NANATETSU ROCK FIREBALL COLUMN Vol.467


第86回 エルヴィスゆかりの地~オハイオ州2025年前編

アップロード:2025年9月23日
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2023年4月以来、約2年半ぶりのオハイオ州訪問じゃ。「オハイオ州とエルヴィス」を簡単におさらいをしておくと、同州のクリーブランドは1955年2月エルヴィスが初めてライブで訪れたアメリカ北部の都市であり、デビュー直後のエルヴィスの才能を見抜いた当地の名プロモーター、トミー・ランドルフと出会った場所でもある!エルヴィスは70年代にも同州で何度もライブを行っておるが、2025年版前編の今回は、特に滞在したホテルにご注目頂きたい。ロックスターご用達の伝説の“ロックンロール・ホテル”や映画「エルヴィス・オン・ツアー」の撮影場所にもなったホテル、また折角エルヴィスが泊まったのにまったく繁盛することのなかったホテル等アリマス!わしはライブ状況よりも、それぞれのホテルの歴史を調べる方に熱が入ったかもしれない(笑)諸君もどうか楽しんで読んでくれたまえ!

【目次】バーチャル・ロックンロールツアー エルヴィスゆかりの地
    第85回オハイオ州2025年前編

 ・Area No.は2023年度編からのオハイオ州内の番号
 ・Serial No.は「バーチャル・ロックンロールツアー」第1回からの通し番号です。

 Area No.13/Serial No.610  スゥインゴス・ケグ・アンド・クォーター
                    &スゥインゴス・セレブリティ・イン跡地/クリーブランド
 Area No.14/Serial No.611  パブリック・オーディトリアム/クリーブランド
 Area No.15/Serial No.612  デイトン大学アリーナ/デイトン

 Area No.16/Serial No.613 ビルトモア・ホテル/デイトン
 Area No.17/Serial No.614 モール・モーター・イン跡地/デイトン
 Area No.18/Serial No.615 ストーファーズ・イン・プラザ/デイトン

【バーチャル・ロックンロール・ツアーのバックナンバー】

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★ 本文中の表記について ★

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SMW=スコッティ・ムーアのウェブサイト
EDD=「Elvis Day By Day」 
 エルヴィス・デイリー記録集
EPC=エルヴィス・プレスリー・イン・コンサート
 (ウェブサイト)
HAC=ヒストリック・アエリアルス
 (アメリカの空撮サイト)


 まさに伝説!未だプライバシー保護完璧のロックンロール・レストラン&ホテル!!
Area No.13/Serial No.610 スゥインゴス・ケグ・アンド・クォーター
                &スゥインゴス・セレブリティ・イン跡地/クリーブランド

 熱狂的なエルヴィス・ファンならば「エルヴィスも“ココ”に泊っていたのか!?」、マニアックなエルヴィス・ファンならば「ほほぉ~ようやく“ココ”が登場してきたかあ~」となるかもしれんな!

 “ココ”とは、オハイオ州で第二の大都市クリーブランドに1971年から1984年まで存在しておった伝説のロックンロール・レストラン&ホテル「スゥインゴス」じゃ。何が伝説かっつうと、ツアー中のビッグロッカーたちがホテルで巻き起こしてきたどんちゃん騒ぎの大概がスゥインゴスで行われていた(もしくは始まった)からじゃ。さらに僅か13年という短い営業期間のみならず、閉鎖から40年が経過した現在でもなお、どんちゃん騒ぎの証拠写真が公表されておらず、営業当時の実態は以前として濃いベールに包まれたままだからじゃ。

 例えば、酔っぱらってバーで大喧嘩をする。部屋の窓から階下へテレビを放り投げたりする。部屋の壁をブチ壊す。大量のシャンパンをオーダーしてバスタブを満たしてシャンパン風呂にする。グルーピーたちと〇〇するとか、ロックミュージシャンたちの度を越えた乱痴気騒動は枚挙にいとまがないが、そうした非日常的行為が「スゥインゴス」では毎日のように繰り返されておったのじゃ。そしてオーナーのスゥインゴス氏の寛大さは神の領域にあったとまで言われており、きちんと弁償さえされればどんな損害もいとわず、しかもミュージシャンたちのプライベートが完璧なまでに守られておったのじゃ。

