NANATETSU ROCK FIREBALL COLUMN Vol.462


第81回 エルヴィスゆかりの地~ミシガン州2025年編

アップロード:2025年7月9日
(上部スライダーは自動的に別写真へスライドし続けます。またカーソルをスライダー部分に置くとスライドが止まり、左右に矢印が表示されますので、矢印をクリックすると別写真にスライド出来ます。)

2025年版カナダ/五大湖周辺州の旅第三弾は、世界有数の工業都市デトロイトを擁するミシガン州じゃ。同州でのエルヴィスのライブ回数は多くはないが、70年代はほぼ毎年のように開催されており、またライブ以外にも公式写真撮影が行われたホテル、エルヴィスが何度も通ったとされるギター製造工場、秘密裡にレンタルされていた(?)オフィス、また80年代になってエルヴィス目撃説が浮上した場所など、調査しておる身としては楽しい情報が多かった!中には諸君が知らないエルヴィスの一端が垣間見れる情報があるかもしれないので、全7ヶ所あますことなく御覧頂ければ幸いじゃ。

【目次】バーチャル・ロックンロールツアー エルヴィスゆかりの地
    第81回 ミシガン州2025年編

 ・Area No.は2022年度編からのミシガン州内の番号
 ・Serial No.は「バーチャル・ロックンロールツアー」第1回からの通し番号です。
  
 【再掲載】 Area No.1/Serial No.212  フォックス・シアター/デトロイト
 
 Area No.3/Serial No.579  シェラトン・キャデラック・ホテル/デトロイト
 Area No.4/Serial No.580  オリンピア・スタジアム跡地/デトロイト
 Area No.5/Serial No.581 コロンビア・ホテル跡地/カラマズー

 Area No.6/Serial No.582  ギブソン・ギター・ファクトリー跡地/カラマズー
 Area No.7/Serial No.583 クリスラー・アリーナ/アナーバー
 Area No.8/Serial No.584 
ウィングス・スタジアム/カラマズー
 
【バーチャル・ロックンロール・ツアーのバックナンバー】

★右下地図をクリックすると拡大表示されます。(クリック↓)

★ 本文中の表記について ★

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SMW=スコッティ・ムーアのウェブサイト
EDD=「Elvis Day By Day」 
 エルヴィス・デイリー記録集
EPC=エルヴィス・プレスリー・イン・コンサート
 (ウェブサイト)
HAC=ヒストリック・アエリアルス
 (アメリカの空撮サイト)


“異才カメラマン”ハリングトン氏のバックステージショット・デトロイト編
 (※再掲載) Area No.1/Serial No.212  フォックス・シアター/デトロイト














 ミシガン州2025年編のスタートでは、2022年編でご案内済のデトロイトのフォックス・シアター(上写真左側)へあらためてご案内しよう。

 2022年編ではライブ写真が多数アップされておるステージの模様をご紹介したが、バックステージの写真も優れモノが多いのじゃ!(右写真3枚、右下写真2枚)
 ステージ写真では、特に陰影効果が顕著なショットがわしのオキニであり、そのうちの1枚は2008年に発売された写真集「A Moment in time , 4 days in 1956」の表紙を飾っておる。(上写真右側ELVIS PRESLEYの文字が入った写真)
 「A Moment in time , 4 days in 1956」には右写真3枚のバックステージ・ショットも含まれており、これらの写真は全てフィル・ハリングトンというカメラマンの作品じゃ。フォックス・シアターのライブ(1956年5月25日)からオハイオ州のライブ2回、更にエルヴィスとともにメンフィスに戻り、オーデュポイン・ドライブのエルヴィスの自宅まで4日間に渡って随行撮影をしておった。これは「ルックマガジン」というティーン雑誌からの依頼であり、ライターや他のカメラマンも同行しておったという。

