アップロード:2025年5月9日 |
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現在も拡張が続く、キング・オブ・ウエストコースト・エアポート![]()
![]() エルヴィスの全米各地の空港でのショットは数多く公開されており、エルヴィスが利用した飛行機と空港の情報に特化した「The Airplanes &The King」という写真集も出版されておる。 「空飛ぶグレースランド」と呼ばれたリサ・マリー号をはじめとして、ツアー中に乗る大型ジェット機ははエルヴィスの空中の家でもあり、全米の空港はエルヴィスにとってはハイウェイのサービスエリアみたいな感覚であったに違いない。 さて、60年代は年3本の映画出演契約をこなすためにメンフィスとハリウッドとの往復を繰り返し、また60年代中期からカリフォルニア州に別宅を構えておったこともあり、エルヴィスはカリフォルニア州最大の空港であるロサンゼルス・インターナショナル・エアポートを頻繁に利用していたと思われる。(左写真は、50年代の同空港の空撮写真) しかし意外にも、ネット上で拝見出来る同空港でのエルヴィスの写真は少ない。それも1956年8月16日のショットが大半じゃ。この日アメリカン航空機でメンフィスから同空港まで飛んできたエルヴィスは、20世紀フォックス社と最初の出演映画「やさしく愛して」の製作ミーティングに参加するためにロスにやって来たとされておる。実際にはサントラ用のレコーディングと、初期の撮影もスケジュールに含まれておった。空港に到着したのは午後9時15分とされ、空港では上下写真の通り、数百人を越えるファンたちの熱い歓迎を受けておる! EDDには、エルヴィスの無事の空港到着をパーカー大佐に知らせる電報の写真が掲載されており、その電報によるとエルヴィスは空港から宿泊先のニッカーボッカー・ホテルに向かったようじゃ。
また余談ではあるが、EDDによるとエルヴィスのロス到着から8日後の8月24日には、スコッティ、ビル、J.D.がサントラのレコーディングのためにハリウッドに到着したとされておる。(彼らは飛行機ではなく、車でメンフィスからやって来た!)8月24日とは、数多くの資料によればシングル「ラブ・ミー・テンダー」がレコーディングされた日じゃ。しかし20世紀フォックス社の重役がブルームーン・ボーイズのレコーディング参加に反対し、別のスタジオ・ミュージシャンが起用されたことは有名じゃな。3人は遠路はるばるメンフィスからやってきた日に仕事を拒否されてしまったということになる・・・。 ![]() ![]() 1984年のロス五輪の際に大幅な拡張工事が行われ、現在9つあるターミナルでも膨大な利用客を捌き切れていないために拡張工事が続行されておるそうじゃ。 エルヴィスがタラップを降りた滑走路の位置、ファンの歓迎を受けたり車に乗り込んだ場所をピンポイントで特定するのは不可能かもしれない。 |
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![]() カフェ・デ・パリス(左写真)は、20世紀フォックス・スタジオの敷地内にあった撮影関係者専用のお食事処じゃ。 オープンは1930年。左写真はいずれもオープン当初の貴重なショットじゃ。右側写真でお分かりの通り、当時利用者のほとんどは正装姿で飲食しておったらしい。このレストランはオープン当初は“半常設”とされており、映画撮影用のセットとしても利用されておった。上写真右側に映るレストランの壁面には、世界各国の首都や歴代のハリウッドスターたちがスタジオの舞台画家たちによって描かれておる。」 ![]() エルヴィスの「カフェ・デ・パリス」での写真の多くは1950年代に撮られたものであり、特にスクリーンにデビューした直後、「ラブ・ミー・テンダー」「ラビング・ユー」撮影時のものじゃ。上写真左側は「ラブ・ミー・テンダー」のヒロインだったデブラ・バゲット嬢とご一緒に食事をしておるショットじゃ。エルヴィスの服装からも分かる通り、この頃になると利用者たちは撮影時の服装のままの「カフェ・デ・パリス」利用もノープロブレムだったようじゃ。上写真3段目右側は、カフェ・デ・パリスの入口付近でのエルヴィスとファンとのショット。 ![]() ![]() また入口付近は大幅に改装されており、カフェ・ド・パリスの建てられていた場所は立体駐車場となっており(右写真-ストリートビュー2022年8月撮影)、レストラン内部がそのまま駐車場の奥に残されている。上記した壁面を飾る壁画が修復されて現在もメイン・インテリアとして再利用されておる。 |
