
| アップデート:2026年5月9日 |
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翌日の早出ライブに備えて、訪問ついでに宿泊を願い出たラジオ局 1955年10月25日から26日にかけて、アラバマ州モビールでのエルヴィスの行動にまつわる諸説を紐解きながら、エルヴィスが関わりをもった場所をご案内しよう。まず10月25日はミシシッピー州ヒューストン(テキサス州ヒューストンではありません)でライブ。翌26日は午前10時半からアラバマ州プリチャードのヴィガー・ハイスクールで、更に午後3時半からプリチャードの南7キロの地点のモビールで開催中の「グレイター・ガルフ・ステイト・・フェアー」というフェスティバルに出演。この26日の2ライブは「バーチャル~アラバマ州2022年編」でご紹介済みじゃ。 この度、エルヴィスは10月25日中にモビールに移動して地元のラジオ局を訪れたというブログを発見!エルヴィスはモビールに来た時は必ずレコード持参でこのラジオ局に立ち寄っていたそうな。更にその晩、エルヴィスはラジオ局建物内に「泊めてほしい」と願い出て、オフィス・スペースにあったソファで睡眠を取ってから翌日午前中のライブ(上記ヴィガー・ハイスクール)へ出かけていったという! アラバマ州モビールのラジオ局の歴史を調べてみると、1955年当時のコールサインはWALA。1991年からWLVVに移管されており、上写真左側の建物はWLVVと表示されておるので1991年以降の撮影じゃ。(55年当時のWALAの写真はネット上では見つからず)また上写真右側はHACによるWALA所在地の1955年当時の撮影。赤丸内が該当する建物であり、ここでエルヴィスは一晩過ごしたのじゃ。 上述した情報をブログにアップした方は、モビールの高校生だった頃、ラジオ局近くで車がパンクしてしまった際に局に駆け込んで電話を借りて修理屋を呼んだ体験をしたそうな。その時にラジオ局の従業員から、かつてエルヴィスがやって来て、オフィスに一晩泊まっていった逸話を聞いたという! なおこの方が車のパンクで駆け込んだラジオ局は、2004年のハリケーン・カトリーナによって建物が破壊された後に、約2.5キロ離れた場所に移転していた方の建物じゃった。エルヴィスが眠ったソファーも元々のWALAの建物ともどもカトリーナの暴風に吹き飛ばされてしまったはずなので、移転先へソファーが運び込まれたことはなかったと思われる。 ちょっとややこしい話になるが、場所が移転してからのコールサインはWMOB。これは1947年まで継続され、一旦消滅していたモビール・ラジオ局史上最古のコールサイン。2011年に移転先で深刻な電波障害問題が起こり、オリジナルの建物(WALA)およびWLVVがあった場所に再度移転。そして2020年にオーナーの高齢によりWMOBのラジオ局自体が閉鎖となったが、建物は現在も残されておる。現在の建物のオーナーは近い将来にこの建物を何某かの記念館にして再オープンさせる予定とか。右写真ストリートビュー2022年12月撮影。ピンク色だった建物は、ストリートビューの撮影がされる直前に真っ白に塗り替えられておる。 |
エルヴィスは1950年代からカウントするとアラバマ州モビールを、近郊地プリチャードを含めると実に10度訪れており、合計15回(4会場)もライブを行っておる。1970年代の5度(ライブ回数7回)はいずれもミュニシパル・オーディトリアムが会場じゃ(上写真左側)。ミュニシパル・オーディトリアムは「バーチャル~アラバマ州2022年編」で一度ご案内しておるが、この時は1970年9月14日のライブのみフォーカスしておったので(上写真中央、右側)、他のライブ記録も追加でご紹介しよう。1973年6月20日のライブレビューは70年以来3年ぶりのエルヴィスのモビール登場に、ファンも会場も街も“大規模なフェスティバル”が行われるような高揚感に包まれていたことを描写しておる。(左写真は73年ライブのプレス記事のセット) 「数週間前から売り切れていた公演にファンが集まり始め、モービルは一日中興奮に包まれていた。市は、可能な限り最高の形で対応しようと準備を整えていた。 