NANATETSU ROCK FIREBALL COLUMN Vol.481


第99回 エルヴィスゆかりの地~アラバマ州2026年前編


アップデート:2026年4月23日
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ついに連載100回まであと1回!99回目は前回のケンタッキー州同様に2022年以来4年ぶりの突入となるアラバマ州じゃ。4年前は50年代の調査の際にやたらとマニアックな情報が多くて調査、清書ともに苦労した記憶があるが、この度はほとんど70年代のゆかりの地じゃ。概して70年代のアラバマ州におけるエルヴィスのライブは好調だったようで、わしとしては安心してご案内がデキマス!地元メディアの丹念な調査によって近年明らかになった宿泊先やライブの詳細、また「1ドルしか持ってないんだ」とお相手の食事の誘いを躊躇した若きエルヴィスのエピソードなどを併せてご紹介する!
【目次】バーチャル・ロックンロールツアー エルヴィスゆかりの地
    第99回 アラバマ州2026年前編

 ・Area No.は2022年度編からのアラバマ州内の番号。
 ・Serial No.は「バーチャル・ロックンロールツアー」第1回からの通し番号です。

 Area No.16/Serial No.691 WJOIラジオ局跡地/シェフィールド

 【追加情報】 Area No.6/Serial No.140
       ガレット・コロシアム(旧アラバマ・ステイト・コロシアム)/モントゴメリー

 Area No.17/Serial No.692 ラマダ・イン跡地/モントゴメリー

 
Area No.18/Serial No.693  タスカルーサ・ナショナル・エアポート/タスカルーサ
 
 Area No.19/Serial No.694  メモリアル・コロシアム/タスカルーサ
 Area No.20/Serial No.695 ラマダ・イン/タスカルーサ


【バーチャル・ロックンロール・ツアーのバックナンバー】

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★ 本文中の表記について ★

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SMW=スコッティ・ムーアのウェブサイト
EDD=「Elvis Day By Day」 エルヴィス・デイリー記録集
EPC=エルヴィス・プレスリー・イン・コンサート(ウェブサイト)
HAC=ヒストリック・アエリアルス(アメリカの空撮サイト)


 70年の歳月を経て明らかになった、若きエルヴィスの訪問記録
Area No.16/Serial No.691 WJOIラジオ局跡地/シェフィールド
 1954年夏、サンレコードから公式デビューを果たしたから約半年後、エルヴィス&ブルームーン・ボーイズは1955年1月9日アラバマ州シェフィールドのコミュニティー・センターでライブを行った。(「バーチャル~アラバマ州2022年編」Area No.1参照)
 ライブ開始は午後8時半であり、同日の昼間に地元のラジオ局WJOIにて番組出演をし、ラジオ局内のスタジオで「シェイク・ラトル・アンド・ロール」のデモテイクを収録した。(下写真左側は、レコーディングされた同曲のアセテート盤)
 WJOIについては「アラバマ州2022年編~アウトテイク集でご紹介しておるが、2022年時点ではWJOIの詳細が不明であり、簡単な解説のみ記載したが、2024年後半になって当時WJOIの16歳のプロデューサーだったトミー・バン・サントのインタビューがネット上で散見出来るようになり、新たな証言を読むことが出来るようになった!トミー氏はラジオ局のオーナーの子息でもある。

 2024年のインタビュー当時、トミー氏は実に85歳!しかし70年前の記憶がはっきりしていて驚くばかりじゃった。上写真は、今や非常に希少なWJOIラジオ局の建物の写真であり、トミー氏はこの写真を手にしながら当時の思い出を語っておる。写真自体は1948年に建物の周辺一帯が洪水に見舞われた時の撮影であり、トミー氏のインタビューが紹介された映像や記事の中ではこの写真しか登場しないので、他の写真は未だ発見されていないのであろう。(下写真右側は、1955年1月9日のライブ告知広告)


 ラジオ局で出演&レコーディングを終えたエルヴィスをトミー氏はランチに誘ったという。エルヴィスは「お金をあまり持っていないし、メンフィスまでのガソリン代1ドルは残しておかなきゃいけないから、1ドルぐらいしか食事代が無い」とお誘いを躊躇したらしいが、トミー氏は「ビーンポット(豆の鍋料理?)なら1ドルで食べられるよ」と地元のレストランに案内したという。
 このレストランの跡地はアメリカのyou tuberによって紹介されておるが、レストラン名が不明瞭であり、また他のサイトで「Rumon's Reataurantでは?」とされてはおるが、同名のレストランがシェフィールドに存在した形跡がネット上でまったく見当たらなかったので、今回レストランの紹介はスルーさせて頂く。
 トミー氏の更なる証言によると、1955年更に2度シェフィールドを訪れたエルヴィスはその都度ラジオ局にやって来ていたそうじゃ!