 「スゥインゴス・ケグ・アンド・クォーター」(レストラン&バー)ならびに隣接していた「スゥインゴス・セレブリティ・イン」(ホテル)は、建物や正面入口の写真すらネット上にごく少数しかない。左上写真は恐らく広告用のレストラン入口写真、下写真左側は新聞記事用の建物の写真であり、現在ネット上で見られる写真はこれら数種類だけじゃ。
 「スゥインゴス」で過ごしていたセレブやミュージシャンたちの写真も、下写真中央のフランク・シナトラ(左側はオーナーのスゥインゴス氏)と、下写真右側のザ・フーのキース・ムーンとピート・タウンゼント。この2枚だけじゃ。シナトラって、エルヴィス批判をはじめとして良識派を気取っていたイメージが強いが、実はスゥインゴスが大好きだった!
 Googleの超優秀なお助けチャット機能「Chat GPT」の回答によると、「営業当時から現在に至るまで利用客のプライベート保護管理が徹底しており、詳しい資料はクリーブランドの公共図書館にあるかもしれない」とのことじゃ。パパラッチの進入なんざも絶対に許さない「スゥインゴス」のこの営業方針がミュージシャンたちから絶大な信頼を得ておったのじゃ。


 1971年、クリーブランドのダウンタウンの一画にあった赤字続きの飲食店の借金を肩代わりすることで当地での経営権を得た「スゥインゴス・ケグ・アンド・クォーター」は、すぐに隣接する名もないホテルも買収。当時クリーブランドの観光収入は少なく、新しいレストラン&ホテルの経営を危ぶむ声もあったそうじゃが、そこに現れたのがエルビス!パーカー大佐によると、全米ツアーのスケジュールを組む際に経由地としてクリーブランドは立地条件が良く、適切なホテルを物色しておったそうな。スゥインゴスを見付けた大佐はさっそく4人のメンフィス・マフィアを視察に送り込んだ末、「エルヴィス宿泊OK!」の断を下した。エルヴィスもスゥインゴスを大変に気に入り、ツアーでクリーブランド(および周辺地)を訪れる際は必ず利用しておった。

 エルヴィスのスゥインゴスでの“武勇伝”はネット上では見つからなかったが、ひとつ奇妙な記載があった(笑)初めて宿泊した際、エルヴィスはルームサービスでステーキをオーダー。オーナーのスゥインゴス氏自らステーキを部屋まで届けたところ、エルヴィスは「ジグゾーパズルの様にカットしてくれ」と。オーナーが笑顔でステーキをカットしたところ、エルヴィスは更に言ったそうな。「OK!じゃあ今度はステーキを元通りにしてくれ」まあ嫌がらせではなくて、エルヴィス流のジョークじゃろう(笑)なお、エルヴィスに対する1971年最初の退出時のホテルからの請求額は2万ドルじゃった!(何をしでかしたんじゃろう?)

 下写真左側は正体不明の男性モデルが写るホテルのフロント。下写真中央はレストラン&ホテルの新聞広告。下写真右側はネット上で見られる「スゥインゴス歴史映像集」(有料)のプロモ映像の静止画。
 

 なお余談じゃが、スゥインゴス営業当時にもっとも評判のよろしかったお客はレッド・ツェッペリンだったらしい!彼らがホテルの部屋を綺麗に使用していたからでは決してなく(むしろその真逆!)、どんなに物を破壊しようが、ツアーに同行していたツェッペリンお抱えの会計士が「損害はお幾らでしょうか?お支払いは現金、それとも小切手、どちらがよろしいですか?」と迅速に対応していたからじゃ!この会計士のバックには、名マネージャーの誉れ高かったピーター・グランドが控えており、「ツェッペリン・カンパニー」を優良組織として見事に運営しておった。名アーティストに名マネージャーありじゃ。しかし、支払いに関しては値切りや踏み倒しが茶飯事だった(とされる)パーカー大佐とはえらい違いじゃなあ。


