
| アップデート:2026年8月23日 |
|
|
| (上部スライダーは自動的に別写真へスライドし続けます。またカーソルをスライダー部分に置くとスライドが止まり、左右に矢印が表示されますので、矢印をクリックすると別写真にスライド出来ます。) |
|
前回の「フロリダ州2026年前編」で1977年2月14日エルヴィスの生涯最後のバレンタイン・ライブ地セント・ピーターズバーグのベイフロント・センターをご案内した。それは2月12日から2月15日までの4日間続いたフロリダ・ツアーのひとつであり、スタートとなった2月12日はペンブロークパインズという日本人には聞きなれない名前の街でライブを開催した。ペンブロークパインズは、マイアミの北35キロの地点にある人口10数万人の街であり、真東にはハリウッド(フロリダ州のハリウッドです)というより大きな地域があるためか、私設エルヴィス・サイトの一部では1977年2月12日のライブ地域名を“ハリウッド”としておる場合もあるので要注意デス!会場名に“ハリウッド”と付けられておるのでヤヤコシクはあります。 この日のライブについては幾つかのレビューがネットにアップされており、たまたま最初に読んだレビューが「太っちょエルヴィスの77年最悪なライブ・ビジュアル」から始まる、ライターの悪意が伺える内容だったので、その後詳しく調べる気が失せかかったわい。 確かに何枚かのエルヴィスの写真はお顔がむくみ過ぎて生気が消えたようには見える。ところが、前年12月31日のニューイヤー・ライブ以来、1977年最初のライブとなったこの日、EPC掲載のレビューのひとつは「77年度最高のライブ」と明記されておった。これは恐らくエルヴィスの死後、そのライブ記録と記憶を総括する際の結論のようであり、決してライブ初体験直後の生々しい興奮や、盲目的なエルヴィス信者の妄想によるものではなさそうじゃ! 「エルビス・プレスリーは土曜日の夜、ハリウッド・スポルタトリアムで腰を振り、唇を丸め、叫び声を上げる14,700人のファンを22年間のロックンロールの歴史へと連れ戻した。スパンコールのついた白いジャンプスーツに身を包み、太っちょの42歳のプレスリーはステージに上がり、ギターを肩にかけ、“CCライダー”を力強く歌い上げた。巨大な講堂は無数のフラッシュライトで照らされ、耳をつんざくような叫び声がアンプの音を圧倒した。伝説的な回転運動を控え、ギターを放り投げ、熱狂的に飛びかかる観衆にストラップを投げて、皆さん、本当に素晴らしい観客ですね、と言った。 「興奮した満員の観客がスポルタトリウムに持ち込んだ忠誠心、さらには欲望はまさにそれだ。1 時間のパフォーマンス中、ロックンロールの王様が伝説的な腰を揺らしたり、ぴくぴく動かしたりするたびに、大勢のファンが歓声をあげた。」「ファンたちは朝8時という早い時間から、人里離れた会場に続々と集まり、車やキャンピングカー、ピックアップ トラックに座って、1950年代にエンターテイメント界を席巻したフォンジーの原型であるヒーローを待ちました。“彼は年を取っているのではなく、ますます良くなっています”と、サンドイッチ、ソーダ、トランプを持って土曜日の早朝に到着したハリウッドの28歳のワンダ ヒッキーはささやいた。フォート・ローダーデールの主婦フェイ・ルポは、胸元にエルビスのボタンを留めたローカットの黄色いドレスで会場に到着した。“彼が『バーニング ラブ』を歌ったら、18 列も席から飛び上がります”と彼女は誓った。“その時は私を押さ付けね”」 「彼がステージに立っていた1時間5分の間、写真撮影は一度も止むことはなかった。女性たちが気絶し、叫び、完全にヒステリー状態になっている中、そこは1956年そのものだった。コンサートのスタートから、観客の叫び声で彼の音楽はほとんど聞こえないことが明らかだった。大混乱の中で、まったく止む気配がなかった。」 