アップロード:2025年5月23日 |
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干ばつで消えゆく、エルヴィス&アン・マーグレットが水上で躍動した湖![]()
![]() ミード・マリーナ湖の貯水量は米国最大であり、アリゾナ州、カリフォルニア州、ネバダ州、およびメキシコの一部に水を供給し、約2,000万人の人々と広大な農地に水を供給している。それでも湖は近年は干ばつと水需要の増加により、1983年以来満水量を下回ったままとなっている。(wikipediaより) エルヴィスは映画「ビバ!ラスベガス」」の撮影のためにミード・マリーナ湖湖畔を1963年7月24日にアン・マーグレットとともに訪れて3日間を過ごしたとされておる。 ![]() エルヴィスとアン・マーグレットの2ショットの全てが、2人が映画の共演で初めて会ったとは信じられない様なグッド・コンビネーションのオーラに溢れているのであらためて驚いてしまう!これじゃあ、結婚前のプリシラが嫉妬するのも無理もない(笑)なお、映画の中でアン・マーグレット演じるヒロインの住処も、湖畔の家屋が撮影に使用されたんだそうじゃ。 参考のためにもう1枚の写真(左写真)をご紹介するが、これは「Elvis Las Vegas」もしくは「Elvis Hoover dam」のワードでネット検索するとヒットする。撮影データは「1956?」のみ。1956年のラスヴェガス・ライブ期間の休暇でエルヴィスはこの地域を訪れたのかもしれないが、数々の私設エルヴィスサイトでの情報記載は見つからなかった。あくまでも参考資料として掲載しておくぞ。 ![]() ![]() 右写真はダムの貯水量の少なさが分かるストリートビュー2014年6月撮影。10年前の撮影なので現在はもっと貯水量は減っており、もはやダム自体が無用の長物になりかねない状況のようじゃ。 |
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![]() 昨年度(2024年)のネバダ州編にて、3回にわたってラスヴェガスのエルヴィスゆかりの地をしらみつぶしにご案内したはずじゃったが、事前調査の段階で一ヵ所重大な見落としがあった!調査隊のまめ鉄君を厳しくシメにゃならんな!(笑) エルヴィスは1970年8月6日、1974年9月3日の2回、ラスベガス最大のカジノ&ホテルであるシーザース・パレス(左写真)内にあった劇場サーカス・マキシマスにやって来ていたことがネット上にアップされておった! まず1970年8月6日は、この日フランク・シナトラ主催のシーザース・パレス開業4周年記念パーティーが催され、祝典演目としてシナトラの娘ナンシー・シナトラのショーが行われた。招待されたエルヴィスは正装姿でこの祝典にやってきた。(上写真3枚) ナンシー・シナトラのショーは途中からボーイズ・グループのオズモンズも出演し、ナンシーとともにほのぼのとしたショーを披露した。映画「スピードウェイ」(1968年公開)での共演でナンシーと意気投合したこともあって、エルヴィスは喜んでシーザーズ・パレスへ足を運んだと言われておる。残念ながらこの日のエルヴィスとナン ![]() なお同様のヴェガス写真の中でエルヴィス、ナンシー、シナトラが談笑しておるが(右写真)、こちらは約1年前の1969年8月29日に行われたナンシー・シナトラ主賓のパーティーであり、会場はインターナショナル・ホテルであったのでお間違えの無いように。 次に1974年9月3日エルヴィス2度目のサーカス・マキシマスでの記録は、この日開催されたトム・ジョーンズのライブをエルヴィスが観に来た時じゃ。(下写真3枚)この時は当時のガール・フレンドの一人シェイラ・ライアン嬢を伴って現れた。 なお1968年6月18日には、フラミンゴ・ホテルでのトムのライブもエルヴィスは鑑賞しており、この時はバックステージでのトムとの写真が残されておる。(「バーチャル~ネバダ州2024年中編Area No.7参照」)