 スゥインゴス・ケグ・アンド・クォーター並びにスゥインゴス・セレブリティ・インは現在跡形もなく消えてしまい、その跡地にはサンドイッチ・チェーン店「サブウェイ」が1階に入ったコンフォート・インというホテルが建っておる。(右写真右側。ストリートビュー2024年8月撮影)
 右写真左側は、HACによる1982年撮影の空撮写真。赤枠内がスゥインゴス。


 “もう一度私を観ておいてくれ。もう戻ってこないかもしれないから”
 Area No.14/Serial No.611 パブリック・オーディトリアム/クリーブランド

 「バーチャル~オハイオ州2022年編」でご紹介済じゃが、1950年代のエルヴィスとオハイオ州、特にクリーブランドとの相性は非常に良く、目立った“エルヴィス・ネガティブ・キャンペーン”も起こらなかった。合計7都市10回(うちクリーブランド3回)のライブはどれも熱狂に包まれた。とりわけ、エルヴィスがまだ駆け出しだった頃の1955年2月26日クリーブランドのザ・サークル・シアターでのライブ、これはオハイオ州初のライブであり、後にニューヨーク進出へのコネクションが生まれることになったライブでもあった。(「バーチャル~第30回」Area No.1参照
 50年代と70年代のエルヴィスの活動を同系列の内に比較することは無意味とはいえ、エルヴィスがまだロックンローラー然としていた70年代初頭にかつて歓迎されていたオハイオ州で行ったライブは、71年2回、72年1回と意外に少ない。その1回目が1971年11月6日クリーブランド・パブリック・オーディトリアム(下写真左側)での昼夜2回のライブじゃ。(上写真3枚、ブラックのジャンプスーツがマチネー、下写真ホワイトのジャンプスーツがナイトショーでの撮影)
   

 ネット上で読めるライブレビューには、マチネーではまずロックンロール・ナンバーでのエルヴィスの絶好調ぶりが記述されており、だからこそスローテンポ(バラード)もまた引き立つと!

「ジョニー B. グッド」 が演奏され 、エルヴィスはこの曲のこの演奏に特に力を入れているようだった。ジェームス・バートンの素晴らしいギターソロは、彼自身のアルバムのバージョンに似ていた。このバージョンは以前よりもゆっくりで、より力強いものだった。」

「ハートブレイク・ホテル」、そして「ブルー・スエード・シューズ」が演奏された。観客はエルヴィス関連の古い曲をとても気に入っていた。エルヴィスは観客が自分の味方だとわかっている!
 エルヴィスはその後、ビッグ・ママ・ソーントンのようなスローなブルージーなバージョンで「ハウンド・ドッグ」を歌い、その後通常のテンポに戻しました。エルヴィスが「ナ・ナ・ナ・ナ・ナ・ナ・ナ」と歌う部分があり、バートンがギターでそれを繰り返した。次に「ハウ・グレート・ザウ・アート」の今まで聞いた中で最も美しいバージョンが続いた。エルヴィスはゴスペル音楽が大好きで、この曲でそれを本当に表現していた。」

「エルヴィスは、観客が見えるように照明を明るくできるかと(会場側へ)尋ねた。照明は明るくなり、彼は“シンプルなやり方であなた方に語りかけよう”と言って「Can't Help Falling In Lovell」が演奏されると、観客からため息が上がった。半分は曲が気に入ったから、もう半分はこれがエルヴィスの最後の曲だと観客は知っていたからだ。エルヴィスは演奏を終えると、すぐにステージから駆け下り、待っていた約 100 人の警備員の腕の中に飛び込んでいった。」

上記、マチネーのライブレビューを書いたライターがナイトショーも書き続けており、マチネーよりもナイトショーの方が“2倍素晴しかった”としておる!〆もシンボリックに美しく記述しておる。

「夜のショーとCan't Help Failing In Loveの終わりに 、エルヴィスはマイクをステージに投げ捨て、両手でマントを広げてステージを闊歩した。まるで「私は名声ある存在だ。最後にもう一度見てほしい。私はもう退出するから、しばらくはクリーブランドに戻らないかもしれない」と言っているようだった。 エルヴィスはそんなことを思っていなかっただろうが、その効果は強烈だった。」

やはりエルヴィスとクリーブランド、オハイオ州は良縁で結ばれておったようじゃ!

