NANATETSU ROCK FIREBALL COLUMN Vol.487


第105回 エルヴィスゆかりの地
~サウスダコタ州/ネブラスカ州/カンザス州2026年編

アップデート:2026年7月23日
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全米50州のうち、エルヴィスが訪れた記録が残っているのは43州。その中でも、もっとも記録が少ないと言えるサウスダコタ州、ネブラスカ州、カンザス州の3つの州をまとめてご案内しよう。全米のど真ん中に位置するこの3つの州を訪ねるのは約3年ぶり2回目であり、おそらくこれ以上調べてもエルヴィス来訪の記録は当面は出てこないと思われるほど調べ尽くしたので、どうか諸君の記憶の中に留め置き願いたい!

【目次】バーチャル・ロックンロールツアー エルヴィスゆかりの地
    第105回 サウスダコタ州/ネブラスカ州/カンザス州編

 ・Area No.は2022年度編からの各州内の番号。
 ・Serial No.は「バーチャル・ロックンロールツアー」第1回からの通し番号です。
 
 【サウスダコタ州】
 Area No.3/Serial No.726 スーフォールズ・アリーナ/スーフォールズ

 【ネブラスカ州】
 (追加情報)Area No.2/Serial No.216 シビック・オーディトリアム/オマハ
 Area No.3/Serial No.727  ヒルトン/オハマ
 Area No.4/Serial No.728  パーシング・センター跡地/リンカーン
 
 【カンザス州】
 Area No.4/Serial No.729 ラッセン・ホテル/ウィチタ
 Area No.5/Serial No.730  ヘンリー・レビット・アリーナ/ウィチタ
 
Area No.6/Serial No.731  ヒルトン・イン/ウィチタ

【バーチャル・ロックンロール・ツアーのバックナンバー】

★右下地図をクリックすると拡大表示されます。(クリック↓)

★ 本文中の表記について ★

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Google-map上の位置が表示されます。

SMW=スコッティ・ムーアのウェブサイト
EDD=「Elvis Day By Day」 エルヴィス・デイリー記録集
EPC=エルヴィス・プレスリー・イン・コンサート(ウェブサイト)
HAC=ヒストリック・アエリアルス(アメリカの空撮サイト)


【サウスダコタ州】

前夜の名唱の陰に隠れてしまった、サウスダコタ州ラストライブ地
Area No.3/Serial No.726 スーフォールズ・アリーナ/スーフォールズ

 エルヴィスのライブ史上最後から5番目に当たる、1977年6月22日サウスダコタ州スーフォールズでのライブ会場がスーフォールズ・アリーナじゃ。同会場では、1976年10月18日以来のエルヴィス登場じゃ。サウスダコタ州のライブは、「アンチェインド・メロディー」の熱唱シーンで知られる6月21日のラピッドシティが名高いので(「バーチャル~2023年サウスダコタ州編」参照」)、翌日のスーフォールズのライブは陰に隠れてしまってほとんど情報がネット上に無い。しかしサウスダコタ州でのライブはエルヴィスの最晩年に僅か3回しか行われておらんので、スーフォールズ・アリーナもエルヴィスゆかりの地として漏らさずカウントする!

 この度約3年ぶりにサウスダコタ州のエルヴィス情報をネット検索したが、やはり77年6月22日のスーフォールズでのライブ詳細は見当たらなかった。レポート自体はいくつか存在したが、ライブ描写は下記の短文のみ。奇妙なまでに詳細は避けられており、その他は周辺情報のみが記載されておる。

「コンサートホールをここまで熱狂させたことのないほど特徴的な声で、エルヴィスとバックメンバーたちは満員の8,189人の観客を前に、手拍子の霊歌、浮気心に満ちた田舎のカントリーやウエスタンの曲、そして「監獄ロック」「テディ・ベア」「イッツ・ナウ・オア・ネバー」といったプレスリーの定番曲を披露した。そして観客は大喜びだった」
 
1976年10月18日のライブも下記のみ。

「中年太りと闘い、負け続けているプレスリーは、1957年にエド・サリバン・ショーに出演した時と変わらず、上半身から上は派手で魅力的で、とんでもない人物だ」

※ここに掲載したライブ写真3枚の内、上写真左側(顔アップのショット)はラピッドシティでの撮影の可能性あり。現在スーフォールズとラピッドシティのライブ写真が混同されており、エルヴィスのスカーフが白がラピッドシティ、青がスーフォールズという説が有力。上写真左側は白いスカーフをしておるようにも見える!?(写真の日付データはEPCから)

