
| アップデート:2026年2月23日 |
|
|
| (上部スライダーは自動的に別写真へスライドし続けます。またカーソルをスライダー部分に置くとスライドが止まり、左右に矢印が表示されますので、矢印をクリックすると別写真にスライド出来ます。) |
|
エルヴィス、バージニア州、リッチモンドと言えば、まずはあまりにも有名な写真“ザ・キッス”じゃ。1956年6月30日にリッチモンドのモスク・シアター(左写真)で撮影された、地元の無名のモデル女性相手にエルヴィスがバックステージで舌を出してキッスしようとするシーンを捉えた写真じゃ。エルヴィスはモスク・シアターにて、1955年5月16日、11月29日、1956年2月5日、3月22日にもライブを行っており、“ザ・キッス”以外にも数多くの写真が撮影されておる。 2011年にリッチモンドの地元の美術館は、アルフレッド・ウォルトハイマー氏撮影の“ザ・キッス”をはじめとした60枚以上のエルヴィス・イン・リッチモンドの写真を集めて「エルヴィス写真展」を開催。その際に“未発表写真”も1枚展示されることになり地元のテレビ番組で取り上げられておった。たった1枚の未発表写真でさえニュースになるとは、さすがはキング!モスク・シアターの追加情報としてご紹介しておこう。 未発表写真として写真展にお目見えした1枚は下写真左側。(TVニュースで紹介された映像の静止画)撮影日は1955年5月16日、撮影者はエルヴィスのファンであり当日のライブにも駆け付けた当時高校3年生だったシルビア・グレンドル嬢。下写真中央の女性がシルビア嬢じゃ。この写真も少なくともわしは初めて見る1枚であり、この度pinterest内で発見!地元サイトによると、シルビア嬢はバックステージでエルヴィスと記念撮影した後、モスク・シアターから“数ブロック先”にあったカフェで食事をしたという。その際に彼女はエルヴィスの写真を何枚か撮影したんだそうじゃ。写真展で公開された彼女の撮影写真は1枚だけだったが、1955年5月16日当日のエルヴィスの希少な姿じゃ。 なお2012年にお目見えしたこの未発表写真はリッチモンドの美術館が管理しておるのか、少々ブレ気味であるTV番組の静止画以外では現在までネット上にはお目見えしておらん。
エルヴィスとシルビア嬢が一緒に食事したカフェの名前や場所は現在のところ不明なので、参考のために1956年に撮影されたHACのモスクスシアター周辺の空撮写真を掲載しておこう。(上写真右側)この写真の何処かにカフェが写り込んでおるのじゃ!)なお、1955年5月16日の写真としては左写真左側、中央の2枚は割と有名。SMWにも掲載されており、「バーチャル~バージニア州2022年編」でもご紹介済。ただし左写真右側のアップ写真はわしは初めて見たの掲載しておこう。 諸君も既にご存知かと思うが 【 “ザ・キス”余談 】 “ザ・キス”はエルヴィス・プレスリーという希代のスーパースターが湛えていた唯一無二の輝くばかりの華やかさを象徴するショットとして、ロックンロール(エンターテイメント)・アートの枠を飛び越えた名写真として有名じゃ。しかし、わしに写真という芸術を深く理解出来るデリカシーが欠如としておることもあるが、どうしてこの1枚が名作なのかいまひとつワカランかった。そこでこの機会に名作と評される所以(ゆえん)についてちょいと調べてみた。 実は写真“ザ・キス”の高い評価の背景にはもう1枚の“ザ・キス”があった!それは左写真右側、1945年8月14日にニューヨークのタイムズ・スクエアで撮影された通称“勝利のキス”と呼ばれる作品であり、(英語では「V-J
Day in Times Square」と言われるらしい)「20世紀のアメリカを語る1枚」として評されておる。「1945年8月14日、第二次世界大戦の枢軸国陣営で最後まで残っていた主要交戦国である日本のポツダム宣言受諾がアメリカ合衆国民に伝えられ、人々がニューヨーク・タイムズスクエアで終結に沸くなか撮影された。」(wikipediaより) キスをしておる男女2人は面識はなく、たまたまタイムズスクエアに居合わせていただけだったが、世界大戦の終戦と勝利を喜ぶ民衆の心情を瞬時に捉えたまさに歴史的な名ショットじゃ。 世界大戦の終戦とエルヴィス・プレスリーの登場はいずれも歴史的な事件ではあるものの、同一線上で語ることはナンセンスではある。