  クリーブランド・パブリック・オーディトリアムは2025年で開場から実に103年目を迎える全米でも老舗中の老舗大型ホール。1922年の開場当時の収容人員数11,000は全米一だったことがWIlipediaに記載されておる。
 毎年クリーブランドのロックンロール・ホール・オブ・フェイム(ロックの殿堂~「バーチャル~」次回ご案内予定)で開催される殿堂入り式典は、このオーディトリアムで開催されることも多い。右写真左側は2012年の式典の模様。右写真右側はストリートビュー2024年8月撮影。



 宝石をちりばめたエルヴィス!12万ドルまで数えてご満悦のパーカー大佐!!
Area No.15/Serial No.612 デイトン大学アリーナ/デイトン
 デイトンなる街はオハイオ州内で有数の工業都市であり、クリーブランドの南西約280キロの位置にある。1913年に人類初の有人動力飛行に成功したライト兄弟を生んだ地域じゃ。

 エルヴィスは生涯4回にわたりデイトンでライブを行っており、1回目の会場は1956年5月27日デイトン大学のフィールドハウス。この時はライブ中とバックステージでマービン・イスラエルというカメラマンが写真を撮りまくった。(「バーチャル~第30回 Area No.5」参照)マービンの作品は後に「Elvis Presley 1956」という写真集にまとめられて、現在でも露出度抜群の人気ショットが多い。

 1970年代は、1972年4月7日、1974年10月6日、1976年26日の3回、いずれもデイトン大学アリーナ(左上写真中央下の細長い建物。前述のフィールドハウスとは別の場所)でライブが行われた。(上ステージ写真4枚は1972年のライブ)72年のライブはデイトン史上で当時の最多記録となる14,000人の観客がアリーナに集まった。当時のライブレビューはDayton Daily Newsの記事のみわずかにネット上で読むことが出来る。「飾り立て、宝石をちりばめながらエルヴィスは登場した」というタイトルに続く、短いレビューは下記の通りじゃ。

「エルヴィスは何も間違えるはずがなかった。だから、彼は間違えなかった。彼はただ歌い、すすり泣き、ブルースを嘆き、彼特有の骨盤の動きを披露して観客を魅了した。それはエルヴィスの夜だった。観客にとっても同じだった」

「エルヴィスは、彼が率いる巨大なオーケストラと同じくらい力強かった。懐かしい曲と新しい曲を巧みに組み合わせて、レコード・ファンを心地よく緊張させていた。“ラブ・ミー・テンダー”では、エルヴィスは“彼女がピルを飲んでいる限り”という新しい最後の歌詞をアドリブで歌い、観客を和ませた。また、“明日に架ける橋”では、プレスリーの崇拝者たちに好評だった。」

「そうそう、パーカー大佐もそこにいた。テネシー・テキサスの帽子、杖、そしてすべてを持って。彼はお金を数えていた。計算が12万ドルに達したところで、彼はやめた。彼は笑っていた。」

 総じて、観客の期待を200%裏切らなかった素晴しいライブだったということじゃな!“宝石を散りばめながら~”というタイトルは着用していたジャンプスーツのデザインを指摘しておるのじゃろう。大佐もこちらの想像を裏切らない仕事っぷりだったようですな!(爆笑)

 ちなみに、74年、76年のライブレビューはネット上で見当たらず。(下写真左側は、74年マチネー、下写真中央と右側が74年ナイトショー)
 1969年に開場したデイトン大学アリーナ(University of Dayton Arena)は略称UDアリーナの名で呼ばれており、エルヴィス以外のアーティストも全米ツアーの最中にスケジュールの中に組み込まれることが多いことでも有名。
 エルヴィスが1956年にライブを行ったデイトン大学フィールドハウス(現フレリック・J・トーマス・センター)はデイトン大学のキャンパスのど真ん中にあるが、こちらはその真西約2キロ、デイトンの街の中心を流れるマイアミ川を渡った先に位置しておる。下写真左側ストリートビュー2022年7月撮影。