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ラスヴェガス・ヒルトン、レイクタホー以外の唯一のネバダ州ライブ![]()
![]() レイク・タホーの街から真北約70キロ、レイク・タホー同様にカリフォルニア州との州境に位置するレノという街のセンテニアル・コロシアム(左写真)で1976年11月24日にエルヴィスのライブが行われておった。 このレノという街、西側はカリフォルニア州の山岳地帯、それ以外の方角は広大なネバダ州の砂漠地帯であり、地図で見る ![]() 街の歴史を少々調べても、20世紀初頭に金の産出地として一時的に栄えたものの、やがて鉱物採掘場は廃坑となり、1930年代から人口も減少していった模様。1980年になってカジノによる観光業によって復興し始めたようじゃが、よくもまあ復興前の地域をパーカー大佐がブッキングしたもんだと驚いた。たまたま1976年11月24日にレイクタホーのサハラ・ホテルがブッキング出来なかったための代替え地かとも思ったが、その日付前後にサハラ・ホテルのライブは無し・・・。しかしながら、1976年に9度行われたツアーのうちの8度目のスタート地がレノであった。 マスコにほとんど注目されなかったのか、収容人員数7,500の会場にはお客があまり入らなかったのか、ネット上ではライブレビューはなく、写真もピントのブレた数枚のオーディエンスショットのみ。幸運にもライブの告知ポスターの写真はあった!(左写真) なお数多くの私設エルヴィス・サイトでは、この日のライブに関する記述はほんの僅かで同じ内容じゃ。“この年8度目のツアーを、リンダ・トンプソンを伴ってエルヴィスはここからスタートさせた”。 ![]() ![]() |
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![]() 「バーチャル~ネバダ州ラスヴェガス編②」にて、エルヴィスのラスヴェガスの活動拠点にして、ラスヴェガス唯一の出演場所であった旧インターナショナル・ホテル(後にヒルトン・インターナショナル。現ウェストゲイト・ラスヴェガス)へご案内した。その際エルヴィスがステージに立ったホテル内のインターナショナル・シアター(Part-1)を主体としてご紹介し、「ラスヴェガス編③」ではエルヴィスが当時のボクシング世界ヘビー級チャンピオンだったモハメド・アリを訪ねた「アリ・スイート」(Part-2)をご紹介した。今回はさらに二ヵ所の場所を追加情報として掲載させて頂くぞ。 Part-3は、1969年8月1日インターナショナル・ホテルでの初演の翌日に、ホテル内でエルヴィスの記者会見が行われた場所じゃ(上写真)。私設エルヴィス・サイトのほとんどは“Press Conference”(記者会見場)としか記載しておらんが、ホテル内の広大なコンベンション・ホールの一画を仕切って行われた。 エルヴィスは「ライブを行うことが待ち遠しかった」「三週間のリハーサルを終えて、選曲を含めて準備万端である」と述べ、また出演してきた映画の脚本やサウンドトラック用のレコーディングにうんざりしていることも素直に吐露しておる。ようやく自分自身が納得出来る場所(ライブ会場)に回帰したことの喜びがダイレクトに伝わってくるインタビューじゃ。 ![]() 右側地図は現ウェストゲイト・ラスヴェガスの1階の見取り図。(画像をクリックすると拡大画像が見られます)ピンク色の部分がコンベンション・ホール。この中の何処か一画が仕切られて記者会見、またはリハーサルが行われたのじゃ。赤丸内が636回ものソールドアウト・ライブが繰り広げられたインターナショナル・シアター。青枠内は新しく設置されたエルヴィス記念館じゃ。 上写真3枚、下写真3枚はいずれもコンベンション・ホールでの撮影。上3枚は、ハリウッドのMGMスタジオからリハーサル場を移した直後の撮影と思われる。MGMスタジオ時同様に、エルヴィスの風貌がミュージシャンらしくワイルド!下3枚はリハーサル後半の撮影か。前半よりも俄然本番を意識したようなエンターテイナー的な風貌に変化しておるようじゃ。