11,000 人の観客は、チケットの売り上げ (市の財源に 2,000 ドル、州の税金として 4,000 ドルが入る)、売店 (ポスターと 写真アルバムが 2 ドル、写真が 1 ドル、さらに「エルビス」のペナント などの記念品)、軽食を含めて 100,000 ドルを超える収益を生み出した。 「100人以上の常勤および非常勤の会場スタッフが、 駐車場、軽食、土産物の売り込みなどのサービスに従事。 会場マネージャーは、壁から壁、床から天井まで観客が詰めかける様子を目にして、控えめに満面の笑みを浮かべ、この成功を冷静に受け止めていた。これは 、エンターテイナーにとっても講堂管理者にとっても最も美しい光景だった。 駐車場には、さまざまな興味深いナンバー プレートが並んでいた。モビール郡以外の番号のアラバマ州の自動車、フロリダ州の太陽と 海軍航空基地を宣伝するフロリダ州のナンバープレート、ミシシッピ州のナンバープレートと並んでいるノースダコタ州のナンバー プレートなど」 「注文したチケットが届いた最も遠い州は、おそらくニューヨークであり、観客はこの機会にふさわしい装いをしていた。女性たちは、ほとんどが夫なしでグループで参加し、 最新の衣装とヘアスタイルで歩き回っていた。誰もがデートの相手はエルヴィスであり、彼が色っぽい視線を自分に向けるかもしれない場合に備えて、最高の姿でいたいかのように見えた。多くの頬の自然な赤みはどんなルージュでもかなわず、多くの 年配の女性は、昔の初恋の女学生のように、実際にくすくす笑っていた。そして何よりも、ため息をつき、 自分たちのキングについてぞっとするような発言をする夫やボーイフレンドはほとんどいなかった
(上下写真、左から、73年6月20日、75年6月2日マチネー、75年6月2日ナイトショー、76年8月29日のライブ撮影。右写真は76年8月29日、ステージに上がる直前のエルヴィス)1975年6月2日は昼夜2回のライブが行われ、この日のライブレビューもライブ・クオリティには触れることなく「ただただ、史上最高のライブだった」と記されておる。 「それは忘れられない一日だった。ポップ界の王者エルビス・プレスリーによってミュニシパル・オーディトリアム史上最高の1日となった。退屈な瞬間など一度もなかった、とアシスタントマネージャーのジーン・ランバート氏は、何トンもの瓦礫の撤去作業を監督しながら喜びを語った。同氏は自分が記憶している限り最高の1日と表現した」 「この会場にとって最大の経済的成功をエルヴィスはもたらした。市は総入場料19万7000ドルのうち、賃貸料とライセンス料で1万7000ドルを得た。エルヴィスはこの日の巨額の入場料で約16万ドルの利益を得たと推定される」 1976年8月29日も昼夜2回のライブ。前年とは対照的に、マチネー、そしてナイトショーとエルヴィスは不調だった模様じゃ。ライブ・レビューでは詳しくは語られておらず、“内臓の機能不全からくる体重過多による不調”とされておる。それでもナイトショーの後半からエルヴィスは調子を取り戻して観客を喜ばせたとされておる。しかし“プレス連中の大半は、前半のショーが退屈だったためか既に会場を去っており、復調したエルヴィスを観ていないことがエルヴィスには不運だった”としておる。 部の改装工事のために一時閉鎖中の模様。右写真左側は、ストリートビュー2014年6月撮影の会場南側の裏口。エルヴィスが1977年6月2日に会場入りする際に、駐車場入口で撮影された車内写真(右写真右側)はこの辺りじゃ。改装されてもこの部分だけは残しておいてもらいたい! |
1970年はアドミラル・セムズ・ホテル、1973年がクオリティ・インもしくはホリディ・イン(現存するホリディ・インとは別)、1975年と1976年がバトルシップ・イン・パークウェイ、1977年がシェラトンじゃ。 アドミラル・セムズ・ホテルは「バーチャル~アラバマ州2022年編Aria No.7」にてご案内済」であり、クオリティ・インは未だ不確定情報なので、それ以外の2つのホテルへご案内しよう。75年6月2日宿泊のバトルシップ・イン・パークウェイは、翌日のチェックアウト時のエルヴィスの写真が残されておる。上写真3枚のうち、右側写真はエルヴィスが葉巻を嗜んでおる数少ない1枚じゃ!