WJOIラジオ局は後に別の場所に移転となり(バーチャル~アラバマ州2022年番外編その4参照)、元々の場所には目の前にある「インディアン・マウンド(インディアン塚)・ミュージアム」が長らく建てられておるが、この博物館も近いうちに建て替えられるという。右写真ストリートビュー2019年5月撮影。


 さしもの知事も、今夜は主役になれないことを悟っただろう!
【追加情報】 Area No.6/Serial No.140 
        ガレット・コロシアム(旧アラバマ・ステイト・コロシアム)/モンゴメリー
 モンゴメリーは地図上で見るとアラバマ州のど真ん中に位置する同州の州都じゃ。エルヴィスは1955年12月3日、RCAと契約を果たした直後にモンゴメリーのアラバマ・ステイト・コロシアムで、「タレント・サーチ・オブ・ザ・ディープサウス」というタレント・コンテストのステージショーの中でのゲスト出演をしておる。(バーチャル~アラバマ州2022年編Area No.6参照)
 このステイト・コロシアムは70年代にガレット・コロシアムと改称されており、改称後に二度エルヴィスはライブを行っておる。「バーチャル~アラバマ州2022年編」の調査段階でこの点を見落としておったので、この度あらためてご案内しよう。

 1974年3月6日に約19年ぶりにエルヴィスはガレット・コロシアムに登場した。(上写真3枚)この日アラバマ州知事ジョージ・C・ウォレス氏と彼の家族はエルヴィスにバックステージへ招き入れられておる。知事夫妻は前夜「エルヴィスをリラックスさせたかった」という意向で会見を申出たそうじゃがエルヴィス側の都合で会見は実現せず、その代わりにガレット・コロシアムでのライブ前にエルヴィスは知事のファミリーをバックステージへ招待した。(右下写真)
 実はエルヴィスはウォレス知事の支持者であったとされており、知事が1972年に大統領選挙に出馬し、予備選挙活動の最中に反対派から銃撃を受けて重症をおった際、「犯人を見つけ出して射殺してやる!」とマスコミに公言したことがあった。エルヴィスのこの発言に対して知事は「そんなことをしたら彼は犯罪者になってしまい、多くの人たちが悲しむことになる」とのコメントを返している。
 以降知事は「エルヴィスの音楽はよく分からないが、私や妻を含めて家族はみんなエルヴィスのファンである」と強調していたらしい。(パーカー大佐もまた知事を支持していたともいわれる)

 知事と家族はエルヴィスと会見した後にステージから7列目の座席でライブを鑑賞。この日会場には16,400人もの大観衆が詰めかけており、凄まじい女性客の絶叫が続く中でのライブに知事は終始唖然としておったらしい。「さしもの知事も、この日ばかりは誰も自分を気にも止めず、自分が主役ではないことを悟ったであろう」という当時のジョーク記事がネットにアップされておる(笑)

 ガレット・コロシアムにおける70年代のエルヴィス再登場は1977年2月6日。この日エルヴィスは好調ではなかったようじゃが、“特別な出し物でモンゴメリーの観客をもてなした”とされておる。“最初で最後”との記録が残っておる、ゴスペル曲「ホエア・ノー・ワン・スタンド・アローン」を歌ったのじゃ。短いライブレビューにおいて、次の様に書かれておる。

「ホエア・ノー・ワン・スタンド・アローン」は明らかにリハーサルはされておらず、あまりうまくまとまっていなったが、それでも美しい!エルヴィスが「ホエア・ノー・ワン・スタンド・アローン」を歌う前に、観客の誰かがエルヴィスに女性用の服を手渡した。エルヴィスはそれをバッグシンガーのキャシー・ウェストモーランドに渡し、“これは君のために特注したんだ!”とジョークを飛ばした。キャシーにそれを試着させるまでした!