![]() 上写真左はホテル最上階部分の外装。上写真中央はエルヴィス・スイートの玄関プレート。上写真右側は玄関前フロア。(いずれもエルヴィスの死後、空き室時の撮影と思われる)「2335」のナンバー入りルーム・キーの写真は、エルヴィスが使用していたルーム・キーとして某オークションに出品されていた物。(最低落札希望金額が500ドル程度だったこともあり、真偽のほどが怪しいがご参考までに) 下写真左側は、エルヴィスの死の約半年後、1978年の早い時期にテレビ放映されという「エルヴィス・スイート」の動画の静止画。エルヴィス使用時のエッセンスをもっとも感じられる動画なので、僅か36秒とはいえyou tubeでチェックしてみてくれたまえ。 下写真中央は、上記した動画よりももっと後、1989年8月に撮影された写真を集めた動画から。まだエルヴィス使用時の調度品がそのまま設置されていると思われる。映画「エルヴィス」では「エルヴィス・スイート」はかなりけばけばしくデコレートされておったが、実際はもっとシンプルだったようじゃ。(you tubeはこちら)下写真右側は映画「エルヴィス」で使用された「」エルヴィス・スイート」のセット。
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![]() アリゾナ州でのエルヴィスのライブは1956年に2回、それから14年後の1970年にフェニックスのメモリアル・コロシアム(「バーチャル~2023年アリゾナ州編」Area No.6参照)、さらにツーソンという街で1972年11月9日と1976年6月1日に行われた。ツーソンでは1956年6月10日以来の開催(「バーチャル~2023年アリゾナ州編」Area No.2参照)となった。70年代のライブ会場は両日ともにツーソン・コンベンション・センター(左写真)じゃ。 アリゾナ州ツーソンといえば、70~80年代の全米を代表する歌姫だったリンダ・ロンシュタッドの生まれ故郷であり、彼女は大スターになった後もツーソンに住居を構えていて、大のリンダ・ファンだったわしのタリナイ脳みそにもツーソンという都市名がインプットされたもんじゃ(笑) 何故かwikipediaには記載が無かったが、リンダ・ロンシュタッドは少女時代から熱狂的なエルヴィス・ファン。確かわしの中学生時代に日本で発行されておったFM雑誌に人気シンガー物語みたいな漫画があり、「リンダ・ロンシュタッドの巻」では、少女のリンダがラジオから流れてくるエルヴィスの歌声に陶酔しておるシーンが描かれておったのをよく覚えておる!1978年に発表されたリンダのアルバム「リビング・イン・ザ・USA」では「ラブ・ミー・テンダー」の素晴しいカバーが披露されておった。 さて1970年代に行われた2度のエルヴィスのツーソンのライブは、現在のところネットにアップされたライブ写真は、動画の静止画像的な低クオリティのものか、遠目のオーディエンス・ショットしか無いのが残念。テキストデータも、他州ではほぼ例外なく地元サイト等で読める「懐かしいライブの記憶」的な記事も無いに等しい。要するにライブ当時の地元マスコミのお仕事が未だに封印されたままなのじゃ。これは一体どういうことなのか? 唯一、ライブ当時の地元メディアのライブレビューを掲載しておるEPCにおいて1972年11月9日の僅かなライブ・レビューが掲載されておるので紹介しておこう。 ![]() 「ステージに彼が登場すると、高い位置の席に座っていた一人の女性がこのスーパースターを見て悲鳴を上げた。パフォーマンス中、警察は最前列にいた数人の女性がステージに登ってシンガーに触れようとしたのを制止する必要があった」 「プレスリーは、ファンに彼の有名な思わせぶりな視線を存分に浴びせ、時折、お礼としてスカーフを投げ、ため息や悲鳴を誘った。そのほとんどは30代と思われる観客は、各曲が終わるたびにプレスリーに熱烈な拍手喝采を送った」 「37歳のエルヴィスは、推定 96,722,000 枚のシングルを売り上げ、32本の映画に出演した。彼の官能的な笑みとヒップを揺らすリズムは、1954 年に「That's All Right, Mama」や「Blue Moon of Kentucky」で大ヒットしたときとほとんど変わっていない」 以上、お世辞にも適切なライブ・レビュー、報道記事には読めない。