「多くの少女たちがステージに上がろうとし、テディベアからバレンタインのキャンディの箱までさまざまなプレゼントを贈ろうとしたり、彼が観客に投げたスカーフを奪おうとしたりした。警察は全員を再び着席させようと必死だったが、手に負えないほどだった。しかし、暴徒たちはゆっくりとステージに向かって進んでいた。 一方、観客席では、女の子たちが席に立つのをやめようとせず、人々が椅子から投げ出されるなど、喧嘩が勃発しそうだった。チケットと席をめぐる混乱は信じられないほどだった。席を移動させられた3人の女の子は、その日の午後に1席45ドル(最高額のチケットは15ドル)払ったのに、もう行くところがないと無駄に主張した。席がなぜか消えたため、膝の上に座らざるを得なかった人もいた。前後に揺れる音と騒音は、屈強な男でも震え上がるほどだった。」 以上はライブ・レビューのほんの一部じゃが、ちょいとばかり希少な記述をも付け加えておこう。ひとつは、パーカー大佐と交渉の末にこの日のライブを実現させた会場責任者の言葉。『エルヴィス側は巨大な利益を得たが、我々の利益は少ない。エルヴィス自身からの唯一の要求は、楽屋に全身が映る鏡を用意しておいてくれだった。』 もうひとつは、バックシンガー隊の一人J.D.サムナーから引出した言葉じゃ。『もうリハーサルはやらないよ。我々は何年間も一緒にやってきたから必要ないよ。』リハ無しってのは、果てしなく続いていたライブへの緊張感を保つTCBバンドなりの手段だったのじゃろうか。 エルヴィスのライブ中は会場内で大熱狂、大混乱が起こったものの、ペンブロークパインズという街はwilipediaによると「全米でもっとも住みやすい都市のひとつ」という。以下wikipediaからの転載。 ペンブロークパインズは2004年に全国市民同盟の「全米都市賞」を受賞し、2003年では最終選考にまで残った。また2005年には全米市長会議が後援する「2005年都市居住性表彰」で「傑出した成果を挙げた賞」を受けた。ペンブロークパインズの学校の多くは、他の模範となる地域社会の関与という証があるので、フロリダ州教育局から「五つ星学校賞」を受けている。 ートの開催で会場スケジュールは常にびっしり埋まっておったという。その反面、コンサートでの音響の悪さも有名だったとか。またイベント開催日に起きる周辺の交通渋滞問題も深刻であり、イベント開始時間が30~60分遅れることもしばしばじゃった。1998年に閉鎖、解体され、跡地には大型スーパーマーケットが建てられておるが、Google-map上では未だ削除されずに、Hollywood
Sportatoriumと表示されたままになっておる。(右上写真ストリートビュー2022年8月撮影) |
1977年度最初のツアーは、この空港でリサ・マリー号を降機して始まった
エルヴィス一行はそのまま車で宿泊先のウエスト・パルム・ビーチのシェラトン・インに車で向かうことになり(下記Area No41参照)、カメラマンも随行したので(勝手に追いかけた?)暗闇の中のブラック・レザー・コートのエルヴィスが何枚も撮影されており、どの写真が空港なのかホテルなのか撮影場所のクレジットが曖昧であり、間違いなく空港でのショットは上写真だけのようじゃ。 午前4時半という早朝の到着時間だったため、さすがに空港にファンが殺到することなく、キングの到着を待ち構えていたのは僅かな人数の記者とカメラマンだけだったという。エルヴィスはコメントを求められた際「とても温かい歓迎を受けて嬉しいよ」とジョークで返したそうじゃ! さて当日夜のライブは上記Area No.40でご案内したペンブロークパインズのスポータトリウムじゃが、当日朝発行の地元新聞は、リサマリー号を降機するエルヴィスの写真とともに「エルヴィスは今夜ウエスト・パルム・ビーチ・オーディトリアムでライブ」と間違って記載してしまった。