 周辺情報として“ある意味で希少”だったのは、77年6月22日に収録されたエルヴィスの父・ヴァーノンのインタビューじゃ。恐らくスーフォールズに同行した際に収録、編集されてyou tubeにアップされておる。エルヴィスの生い立ち、音楽的背景、その後の人生の軌跡などが約3分半語られておる。ヴァーノンは、聞き手を意識して丁寧な言葉遣いをしておるのか、you tubeの稚拙な翻訳機能でもかなり内容が分かるので、英語が苦手な方も是非御覧あれ!(右バナーをクリック)この日から二ヶ月も経たない内にエルヴィスは亡くなったので、息子の真実を誠実に語ろうとする父親の姿が今更ながらに印象的じゃ。

 またスーフォールズの真南100キロの地点のヴァーミリオンという街にある国立音楽博物館に、エルヴィスが1976年から1977年にかけて行った最後のツアーの29公演で演奏したマーチン製のアコースティック・ギターが展示されており、ライブ中に不慮のアクシデントによって受けたダメージがそのまま残っておるという。(右写真左側)
 更にスーフォールズとラピッドシティの中間あたりに位置するマードゥという街の自動車博物館には、エルヴィスが1976年に購入したハーレーダビッドソンが展示されておるそうじゃ。(右写真右側)このギターもバイクもどうやってエルヴィスの元を離れて別人が所有者となったかは不明であり、ギターは所有権を争った訴訟も一時期起きていたそうじゃ。(この情報は2014年時点)

 なおスーフォールズでの2度のライブの際にエルヴィスが宿泊したホリディ・インに関しては「バーチャル~サウスダコタ州2023年編Area No.3」にてご紹介済じゃ。

1961年にオープンしたスーフォールズ・アリーナはそのかまぼこ型のような外観が特徴。時代の経過とともに南西に向かって連結した新しいホールが増設され続けておるが、オリジナルのアリーナは現在も改称されることもなく稼働中。右写真はストリートビュー2024年8月撮影。

【ネブラスカ州】

 オマハ良いトコ!「稀有なプロ意識と専門知識、所作は雄大な五輪選手、予言者、
       世界共通の言語を話す身体etc.」!!
(追加情報)Area No.2/Serial No.216 シビック・オーディトリアム跡地/オマハ
 

 1974年6月30日、エルヴィスはネブラスカ州オマハのシビック・オーディトリアム(右下写真)に18年ぶりに戻ってきた!オマハはネブラスカ州最大の人口(約45万人)を擁する都市であり、お隣のアイオワ州との州境に位置しておる。上記サウスダコタ州スーフォールズからはほぼ真南に270キロじゃ。シビック・オーディトリアムは「バーチャル~ネブラスカ州2023年編」Area No.2にて、1956年5月18日のライブ模様をご紹介したが、更に70年代には翌1974年7月1日、76年4月22日、77年6月19日にもライブが行われておるのであらためてご案内致そう。
 上写真左側は1974年6月30日マチネー、中央と右側は同日ナイトショーでの撮影。ライブレビューは下記の通り!

「エルヴィス・プレスリーは日曜の午後、観客にもっと演奏してほしいと叫ばせた。」

「1956年以来初めてオマハに登場したプレスリーは、多くの音楽ファンにとって彼が今でも王様であることを疑う余地なく示した。あらゆる年齢層を相手に演奏し、自身の人気曲の演奏だけでなく、他のアーティストの曲も演奏して会場を沸かせた。」

「10,000席の会場は満員だった。祖母たちもティーンエイジャーたちも、両脇にきらびやかな青のグラデーションのストライプがあしらわれた、おしゃれな白い衣装を着たスター歌手に声援を送った。」

「午後 2 時半のコンサートは、ラスベガスの彼の完全なショーとして発表され、3 つのバックアップ グループも含まれていた。そのプロ意識と専門知識は、中西部の観客にビッグタイムを提供した。」

 ライターさんもエルヴィス・ファンであることを隠しきれず、エルヴィスが若きロックスターから完全無欠なキングとなったことへの賞賛と、オハマに戻ってきてくれたことの歓喜を表す適切な表現が見つけられなかったようじゃな(笑)上記以外は、厳重な会場警備の様子と、エルヴィスもパーカー大佐もオフではほとんど姿を発見出来なかったほど行動が極秘にされていたことが記述されておるだけ。それにして、良いライブ写真がネット上に無いのが残念じゃ。


