧」ページ (←クリック)

直近3回のバックナンバーは、下のバナーをクリックして下さい。
   

GO TO TOP