  エルヴィスが車に乗っておる下写真中央は、1976年のライブ終了後にアリーナを去る際のショット。アリーナ北西側の駐車場で待ち構えておったパパラッチによる撮影と思われる。エルヴィスはアリーナから車で約5分の宿泊先ホテル(ストーファーズ・イン-下記Area No.18)に向かった。下写真右側はGoogle-mapによるアリーナの空撮写真。赤丸部分がアリーナ北西側の駐車場。



映画「エルヴィス・オン・ツアー」の撮影場所にもなった、1972年デイトンの宿泊先
Area No.16/Serial No.613 ビルトモア・ホテル/デイトン
 上記Area No.15でご紹介した通り、エルヴィスはオハイオ州デイトンで4度ライブを行っておるが、その都度宿泊したホテルに関してはネット上の情報がかなり錯綜しておる。4度の宿泊に対して6~7つのホテルが挙げられておる。何処も信憑性の高い書かれ方がされておるが、決定的証拠が少ない。
 そこで、情報アップの“され方”(サイトや動画の作り方に熱意があるかどうか)、またわしが今まで「バーチャル~」を継続してきた中で養った勘によって(笑)「エルヴィス宿泊間違いなし」と踏んだホテルをご案内していこう。
 
 まずは左写真のビルトモア・ホテル。20世紀初頭に建てられたデイトン一の老舗ホテルであり、今では歴史建造物に指定されておる情報サイトによっては1956年のライブの際にエルヴィスが宿泊したとされておるが、その証拠らしき情報がネット上で見つかっておらん。
 しかし1972年にはエルヴィスが泊っておる可能性が非常に高い。まず1709号室、1710号室がエルヴィス用にブッキングされたというホテル関係者への取材情報があること。更に1972年に製作された映画「エルヴィス・オン・ツアー」の中に、ビルトモア・ホテルの屋上から撮影されたシーンが挿入されておることじゃ。(老紳士がホテル内の移動経路を誘導するシーンもあり)
 下写真中央は、映画内のビルトモア・ホテルの屋上からのシーン。下写真右側が2021年にアップされたアメリカのマニアによって撮影された同じく屋上からの近年の写真じゃ。ビルトモア・ホテルの建物が現存していることで明らかになった素晴しい証拠写真じゃ。動画をアップされたマニアさんに感謝じゃ!(2枚とも動画サイトの静止画から)
 ビルトモア・ホテルは1980年代には高齢者用アパートに改造されて現在に至っておる。建物の名前はビルトモア・タワーとされておる。19階建ての構造はオープン当初はオハイオ州のホテルの中でもっとも高層だったことが“タワー”と命名し直された理由かもしれない(笑)
 しかし高いのは建物の高さだけで、Google-mapのレビューを読むとすこぶる評判が悪い。現オーナーさんには、かつてエルヴィスが宿泊し、映画にも利用された栄えある歴史を再認識して改善に努めて頂きたものじゃ(笑)
 右写真左側は、エルヴィスが利用した1710号室入口の現在。右写真右側はストリートビュー2024年6月撮影。


好立地でもエルヴィス宿泊でも繁盛しなかった、サウス・ジェファーソン・ストリート21番地ホテル
Area No.17/Serial No.614 モール・モーター・イン跡地/デイトン
  “エルヴィス・デイトン・ホテル宿泊情報”の1974年は、こちらモール・モーター・インじゃ。左写真左側は絵葉書の絵柄。最上階にあったレッドカーペット(?)の高級レストランがウリだったのじゃろう。左写真右側は1970年代に撮影されたようで、写真左側奥に写る高層建物がモール・モーター・インじゃ。
 このホテルの歴史は短く、1966年にオープンした後、1979年にシェラトンに買収されたので、営業期間はわずか13年。シェラトンも1983年にアドミラル・ベンボウ・ホテルへ売却。さらに3年後にはアドミラル・ホテルもこの地から撤退。他のホテルが建物の買収を検討していたらしいが、結局買い手が付かずに2001年に取り壊しになった。3つのホテルはいずれも“エルヴィスの宿泊ホテル”という栄誉を活用出来なかったわけじゃ。場所はサウス・ジェファーソン・ストリート21番地という元セントラル・マーケットの跡地なので地の利もかなり良いはずじゃが、ビジネスってのは難しいもんじゃな~(笑)何処の国、何処の都市でもあるんじゃよなあ~好立地なのに何故か客が来ない場所ってのが。