このホテルは1974年にオープンした当時はヒルトン/ラマダ・ホテルだったが、すぐに売却されてバトルシップ・イン・パークウェイと改称。またすぐに売却されてジョ・ボン・インとなった。エルヴィスが初めて宿泊した75年は「バトルシップ・イン」だったことは、75年のライブレビューの中に記載されており、二度目に宿泊した76年は「ジョ・ボン・イン」じゃった。エルヴィスの部屋は611号室、ご一行は最上階6階を借り切っていたそうじゃ。現在建物は取り壊されており、また営業期間の建物の写真もネット上にはなく、左上の写真は閉業になった後、恐らく21世紀初頭の廃墟状態の写真と思われる。上写真中央の新聞広告は、1976年に「ジョ・ボン・イン」と改称された時のもの。右写真は1975年ミュニシパル・オーディトリアムのバックステージでの撮影。 右下写真は、ストリートビュー2011年6月撮影。後ろに写るピンク色の建物が元バトルシップ・イン。以降のストリートビューではこの建物は写っておらんので、2011~12年に取り壊されたのじゃろう。 【余談】 アドミラル・セムズ・ホテル、クオリティ・イン、シェラトン(下述参照)はモビールの市街地内にあったものの、エルヴィスがモビールを訪れる毎にほぼ毎回ホテルが変更されたことには妙な勘繰りをしたくなる!?「バーチャル~フロリダ州2024年前編Area No.21 フォートバランカス跡地/ペンサコーラ」でご紹介したが、モビールはパーカー大佐が不法入国して初めてアメリカに上陸した場所であり、大佐はその後モビールで何らかの生活の糧を見付けた後に、お隣のフロリダ州ペンサコーラで陸軍に入隊した経緯がある。入隊というよりも、軽犯罪紛いをやらかして陸軍に逃げ込んだというのが実情だったようじゃ。モビールやペンサコーラには大佐にとっては“有難くない”情報が飛び交ってもおかしくない地域であり、その辺を警戒して、大佐はエルヴィスや取り巻き連中へ尻尾をつかまれるような情報が入ってこないためにホテルをコロコロ変えていた可能性がある、とは考え過ぎか!?市街地から隔離された場所にあったこのホテルは大佐の警戒心にはもってこいの立地だったことは確かじゃ(笑) |
エルヴィスが宿泊したスイートルームに専用エレベーターが設置されたホテル
75年に宿泊したクオリティ・イン、77年に宿泊したシェラトンに関してはネット上で当時の写真や詳細情報がまったく見当たらない。ただしシェラトンに関しては、アメリカのyou tuberさんがエルヴィス宿泊の確証をつかんでおるようで、エルヴィスが泊まった17階フロアの動画撮影しておる。 上写真上段左側は、ホリディ・インとなった現在の外観。上写真上段中央、右側はエルヴィスが利用した最上階にあるスイートルームと玄関の様子。いずれも上述したyou tuberさんの動画の静止画であり、実際にエルヴィスがこの部屋に宿泊したという正式な宿帳的記録は見つかっていないそうじゃ。 上写真下段左側は、1980年HAC撮影の空撮写真。現在と同じ円筒形の建物であることが確認出来る。上写真下段右側は1977年6月2日のモビールでのライブ撮影。 ![]() |
1973年から毎年の様にメキシコ湾岸のモビールでエルヴィスのライブが開催されておったが、74年だけは無し。その代わりに、モビールから内陸へ260キロ北上したモンゴメリーと、更に80キロ北上したオーバーンの2都市で開催された。モンゴメリーでは1974年3月6日に前回ご案内したガレット・コロシアム、オーバーンでは3月5日にメモリアル・コロシアムが使用された。(左写真) この日のライブは、会場の上層階の観客たちが「ステージが見えない!」と騒ぎ出し、ライブ中にメインフロアへ移動するという騒動が起きたことが記録されておる。会場内は収容人員数12,500人を遥かに超えた13,500人もの大観衆が詰めかけた超満員状態だったので、果たして上層階の観客が移動出来るスペースなどあったのかどうか!? また、エルヴィスはMCで地元のオーバーン大学フットボールチームのファンであることを告げると(リップサービス?)大観衆は驚喜!その効果もあってか、「アメリカン・トリロジー」の“デキシー”を歌い終えると会場ではスタンディング・オベーションが起きたという!当時のライブ・レビューでもこの日の観客の熱狂ぶり、エルヴィスの好調ぶりを素直に讃えられておる。 「午後9時30 分、照明が暗くなり、バックバンドが「2001 年のテーマ」を演奏し始めると、女性たちが悲鳴を上げ、エルヴィスがステージに駆け込んできた。そして