 右写真ストリートビュー2023年4月撮影。下写真は77年のライブ撮影。

【余談】
エルヴィスがジョージ・C・ウォレス知事の支持者だったという定説の真相は不明じゃ。知事の略歴をチェックしてみたが、若い頃から有名な人種差別主義者であり、アメリカ南部でのあらゆる人種隔離制度廃止運動にも一貫して異を唱えておった形跡がある。子供の頃から音楽を介して黒人たちと交流していたエルヴィスが知事の政治的姿勢に賛同するとは考えにくい。
 恐らくエルヴィスはイデオロギー的に知事を支持していたのではなく、知事が被った銃撃事件に対しての純然たる憤りを表明していたに過ぎず、またエルヴィスも知事と同じ南部出身者だったことも含めてマスコミに曲解、拡大解釈されていたのではないだろうか?



ジャンプスーツではなく“私服姿で出動”した(?)ホテル
Area No.17/Serial No.692 ラマダ・イン跡地/モンゴメリー
 
   
 
 1977年2月16日、上述したガレット・コロシアムでのライブの際にエルヴィス一行が宿泊したホテル。(左写真上段右側)
 ネット上で確認出来るホテルでのエルヴィスの写真は2枚あり、左写真上段左側は当日未明(午前1時頃)ホテルに到着した様子。さらに左写真下段左側は、同日夕方ガレット・コロシアムに向かうためにホテルの駐車場に現れたエルヴィス。

 この2枚の写真は同日の撮影とされておるものの、エルヴィスの服装が異なっておる。
 左写真下段右側はライブ終了後ガレット・コロシアムでの撮影であり、エルヴィスが羽織っておるコートがホテルを出る時に着ておるコート(左写真下段左側)と同じであることが分かる。エルヴィスは珍しくステージ衣装姿ではなく私服でライブ会場へ向かったということになるな。

 1970年代のモンゴメリーのラマダ・インに関する情報が現在ネット上にほとんどなく、所在地情報も複数あって特定は出来ない。複数の所在地をHAC(アメリカの空撮サイト)で各々確認したところ、現在営業中のキーウェスト・インというモーテルになっておる所在地が1975年の空撮写真においてプールが写り込んでおり、また21世紀の初頭まで「ラマダイン」として営業していたという情報もあり、こちらを現在のところエルヴィスが1977年2月16日に宿泊したモンゴメリーのラマダ・インの可能性が高いとしておく。
(Google-map上では、現在閉業表示))


 キング歓迎!で賑わった空港も、今や風前の灯
Area No.18/Serial No.693 タスカル―サ・ナショナル・エアポート/タスカルーサ

 タスカル―サはアラバマ州の州都モンゴメリーの北西約150キロの位置ある人口10万クラスの中規模都市じゃ。“タスカルーサ”とは“助かるさ”みたいで(失礼!)英語名っぽくないが、16世紀当地で名を馳せた現地民族のインディアン酋長のお名前らしい。
 70年代にエルヴィスはタスカルーサで3度ライブを行っており、上写真3枚は1971年11月14日に初めて当地を訪れたローカル空港での撮影。この時期はまだ空港でのファンの歓迎やマスコミの取材にパーカー大佐は寛容だったようで、他にもエルヴィスが空港に集まったファンにサインをしておる写真がネット上で確認出来る!

 左写真右側は、エルヴィス初のタスカルーサ来訪を歓迎して、空港に着陸したプライベートジェットの機内までエルヴィスを訪問した当地の警察署長ウィリアム・マラブル氏との記念撮影。
 エルヴィスは午後2時半からのライブが終了した後、警察署主催の晩餐会に招待されて“タスカルーサ名誉警察官”に任命されたという情報もある。晩餐会の場所は諸説あり、「タスカルーサ・カントリー・クラブ」という高級ゴルフクラブ内のラウンジという説が強い。