 若きエルヴィスを素晴しい腕前で撮影したカメラマンは他にも何人かおるが、わしはフィル・ハリングトンがフェイバリットじゃ!時代の寵児エルヴィスの独特の躍動感を浮彫りにするために、あえて周囲がすべて静止しておるような瞬間とアングルと彩度を逃さないシャッターセンスは唯一無比。バックステージの撮影では、正反対にエルヴィスだけが静止しておるように撮影されているように見える!?これはハードな現場で鍛え抜かれた百戦錬磨の報道カメラマンならではのセンスじゃ。(と思う?!)
 なお、右写真右側の白いドレスの女性がエルヴィスに抱きついておるショットは、撮影者がフィル・ハリングトンであるか否かは不明

(※フィル・ハリングトンについての簡単なプロフィールは、「バーチャル~オハイオ州編Area No.4/Serial No.238 ベテランズ・メモリアル・オーディトリアム/コロンバス」を参照

 フォックス・シアターは度重なる改修を越えて現在も稼働中の劇場である。エルヴィスが登場した約70年前とは内部構造は変わってしまっておるじゃろうが、エルヴィスのかすかな残像への期待と同等に、“ハリングトン・ショットの妙技”を探求、吟味するためにも一度訪れてみたいものじゃ。

 なお上述した写真集「A Moment in time , 4 days in 1956」は、著者はマイケル・ローズの名がクレジットされておる。写真集内の解説文はすべてローズ氏のペンによるものらしく、かなり適格な解説文のようで、Amazonでの評価も高い。しかしどういうわけか、写真集にはフィル・ハリングトンの正式クレジットがない模様。Amazonのレビューの中には「ローズ氏は、故ハリングトン氏の家族に何の許可も得ずにハリングトンの写真を使用している」との投稿がある。SMWには、ハリントン氏の作品とローズ氏とは“何の関係もない”と連絡が入っておるという・・・。権利問題で何やらややこしい事態になっておるようじゃ。


 Elvis “Alone” Presley Photo Session
 Area No.3/Serial No.579 シェラトン・キャデラック・ホテル/デトロイト


 1956年5月25日のフォックス・シアターのライブ後、エルヴィスの宿泊先であったシェラトン・キャデラック・ホテル(下写真右側)においても写真撮影が行われた。
 この時のフォトセッションにも上述したフィル・ハリングトン氏が参加しておるが、上写真3枚は撮影者は不明じゃ。エルヴィスの背景の壁に露骨に影が写るアングルでハリングトンがシャッターを切るとは思えないが、ハリングトン氏が狙いそうな“エルヴィスの瞬間”でもあるような!?それにしても、ホースシューリングが眩しいのお!

 上写真3枚と左写真2枚のエルヴィスの装いの違いは、左腕に腕時計が有るか無いか。撮影時間のそれなりの違いが分かるので、やはり上写真3枚は別のカメラマンの撮影かもしれない。下写真左側3枚は、いかにも報道カメラマンの撮影らしい現場の空気が伝わってくるショットじゃ!

 このデトロイト・キャデラック・ホテルの歴史や上客エピソードを調べているとおもしろくて止めらんない!一例を挙げると、1920年代の禁酒法時代に暗躍して巨額の富を築いたギャング集団「パープル・ギャング」のボスがホテルの最上階に居座っていたとか、ニューヨーク・ヤンキースの往年の名選手ルー・ゲーリックは1939年5月2日にホテル内の階段で不治の病により倒れ、その日に連続試合出場記録が2,130でストップした等々。
 エルヴィスは翌1957年にもデトロイトでライブを行っており(下記Area No.4参照)、その時の宿泊先が分からなかったが、意外な方面から、やはりシェラトン・キャデラック・ホテルであろうと判明!レストラン評論家ゲール・グリーンなる女性の伝記「Insatiabl」の中で、1957年3月31日にオリンピア・スタジアムで行われたエルヴィスの2回のライブ終了後に、当ホテル28階ペントハウススイートでエルヴィスにインタビューした事実について言及されておるそうじゃ! 