しかし2つの事件の意義は平和であり、愛であり、それによるアメリカの安定と繁栄じゃ。トランプ現大統領が「この世にいるのは男と女だけである」という発言したが、アメリカ人にとっての平和と愛の象徴がいわば男と女の情愛(“ザ・キス”)なのじゃ。だからこそ撮影の背景や状況の違いはあれど、この美しい2枚の“キッス”はその時代の平和と愛と繁栄を映し出す鏡のような写真として並び評されておるようじゃ。 なお、“ザ・キッス”の撮影者はアルフレッド・ウォルトハイマーであり、“勝利のキス”の撮影者も同じドイツ系移民のアルフレッド・アイゼンスタッドじゃ。ウォルトハイマーはフリーランスで活躍しておったが、アイゼンスタッドは“勝利のキス”が掲載されたタイム誌専属のカメラマンであった。 |
“バージニアの声”の発信基地にも、若きエルヴィス出演記録があり![]() 1950年代にエルヴィスが初めてバージニア州リッチモンドを訪れたのは、上述のリッチモンド・モスク・シアターであり(1955年5月16日)であり、その次の機会は同年9月18,19日のWRAVAシアターでのライブであった。(左写真)モスク・シアターとは正反対に、こちらの会場でのエルヴィスのライブ記録はほとんどネット上には無く、ライブ写真は1枚も無し。1913年に開場したこの劇場は元々「リリック・シアター」の名で演劇用の劇場として稼働しておったが、1948年に地元のラジオ局WRVAに買収されてWRVAシアターと改称された。 WRVA(Western Richmond Viginiaの略と思われる)は、当時数多く存在したバージニア州のAMラジオ局の中でもっとも古く、もっとも強力な電波を発していた“バージニアの声”と親しまれた当地随一の人気ラジオ局であった。 1940年代からスタートした「オールド・ドミニオン・バーン・ダンス」という大人気を誇ったカントリーミュージックのバラエティショーを開催し続けており、カーター・シスターズやチェット・アトキンスも出演した記録が残っておる。WRAVAシアターは「バーン・ダンス」の開催をはじめてとして大いに賑わっておったという。新しい目玉の出し物としてハンク・スノウ・ミュージック・ジャンボリーが招待されてエルヴィスの登場と相成ったわけじゃ。 エルヴィスに関する僅かな記録としては、ライブ当日前に新聞に掲載された記事によると、モスク・シアターでのライ ブを熱狂の渦に巻き込んだ20歳の人気カントリーシンガーであり、シングル曲“ミステリー・トレイン”が好調な売れ行きを示しておるという2点!WRVAラジオ局自体は、その後FM局、TV局を開設するなど、シアター閉鎖後も長く存続しており、20世紀終わりに別会社に買収されたものの現在でも存続中である。 |
ド田舎の掘っ建て小屋会場に“ハンサムなエルヴィス・プレスリー”登場![]() 上記WRVAシアターで二夜連続のライブの後、1955年9月20日にはダンビルというバージニア州の田舎町にある見本市会場(フェアグランズ)にエルヴィスはやって来た。ダンビルは、南隣のノース・カロライナ州との州境にあり、リッチモンドの南西約200キロの位置にある。SMWや一部の私設エルヴィスサイトにおいては、会場のアタマに“WDVS”というライブを主催したダンビル地元のラジオ局名が付記されておるが、これは恐らく“WDVA”の表記ミスかと思われる。(WDVSと言う別称があったのかどうかは不明) 地元ラジオ局主催の見本市会場の催しとはいえ、WDVA関連の僅かなサイトを探ってみると、エルヴィスが登場した演奏会場は実際には納屋同然の掘っ建て小屋みたいなモンだったらしい!(笑)この掘っ建て小屋では毎週土曜日にカントリー・ミュージシャンが集まる演奏会「バーン・ダンス」が開かれており、他に娯楽など何もないど田舎の住民たちにささやかな楽 しみを提供しておったという。左写真はエルヴィスが登場する「バーン・ダンス」の告知記事。“ハンサムなエルヴィス・プレスリーは、17歳のルイジアナ・ヘイライドのヒルビリー・センセーションである”という紹介のされ方が微笑ましい! ちなみに1950年当時の「バーンダンス」の紹介サイトを見付けたが、出演者たちの写真を見ると、楽器が弾けて歌が歌えなければただの田舎のおっちゃん、おにいちゃんばっかり(笑)こんな布陣が毎回当たり前だったとしたら、エルヴィスがわざわざ“ハンサムな”と紹介されるのも頷ける(笑)掘っ立て小屋に集まった若い女の子たちはパニックになったに違いない! ![]() 田舎街の見本市とは、開催期間が終わると各店舗やアトラクションは跡形もなく撤収されるのが常なので右写真の味気なさも不思議ではないが、この場所から真西に約2キロ離れた場所に、現在でも定期的に見本市が開催されておる場所が見つかった。いつ頃からか見本市特設会場はそちらに変更になった模様じゃ。 |
