NANATETSU ROCK FIREBALL COLUMN Vol.475


第94回 エルヴィスゆかりの地~ニューヨーク州2026年後編

(上部スライダーは自動的に別写真へスライドし続けます。またカーソルをスライダー部分に置くとスライドが止まり、左右に矢印が表示されますので、矢印をクリックすると別写真にスライド出来ます。)

ニューヨーク州は東西最大500km、南北最大450kmにわたる。エルヴィスとニューヨーク州の関わりは、50年代は有名TV番組出演のためのニューヨーク市の中心地のみじゃったが、今回は同州各地でライブが開催された70年代の軌跡にスポットを当てよう。ニューヨークのプレスメディアは古くから世界一辛口と言われ続けておるが、70年代の同州でのライブ状況やいかに?!

【目次】バーチャル・ロックンロールツアー エルヴィスゆかりの地
    第94回 ニューヨーク州2026年後編

 ・Area No.は2023年度編からのニューヨーク州内の番号。
 ・Serial No.は「バーチャル・ロックンロールツアー」第1回からの通し番号です。

 Area No.23/Serial No.662  ナイアガラ・フォールズ・コンベンションズ
                     ・アンド・シビックセンター跡地/ナイアガラ・フォールズ

 Area No.24/Serial No.663 パークウェイ・ラマダ・イン/ナイアガラ・ファールズ
 Area No.25/Serial No.664  オノンダガ・ウォー・コミュニティ・オーディトリアム
                      /シラキュース

 Area No.26/Serial No.665 シラキュース・ホテル/シラキュース
 Area No.27/Serial No.666  コミュニティ・ウォー・メモリアル/ロチェスター
 Area No.28/Serial No.667  ブルーム・コミュニティ・ベテランズ・メモリアル・アリーナ
                    /ビンガムトン

 Area No.29/Serial No.668 トリードウェイ・イン/ビンガムトン

【バーチャル・ロックンロール・ツアーのバックナンバー】


★ 本文中の表記について ★

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SMW=スコッティ・ムーアのウェブサイト
EDD=「Elvis Day By Day」 エルヴィス・デイリー記録集
EPC=エルヴィス・プレスリー・イン・コンサート(ウェブサイト)
HAC=ヒストリック・アエリアルス(アメリカの空撮サイト)


アメリカ最大の滝の轟音もかき消したキング・オブ・ロックンロール・ショー!
Area No.23/Serial No.662 ナイアガラ・フォールズ・コンベンションズ・アンド・
                   シビックセンター跡地/ナイアガラ・フォールズ

 ナイアガラ・フォールズとは、アメリカとカナダの国境を流れ、五大湖のエリー湖とオンタリオ湖を繋ぐナイアガラ川にある、3つの大きな滝、およびその周辺地域の名称じゃ。ご存知かと思うが、3つの滝の中で最大の滝はその独特の形状から“ホース・シュー滝”と名付けられておる!(ホース・シュー滝の位置はこちら
 
 1974年6月24日、ナイアガラの滝からアメリカ側の内陸に1キロほど入った地域にあったナイアガラ・フォールズ・コンベンション・アンド・シビック・センター(左写真)にてエルヴィスのライブが昼夜2回にわたって行われた。この会場は同年の1月がオープンであり、“こけら落とし”ではないが、エルヴィスのライブは会場のオープン以来初の大入り満員となった。

 この日のライブレビューを読むと、エルヴィスのライブ開催による観客の大混乱と深刻な交通渋滞が予想されておったことが最初に記されておる。会場の建設により、地域の主要幹線道路のいくつかが廃止されたことが観客の混乱と交通渋滞に拍車をかけると見なされておったようじゃ。しかし大入り満員状態にもかかわらず懸念された混乱も渋滞も起きず、エルヴィスのコンディションも良好であり、会場は“秩序正しい熱狂状態”だったようじゃ。(以下ライブレビューより抜粋)

  さまざまな安全上の理由で関係者を心配させていたエルビス・プレスリーのコンサートはスムーズに終わった。50年代のロックンロールのスーパースターが素晴らしいパフォーマンスをしなかったと言っているわけではない。実際に素晴らしいパフォーマンスだった。
 そして彼のファンたちは、多くの古いファンとかなりの数の新しいファンが、騒々しい熱狂をもってその喜びを表現した。