 1924年にオープンしたキャデラック・ホテルは、29階建て、約1,000室のアメリカ・ホテル史上に残る巨大ホテルであり、あまりの客室数の多さからか、デトロイトという都市の景気にホテルの経営状態が著しく左右され、一部閉鎖、再オープンを繰り返すことになる。エルヴィスが宿泊した1950年代は好景気だったが、1970年代には落ち込み、半数近くの部屋が閉鎖、廃墟状態になったという。
 経営母体も何度か変わり、現在はウェスティン・ブック・キャデラック・ホテルと改称されており、部屋数はコンドミニアムを含めて約500室になっておる。右写真ストリートビュー2023年6月撮影。


 “世界中のエルヴィス・ファンの中でも、デトロイトのファンはもっとも幸運かもしれない”
Area No.4/Serial No.580 オリンピア・スタジアム跡地/デトロイト

 1957年3月下旬から4月上旬にかけて、エルヴィスは初のカナダ遠征と併せてカナダとアメリカの国境周辺の州でライブを開催しており、3月31日には五大湖のヒューロン湖南側、エリー湖の北湖畔にあるミシガン州デトロイト、オリンピア・スタジアム(左写真)にやって来た。ミシガン州デトロイトには1956年5月25日フォックス・シアター以来の登場じゃ。「バーチャル~2022年編カナダと国境周辺州」の際にはご案内しそれびれた会場じゃ。(恐らく、当時のわしのガス欠のせいかと思われる。失礼致しました)
 デトロイトという街は、ご存知の通り車産業を中心とした全米でも有数の工業都市であり、1950年代の人口は常に200万人近くもあった(全米第5位)。これだけの大都市でありながらエルヴィスのライブが僅か2回だったとは信じ難いが、1970年代には1970年、1972年、1973年、1974年、1977年と毎年の様にツアースケジュールにデトロイトは組み込まれておった。会場はいずれもオリンピア・スタジアムじゃ。また1975年、1976年、1977年のツアーにはミシガン州の別の都市においてもライブが行われた。

 1956年のライブは当日ライブ会場に配置された警備員は約150人とも180人ともいわれた前代未聞の大掛かりな警備体制が敷かれ、中には女性の警察官まで駆り出されていた。 下写真左側は女性警備員たちとエルヴィスの記念撮影!彼女たちの素敵な笑顔は、どう見ても職務なんて忘れちゃって、時の大スターに逢えて喜んじゃっておるようにしか見えんな!特にエルヴィスの右側の方なんて“どや顔”してんじゃねーか!(笑)

 
 ライブ前のインタビューでは、大佐は報道陣に向かって「エルヴィスはナイスガイであります!彼は毎週30,000通ものファンレターを受け取っており、クリスマスカードは270,000通にもなった。その多くがデトロイトのファンからですぞ」と大袈裟なリップサービス!(笑)
 昼夜二度のライブは超満員であり、合計観客数は24,000人!翌日のデトロイトの新聞報道では「24,000人の絶叫」というサブタイトルが付けられて、大佐のリップサービスを会場に詰めかけた大勢の女の子たちが証明しちゃった結果となった(笑)
 記事の内容はこう言っちゃなんじゃが、ありきたりの熱狂ライブレビューじゃが、“どんな音響装置を駆使しても、この日オリンピア・スタジアムで発せられた少女たちの爆音を再現することは出来ない”といった記述が妙に笑えた。いや、説得力があった!

 デトロイトの地元サイトの中に、「世界中のエルヴィス・ファンの中でも、デトロイトのファンはもっとも幸運かもしれない」というコラムがあった。(たった2回とはいえ)全盛期のエルヴィスのライブが観られ、また1970年代になっても毎年の様にエルヴィスがやって来て、しかも1977年はエルヴィスが亡くなるわずか四ヶ月前(1977年4月22日)だったからだという。1970年代のライブも概ね好評だったのだろう!(下のライブ写真は、左から1970年、1972年、1974年のオリンピア・シアターでのショット)

 1927年にオープンしたオリンピア・スタジアムは、装飾がほどこされた無数のレンガが外壁を覆い尽くす高さ32.6メートルの巨大な倉庫のような建物であり、デトロイトでは長らく「オールド・レッド・バーン」の愛称で親しまれた多目的イベントホールであった。
 1977年のエルヴィスのライブが行われてから約3年後に老朽化から閉鎖となり、1987年になって取り壊された。跡地は現在まで何も建てられることなく、アーミー・ナショナル・ガード(軍人事務所兼武器保管倉庫)用の駐車場になっておる。右写真ストリートビュー2021年6月撮影。