 また下写真左側、中央(カラー写真2枚)は、1975年6月3日のライブの際にやはりエルヴィスを機内まで出向いて迎えた警察署長とのショット。このショットには警察署長さんの氏名がクレジットされておらんが、71年11月14日に出迎えたウィリアム・マラブル氏と同一人物であると思われる。エルヴィスが手にしておるのはこの時に授与された警察署長バッヂじゃ。

 1975年6月3日の空港での写真は、エルヴィスが滑走路に降り立った写真もある。(下写真右側)解せないのは、私服で降機しておるのに、機内写真は何故ジャンプスーツ姿なのか?一旦降機した後に機内へ戻り、ジャンプスーツに着替えてから警察署長さんからバッヂを授与されたということか?(その間、地元のホテルにチェックインはしていないのか?)まあ、エルヴィスの表情も健康的であり、この後良いライブが展開されることを予見出来るようなショットだから、これ以上小姑紛いの詮索は止めておこう(笑)
 タスカルーサ・ナショナル・エアポートは周辺地域も含めて最大の国内線専用の空港であったが、ストリートビューで確認すると既にあまり稼働率が高いようには見えない。(右写真2019年4月撮影)Wikipediaによると、21世紀に入ると利用客が激減し、民間航空機の乗り入れが廃止となり、現在はプライベート・ジェットやチャーター機のみが発着しておるという。キングの写真が残る空港としては実に侘しい現状じゃ。


 ブラック・ピンホイールとレッド・フェニックスで絶好調!
 Area No.19/Serial No.694 メモリアル・コロシアム/タスカルーサ
 エルヴィスのタスカルーサにおけるライブは、1971年11月14日、75年6月3日、76年8月30日の3回行われておる。会場はタスカルーサ・メモリアル・コロシアム(左写真)。コロシアムはアラバマ大学の広大なキャンパス内にあり、別称“アラバマ・ユニバーシティ・フィールドハウス”と呼ばれることもある。更に70年代当時アラバマ州内の屋内イベント会場で最大のキャパを誇っていたからか、“アラバマ・コロシアム”とも呼ばれておった。私設エルヴィス・サイトの中にはこの2つの別称の方で会場名が表記されておる場合も少なくないので要注意。

 1971年11月のライブ・ツアーは、エルヴィスにとってはライブ活動にカムバック以来2度目のツアーであった。“カムバック”とはいえ、1969年からのライブ会場の大半はラスベガスのインターナショナル・ホテルであり、1971年も1月26日から2月8月まで18回、8月9日から9月6日までは47回ものラスベガス・ステージをこなしておる。
 この11月のライブツアーは5日から16日までアメリカ北東部および東海岸地域の11都市で行われ、マサチューセッツ州ボストンやペンシルベニア州フィラデルフィアといった大都市を巡回した。タスカルーサだけは大都市ではなかったが、恐らく会場の収容キャパ(約16,000人)が大きかったことがセレクトされた要因だったのじゃろう。
 またこのツアーの特徴は、エルヴィスのブラックのジャンプスーツ(通称ブラック・ピンホイール)の着用頻度が高いことじゃ。タスカルーサを含めて11都市中5都市で着用されておる、わしはジャンプスーツ・マニアではないので、正直なところブラック・ジャンプスーツを見ただけではどこの会場のライブであるのか判別は出来ない。上写真3枚と右写真2枚は、ネット上のライブ写真掲載においてわしが信頼を寄せておるEPC提供によるものじゃ。

 ブラック・ジャンプスーツは、着用しておるエルヴィス本体だけを見た場合は大変に見栄えが良く、スリムでキレッキレだったエルヴィスの身体的な魅力を引き立たせておる。しかし当時はファンにもマスコミにもあまり評判が良くなかったらしい。
 ブラック・ジャンプスーツはスポットライトの当たり方によっては背景の暗がりとエルヴィスが一体化してしまい、エルヴィスのアクションが分かりづらいからとか!言われてみればワカランこともないし、ステージ・アクションを観るだけでもチケット代以上の価値のあるエルヴィスならではの仕方のない批判じゃな(笑)71年11月のツアー以降はブラック・ジャンプスーツはほとんど着用されておらんので、どうぞじっくりと!(笑)

 現在ネット上で読める71年のライブ・レビューによれば、総括すると“エルヴィス、それ以上に観客が絶好調だった!”といった具合じゃ(笑)
 