 エルヴィスは昔のエルヴィスより少し控えめだったが、彼は元気よく、動きながら、熱意を持って歌った。ドラムロールに合わせて時折、昔のように体を揺らしたり、体をこすったりすると、観客の女性たちから悲鳴が上がった。彼の激しい体の動きの多くは、観客を熱狂させるのに十分な勢いのある、挑発的な曲「フィーバー」に合わせて行われた。

 彼は主に過去の名曲を演奏した。「I Got A Woman」「All Shook Up」「Hound Dog」「Teddy Bear」。そして、ニューアルバムから「Let Me Be There」と「Help Me」という比較的新しい曲もいくつか披露した。
 エルヴィスは何十枚ものスカーフも、最前列の観客に投げて回した。観客に渡す前に、スカーフが自分の首にきちんと巻かれているか確認した。

 午後8時半のコンサートにファンが市内に押し寄せ始めたため、交通渋滞は続きましたが、ここでも深刻な渋滞は発生しなかった。
 1975年7月13日にも再びナイアガラ・フォールで昼夜2回ライブが行われたが、短いライブ・レビューによると、前年とは反対にイマイチな内容だったようじゃ。マチネーは“ショーが早く終わり過ぎ”とされており、歌詞を替えた「ラブ・ミー・テンダー」は芳しくない出来であり、MCでの“ハンバーガーを食べすぎちゃってね”等のジョークも意味不明でウケも悪く、“全体的にエルヴィスは熱意と工夫が足りなかった”と書かれておる。前年のライブが素晴しいクオリティだったがゆえのギャップによる低評価なのかもしれない。(上写真3枚は75年のライブ)

  この会場は多目的イベント・アリーナとしての役目を2002年に終え、約8,000万ドルをかけて巨大なカジノ&リゾート・ホテル「セネカ・ナイアガラ・カジノ・アンド・ホテル」に大幅改装された。ナイアガラの滝の上にかかる虹をイメージして造られたオリジナルの建物も形状はそのままキープされており往年を忍ばせるが、その後には超高層ホテルが建てられておる。右写真はストリートビュー2022年8月撮影。


大佐オフィス発行による謎の資料(?)に記載されたナイアガラ・ライブでの逗留ホテル
Area No.24/Serial No.663 パークウェイ・ラマダ・イン/ナイアガラ・ファールズ
 1974年、1975年の2年続けて行われたナイアガラ・フォールズでのライブの際に、いずれの年も当地でエルヴィスが宿泊したホテルがパークウェイ・ラマダ・インじゃ。

 このホテルに関する資料はネット上にはなく、創業期も閉業期もまったく不明。「For Elvis CD Colectors(FECC)」というサイトにエルヴィスが宿泊した事実、ホテルの住所が記されておった。データの出処はパーカー大佐オフィスが作成した「Elvis Presley Concerts - Tour Sheets」という資料とのこと。そんな資料が存在していたこと自体知らんかったので、ネットで調べてみたところ、「その件に関する情報無し」とピシャリ!と拒否されてしまった・・・。とりあえずFECCの表記を信用するしかない!?

 FECC記載の住所で調べてみると、確かにかつて「ラマダ・イン」がその住所に存在し、絵葉書も2種類見つかった。(上写真)しかし絵葉書裏面のホテル名には“Parkway”表記はなく“The Ramada Inn”のみ。絵葉書写真(上写真左側)の看板も同様じゃ。
 もうひとつ、このホテルにエルヴィスが泊ったという表記のあったサイトでは、“エルヴィスは3階に泊った”とされておった。エルヴィスはホテルの最上階に泊るのが常だったので「3階?」と即座に疑念が湧いたが、低層ホテルだったラマダ・インの写真を発見して納得!1970年代当時、ホテル名にParkwayと付けられていたのかどうかは不明じゃ。
 また1975年にマチネーを終えて一旦ホテルに戻ってきたエルヴィスを8ミリビデオで撮影したプライベート映像がyou tubeにアップされておった。上写真3枚はその動画の静止画じゃ。建物全体は撮影されておらんが、動画内でエルヴィスの乗ったゴールド・キャデラックがホテル裏口横の緩い坂道を通って駐車場に到着する様子や、坂道周囲が緑で囲まれておる光景も確認出来る。(動画はこちらから~タイトルがELVIS 1976とされておるが、これは1975の間違い。動画投稿者もビュワーの指摘により訂正コメントをしておる)