エルヴィスがオフィスをレンタルしていた(?)ホテル
Area No.5/Serial No.581 コロンビア・ホテル跡地/カラマズー
 デトロイトの真西約190キロ、五大湖のミシガン湖にほど近い地域にカラマズーという街がある。ここに2つの“奇妙なエルヴィス伝説”が今もまことしやかに伝えられておる。
 伝説のひとつは、街の中心地にあったコロンビア・ホテル(左写真)にエルヴィスは滞在し、さらに201号室をエルヴィスはオフィスとして使用する目的でずっとレンタルしていたというのじゃ。
 エルヴィスがカラマズーにやって来たのは、公式には1976年10月21日、次は1977年4月26日、いずれも当地でのライブの為じゃ。その時からか、もしくはそれ以前のデトロイトでのライブの時からか、エルヴィスはずっとコロンビア・ホテル201号室をレンタルし続けていたというのじゃ。
 その理由は、エルヴィスはこの地域にやって来ると、コロンビア・ホテルの真北約1キロにあるギブソンギター・ファクトリーを訪問することを楽しみにしておったからだという。( ※1977年4月26日に関しては、デトロイトからほど近いトロイという地域のヒルトンに宿泊したという写真と記録がネットにアップされておる)

 1980年代後半にコロンビアホテルは閉業。建物はオフィス・ビル「コロンビア・プラザ」に改造されたものの、201号室はエルヴィス貸切状態にしたままで、1Fの案内板にも「Second Floor ELVIS PRESLEY 201」と表記されておった!201号室はエルヴィスのメモラビリアがディスプレイされておったという。(右写真参照-2010年4月公開写真)
 この伝説が真実だったとしても、エルヴィスがわざわざ201号室をレンタルしていた目的が分からない。また存命中はエルヴィスが直に家賃を払っていたとしても、死亡後は一体誰が支払いをしておったのか?どケチだった大佐が払うはずもないし・・・。
 オフィスビルとして建物に箔をつけるためにコロンビア・プラザのオーナーがエルヴィス伝説を利用しただけとも考えられるが、201号室をエルヴィス博物館的に展示品を充実させて幾ばくかの入場料収入を目論んでいたという話は聞かない。使用希望者には時折会議室として時間限定で貸し出していたそうじゃがな。
 
 なお、もうひとつのカラマズーにおける“エルヴィス伝説”は、エルヴィスの死語10年が経過した頃から、街にあるバーガー・キングで「エルヴィスを目撃した」という証言が続出したんだそうじゃ。この噂に注目したのが上述したコロンビア・プラザ(旧コロンビア・ホテル)のオーナーであり、201号室をそのまま“エルヴィス専用にした”とも言われておるらしい。バーガーキングの目撃証言の方は、全米のあちこちで噴出しても不思議じゃない噂バナシじゃが、「コロンビア・ホテル伝説」の方は現地に乗り込んでみて、現地人の与太バナシでもいいから聞いてみたいものじゃ(笑)

 コロンビア・ホテルの建物をそのまま利用したコロンビア・プラザも、現在Google-mapで確認すると「閉業」の表示がされておる。オフィスビルとして採算が取れなかったのか、建物自体が老築化からから取り壊し予定なのかは不明じゃ。右写真ストリートビュー2023年9月撮影。


 “世界を変えた男たち”のギターを作り続けた工場
Area No.6/Serial No.582 ギブソン・ギター・ファクトリー跡地/カラマズー


 エルヴィスがミシガン州カラマズーをよく訪れていた最たる要因が、こちらギブソン・ギター・ファクトリー(上写真中央)とされておる。ネット資料によると、ライブでほぼ定期的にミシガン州にやって来る以前より、1960年代後半からエルヴィスのお立ち寄りは始まったとされておる。
 ギブソン・ギター・ファクトリーの創始者であるオーヴィル・ギブソンは1917年にこの工場をスタートさせた。当時の弦楽器の主流であったマンドリンの製造から始まり、第一次世界大戦以降に製造、受注の大半がギターになったとされておる。
 古くはキング・オブ・デルタ・ブルースのロバート・ジョンソンをはじめ、エルヴィスもスコッティ・ムーアもギブソン・ギターの愛用者であり、ギブソン・ギター・ファクトリーが他の地にも存在していたという記録は見つかっていないので、恐らくブルース創世記からロックンロール創世記にかけて出現したギター名手たちのギターはカラマズーのこの工場で製造されていたはずである!