映画「殺しの烙印」主題曲レコーディング・スタジオ![]() ![]() ![]() 1968年10月15日、11月25日の2日間において、エルヴィスは映画「殺しの烙印 Charro」の同名主題曲、さらに「Let's Forgets The Stars」(サントラ盤未収録曲)をレコーディングして完了させておる。「殺しの烙印」は映画の中でエルヴィスが歌うシーンの無い唯一のエルヴィス映画だったこともあり、興行成績は芳しくなかった。せめて主題曲だけでもヒットを!とRCAは目論んだがビルボード・ホット100にはチャートインしなかった。(代わりにシングル盤の片面Memoriesはチャート35位までアップした) もっともエルヴィスはこの当時「カムバック・スペシャル」を成功させ、メンフィスのアメリカン・サウンド・スタジオにて名盤「エルヴィス・フロム・メンフィス~」のレコーディングに心血を注いでおる時期であり、「Charro」はかる~い余裕のお遊び的なレコーディングだったのかもしれない。 ![]() ![]() 右写真ストリートビュー2024年5月撮影。右側の赤い建物が復活して営業中のザ・フォルモサ・カフェ。 |
“分室スタジオの方でも構わないから、サントラをさっさと片付けてしまおうぜ!”![]()
ハリウッドには映画会社、映画撮影スタジオ、音楽スタジオにおいて、今も昔も「ユナイテッド~」という名がやたらと付けられていてとにかく紛らわしい!“ユナイテッド~”という冠言葉は当地における一種のステータス的表現みたいなもので、猫も杓子も付けたがるのだろうか!? ユナイテッド・アーティスト・レコーダーズというレコーディング・スタジオは、1968年10月23、24日にエルヴィスが映画「ガール・ウィズ・トラブル」のサウンドトラックを6曲レコーディングした場所じゃ。上記サミュエル・ゴールドウィン・スタジオで「Charro!」を最初にレコーディングした8日後である。このスタジオをまだご存知ない方はどうか混同されないことを願うが、実は「バーチャル~カリフォルニア州2023年編」Vol.4/Area No.23にてご案内したユナイテッド・ウエスタン・レコーダーズの分室じゃ。つまりオーナーが同じということじゃ。ウェスタン・レコーダーズからサンセット・ブールバードというストリートを西へ僅か90メートル移動した位置にあるのじゃ。エルヴィスは頻繁にウエスタン・レコーダーズの方を使用しておったが、上記6曲のレコーディングのみこちらを使用しておった。(上右写真は、プロデューサーのビリー・ストレンジとエルヴィス。当時のスタジオ建物の写真はネット上で見つからず。) ![]() しかしロッカーとして世の中にカムバックを果たすことが出来ただけに、エルヴィスの当時の表情はとても輝いておる!「早いトコ、クダラネー映画の契約仕事なんか片付けてしまえ!」って意気込みに溢れていたんじゃないかと! ![]() |
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![]() ただし、ラスヴェガスでのリハーサル場となったインターナショナル・ホテル内にあるコンベンション・ホールでの写真と“ごちゃまぜ”でアップされておるのが現状であり、CDのパッケージ写真にも使用されたエルヴィスが黒/赤/白のコラージュ模様のシャツを来ておる写真(上写真3枚含む)は間違いないくカルバーシティのMGMスタジオでのショットじゃ。(7月14、15日、もしくは29日)映画のシーンの中で、車でエルヴィスがMGMを訪れてリハーサルに臨むシーンの服装はまた別のシャツであり、右写真の通りじゃ。(映像の静止画) MSM(メトロ・コールドウィン・メイヤー)とはカリフォルニア州ビバリーヒルズを本拠地とする当時のアメリカ ![]() エルヴィスがスタジオを利用しておる期間は右写真/右側のような告知がスタジオ敷地内で大きく掲示されておった。まるで街中のビルボードも凌ぐような豪華なサインボードじゃ。エルヴィスが特別扱いされておったことが分かるな! ![]() ![]() なお、映画「エルヴィス・オン・ステージ」のリハーサルシーンの中には、ハリウッドのRCAスタジオで1970年7月24日に行われたシーンも挿入されておるという説もあるが、他の日のリハーサルシーンとの判別がわしには出来ないので悪しからず。 |
