アップロード:2025年8月9日 |
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![]() ジラードーJerardaueとは英語の地名っぽくないのでwikipediaでチェックしてみると、18世紀にこの地に入植してきて港湾都市として地域が栄えていく基盤を作ったジラードーさんというフランス人の名前と、ミシシッピー州を見下ろす岬(英語でケープ)を合体させて付けられた地名なんだそうじゃ。エルヴィスとは何らの関係のないオハナシじゃが、一応諸君の向学の為に(笑)エルヴィスはケープ・ジラードーのケープ・アリーナ・ビルディングという会場で、ワンダ・ジャクソンらとライブを行ったのじゃ。 この日のライブ及びケープ・アリーナ・ビルディングに関する詳細はネット上ではまったく無し。掲載したアリーナの写真(上写真下段左側)も、アリーナを擁するアリーナ・パークという広大な公園の中で遊ぶ子供の写真の背景にたまたま写り込んでいた建物の一部をトリミングしたものじゃ。 ところが、丹念にエルヴィスとケープ・ジラードーの関係をネットチェックしていたところ、上写真上段3枚、下写真3枚を発見。上写真はミズーリ州の某サイトの中に「我が州とキング」みたいな括りで紹介されておったものの、「日時、場所不明」とされていた。しかし閲覧者からの投稿で「1955年7月20日ケープ・ジラードーでの撮影に違いない!」とされておった。 下写真3枚はpriterestに最近アップされていたもの。こちらはケープ・ジラードでの撮影とされておったが、撮影場所は不明。3枚すべてエルヴィスのシャツが同じなので、同一の場所であることは間違いない.。左端写真はナッシュビルのエルヴィス・ファンクラブのfacebookにも転載されており、解説文によると、エルヴィスとワンダ・ジャクソンはケープ・ジラードーで初めて会ったという。その件に付随したワンダ嬢のインタビューも転載されておったので紹介しておこう。 ![]() 「私たちはツアー中の1年ちょっとの間、断続的にデートをしました。早めに町に着いて、映画館があるくらい大きな町なら、昼公演に行って、ショーの後は食事に出かけました。たいていは他のミュージシャンや父と一緒に。それからハンバーガーを買って町をドライブしながら話をすることもありました。 私たちには共通点がたくさんありました。彼は私より少し年上で、彼も私もキャリアが開花し始めていました。彼はただ素晴らしい人でした。彼は楽しむのが大好きで、いつも笑っていました。彼は自分のことを深刻に考えませんでした。本当に素敵だったのは、彼が私のキャリアで良い結果を出すのを見たいと思ってくれていたことです。そして彼は、彼がやっているような音楽(ロカビリー)に挑戦することを熱望していました。私は『でもエルヴィス、私はただのカントリー歌手よ。そんな歌は歌えない』と言いました。彼は『君もできるよ。君はただ歌っているだけでいいんだ』と言いました。 彼は私に指輪の一つをくれました。私たちはルイジアナ州シュリーブポートにいて、マチネのショーを終えた後、彼は私に外に出てもいいかと尋ねました。私たちは彼の車のそばに立っていました、そして彼は私に彼女になってくれるかどうか尋ねました。彼はまだ21歳になったばかりで、私はまだ18歳でした。私は彼に夢中で、彼を知り、彼の心を知ることができたので、彼をとても尊敬するようになりました。それで私は彼の彼女になると言いました、そして彼は私に指輪をくれましたので、1年ほど付けていました。私が彼と一緒に仕事をした最後のツアーは1957年の1月で、その後彼は映画のキャリアを始めるためにハリウッドに行ったのです。」 エルヴィスとワンダ・ジャクソンが初めて会ったのがケープ・ジラードーだったという情報は今のところ「?」。しかしながら、キャッチコピーに使った古くからケープ・ジラードーを形容するフレーズ“川が千の物語を紡ぐ街”通りに、エルヴィスとワンダ・ジャクソンの“物語”がこの地で始まったのであれば、それはそれでロマンチックなエピソードじゃ!ワンダ嬢が“指輪をもらった”のがこの地だったのかもしれないし。7月20日の前のライブが16日のルイジアナ・ヘイライドであり、その時にエルヴィスはワンダ嬢に“コクった”のかも(笑) ![]() ![]() |