 
1976年のライブレビューは、上記74年のレビューと正反対に、かなり緻密で冷静なレビューがネット上で読める。(上写真3枚は76年、右下写真3枚は77年のライブ撮影)

 スターの多くは、スロットル全開でパフォーマンスする2気筒エンジンだ。エルビス・プレスリーは、スーパーチャージされた燃料噴射式V12エンジンで、美しくアイドリングし、時折エンジンを空転させてその強大なパワーをほのめかす。木曜夜のオマハで、この41歳の歌手は、1974年の夏に最後にこの地を訪れて以来、彼が配ってきたキャデラックと同じくらい上品だった。キングは、落ち込んで衰弱し、太りすぎだという報道があるにもかかわらず、依然としてキングだ。実際、プレスリーは、現役時の体重より30~40ポンドも体重が増えている。長年セックスシンボルとして君臨してきた彼には、二重あごが始まっている。
 しかし、体重が増えたことで、エルヴィスはより堂々とした印象になったが、動きやすさはやや劣っていた。カリスマ性は一段落ちたかもしれないが、所作は雄大でオリンピック選手のようだった。

 プレスリー楽団は「2001年宇宙の旅」を大音量で演奏し始めた。これは、予言者、スーパースター、そして制酸剤(の様なアーティストという意味か?)だけに許された壮大な曲である。プレスリーの登場は、他の大スターが行う悲鳴とは異なる、この世のものとは思えない集団の叫びを引き起こした。それは高く、高まり、非人間的な騒音の突進であり、終末の日の天体の音楽に例えられるかもしれない。何千ものフラッシュバルブがアリーナの真夜中を真昼に変え、そして再び真昼に戻した。このプロセスは急速に繰り返され、2万人のファンの瞳を鍛えた。プレスリーは「CC ライダー」の決まりきったバージョンで始まったが、群衆はすでに彼のものだった。

 彼の体は今でも世界共通の言語を話している。ハンサムな顔には時折、自嘲的な傲慢さがちらつき、唇は派手な冷笑に引き上げられた。プレスリーは素晴らしい声の持ち主の一人であり、そのパワーをフルに発揮すると、圧倒的だった。それは威厳のある男らしさを漂わせる、深く豊かで包み込むような声だ。
 プレスリーはファンのために一生懸命働いているが、ファンに自分のことをほとんど語らない。曲間のコメントは短く、時には不可解だった。プレスリーがプロポーズしたと主張する女性に関するニュース報道に触れて、“先日の朝起きたら、ある女性と結婚していたことになっていた”と言ったときには笑いを誘ったものだ。」


 ライブレビューというよりもエルヴィスの類まれな存在感の描写に終始しておるような内容じゃが、とりあえず76年4月20日のオハマではエルヴィスのコンディションは悪くはなかったようじゃ。77年6月19日のライブ・レビューは見当たらなかったが、翌6月20日同じくネブラスカ州のリンカーンでのライブ・レビューは下記Area No.4 パーシング・センター/リンカーンにてご紹介しておるのでその当時のエルヴィスのコンディションやライブ状況が気になる方はそちらを参考にして下され。なお「マイ・ウェイ」を歌っておる映像は、エルヴィスの死後放送されたTV特別番組「エルヴィス・イン・コンサート」に使用されておる。


エルヴィス宿泊時の建物の原型が変わっていない希少なヒルトン
Area No.3/Serial No.727  オマハ・ヒルトン/オハマ
 70年代に3度訪れたネブラスカ州オマハにおいてエルヴィス一行が宿泊したホテルがこちら。ただし76年は4月22日だけは直前でブッキングがキャンセルされた説あり。
 当日オマハ・エップリー・エアポートに到着したエルヴィスは、プライベート・ジェットの中でステージ衣装に着替え、ヒルトンにはチェックインせずにライブ会場(シビック・オーディトリアム)に直行したことが確認されておるそうじゃ。
 ちなみに翌23日はコロラド州デンバーでのライブだったので、オマハでのライブ終了後にエップリー空港へ戻ってデンバーへ移動したことになるが、22日夜のエルヴィスの行動に関しては証明となる資料は見つかっていない。オマハ・ヒルトンはシビック・オーディトリアムから真東僅か150メートルしか離れていない地点にあるので、「76年ブッキング・キャンセル説」はビミョーじゃが、一応参考情報まで。