エルヴィスは“ハリウッドのRCAスタジオ”も多用していた!![]()
![]() エルヴィスとRCAスタジオと言えばナッシュビルのRCAスタジオが有名じゃが、ハリウッドのRCAスタジオ(左写真)も、レコーディングやリハーサルにエルヴィスは長きにわたって使用しておった。もっとも古い使用記録は、1960年4月27日からスタートした映画「G.I.ブルース」のサントラ盤用セッションじゃ。このセッションは5月6日まで続けられる予定だったが、エルヴィスは僅か2日でRCAスタジオのセッションを止めてしまい、ラジオ・レコーダーズへセッション部隊を移動させた。 これは当時RCA側と従業員たちとの組合問題(労働基準法上のトラブル、というか賃金闘争)がこじれており、ミュージシャン側のスタジオ使用時間や休憩時間の長さがきっちり過ぎるほど決められてしまっており、エルヴィスはレコーディングに没頭出来ない理由からスタジオ移動を決意したと伝えられておる。(上写真3枚は、RCAスタジオか、ラジオ・レコーダーズか撮影場所が判然としないが、EDDに“エルヴィスは正装してRCAスタジオへ入った”との記載があり、“正装”を“ジャケット着用”と解釈すればこの写真はRCAスタジオでの撮影の可能性が高い)
![]() RCAスタジオ使用の代表例としては、他には1969年7月(上写真左側)、1970年1月(上写真中央、右側、いずれも地下駐車所での撮影)のヒルトン・ホテル・ロングラン・ライブ用リハーサル、1972年の映画「エルヴィス・オン・ステージ」撮影用リハーサル、1975年アルバム「トゥディ」用レコーディングじゃ。 1969年のリハーサルは7月18日から23日まで行われ、後にTCBバンドのギタリストであるジェームス・バートンは「我々は一週間で150曲も練習した!」と語っておるほど白熱したセッションだったようじゃ。 1970年1月のリハーサルでは、ギャラの安さからドラマーのロニータッドら何人かのオリジナル・メンバーが参加しなかったそうじゃ。ブルームーン・ボーイズ同様、TCBバンドも大佐のどケチっぷりにより初期の段階からモメテいたようですな。それにしても、レコーディング・スタジオ外での写真しかネット上で見つからず残念じゃ。 1975年3月のアルバム「トゥデイ」(右写真)のセッションは僅か3日(3月10~12日)で完了したとされておる。このセッションはエルヴィスがスタジオ・レコーディングを行った最後の機会とされておる。(後にナッシュビルのRCAスタジオもブッキングされたことがあったが、肝心のエルヴィスがスタジオ入りしなかったと伝えられておる)なお、このセッションの写真もまたネット上にアップされておらんようじゃ。 ![]() ![]() 由緒ある歴史的な音楽スタジオでありながら、その歴史や録音されたアルバムや楽曲の詳細が記された専用サイトが見当たらないのが誠に不思議!?現在跡地にはロサンゼルス映画学校が建てられておる。右写真ストリートビュー2024年6月撮影。 |
「“マイ・ウェイ”の冒頭が歌い出された時、ホールは不気味な静寂に包まれた」![]()
![]() 「バーチャル~カリフォルニア州2024年編Vol.1」にてご案内したロングビーチのミュニシパル・オーディトリアム(1956年6月7日ライブ地。Area No.5)にて少々記載したが、オーディトリアムの跡地にはロングビーチ・コンベンション&エンターテイメント・センターが新たに建設され、またその隣にもロングビーチ・アリーナ(左写真)が新設された。そのロングビーチ・アリーナの方で、1972年11月14日、15日、1976年4月25日の三度エルヴィスのライブが行われた。(上写真3枚、下写真3枚はいずれも左から72年11月14日、11月15日、76年4月25日の撮影) 約3年半のインターバルを挟んでロングビーチで行われたエルヴィスのライブは、ライブレビューを読む限りではそのクオリティは“ある意味においては”正反対だったようじゃ。 