 オーヴィル・ギブソンの経歴を紹介するウェブ・サイトは、エルヴィスではなく、スコッティ・ムーアに関しての記述が多い。「エルヴィスの革命的音楽を支えて、世界を変えたギタリスト、スコッティ・ムーアこそ、ギブソン・ギターの素晴らしさを世に広めた最大の功労者である」という惜しみない賛辞が並んでおる!エルヴィスもギブソンのアコギを終生愛用しておったので、まさに“世界を変えた男たち”の為のギター工場と言って差支えない!
 右上写真左側は1930年代当時の工場の製造現場であり、上写真右側は1970年代に工場を訪れたローリング・ストーンズのキース・リチャーズ(右端)とロニー・ウッド(中央)。残念ながらエルヴィスやスコッティが訪れた写真はネット上では発見出来ず。

 ギブソン・ギター・ファクトリーは1975年にテネシー州ナッシュビルに新しい工場を設立。ギター製造の主流はナッシュビル工場の役目となったものの、カラマズーの工場も1984年まで稼働しておった。
 閉鎖後の工場は、工場の従業員たちによってあらたにスタートした会社「ヘリテイジ・ギター」に占有されて稼働しておったが、近年この工場も完全にストップした模様。工場建物は取り壊し予定とのことであり、跡地にはなんと!「ハードロック・ホテル」が建設されることが2021年に発表された。
 右下写真はストリートビュー2023年6月撮影。この時点では工場の建物は存在しておる。赤丸部分は、工場入口の木製扉に刻されたままのGibsonのロゴとギターマーク。この扉だけでも取り外してハードロック・ホテル内に展示してほしいものじゃ!

 なお余談じゃが、ギブソン・ギター・ファクトリーの後を継いだヘリテイジ・ギターじゃが、Google-mapのレビューの評判が悪くて、その投稿のされ方にちょっと笑った!。「ギターおたくのジジイどもが、自分たちの世界に入り込んでいてロクに接客もしない」とのこと!何処の国にでもこーいうジジイがいるんじゃな!わしも他人様に迷惑をかけないように気を付けないといけない(笑)


『ムーディー・ブルー』収録ライブ・テイク・レコーディング会場・その1
Area No.7/Serial No.583 クリスラー・アリーナ/アナーバー

 エルヴィスが亡くなる約二ヶ月前に発売された最後のスタジオ録音盤は「ムーディー・ブルー」。当初は完全なスタジオ録音盤になる予定であったものの、レコーディングが順調には進まず、結局前作「メンフィスより愛をこめて」のレコーディング・テイクの未使用曲やライブ・テイク3曲を加えて1枚のアルバムにまとめあげられておる。

 アルバムの幕開けを飾るライブ・テイク「アンチェインド・メロディー」と3曲目「リトル・ダーリン」は1977年4月24日ミシガン州アナーバーのクリスラー・アリーナ(下写真中央)での録音テイクが使用されておる。
 ご存知の通り「アンチェインド・メロディー」のライブテイクは素晴しく、映画「エルヴィス」ではこの音源はクライマックス的シーンで使用されておる。(映像の方は、同年6月21日サウスダコタ州ラピッドシティのラッシュモア・プラザ・シビック・センターでの同曲演奏のシーンが使用されておる)ただし、この音源はブートレッグと聞き比べてみるとアップテンポ気味にピッチ修正されておるようで少々不自然!?個人的には修正以前のテイクの方がベスト。アナログ盤は収録時間の制約がデジタル盤よりも厳しいのでピッチ修正も致し方なかったのかもしれない。