オマハ・ヒルトンは、現在「ダブルツリー・ヒルトン」として営業中。上写真は70年代の建物。74年6月30日のライブ・レビューの中には、翌7月1日と思われるヒルトンの様子について少々触れられておる。
「エルヴィス・プレスリーはヒルトンの16階に宿泊している。別のホテル従業員によると、プレスリーの朝食を部屋に運ぶ前に、ホテルの従業員が警備員に身体検査を受けたという。昼食時には、警察が降りてきて、プレスリーの部屋に食べ物を自ら運んだという。」
 現在、ホテル建物正面入口前の車輛用道路等は現在取り除かれておるものの、その他の建物の外観は現在もほとんど変化していない様子じゃ。右写真ストリートビュー2022年8月撮影。


 「エルヴィスのキャリアで機会を逃してしまったことがあるならば、このライブを録画しなかったことである」
Area No.4/Serial No.728 パーシング・センター跡地/リンカーン
 リンカーンという街は上記オマハに次ぐネブラスカ州第二の都市(人口約30万人)であり、エルヴィスは1956年5月19日ネブラスカ大学コロシアム(「バーチャル~ネブラスカ州2023年Area No.1」でご案内済)以来21年ぶりとなる1977年6月20日(前日19日はオマハでライブ)に再びライブを行った。亡くなる約二ヶ月前であり、これがネブラスカ州でのラストライブとなった。

 この日のライブは、ライブレビューを読む限りでは1977年度のライブの中で屈指の名演だったようじゃ!

 ライブレビューによると、この日のライブはCBS・TVスペシャル「エルヴィス・イン・コンサート」用に撮影が予定されておったがドタキャンになったらしい。理由は「CBSが撮影に保険をかけていなかった」とか、「会場側が要求した撮影費用をCBSが支払おうとしなかった」とか。
 理由はどうあれ、撮影されなかったことがまったくもって「残念」と言い切れるほど素晴しいライブだったようじゃ。前日のオマハ、翌日のラピッド・シティを凌ぐエルヴィスの熱唱ぶりだったとライブレビューに熱く語られておる。少なくとも「アンチェインド・メロディ」だけでもラピッド・シティよりも感動的とさえ言い切っておる!

「エルヴィスは、次の夜ラピッド シティでやったように、緊張のあまりアンチェインド メロディの前に少しふざけている。"Sonuvabitch" とエルヴィスはピアノの鍵盤を叩きながら言い、観衆を笑わせた。
 この日のバージョンは大きな拍手喝采を浴びた。ラピッド・シティのバージョンと非常によく似た歌い方だ。Jerry Scheff がところどころでベースを少し加えている。“僕は君の愛を知らない-うおおおおおお”エルヴィスは歌う。このバージョンは、1977年5月27日のビンガムトン・バージョンと 翌6月 21日のバージョンをはるかに上回っている。本当に素晴らしい!」
 エルヴィスが“…そして時間は多くのことを成し遂げることができる”と歌う。オーケストラはいくつの拍子に従えばよいのかよくわかっていないようだったが、エルヴィスはそれを理解し、オーケストラを巧みに指揮し、“君はまだ、私のことを知っているかい”という歌詞をいつもより長く歌っています。観客はずっと「オーライ!」と叫んでいた。エルヴィスは最後に高音を出し、翌日の公演よりも少し長くそれを維持した。彼が受けた拍手は少なくとも20秒間続いた。」


 ここまで言われちゃうと、リンカーンの「アンチェインド~」をどうしても聞きたくなるもんであり、ダメ元で検索したらyou tubeにアップされておった!ただただ、鳥肌モン、涙腺崩壊でアリマス。(右写真をクリック!)

 曲ごとに詳しく描写された長文のライブレビューを読んでみたい方はこちらから。(原文が綺麗な英文のようで、Google翻訳でもかなり内容が分かりますぞ!)ライブ撮影となると本領を200%発揮してきたエルヴィスは、この日の「撮影中止」の事態を知らされていなかったのかもしれない!