1972年は半ば盲目的な賛辞ばかり! 「エルヴィスは初期のヒット曲の多くと最近の曲を披露し、満員の 15,000人の観客を沸かせた。「The Wonder of You」や「How Great Thou Art」のようなバラードよりも、「Heartbreak Hotel」、「Hound Dog」、「All Shook Up」といった昔のロックンロール曲のほうが効果的だった」 「実際、コンサートの大部分は、ファンが“ペルヴィス”の動き一つ一つに反応して叫び声を上げ、まるで 50 年代を彷彿とさせた」 「エルヴィスは、激しく揺れる腰、大げさな歌い方、さらにはスカーフを何枚も観客に投げるなど、あらゆる技を駆使した。それでも、ドラマチックな演出にもかかわらず、エルヴィスのロック ゴスペル ボイスは、現在のどの歌手にも負けないものだ。彼のショーマンシップはエンターテイメント性をさらに高め、エルヴィスのコンサートを単なる音楽の楽しみ以上のものにしている」 さらに、サポートアクトのコメディアンの芸や、コーラス隊のスイート・インスピレーションズのソロパートがつまらなく聞こえるほどエルヴィスは素晴しかったとまで書かれておる。 ![]() 「エルヴィスの演奏を観るのは、消えゆく伝説のパロディを観ているようなものだった」 「ショーにはエルヴィスのジェスチャーがいくつか散りばめられていた。お決まりの冷笑、たてがみの黒髪を振り乱す…叫び声を上げるファンに汗まみれのスカーフを手渡す。しかし、それはほとんど、二重あごで異物に覆われた太った人形がエルヴィスの曲を次々と歌っているのを見ているようだった」 「英雄たちは死に、最高の日の出も日没、そして暗闇へと消えていくのだ」 「青白い顔とレイモンド・バーを思わせる体格のロックンロールの王様が、「2001年宇宙の旅」のテーマ曲とともに登場した。観客は劇的な沈黙の中で、スポットライトが青と白のジャンプスーツを着たエルヴィスを強烈な自然光で照らすのを待っていた」 「彼の樽のような胸の奥底から響く声は深く豊かだった。ゴスペルの歌「How Great Thou Art」や「This Time You Gave Me a Mountain」の演奏は、真摯な美しさで披露された」 「フランク・シナトラのお気に入りの曲「マイ・ウェイ」の冒頭の「そして今、終わりが近づいている」を彼が歌ったとき、コンサートホールは不気味な静寂に包まれた。それはまるで、ぞっとするような予言を目撃しているかのようだった」 「それでも南カリフォルニアで(この年)唯一行われた2回のコンサート(昼夜2ステージ)では、約28,000人のファンが彼を愛した。私もそうだった」 最後は72年のレビュー同様に“盲目的エルヴィス愛”で締め括られておるとはいえ、当時のエルヴィスのライブ・クオリティを総括するような描写が印象的じゃ。 ![]() ![]() エルヴィスの1976年のライブは形式的には平和に幕を閉じたが、その4年後に行われたイーグルスのライブでは、メンバー同士が“お互いに殺意を抱いて”演奏をしていた事実がwipipediaに掲載されておる。 |
世界最大のヨットハーバを臨む今は無きビーチリゾート・ホテル![]() ![]() 上記(Area No.49)したロングビーチでのライブに際しての宿泊ホテルでの写真もアップされており、写真に写ったエルヴィスの容姿から、1976年4月25日のライブ時に宿泊した際の写真と思われるが(下写真2枚)、やはりホテル名が表記されておらん。 そこで闇雲にロングビーチ周辺エリアのホテル関連サイトを検索しまくったところ、“かつてエルヴィス・プレスリーが宿泊したホテルが2017年に取り壊された”という地元サイトのニュース記事を発見!それがシーポート・マリーナ・ホテル(サイトによっては“モーテル”表記)である。(上写真2枚)ただしこの地元サイトには、“エルヴィスは ![]() 右写真2枚で見られる(1976年4月26日?)チェックアウト後にホテルの駐車場から車に乗り込むエルヴィスはロングビューの空港へ直行し、リサマリー号に乗り込んで次の公演地だったシアトルに向かう姿もまた写真も隠し撮りされておる。 ![]() ![]() |
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