(上写真右側、赤丸内)これが後々になった世界中の「勝手にエルヴィス調査員」たちを少々混乱させることになったそうじゃ。わしだってこの記事をみればライブの日付を鵜呑みにしてしまい、後々「12日?13日?どっちなんじゃ」ってアタフタしたじゃろう。(笑) この空港のオープンは1936年。ウエスト・パルム・ビーチ出身者初の女性パイロット、グレース・モリソン嬢の尽力により開港したそうじゃが、彼女は開港直前に交通事故で亡くなった。彼女への哀悼として、開港後しばらくは「モリソン・フィールド」という名称で呼ばれておった。第二次世界大戦中から大戦終了後もしばらくはアメリカ空軍が空港を管轄し、1962年に空軍は空港を市へ返却し、パルム・ビーチ・インターナショナル・エアポートと改称された。右写真はGoogle-mapの最新空撮写真。 |
上記パルムビーチ空港からエルヴィス一行が直行して宿泊したホテルが、空港の北側3キロの地点にあったシェラトン・イン。駐車場で車を降りてホテルへ向かうエルヴィスが撮影された写真が何枚も残されておる。上述の通り、暗闇の中の撮影がホテルなのか空港なのか判別出来ないが、下写真右側の左上部には僅かにSHERATONのネオンサインが写っておる これらの写真は一般的には露出度が低かったものの、21世紀になって発売されたコレクターズCD&Book集「Elvis Presley The Feburuary 1977 Tour」の中に掲載されてエルヴィス・ファンには広く認知されるようになった。空港にはファンはいなかったが、ホテルには少々集まっておったようじゃ。(左写真は、80年代頃に発行されたシェラトン・インの絵葉書の図柄)
一行がシェラトン・インに到着したのは2月12日。しかし当日夜のライブはウエスト・パルム・ビーチではなく、北約100キロの地点にあるペンブロークパインズじゃ。エルヴィス側はグレイハウンド(アメリカの大手大陸縦断バス会社)に特別バスをチャーターして、シェラトンとペンブロークパインとを往復した。翌13日はウエスト・パルム・ビーチでのライブだったので(下記Area
No.43参照)、エルヴィス一行はシェラトン・インに2泊したことになる。何故、12日早朝の到着空港がペンブロークパインではなくウエスト・パルム・ビーチだったのか?何故、12日にライブ地のペンブロークパインではなくウエスト・パルム・ビーチのホテルに宿泊したのか?しつこく調べ続ければ“それなりにもっともな原因”が分かるのかもしれないが、とりあえず現在のところワカリマセン。ひょっとしてエルヴィスが シェラトン・インに宿泊したかった(もしくは宿泊しなければいけない)理由があったのかもしれない!案外、ホテルへのファンの殺到を回避するための簡単なトリックだったのかもしれない(笑)右写真右側はストリートビュー2024年3月撮影。現在はラマダ・バイ・ウィンダム・ウエストパルム・ビーチ・エアポートと改称されておる。 |
フロリダ半島の大西洋側、マイアミの北約90キロの地点にあるウェスト・パルムビーチへ1977年2月13日エルヴィスがやって来たのは、1956年2月20日以来丁度21年ぶりであった。21年前は「ハートブレイク・ホテル」がビルボードのヒットチャート「HOT 100」以内にランクする一週間前、パルム・シアターという小さな劇場で1日4回のライブをこなした。この日はライブの合間の休憩時間に、劇場外のバーでエルヴィスはビールを注文したところ、バーテンダーから「エルヴィス・プレスリー?誰だか知らねーけど、未成年はビールはダメだ」と冷たく拒否られた。「自分はまだ有名じゃないんだな」と若きキングは意気消沈してしまったという。(詳しくは「バーチャル~フロリダ州2024年中編」Area No.24参照)下積み時代特有の苦労体験が残る街での21年ぶりのオーディトリアム(左写真)でのライブはいかがなものだったのか! 