「エルヴィスは息を切らしながら、締めくくりの言葉をこう言った。“皆さん。本当に素晴らしい観客でした。そして、また来て欲しい時はいつでも電話をください。ここに戻ってきます。”群衆は1978年のコンサートへの「コール」を大声で叫ぶ。」

「またお会いするまで。神のご加護がありますように。お体に気をつけて。」そして、Can't Help Falling in Love が始まる。エルヴィスが「賢者は言う」と歌うと、何人かの女の子がまるで殺されているかのような悲鳴がはっきりと聞こえた。
"Noooooooo, Eeeeellllllvvvvviiiiiisssssssss, nnnnnnoooooo!'」

「エルヴィス・プレスリーのキャリアにおいて、もし機会を逃したことがあるなら、それはこのコンサートを録画しないという決定だった。」


 1953年にオープンしたパーシング・センターは、正面の外壁を飾る、763,000個にも及ぶセラミック・タイルによる壁画が有名。「エルヴィス・イン・コンサート」用のライブ録音は中止されたが、1981年に公開されたエルヴィスのドキュメント映画「This is Elvis」(左写真左側)の中では壁画の映像が挿入されておる。

 周辺地域の再開発によりパーシング・センターは既に取り壊されておるが、この壁画は取り外されて移設場所が検討されておる。上写真右側はストリートビュー2024年12月時点での壁画が取り外された状態での撮影。


【カンザス州】

ファンにブルースゥエードシューズをプレゼントした(かもしれない)ホテル
 Area No.4/Serial No.729 ラッセン・ホテル/ウィチタ
 1956年5月18日、カンザス州ウィチタで行われたライブの際にエルヴィスが泊まったとされる当地老舗の大型ホテル。
 ウィチタでのライブは「バーチャル~カンザス州2022年編Area No.1」でご紹介済とはいえ、2022年時点でも現在でもライブの詳細記録が非常に乏しいので当初エルヴィスの宿泊ホテルも見付けられなかった。この度ウィチタやカンザス州のホテル歴史サイトの一部に「エルヴィス宿泊」という記述を発見したので、カンザス州のエルヴィスゆかりの地に付け加えておこう。一部のサイトには「ラッセン・モーターホテル」とされており、いつ頃ホテル名が改称されたのかは不明じゃ。

 ウィチタでのライブの3日後(1956年5月21日)には、北東約190キロの地点にあるトピーカでエルヴィスはライブを行っており、こちらはある程度の量の資料がネットにアップされており、当地のカンサン・ホテルにて、集まった女性ファンたちと和やかに交流した記録が残っておる。(「バーチャル~カンザス州2022年編」Area No.3参照)一方、ウィチタのラッセン・ホテルではエピソードは無かったのか?今後もライブ情報とともに探し続けていくしかない。
(上写真左側、ウィチタ・フォーラムでのライブ広告。右側は1930年代頃のラッセン・ホテル)

 右下写真左側はストリートビュー2023年9月撮影の元ラッセン・ホテルの建物。1980年代初頭にホテル業は廃業となり、その後老人ホームや「マーケット・センター」というオフィスビルとしてビルはそのまま使用され続けており、往年とほとんど変わらぬ外観のままである。2024年10月には「マーケット・アパートメント」という名の集合住宅として再改装されることが発表されておる。

 右写真右側は、「ウィチタ・セジウィック郡歴史博物館」というID名で2024年インスタグラム上にアップされた、1956年5月18日のウィチタでのエルヴィスとされる写真。地元のロビンソン中学校の女生徒にブルー・スゥエード・シューズをプレゼントしておるショットとか。場所の記載はないので、ウィチタ・フォーラムかラッセン・ホテルじゃろう。


 特徴的な衣装で三度のライブが行われた会場
 Area No.5/Serial No.730 ヘンリー・レビット・アリーナ/ウィチタ

 ウィチタはカンザス州最大の都市であり、19世紀から鉄道が敷かれ、幹線道路も整備されて周辺地域の交通の要として栄えておった。
 上述の通り、エルヴィスは1956年5月18日にウィチタで初のライブを行い、70年代は1972年6月19日、1974年10月7日、1976年12月27日と3度のライブをいずれもヘンリー・レビット・アリーナ(左写真)で行っておる。
 ライブ・レビューはネット上にアップされておらんので詳細は不明じゃが(74年のみ閲覧出来るが、まったくライブレビューになっておらん内容)、ステージ衣装に関しては3度とも一目瞭然で特徴がある。
 