エルヴィスが“泊まらなかった”ホテルはどっち?![]() ![]() 1956年5月17日、エルヴィスはミズーリ州の大都市セント・ルイスから南西約300キロに位置するスプリングフィールドにやって来た。この日エルヴィスはちょっとした騒動、謎の単独行動を起こしておる。ライブ前にチェックインしたホテルから姿を消して映画を観に行ったり、ライブ後はホテルに戻らずに一人で地元のモーテルへ逃げ込んだりした。事の真相は「バーチャル~ミズーリ州2022年編」Area No.9、10を参照してくれ! さて、本来エルヴィスが宿泊する予定だったホテルは、2つの説が存在する。ひとつはコロニアル・ホテル(左写真)。もうひとつはケンウッド・アームス・ホテル。どちらも当地老舗の大型ホテルであり、ライブ会場のシュライン・モスクからは至近距離にあった。「実際には泊まらなかったんだからどっちでもいいよ、そんなコト」とはおっしゃらずにお付き合いのほどを!(笑) 現地スプリングフィールドの地元一般サイトをチェックすると、チェックインしたのはコロニアル・ホテルの方だった可能性が高い。ケンウッド・アームス・ホテルは私設エルヴィス・サイトのみ“ブッキングされていた”と記載しておる。 またコロニアル・ホテルの顧客の中にエルヴィスの名を列記しているサイトも、二通りの記載のされ方が見られる。ひとつはあくまでも“宿泊した”と記載。もうひとつは“エルヴィスはホールを飾った”という記載である(笑)まあチェックインは済ませてあり、別のモーテルで一晩過ごしてから翌朝エルヴィスが戻ってきた可能性は高いので、“ホールを飾った”という表現は間違っていないし、実に適切な記載じゃ!よって“エルヴィスが泊まらなかったホテル”はコロニアル・ホテルとするぞ!(笑) ![]() ![]() 1985年ルート66の閉鎖に伴う周辺の区画再整理と土地再開発によってコロニアル・ホテルの営業は窮地に陥り、1997年に閉鎖。現在は地元公立大学の駐車場になっておる。 右写真ストリートビュー2022年5月撮影。右端に「ルート66発祥の地」記念標識が写っておる。「エルヴィス・プレスリーがホールを飾ったホテルがあった」というプレートも一緒に掲げてみてはどうだろうか!(笑) |
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さて、ゴールドスーツをまとったゴールデン・スターはその日どこに泊っておったのか?エルヴィスがホテルでもゴールドスーツを着ているはずもないが(笑)、“仕事着の装い”に相応しいホテルでないとシャレにならんもんな!ということで調べたところ、チェイス・ホテルという当時セント・ルイス最大の老舗ホテルじゃった。 上写真右側はホテル全貌写真。下写真3枚は1930~40年代のホテル内部。ゴールデン・スターが宿泊するに相応しい豪華仕様じゃ。もっとも当のエルヴィスはファンの殺到を避けるために偽名でホテルにチェックインしており、ホテルで取材が行われることもなく、大勢のファンが殺到するという騒ぎにもならなかったようじゃ。 ゴールドスーツは、もちろんマスコミ向けの話題作りのためだけのパーカー大佐発案による代物であり、エルヴィスへの注目度が更に爆上がりすればそれでヨシッ!じゃった。エルヴィスのチェイス・ホテル宿泊が公表されていなかったということは、「ゴールデン・スターは超一流のホテルに宿泊し、それなりの振舞いを身に付けにゃあいかんのじゃ!」という大佐のエルヴィスへの教育の一貫だったのじゃろう。
チェイス・ホテルは1921年代にオープンし、当初は同名の単独ホテルだったが、エルヴィスが1957年に宿泊して俄然泊が付いたのか!?1960年代初頭にはお隣の超大 ![]() ![]() |
ライブ会場から僅か200メートル。殺到するファンから逃れ帰った!?ホテル![]() ![]() 1956年5月24日、エルヴィスはカンザスシティのミュニシパル・オーディトリアムで50年代唯一のカンザス州ライブを行っておる。(「バーチャル~ミズーリ州2022年編Area No.7参照)。このライブは会場に押し寄せた女の子たちの熱狂が凄まじく、僅か20分でライブを打ち切ってエルヴィス&ブルームーンボーイズはどこかへ避難してしまった!という伝説が残っておる。(右下写真は当日のライブ写真)女の子たちから逃げる際、ビルのウッドベースやDJ.のドラムセットは壊され、エヴィスは着ているシャツを引きちぎられたというエピソードまで残っておる。 ![]() 上記Area No.13で取り上げたケープ・ジラードー同様に、ミューレバッハって英語っぽくないので、これも調べてみたところ、19世紀にカンザスシティに移住してきたミューレバッハさんというスイス人のお名前じゃった。