180 億兆個のフラッシュが炸裂した。第二次世界大戦の爆撃に匹敵するほどだったに違いない。エルヴィスはすぐに “CC ライダー”に乗り込み、群衆鎮めた。」「エルヴィスは50分間休憩なしで出演し、普通の男性なら息切れするほど動いていた。実際、エルヴィスは最後には息切れしていた。彼は常に動いていたが、古いお尻を振るというよりは、歩き、指さし、懇願する女の子たちに汗まみれのオレンジ色のスカーフを投げていた。」 「観客はエルヴィスに応え、エルヴィスも観客に応えたが、一つ問題があった。エルヴィスは最初、音響システムが気に入らなかったのだ。ショーの早い段階で彼は「ステージ上で音を出せているのか?」と尋ねた。どうやらまだ音が気に入らなかったようで、彼はマイクをステージの床に投げつけた、大きな音で響き渡った。誰も気にしなかった。多くの人の心の中では、エルヴィスは何も悪くないのである!」 「エルヴィスが過去、つまりエルヴィス ブームが始まった50年代との唯一のつながりは、ハウンド ドッグを数小節、ラブ ミー テンダー、テディ ベアと歌った時だ。そしてもちろん、白いスパンコールのついた衣装の一部である、ぴったりしたスラックスも。昔を懐かしんで、何度か腰を振っていた。しかし、エルヴィスは主に今日の音楽に夢中で、自分の曲を歌ったり、他の人の曲を借りたりした。彼は、爽やかで落ち着いた声を持つ多才なパフォーマーであり、もはやシャウトすることはない!」またこの日のライブでは、73年のラスベガス公演以来、ツアーでは初めて着用したとされる通称「ライズド・オン・ロック」と呼ばれるジャンプスーツで登場。マスコミやファンに好評を得た。この通称は73年に発表されたアルバムのタイトルであり(左写真)、アルバム・カヴァーに使用されたステージ写真で見ることが出来る。さらにジャンプスーツ・マニアの間では“サンライト・ジャンプスーツ”とも呼ばれておる。 ![]() |
大佐不在の幸運を活かして、ファンに特別サービス(?)したホテル
ハンツビルは上述したモンゴメリーやオーバーンからアラバマ州を約300キロ内陸へ北上した位置にあり、更にその北約40キロ地点はテネシー州との州境じゃ。このハンツビルでエルヴィスは1975年3度、76年に1度ライブを行っており(ライブ回数は計7回~「バーチャル~アラバマ州2024年編Area
No.14」でご紹介済)、その際にいずれも宿泊したホテルがハンツビル・ヒルトンじゃ。(左写真)上写真左側は75年5月30日にホテルへチェックインする際に撮影されたTV局の動画の静止画。上写真中央は76年9月17日チェックアウトしてホテルを出る際に撮影された写真じゃ。 また上写真右側は、エルヴィスが76年に宿泊した際に使用したお部屋のベッドシーツが細かく切断されて1977年に売り出された際の証明書。ハンツビル・ヒルトンの便箋が使用されており、署名しておるのは当ホテルのハウスキーパーさんじゃ。 ハンツビルでの7回のライブはいずれも大好評だった記録が残っており、エルヴィスの体調も機嫌も大変良い状態だったことがいずれも笑顔の上写真2枚からうかがえる。 エルヴィスの機嫌が大変によろしかったのはたまたまだったのかもしれないが、左上写真で御覧の通りにハンツビル・ヒルトンのあまりにも美しい庭園がエルヴィスに情緒の安定をもたらしたのかもしれない! なお写真は残されておらんが、1976年の滞在時には、パーカー大佐が次のライブ地に先乗りするために既にハンツビルを発っていたこともあり(?)、上機嫌のエルヴィスはホテルのメインロビーに姿を表し、エルヴィス見たさに集まっていた大勢のファンに向けて手を振るという70年代にはほとんどなかった異例のサービスを行っておる! ハンツビル・ヒルトンがいつ頃まで営業しておったかは不明であり、現在ホテル周辺は完全に再開発されており、跡地には高級アパートメントが建てられ、かつて庭園だったスペースは新しい公園に様変わりしておる。右写真ストリートビュー2022年6月撮影。 |
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