 さて、1974年のエルヴィス・デイトン・ホテル宿泊情報には、下の3枚のパパラッチ・フォトがある。いずれも74年10月8日デイトン大学アリーナでのマチネーを終えて一旦ホテルに戻ってきた時の撮影じゃ。(写真掲載サイトにはホテル名の記載は無し)この3枚の写真が、僅かなホテルの資料と参照してモール・モーター・インでの撮影と証明できるのか、チョイト難しくもあり、そうでもないような!?
 上写真左側はホテルの駐車場で車を降りるエルヴィス。
 右写真左側はHAC1968年撮影の空撮写真であり、赤枠内がモール・モーターインの敷地。写真上部が駐車場じゃろうが、ここがエルヴィスが車を降りた辺りに該当するのか?エルヴィスの背後の植え込みがHAC空撮写真にも写ってはいるようじゃ。
 また上写真中央、右側はモザイク模様の外壁がポイント。 右写真右側は2001年にホテル建物の取り壊し工事最中の写真。(営業期間の写真が無い・・・)この2枚の写真の外壁は同じであるような、違うような!?これらの写真では決定的な証拠とは言えないが、一応参考のために載せておくぞ!

 右写真ストリートビュー2024年6月撮影のモーターイン跡地。背景の高層ビル方面(現駐車場から西側)へ向けてホテルが建っておった.。また右写真右側(北側)を一直線に約450メートル進むと、上記ビルトモア・タワー(元ビルトモア・ホテル)がある。

 なお、余計な周辺情報かもしれないが、モール・モーター・インを1979年に買収したシェラトン・ホテルが発行していた同ホテルの絵葉書の写真がネット上で見られるが、絵柄に使用された建物の写真が、Area No.14のビルトモア・ホテルの写真とそっくり!(もしくは同一!?)印刷所の手違いだったのか?
 何らかのイージーミスだったにせよ、サウス・ジェファーソン・ストリート21番地という場所で営業したホテルに次々と続いた不遇な運命を象徴しておるようじゃ。


4度目のデイトン、4軒目のホテル
 Area No.18/Serial No.615 ストーファー・イン/デイトン

 私設エルヴィス・サイトにおいて情報が錯綜気味のエルヴィスのデイトンでの宿泊先において、唯一情報が一致しておるホテルが、1976年に宿泊したこちらのストーファーズ・インじゃ。エルヴィスはデイトンを訪れた4回、それぞれ別のホテルに泊まったっていったのじゃ。(珍しいパターンかも!)
 ストーファー・インは後にクラウン・プラザ・ホテル、ラディソン・ホテルとオーナーが変わっておるが、建物の外観は現在もほとんど変化しておらん。左モノクロ写真は、ネット上では希少な、「Stouffer's」専用ロゴが掲げられていた時代のモノクロ写真。こちらの9階にエルヴィスは宿泊した。複数のエルヴィス・マニアによる動画がyou tubeにアップされており、彼らによるとエルヴィスはホテルの貨物用エレベーターを使っておったとのことじゃ。

 もし諸君が独自でエルヴィスのデイトンでの宿泊先を探す際に注意されたいのは、私設サイトによって、これまでの3つのホテル名「ストーファー・イン」「クラウン・プラザ」「ラディソン」がサイトによってテキトーに記載されておることじゃ。恐らくサイト担当者が調べた時点でのホテル名を記載しておるのじゃろうが、エルヴィスが宿泊した当時は「ストーファーズ・イン」じゃ。

 Google-map2025年版によると、「ラディソン・ホテル」も撤退したようであり、「閉鎖」の表示がなされておる。この先また新しいオーナーに代わって、新しい名前に改称される可能性がある。
 右写真ストリートビュー2023年7月撮影。写真に写る建物前のストリート(サウス・ジェファーソン・ストリート)を右へ(北へ)約190メートル進むとArea No.17のモール・モーター・イン跡地に至る。下写真2枚は、エルヴィスが宿泊したお部屋の2年前の様子。(アメリカのマニアの動画サイトの静止画)


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