この方は当地でビールの醸造場を作り、ミューレバッハ・ビールによって莫大な財を築いたという。禁酒法時代には、現代のノンアルコール・ビールに該当するようなドリンクまで醸造していたらしい!そんな歴史的な実業家が創設したホテルがミューレバッハ・ホテルじゃ。 ![]() ![]() なお、「バーチャル~ミズーリ州2022年編Area No.8」でご案内したデイモン・レコーディング・スタジオ(エルヴィス少年が私費で初めてレコーディングしたと言われている“マイ・ハピネス”のオリジナル・バージョンがレコーディングされた場所)が入ったおったビルは、ミューレバッハ・ホテルの東南斜め対面に位置しておる。 |
「エルビスは、多くのポップカルチャーのヒーローやヒロインを倒す運命に逆らってきた」![]()
![]() 1976年はチケットはどこの会場も売り切れ状態が続いておったものの、エルヴィスの“止まらない肥満”と体調不良がもっとも問題視された頃だった。この頃のライブレビューを訳して読むことは、「酷いクオリティだったらどうしよう」って、とっくの昔の過ぎ去った事なのに今更ジローラモながら不安でしょうがない(苦笑)しかしケンパー・アリーナでのライブは、全般的にとても素晴しいライブだったことがレビューに明記されておる!胸をなでおろした次第じゃ!! ![]() 過去2年間、奇妙な噂が飛び交っていたものだ。エルビスはひどく太り、名前のわからない病気でいくつかのクリニックに通っていた。彼はなぜか衝動的に高価な車を手放していたが、東海岸の精神科医はそれが彼の富と不運な結婚に対する罪悪感の表れだと厳粛に発表していた。 昨年の寄せ集めのレコードからは、エルビスが声を失ったのではないかとも疑われたりした。特にハワイから放送された退屈なテレビ・ショーの後は特にそうだった。 しかし昨夜、ステージに颯爽と登場した瞬間から、彼は41歳にしていまだにアメリカで最もカリスマ性のあるエンターテイナーの一人であることをはっきりと証明した。エルビスは1時間以上続いたステージで懸命に働いた。 かつてのパンク風のヒップな動きは消え、彼の動きはすべて注意深く振り付けられているが、それらは鮮やかにリアルで、そしてほのめかしている。アイスブルーのシャツ、白いタンクトップ、そしてウエストを巨大なラインストーンのベルトで囲んだタイトな白いパンツを身につけたエルビスは、無理をすることなくステージを支配した そして、このレビューの〆がとてもイミシンじゃ。 ケンパーでエルビスはブルースを歌った。安っぽいハリウッド映画で存在を茶番に仕立て上げられた過去をエルヴィスは乗り越えたのだ。彼はまた、映画界の多くの神々や女神たちを破滅さ ![]() この夜は最高のエンターテイメントが繰り広げられた。これまでエルビス・プレスリーは、多くのポップ カルチャーのヒーローやヒロインを倒す運命に逆らってきた。おそらく、私のお気に入りの 曲(Return to Sender/(邦題:心の届かぬラブレター) で彼が歌ったのは、まさにそのことを意味していたのだろう。 「差出人へ返送、住所不明、そのような番号なし、そのような地域なし」。 拡大解釈をすれば、エルヴィスは誰も歩んだことのない孤高の道を進んでいる。それが出来るのもまた、エルヴィスただ一人であるとライターさんは言いたかったのじゃろう。(右写真2枚は、77年6月18日の撮影) ![]() ![]() 天井の鋼板が建物外側に張り巡らされたポールによって吊り下げられた特殊な構造であり、その為屋内はアリーナスペースの視界を遮る支柱の無い斬新なイベント会場じゃった。現在の名称はハイヴィー・アリーナ。右写真ストリートビュー2023年12月撮影。 |
1977年6月17日、エルヴィス生涯最後のロードへ出陣・・・。![]()
![]() このファイナル・ツアーはミズーリ州スプリングフィールドからスタートした。この地はエルヴィスにとって1956年5月17日シュライン・モスク以来21年ぶりであり、前日までグレースランドにiいたエルヴィスは、当日リサ・マリー号に乗って当地へやって来た。(最上部スライド写真参照) ライブ会場となったハモンズ・スチューデント・センターの当時の建物写真が何故かネット上で発見出来なかったが、ライブ開始直前にステージに向かうエルヴィスと側近連中が撮影されたショットが左写真じゃ。 左写真左から右へ、アル・ストラーダ、空手仲間のエド・パーカー、エルヴィス、ビリー・スミス、ディック・グロブ、コンサート・ウェストのプロモーターであるトム・ヒューレット。