![]() 1950年代は7回(モスク・シアター5回、WRVAシアター2回)にわたってリッチモンドでライブを行ったエルヴィスは、70年代に入るとリッチモンド・コロシアムに会場を変えて4回のライブをこなしておる(1972年4月9日、1974年3月12日、3月18日、1976年6月29日) 1972年と1974年は名ライブの誉れが高く、珍しいレッドのジャンプスーツで登場した72年のライブの一部は映画「エルヴィス・イン・コンサート」にも挿入されておる。 また1974年のライブは、2011年になって発表されたハイ・クオリティなライブ・アルバム「エルヴィス・48アワーズ・トゥ・メンフィス」にてほぼフル・コンサートを楽しめる! これは“たまたま”かとも思えるが、ネット上で読める1972年と1974年のライブ・レビューは、いずれもまったくライブ・レビューになっていない(笑)「今更エルヴィスのショーの素晴しさを羅列して何の意味があるのか!とばかりに、熱狂する女性ファンたちのライブ中の心理描写ばかり! 「誰もエルヴィスの歌を聞きに来てはいない。エルヴィスを観に来ているだけだ」 「50年代にエルヴィスに夢中になった女性たちが30歳を過ぎて久しぶりに“自分の男”に会いに来ている」 「エルヴィスが何を歌っているのかなんて彼女たちには関係ないのだ。ひたすらエルヴィスの姿を追い、汗まみれのスカーフに群がっている」 「エルヴィスは観客とコミュニケーションを取ろうとしたことがあるかどうか疑問に思う時がある。観客の多くは、エルヴィスという人物ではなく、イメージとしてのエルヴィスを目の前に望んでいるようだ。彼は堂々と歩き、大音響とコーラスをバックに、あらゆる点でショーマンであり、各曲は壮大なクレッシェンドで最高潮に達する」 「バンドが“ツァラトゥストラはかく語りき”を演奏し、エルヴィスの登場を告げると、観客はそれがひょっとして下品なことかもしれないとは思わない。やがてショーのすべてに吐き気を催すような衝動に駆られるに違いないが、今や洗練されたエルヴィスが巨大なショーマンとしての才能でもって覆い尽くしてしまうのだ」 (※下写真3枚は74年3月18日のライブ写真)
![]() そしてこれらの描写が事実であることを証明するような、幾人もの熱狂的女性ファンのコメントを付記させている。40歳が近づいてきたキング・オブ・ロックンロールを、あえて中年女性の絶対的アイドルとしてのみ描写することで、逆に当時のエルヴィスの異常な人気、唯一無二の特異な存在力を際立たせようとしておるのじゃろう。 ライブの素晴しさ、凄さは先述した「48アワーズ・トゥ・メンフィス」等でも充分に確認出来る時代になったので、本来アリエナイ内容のライブレビューも今となっては許容されるというものじゃ!(笑) ちなみにもっとも笑えたレビュー・パートは、74年のライブ会場に駆け付けていた20歳代の女性グループから取ったというコメントじゃった。「私たちは警官がいようがいまいが絶対にエルヴィスのステージに飛び乗ってみせるわ!そのためにここ一週間トレーニングしてきたんだから」って、ほんまかいな! (※上カラー写真2枚は1976年のライブ写真)
右写真左側は、コロシアムのロビーに飾られておる、エルヴィスの4回の出演を記念したプラーク。右写真右側はストリートビュー2022年8月撮影。 |