これだけが全てではないはずなので、プロショットのライブ写真といい、ライブ詳細記事といい、お蔵入り(?)になっていたメディアの記録に今後光が当てられることを期待したい。 ![]() またEPSに転載されていた1976年6月1日のライブ・レビューにはライブに関する記述はなく、この日のエルヴィスの興業収益が史上ナンバーワンになったことのみ報じておる。 「エルビス・プレスリーは、この日ツーソン・コンベンション・アリーナの単独公演で興行収入トップの座を奪還した。昨年10月に演奏したイギリス人歌手エルトン・ジョンに一時的にその座を奪われたが、6月1日にここで行われた完売公演でプレスリーの集客力は再び発揮された。プレスリーの出演の興行収入は 113,495 ドルとなり、エルトン・ジョンの記録である93,000 ドルの入場料を楽々と上回った。プレスリーとジョンの両名ともアリーナの 9,000 席を埋めたが、プレスリーのチケットの方が高額だったため、新記録となった。」 ![]() ![]() なおコンベンション・センターでは2016年に大統領選挙に出馬したトランプ候補の演説が行われたが、地元の警察や警備サービスに対して未だ8万ドル以上の報酬金の未払いがあるそうじゃ!(wikipediaより)また中型ホール(約2,300人収容)は、現在「リンダ・ロンシュタッド・ミュージック・ホール」と命名されておる。 |
“君は僕がここまで成功するとは思わなかっただろうね”![]()
![]() 1977年3月23日、エルヴィスは“生涯最後”のツアーをアリゾナ州テンペのASU・アクティビティ・センターでスタートさせた。“生涯最後”という括りについて異論のある方もいるじゃろうが、詳細は文末に記述致すのでご了承頂きたい。またこの日は、アリゾナ州でのエルヴィスのラスト・ライブとなった。 テンペはアリゾナ州の州都フェニックスの都市圏内にあり、会場名のASUとはArizona State University(アリゾナ州立大学)の略であり、アクティビティ・センターは大学キャンパス内のイベントホールじゃ。左写真通り、アクティビティ・センターは巨大なUFOの様な建物であり、周囲の景観も含めて、これが大学キャンパス内とはやはりアメリカはスケールが違う! 現在ネット上ではこの日のライブレビューは見つかっておらんが、私設エルヴィスサイトの数々には共通の短い記述が見られる。それはエルヴィスがステージに上がる直前にスタッフの従弟のビリーに向かってささやいたイミシンな言葉じゃ。 「君は僕がここまで成功するとは思っていなかっただろうね “You didn’t think I’d make it, did you?”」 ![]() “生涯最後のツアー”に関してじゃが、当初この日スタートしたツアーは約2ヶ月間ぶっ通しで行われる予定じゃったので“生涯最後の~”と各資料で形容されておる。実際にはツアー開始からほどなくしてエルヴィスは体調を崩し、3月31日ルイジアナ州バトンルージュでのライブ後に急遽ツアーを中断。メンフィスに戻って行きつけのバブテスト病院に入院する等20日間治療、静養した後、4月21日ノースカロライナ州グリーンズボロからツアーを再開させることになる。この4月21日から6月26日インディアナ州インディアナポリスのライブまでが“実質的なラストツアー”と呼ばれる場合もあるのじゃ。 なおエルヴィスが休養しておる20日間に当初組み込まれてキャンセルになったライブ・スケジュールは、パーカー大佐が次にプランニング中だったツアー日程の最初に組み込まれる予定だったとされておる。 ![]() ![]() 1977年のエルヴィスのライブの約半年前、1976年10月15日にライブ出演したイーグルスが、世紀の名曲「ホテル・カリフォルニア」を初めてライブ演奏した会場としてもロック史上にその名を刻する会場じゃ。右写真ストリートビュー2024年7月撮影。 |
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