エルヴィスの左斜め後には、黒いシャツとグレーのパンツ姿のニック博士も見える。隠し撮り写真とはいえ、当時のエルヴィスの側近中の側近だった連中が一同に会したショットも珍しいかもしれない。 遠目に見るエルヴィスの体調は悪くはなさそうであり、上写真3枚のライブ中の表情も平常時のエルヴィスじゃ。ライブレビューを読んでも平均点的ライブで、観客を(ライターさんも)安心させたようなクオリティだった模様じゃ。 ![]() 「エルビス・プレスリーには、まだ聴衆との魔法のようなタッチ、大衆を魅了するスタイルや才能がある」 「エルヴィスはいくつかのスタンダード曲を演奏し、見事に演じきった。ステージ上で、健康であること、そして彼についての噂のすべてを信じてはいけないことを口にしながら、Now Or Never、Jailhouse Rock、Love Me Do、And I Love Her So で声の調子が良いことを披露した。」 「紫色のスカーフをステージのあちこちに散らばらせ、エルヴィスは、15歳から45歳までの女性たちが彼に近づこうと騒いでいるのを目にした。ショーは、幅広い年齢層だけでなく、観客の多様性も満たすように調整されていた。年配の観客 向けのスタンダード曲や、10 代や20 代の若者向けの新曲の演奏もあった。」 「エルヴィスは間違いなくまだ歌える!本物のロックンローラーとしての彼のやり方は、中年のリスナーを若返らせることができ、彼はパッケージ化され、極限まで管理され、商品化されてはいるが、そのことで途方もなく裕福になっているのだ。」 ![]() ![]() オープンは1976年であり、この当時全米各地で収容人員数10,000人以上のアリーナがオープンすると、実質的なこけら落としイベントとしてエルヴィスは頻繁に招聘を受けており、ここでもまた会場運営資金調達と話題作りのためにエルヴィスはお呼ばれされたのだろう。(招聘→使用料金割引を目論んだ大佐の戦略だったかもしれないが) なお21年前のライブ会場だったシュライン・モスクは、真北約800メートルに位置しておる。右写真ストリートビュー2019年3月撮影。 |
ここにもまた、エルヴィスの隠れ家が!![]() ![]() 既に諸君もご存知の通り、70年代のエルヴィスは時たまこのような郊外のモーテルに泊っており、これもまた少しでもプライベートの時間を確保するための手段だったのじゃろう。 1964年にオープンしたこのモーターロッジは、かなり広大な土地に複数の宿泊施設、4つのプール、1,500人を収容出来るイベントホール等を擁する複合娯楽施設。60年代末期のツアーガイドブックには、「魅力的な敷地、非常によく整えられた広いユニット、カラー テレビ、ハイファイ音楽を誇っている」と記載されておるそうじゃ。最盛期の1984年には客室は400まで拡張されておったという。エルヴィスは隠れ家的な感覚でこの施設を利用したんじ ![]() ![]() |
「ミスター・プレスリー、あなたは全然ギターを弾けてないですよ」の銅像がある博物館!![]()
![]() もしミズーリ州スプリングフィールドを訪ねる機会があれば、上記したエルヴィスのライブ会場や宿泊ホテル、さらにもう一ヵ所訪ねておいて損はない場所があるぞ!それは「スクエア歴史博物館」じゃ。 実はスプリングフィールドは、TCBバンドのリズム・ギタリストであり、2017年にご逝去されたジョン・ウィルキンソンが育ち、エルヴィスと初めて会った場所なのじゃ。 スクエア歴史博物館は音楽専用博物館ではないが、ご当地のヒーローであるウィルキンソンに敬意を表して、彼の使用ギター、着用衣装、直筆サイン入り写真、さらに未亡人から贈与されたという彼本人が着用していたTCBネックレス等が展示されておる! もっともユニークな展示品はエルヴィスとウィルキンソンが向き合っておる2体の小型の銅像(上写真右側)かもしれない!ウイルキンソンは1957年5月17日に当地のシュライン・モスクで行われたエルヴィスのライブへ出向き、“うまいことやって”バックステージにもぐりこむことに成功した! ウィルキンソン少年は当時まだ12歳だったにもかかわらず、バックステージで対面した憧れのエルヴィスに向かって「あなたはギターを弾けてないですね」と発言!」 この発言をおも ![]() ![]() |
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