 72年はホワイトスーツにペイズリー・ケープと表現されるシャツ。(上写真3枚)これは2日前(6月17日)のイリノイ州シカゴ・スタジアムでのマチネーの衣装とほぼ同じ。シャツの柄だけがシカゴとは異なっておる(様に見える)。ジャンプスーツではないので殊更印象的じゃ。3日後のオクラホマ州タルサでもやはりホワイトスーツじゃ。(シャツはブルーの別柄)
 ベルトはいずれも豪勢な“Las Vegas Gold Attendance belt”。このベルトはラスベガス・ロングラン・ライブの大成功を記念してラスベガス・ヒルトン(旧インターナショナル・ホテル)から贈呈されたもので、エルヴィスは約10日前の6月9日ニューヨーク・マジソン・スクエア・ガーデンでの初ライブ前の共同記者会見の場で報道陣に披露しておる。ジャンプスーツではなく、このベルトをよりアピールするためにホワイトスーツを着用してみた、のかもしれない。



 74年はパンツ部分のサイドラインにも虎柄があしらわれたタイガーマン・ジャンプスーツ。“タイガーマン”とはご存知大人気曲のタイトルであり、当時エルヴィスが急速にのめり込んでいった空手のお師匠さんから命名されたニックネームでもあり、エルヴィスはこのジャンプスーツを楽しんで着用していたと言われておる。(上写真3枚)全身へのタイガーのあしらわれ方が少々強引であり、タイガーも中国の金屏風にでも描かれておるような東洋的じゃが、まあエルヴィスは着こなしておると言えるかな。

 76年は当時時折見られた女性ファンに人気のブルー・グラデーションのジャンプスーツ。一説によるとブルーグラデーションはミシシッピー川がイメージされとるらしい。エルヴィスがこの日首にかけていたクロスネックレスは、最後のガール・フレンド、ジンジャー・オールデン嬢から同年のクリスマスプレゼントとして贈られたもの。優雅なグラデーション・ラインと細身のクロスネックレスがとてもマッチしておる。(下写真3枚)
 
 ちなみにエルヴィス自身のピアノ伴奏による「アンチェインド・メロディー」は、この日初めて披露された!


 全米で“もっとも早い時期に完成した屋根付き完全円形スポーツ・アリーナのひとつ”であるヘンリー・レビット・アリーナは、どの位置の客席からも障害物がなくフィールドが見渡せるために、別名ラウンドハウスとも呼ばれておる。
 またオープン当初(1955年)はウィチタ大学、その後WSUアリーナ、ヘンリー・レビット・アリーナと改称を続け、現在は増築と大幅改修の後にチャールズ・コーク・アリーナが正式名称になっておる。右写真ストリートビュー2022年8月撮影。


オークション出品物によって判明した、1976年12月27日の宿泊ホテル
 Area No.6/Serial No.731 ヒルトン・イン/ウィチタ
 70年代3度のウィチタでのライブの際、エルヴィスが宿泊したホテルは長らく不明であったが、近年アメリカのオークションに出品されたホテルのルーム・キーによって76年12月27日は当地のヒルトンであったことが判明した。
 出品されたルーム・キーはエルヴィスが泊まった部屋用のキーであり、オークションに当たり元の所有者とEP.Memorabiliaからの証明書が付けられておる。(左写真左側)

 カードキーなど存在しなかった時代とはいえ、スイートルームのキーも“旧式のカギ”だったんじゃな~。キングでさえも、こんなカギをカギ穴に突っ込んでガチャリとひねってドアを開けておったとはなあ~。ドアのカギは1種類だけだったのだろうか?だとしたらヒルトンのお部屋のセキュリティー装備は随分と緩かったんじゃな(笑)
 
 エルヴィスが宿泊した当時のヒルトンの写真は発見出来なかったが、代わりに70年代のウィチタの中心地の貴重な空撮写真を掲載しておこう。(上写真右側)空撮写真中央に、水色の円形建造物Century II Performing Arts & Convention Center(1969年オープン)が写り込んでおることがこの写真が1970年代以降の撮影であることの証明であり、残念ながらヒルトンまで写り込んではおらんが、写真右端(Century~の右斜め上)の切れ目の先あたりがヒルトンの所在地じゃ。

 下写真左側はヒルトンの駐車場から車に乗り込んでライブ会場に向かおうとするエルヴィス。この写真が撮られた駐車場は、ホリディ・インとなった現在でも下写真中央の通り使用されておる。長らく撮影場所が不明の写真だったが、アメリカのyou tuberさんの実地検証にて事実が判明し、大いに感謝じゃ!下写真右側はストリートビュー2017年5月撮影。

 


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