「トランペットが~2001年宇宙の旅~のテーマを鳴り響かせると、人々の鼓動が早まり、人々は立ち上がり、女性は叫び、フラッシュキューブがストロボ効果で爆発し、そして突然、魔法のような瞬間に、エルビス・プレスリーがそこに現れた。白いキラキラ光るジャンプスーツに身を包んだエルビスは、ウェスト・パーム・ビーチ・オーディトリアムに集まった熱狂的な観客に、なぜ彼がキングと呼ばれるのかを見せつけた。1時間のショーで、エルビスは1950年代と1960年代の初期の名盤と新しい曲を織り交ぜながら、24曲のすべてまたは一部を披露し、観客をからかったりもてあそんだりして興奮度が下がることはほとんどなかった。」「彼が体を動かすたびに、観客席は女性の叫び声で沸き立ったが、エルヴィスがステージに最も近い観客に青と白のスカーフを投げ始めたとき、興奮は最高潮に達した。観客席のあちこちからファンがスカーフをもらおうとステージに殺到し始めたが、ウェストパームビーチの警官とエルヴィスの警備員は秩序を保つために最善を尽くした。 「太り気味に見えたエルヴィスは、胴回 りに幅広のベルトを巻いているにもかかわらず、声は体よりもずっと調子が良いことを示していた。“ドント・ビー・クルエル”“ハウンド・ドッグ”“オール・シュック・アップ”“ジェイル・ハウス・ロック”といった最もよく知られた曲は数小節以上歌われることはほとんどなかった。しかし、観客は気にしていないようだった。彼が何をしても、叫び声と拍手で迎えられた。」以上、当時のライブレビューからの転載じゃ。 21年前の状況と比較すること自体バカげておることなんざ分っとるわい!まあビールどころか、望むものは何でも喜んで差し出される状況じゃ。かつてビールを飲ませてもらえなかった少年は、キングになって戻ってきたんだから!! なおこの日のライブから丁度40年後の2017年2月13日、「Elvis Presley Today History」なるウェブサイトにおいて、ライブ終了後に会場の駐車場から車に乗り込むエルヴィスの写真10枚がアップされた。右上写真はその内の5枚じゃ。 ![]() |
フロリダ州の時を越えたエルヴィスフィーバーのみが語り継がれるライブ会場
![]() 77年2月12日フロリダ州ペンブロークパインからスタートしたエルヴィスの同年度最初のツアーは、2月15日にこちらオーランド・スポーツ・スタジアム(左写真)にてフロリダ州での転戦を終えることになる。翌日からはアラバマ州、ジョージア州、サウスカロライナ州、テネシー州、ノースカロライナ州と、2月20日まで毎日州を移動しながらツアーは続けられた。 2月13日のウエスト・パルム・ビーチでのライブが21年ぶりの同地でのライブであり(上記Area No.42)、オーランドでのライブもまた1956年8月8日以来20年半ぶりの超ご無沙汰ライブだった! 1955年5月11日はハンク・スノウ・ミュージック・ジャンボリーの一員としての登場であり、エルヴィスの出演終了後、会場のアナウンス係がついうっかり「エルヴィスは皆さんにサインをするために楽屋裏にいますよ」と告げたことで女の子たちが楽屋に殺到。メイン・アクトだったハンク・スノウが登場した時は客席がガラガラ状態だったという伝説が残っておる。 20年半ぶりのオーランドでは何かハプニングはなかったのか!?と期待してライブ・レビューを探したところ、EPC掲載の3つのレビューは示し合わせたようにライブ自体(歌と演奏)のレポはほぼ無し。観客の熱狂ぶり、エルヴィスの配るスカーフの争奪戦模様、エルヴィスを神と崇める人たちの盲目的な感想ばかりで、“なんじゃあーこのレビューはっ!”って感じ(笑)有難かったことは、宿泊先でのエルヴィスの様子がレポされておったことで、それは下記Area No.43にてご紹介する。 