 1968年にオープンしたクリスラー・アリーナは、地元で大人気のミシガン大学の男女バスケットボールチームの本拠地アリーナ。収容人員数は13,000であり、音楽イベントでエルヴィスより以前に同会場に登場して満員にしてみせたのは1971年12月10日に開催された「ジョン・シンクレア・フリーダム・ラリー」なるフェスティバルに参加したジョン・レノン&ヨーコ・オノ(下写真右側)。ジョン・シンクレアという過激派詩人&シンガーがマリファナタバコ2本を所持していただけで逮捕された事件への抗議の出演じゃった。

クリスナー・アリーナは現在はクスナー・センターと改称されており、2023年には6,580万ドルという巨額の投資がなされて、バスケットボールのアリーナの他にも敷地内に様々なスポーツ関連施設が存在する。当地のスポーツ人気の高さを象徴するような施設である。右写真左側はストリートビュー2014年7月撮影。


『ムーディー・ブルー』収録ライブ・テイク・レコーディング会場・その2
Area No.8/Serial No.584 ウイングス・スタジアム/カラマズー
  こちらは「ムーディー・ブルー」2曲目のライブ・テイク「イフ・ユー・ラブ・ミー・レット・ミー・ノウ」が録音された会場。上述したクリスナー・アリーナでのライブの2日後、1977年4月26日カラマズーのウイングス・スタジアムじゃ。
同会場では前年の1976年10月21日にもライブが行われておる。
 1977年のライブに関しては、当時のライブ・レビューをネット上で発見したものの、ほとんどがライブ前の観客への他愛もないインタビューに終始していて、ライブ・クオリティに関しての記述はされていない。

「エルヴィスはこの世に一人だけだから観にきたのです」
「私は1977年のエルヴィスを観た一員になるのです。それだけで充分です」
「相変わらず歌はうまいし、太っていても気になりません。服をきちんと着ていますから」
「実は今、酷い風邪で喉が痛いです。それでも来ました。私がどれだけエルヴィスに会いたがっていたか分かるでしょう?」
等々、ある意味でキングのライブレビューでしか許容されないような内容じゃ(笑)

上述したレビューになっていないようなライブ・レビューの中で、ひとつだけ気になった記述があった。
 晩年のエルヴィスのライブ会場の映像には、ライブ前後のインタビューが見当たらない。アンコールが終わると、そのまま車に飛び乗って会場から消えてしまうシーンが当たり前に見ることもできる。
 これもまたパーカー大佐の指示だったとのことじゃ。エルヴィスの「自分の価値を自ら貶める様な自虐的な発言」を危惧した大佐ならではの指示であり、結局大佐は最後の最後までエルヴィスのカリスマ性、神秘性を守り抜くための仕事を怠ってはいなかったとレビューのライターは結論付けておる。

 Area No.5 コロンビア・ホテル跡地、No.6 ギブソン・ギター・ファクトリー跡地でも先述した通り、エルヴィスとミシガン州カラマズーとは浅からぬ縁があり、この日の宿泊先ホテルでの写真もエルヴィスはとても上機嫌で健康的に見える。そしてこれまた先述した通り、死後10年以上経過してからのカラマズーでのエルヴィス発見証言もあり、機会があれば、エルヴィスとカラマズーとの関わりをもう少しツッコンで調べてみたい。

 1960年代後半から1970年代前半にかけて、アメリカでは各地のバスケットボールやアイスホッケーのプロ・チーム用のスタジアム建設ラッシュを迎え、その最中の1974年にウィングス・スタジアムも当地のプロ・アイスホッケーチームのフランチャイズ会場としてオープンした。
 しかしどの会場も元々スポーツ用に建設されており、キャパの大きさから音楽コンサートにも利用されたものの音響設備は上質だったとはいえず、ウィングス・スタジアムでもエルヴィスのライブ中にPAトラブルが度々起こったという。ウイングス・イベント・センターと改称された現在は大幅に改善されており、現代的なスペクタクルショーも存分に楽しめる構造になっておる。右写真ストリートビュー2019年7月撮影。


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