ステージ上のエルヴィスから感謝の辞が語られたホテル こちらのホテルは、1974年3月18日でのライブの際にエルヴィス一行が宿泊したホテル。リッチモンドのホテルと言えば、1956年にアルフレッド・ウォルトハイマーの撮影場所にもなったジェファーソン・ホテルがエルヴィス・ファンには有名じゃが、ジョン・マーシャル・ホテルに関しては上述した2011年発表のライブ・アルバム「エルヴィス・48アワーズ・トゥ・メンフィス」に収録されていたエルヴィスのMC内に登場したことで突如注目を浴びる存在となった。 ジョン・マーシャル・ホテルでのエルヴィスの滞在ぶりは一切詳らかにされてはいないが、MCの中でエルヴィスは次のように語っておる。「 I'd like to thanks to John Marshall Hotel where everybody's staying 」(皆さんも宿泊しているジョン・マーシャル・ホテルに感謝の意を述べたいと思います) (※左写真は「エルヴィス48アワーズ・トゥ・メンフィス」のカバー) エルヴィスが何故わざわざジョン・マーシャル・ホテルの名を口にしたのかは定かではないが、元々このホテルはバージニア州最大のホテルとして1929年の開業以来大いに繁盛し、16階の屋上庭園宴会場をはじめとした豪華な各施設、ホテル専用の電話交換機、全部屋に設置されたラジオ、400の部屋数に対して従業員が400人(各部屋に1人!)という宿泊者への行き届いたサービス体制等が評判が高かったので、エルヴィスは滞在に大いに満足しておったに違いない。 ジェファーソン・ホテル、リッチモンド・ホテルとともに当地3大ホテルと称された中でも、ジョン・マーシャル・ホテルの宿泊代がもっとも高値だったらしく、アメリカ歴代大統領の多くや、各界 のセレブたちにも頻繁に利用されており、エリザベス・テーラーもこのホテルがお気に入りだったそうじゃ。 |
![]() ハンプトンはバージニア州の大西洋岸にあり、1970年代に入ってから人口が10万人を越える中規模都市に成長。エルヴィスと縁の深かったリッチモンドの南東約120キロに位置しておる。バージニア州法の規定により、同州内のいずれの郡にも属さない独立市となっている。 1970年代にエルヴィスはハンプトンにおいて4度ライブを行っておる。(1972年4月9日、1974年3月11日、1976年7月31日、8月1日)会場はいずれもハンプトン・コロシアム(左写真)であった。(※上写真3枚は1972年のライブ写真) 左写真で御覧の通り、巨大なダイヤが連ねられたような斬新な外装デザインを含む建築は、1970年代以降に優れたデザインによる数多くのスタジアムやエアポートの建設を請け負っていたオデル・アソシエイツなる建築事務所によるものじゃ。夜になると各ダイヤ部分が色とりどりのライティングによって美しく輝くことでも名高い会場である。 上記リッチモンド・コロシアム同様に、1972年のハンプトン・コロシアムでのライブの模様も映画「エルヴィス・オン・ツアー」の中に挿入されておる。1972年4月のツアーは5日のニューヨークのバッファローからスタート。まず「エルヴィス・オン・ツアー」用の撮影/編集ガイド用のマテリアルとしてライブ撮影もスタートした。当初は同年のラスべガス公演の音源と72年4月のライブ音源を収録したアルバム「スタンディング・ルーム・オンリー」(右写真)が、「エルヴィス・オン・ツアー」の“先行作品”として製作/発売される予定じゃったが、4月9日のハンプトン・コロシアムにおいて録音機材の故障が生じて、ハイクオリティのレコーディングが不可能となり、この事態が「スタンディング・ルーム・オンリー」の発売中止の引き金になったとされておる。(21世紀になって発売された同名アルバムは、当初の予定収録曲が大幅に変更されておる) ライブ・レビューによると、オープニングの「CCライダー」からそれまでは聞けなかったようなサイコーのアップテンポの演奏が繰り広げられ、エルヴィスは何度も音程が外れてしまったらしいが、素晴しいバンドのプレイがエルヴィスのミスをかき消したとしておる! ライブを全体的に見渡せば、映画撮影が行われているにもかかわらず、ライブ前半のエルヴィスはバンドやバックコーラスにサポートされながらのイマイチな状態だったが、観客の熱狂がエルヴィスを更に助けたようじゃ!パンティーやブラジャーがステージに投げ込まれる度にエルヴィスがおどけて見せるために会場全体がリラックスした雰囲気となり、やがてゴスペルやアメリカン・トリロジーといったじっくりと歌を聞かせる段階になってエルヴィスは完全に調子を取り戻したようじゃ! 74年、76年のライブ・レビューもネット上で読むことが出来るが、72年のライブとは正反対で、いずれも観客の反応の描写に終始しており、どうやらエルヴィスのパフォーマンスは好調ではなかったようじゃ。