翻ってレビューを読み直してみたが、要するにこの日スポーツ・スタジアムに集まった約6,000人の観客の目的とは、総じて「エルヴィスを観る、崇める、熱狂する」ことであり、それが他の会場よりも激しかったということなのだろう。文字にしたら他愛もないが、観客の生の感想を書き連ねることで、観客の熱狂状態を伝えようとするレポじゃ。 「なんてことなの!」とある女性は叫んだ。「私はキングのスカーフに触れることすらできなかった。触れられたらよかったのに!」「彼のズボンが破れればいいのに、それが私の望みよ」と高校教師のアンさんは言う。 「キスをしに来たのよ。ああ、キスさえもらえたらいいのに…」と主婦のカレンさんは言う。「キスがもらえないなら、スカーフでもいいわ。」 ゲータレードの瓶をステージに運ぶローディーは、悲鳴と叫び声で迎えられた。「エルヴィスはゲータレードを飲むのね」とある女性が息を呑んで言った。「しかもペプシのカップで飲むんだぜ」と友人が付け加えていた。 「エルヴィスのために人形を作ったの」とベティ・オルリコウスキーさんは茶色の紙袋からロックスターの30センチほどの人形を取り出しながら言った。彼女は人形の緑と白のシルクの衣装を親指でこすって、キラキラ光るスパンコールを見つめた。人形の片方の手についた紐からは「あなたは美しい」というメモがぶら下がっていた。「私はまだ25歳で、彼は私より少し早かったけど、彼はセックスアピールがすごいと思う。自宅の寝室のドアに彼の写真をデコパージュしようと思う。でも今夜は、彼に人形を投げるつもりよ」 スタジアムはフラッシュの撃ち合いの場となった。汗がエルヴィスの顔を伝い、髪は濡れていた。彼は首に巻いた長い白いシルクのスカーフでゆっくりと顔を拭った。そして、ステージの端にいる100人の手の中にスカーフを落とした。 叫び声が上がり、引っ張り合いが起こり、ついに一人の女性が貴重な賞品を独り占めした。彼女はそれを守るためにバッグに押し込んだ。競争相手たちは彼女を見つめ、彼女が間違った動きをしてそれを落とすのを待っていた。 「ペルビス」はステージを横切って戻ってきて、さらに12枚、24枚のスカーフを落とした。2列目に座っていた2組のカップルがスカーフを掴み、綱引きをやめようとしなかった。結局、保安官代理が争いを阻止するため、ポケットナイフでスカーフを2つに切った。 "...and IIII can't helllllp falling in luvvvv with yoooouuuuu." 彼はマイクに言葉を浴びせた。喉が渇いた聴衆にとっては冷たい水のような世界だった。目は閉じられ、まるで眠りに落ちそうだった。とても傷ついていた。そして、あの童顔、あの頬に砂糖のように甘い太った顔。女性たちは泣いていた。曲が盛り上がるにつれ、片膝をつき、片腕を上げ、頭を後ろにそらし、マイクを上げ、フィナーレ。ファンは叫び、泣いていた。何百人もの人々がステージに向かって押し寄せ、折りたたみ椅子が倒れていた。 1971年にジョン・セバスチャン(反体制的ポーズをとるカントリーシンガー)のライブで女性2人の死亡事故が起きたことや、ロックコンサートでの客層が悪くてマリファナが蔓延したり、エアコンもなく粗雑な造りによる衛生状態の悪さなどの悪評が絶えない会場であり、72~74年はロック・コンサートの開催が中止されておった。 75年ボブ・ディラン、77年のエルヴィスのライブは会場にとって名誉挽回の機会にもなかったが、建物の構造自体が建築法違反と見なされて1995年に取り壊された。跡地周辺は再開発されて、スタジアムの痕跡はまったくない住宅街になっておる。(右写真右側はGoogle-mapの空撮写真。赤枠内がスタジアムが建てられていたと思われる敷地部分) |
77年2月フロリダ州ツアー中の最後の宿泊ホテル