「エルヴィスはシンガーというよりアクロバット・ダンサーであり、ファンはそれに酔いしれている」
 「エルヴィスはハンドマイクなど必要のない数少ないシンガーである」

このような描写が、この日エルヴィスがステージ上でかなりアグレッシブなアクションを披露していたことが窺い知れる!またライブ中に「私が歌える400曲の内、今夜は320曲を歌うよ!」と語って16,000人を越える大観衆から喝采を浴びたという!ラスベガス地獄からひととき抜け出した“ブラック・エルヴィス”はツアーを心から楽しんでいたに違いない!
 上写真3枚、レッドフェニックスと呼ばれるホワイトのジャンプスーツ写真はは75年のライブ撮影。この日のライブ・レビューはネット上では見つからず詳細は不明。また翌76年のライブ・レビューは、ちょっと悲しくなるような内容じゃった。ただし、「One Night in Alabama」のタイトルで発表された76年のライブ・ブートレッグ盤は、“70年代後半の名盤”とされておる・・・音質が良いだけなのか、どうなのか?

 
「エルヴィスが街に戻ってきた。しかし、彼は以前とは違う。2、3 曲演奏した後、若い頃のエルヴィスが持っていたものが、近年は失われてしまったことが痛いほど明らかになった。彼の服装は、太ったウエストラインを隠すためにデザインされた、信じられないほど大きなベルトとだぶだぶのパンツだった。顔はむくみ、黒く染めた髪は中年のダックテールにまとめられていた。全体的な印象は、ビール腹の40歳のフォンジーのようだった。ボーカルは期待外れだった。時々疲れたように聞こえた。時折、エネルギーが爆発したが、それは長続きしなかった」

「ショーの終わりに近づき、彼が I'm Hurt の力強いバージョンを披露し、続いて Hound Dog を披露したとき、ようやく彼が調子を取り戻したと思った。観客は興奮し、もっと聴きたいと待ち構えていた。さらに 2 曲演奏した後、エルヴィスはステージを去った」


 Wikipediaによると、メモリアル・コロシアムのオープンは1968年であり、周辺地域に他に大きなイベント会場がなかったので、1970年に入って収容人数を2倍にする拡張工事が行われたという。
 1971年のエルヴィスのライブには拡張されたキャパいっぱいの16,000人が集まった記録があるので、まるで全盛期のエルヴィスのライブを実現するために拡張されたようなものじゃな!ちなみにエルヴィスの次に会場が満杯になったライブは1973年のレッド・ツェッペリン公演だったという。現在もコールマン・コロシアムと改称されて稼働中である。右写真ストリートビュー2019年7月撮影。


地元メディアの調査でようやく明らかになった、1976年タスカルーサ宿泊先
Area No.20/Serial No.695 ラマダ・イン/タスカルーサ
 70年代に3度タスカルーサを訪れたエルヴィスが、最後の76年8月30日のライブの際に宿泊したホテルがラマダ・インとされておる。宿泊先は長らく不明になっておったが、近年タスカルーサの2つの地元サイトにおいてラマダ・インと“ほぼ断定”しておる。
 左写真左側が70年代当時の建物。他に“Ramada Inn Downtown in Tuscaloosa”と表記された写真も見つかったがこちらは高層ホテル。エルヴィスが泊まったのは「215号室」とされておることから低層ホテルを利用したと思われるので、モーテル・スタイルの低層ビル(上写真左側)の方が正しいと判断するべきであろう。
(※左写真は、1976年8月30日のタスカル―サ・ライブでの撮影)

 エルヴィス一行が泊まった1976年当時のラマダインの詳細情報はまったくネット上でみつからず、所在地も“Skyland Blvd.上”という以外は不明だった。現在Skyland Blvd.にあるRamada by Wyndamなるホテルの所在地をHAC(アメリカの空撮サイト)で確認したところ(上写真右側-赤丸部分)、1981年の空撮写真にRamada-Innらしき建物とその南側に低層モーテル特有のプールらしきエリアが写っておる。エルヴィス一行が利用したラマダ・インは現Ramada by Wyndamと判断して良さそうじゃ。右写真ストリートビュー2022年12月撮影。


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