それでも“エルヴィスの凄さは、観客を熱狂させるだけはなく、観客を鎮め、リラックスさせることも出来ることだ”とし、観客のボルテージの昇降をたった一人で自由自在にコントロールしておる演技を讃えてはおる。「だからこそ、エルヴィスはキングなのだ」と!また70年代初めよりも会場で売られるエルヴィス・グッズの種類が大幅に増え、紛いものに目を光らせるパーカー大佐の仕事も俄然ハードになったと!それに伴い、大佐のマスコミへの取材規制も厳しくなり、レポーターやカメラマンもバックステージ・パスが与えられず、入場料を支払わないと会場入り出来ないルールが敷かれるようになったことも紹介しておる。 (※左写真は74年のライブ) 「人々が叫んでいるのは、エルヴィスが何者で、何を象徴しているかであって、彼が今何者であるか、あるいはどう歌っているかではない。彼は日曜日、歌をうまく歌ったが、歌った数は多くなかった。しかし、彼の声には魂がなく、推進力もなく、狂乱の発作を思い起こさせるようなものは何もなかった。それは、長年の苦労によるものかもしれないし、あるいは私たちの期待が高すぎるのかもしれない・・・」 「彼の腹部はベルトから少し垂れ下がっており、二重あごのせいで顔はむくんでいるように見えた。しかし、どういうわけか彼は女性を狂わせることができ、女性をバッカイ(ワインの神バッカスを崇拝した古代ギリシャの女性たち)のような存在に変えてしまう。」 ![]() 「彼が64歳になっても、人々は彼を愛しているだろうか? もっと太って動きが鈍くなっても? 伝説は彼が死ぬまで続くかもしれない。私がコロシアムを出るときに、10歳にも満たない小さな女の子が目を大きく見開いて、畏敬の念をこめて“もう少しで彼に触れることが出来るところだったわ、本当にもう少しだったわ”と。」 70年代中盤からのエルヴィスは時にはパワーダウンしながらも、やはりバージニア州においても大いなる謎と矛盾をまき散らしながらソールドアウトの会場に登場し続けていたのだ。(※上写真2枚は76年のライブ) 1969年にオープンしたハンプトン・コロシアムは現在でも稼働中であり、外観だけはなく音響効果もまた長年にわたってミュージシャンたちに好評!エルヴィスを初めとして、ローリングストーンズ、レッド・ツェッペリン、ジェームス・テイラー、グレイトフル・デッド、ニール・ダイヤモンドらが、ハンプトン・コロシアムでのライブ音源を作品化して好評を博しておる。上述の通り、72年のハンプトン・コロシアムでのエルヴィスのレコーディング・マテリアルは当時作品化されなかったが、21世紀になって最新技術による音質の向上が図られた後、「ハンプトン・ローズ・コンサート」として作品化されておる。右写真ストリートビュー2023年8月撮影。 |
マスコミ規制が厳格化された74年度では珍しい、ホテルでの隠し撮り写真
![]() 1974年3月11日のハンプトンでのライブの際にエルヴィスが宿泊したシェラトン系のホテルがこちら。(左写真)ライブ会場のハンプトン・コロシアムの北側わずか1キロに位置しておった。ネット上で表記されておる正式名称は“~イン・コロシアム”とされておるので、ハンプトン・コロシアムと契約関係にあったのかもしれないが、詳細は不明じゃ。 上写真左側、中央は、ホテルを出てコロシアムに向かう際、上写真右側はホテルの裏口からチェックインに向かう際、それぞれパパラッチが撮影したものと思われる。 ちなみに同じく3月11日、ハンプトンのローカル空港に到着したエルヴィスとされる写真もネット上で発見したが、その前日はエルヴィスは同じバージニア州のロアノークでライブを行っており、ロアノークからハンプトンまでは約400キロ。車では約3時間ほどの移動にわざわざ飛行機を使用したのかどうか、その記録が発見出来ないので今回ハンプトン空港での撮影とされる写真の掲載は見合わせることにしたので悪しからず。 ![]() |
| 「バーチャル・ロックンロール・ツアー」の全てのバックナンバーは「一覧ページ」から御覧になれます。 「バーチャル・ロックンロール・ツアー一覧ページ」 (←クリック) 直近3回のバックナンバーは、下のバナーをクリックして下さい。 |
||
![]() |
![]() |
![]() |
| GO TO TOP |