上記オーランド・スポーツ・スタジアムでのライブの際にエルヴィスが宿泊したホテルがヒルトン・イン・ウェスト。滞在中にエルヴィスがルームサービスを頼んだレストランが「ザ・ハウス・オブ・ビーフ」じゃ。当時のホテルの写真がネット上にないので、HACの空撮写真(1980年撮影~上写真左側)を代わりに掲載しておこう。上写真中央は「ザ・ハウス・オブ・ビーフ」の店内写真、上写真右側は同店のマッチ。エルヴィスのこのホテル滞在に関しては、写真は残されておらんものの当時の警備員や集まってきたファンの様子やインタビューが記事としネットにアップされておった。それはホテル内のエルヴィスの実態を知れる内容ではなく、いかに厳重な警備体制が敷かれていたことが強調されているだけであり、あまりおもしろくないが一応転載しておこう。(以下参照) エルヴィスはヒルトン・イン・ウエストの3階のペントハウススイートにいた。しかし、エルヴィス・プレスリーのファンで、憧れの人物を一目見たいと思っていた人にとって、火曜の午後、ヒルトンはハートブレイク・ホテルだった。 警備は厳重で、老年のロックスターは大統領だったかもしれない。そして、シークレットサービスがジミー・カーター大統領を警備するのと同じように、24時間体制の警官隊がプレスリーを、火曜日の夜にオーランド・スポーツ・スタジアムで行われるコンサートに出発するまで監視していた。 プレスリーは非常に近づきがたい人物であるため、エルヴィスのために働いているとだけ名乗る男性は、警備の取り決めについて話し合うことさえ許されなかったと語った。 「彼の生活のほとんどは秘密です。彼はプライバシーを望んでいます」と、エルヴィスと5年間一緒に暮らしてきたこの若者は語った。 「ここに誰がいるのかは分からないが、これ以上先へ進むことはできない」とある副保安官は語った。 警備員の持ち場に電話をかけても、同じような答えが返ってきた。名前も、誰がその任務を彼らに依頼したかの情報もなかった。すべてが秘密だった。 ホテルの総支配人フレッド・R・ポプソン氏は、ホテルは部屋を提供しただけだと語った。「彼らは自らの警備を含め、すべてを手配した」と彼は語った。 同ホテルのレストラン「ヒルトン・ハウス・オブ・ビーフ」の給仕係は、火曜日の午前12時30分にこの芸能人が到着した直後に、サンドイッチとフライドポテトをペントハウスに届けた。ドアのところで彼は食べ物を受け取る男に迎えられた。それはプレスリーではなかった。 プレスリーに同行する技術者によると、このアイドルがヒルトンに到着したとき、2台のリムジンが駐車場に入ってきたという。1台のリムジンは、彼の到着を待って集まっていた数人のファンの注意をそらすために正面玄関に停車した。プレスリーが乗った2台目のリムジンは彼を横の階段まで送り、そこで彼は月曜日の午後11時から2月の湿気の中立っていた「ハウス・オブ・ビーフ」のウェイトレス数名に挨拶した。プレスリーはリムジンから降りて階段に向かう途中、ヒルトンのウェイトレス、メリンダ・ロビンソンに話しかけ、握手を交わした。長年のプレスリーファンであるロビンソン夫人は、1956年にケンタッキー州ルイビルのコンサートでプレスリーを見たという。当時彼女は16歳だった。もう一人のウェイトレス、ダッチー・アルジオもプレスリーと握手した。彼のレコードを「数枚」所有していたアルジオは「興奮した」と語った。 なお当時ヒルトン・イン・ウエストの他に、約12キロ南下した地点にヒルトン・イン・サウスも存在しており、こちらは絵葉書が見つかったので参考写真として掲載しておくぞ。(左上写真) |
| 「バーチャル・ロックンロール・ツアー」の全てのバックナンバーは「一覧ページ」から御覧になれます。 「バーチャル・ロックンロール・ツアー一覧ページ」 (←クリック) 直近3回のバックナンバーは、下のバナーをクリックして下さい。 |
||
![]() |
![]() |
![]() |
| GO TO TOP |