 ラマダ・インの跡地には現在「ダブルツリー・ヒルトン」が建てられており、右写真はその裏口と駐車場。(ストリートビュー2007年10月撮影)動画と参照してみると、緩い坂道とその周囲の緑は1975年当時と同様(に見える)。


「戻って来てほしい時はいつでも言って下さい」・・・「我々はエルヴィスの死を悼みます」
Area No.25/Serial No.664 
        オノンダガ・ウォー・コミュニティ・オーディトリアム/シラキュース


アメリカ国土の北端にある五大湖のひとつオンタリオ湖から南へ約50キロの位置にシラキュ―スという街があり、エルヴィスは1976年7月25日にやって来た。ライブ会場はオノンダガ・ウォー・コミュニティ・オーディトリアム。(左写真)“オノンダガ”とは、わしのタイプミスではなくて、シラキュ―スの北西端地域名Onondagaであり、この地の先住民族名から名付けられた。

 シラキュ―スでは、今年2026年にエルヴィス・ライブ開催60周年を迎えるので、この1~2年、地元では60年前のエルヴィスの思い出を綴るメディアがネット上でいくつか散見出来る。やはりこの地においても、キングは永遠の存在なのじゃ!
 実はエルヴィスの死後4日目にオノンダガは予めライブ・スケジュールが組み込まれており、60周年記念寄稿は再ライブが実現しなかったことを嘆いた当時のファンの心情をあらためて浮き彫りにするような哀悼感に包まれておる。60年前のライブのレビューを読むと、特に優れたパフォーマンスではなかったようじゃが、“初めてキングが来てくれた!”というファンたちの喜びのレポを最優先にしたような内容じゃ。

 当ページ最上部のスライド写真の中に、ライブ当日にオノンダガ・ウォー・コミュニティ・オーディトリアムの入口にたむろっておるファンの姿があり、会場の庇には「SYRACUSE LOVE ELVIS」の特別表示がある!どれだけシラキュースの人たちがエルヴィスの登場を待ち望んでいたかが分かる!
 更にエルヴィスの死を報じた地元の新聞(下写真中央)には、庇の表示が「WELCOEM BACK ELVIS」から「SYRACUSE MOURNS ELVIS」(エルヴィスの死を悼みます)に変更された写真が掲載されておる。(下写真右側も同様)エルヴィスが亡くなる前に既に1977年8月後半のライブスケジュールは発表され、不幸にもライブが実現しなかったライブ会場それぞれにエルヴィスの死を哀悼するファンの動向記録が残っておるが、シラキュ―ス・オノンダガにもこうした悲しい光景が見られたのじゃ。
 当ページ最上部のスライド写真の中に、ライブ当日にオノンダガ・ウォー・コミュニティ・オーディトリアムの入口にたむろっておるファンの姿があり、会場の庇には「SYRACUSE LOVE ELVIS」の特別表示がある!どれだけシラキュースの人たちがエルヴィスの登場を待ち望んでいたかが分かる!
 更にエルヴィスの死を報じた地元の新聞(下写真中央)には、庇の表示が「WELCOEM BACK ELVIS」から「SYRACUSE MOURNS ELVIS」(エルヴィスの死を悼みます)に変更された写真が掲載されておる。(下写真右側も同様)エルヴィスが亡くなる前に既に1977年8月後半のライブスケジュールは発表され、不幸にもライブが実現しなかったライブ会場それぞれにエルヴィスの死を哀悼するファンの動向記録が残っておるが、シラキュ―ス・オノンダガにもこうした悲しい光景が見られたのじゃ。

1976年7月25日のライブの翌々日(7月27日)にも同会場でライブが行われておる。7月25日のライブレビューによると、エルヴィスは次のように言い残してライブを締め括った。

「私に戻ってきてほしい時は、いつでも言って下さい」

当日の観客にとっては生涯忘れることが出来ないエルヴィスからのラストメッセージになったのじゃ。

 オノンダガ・ウォー・コミュニティ・オーディトリアムは第一世界大戦から戦地に赴いた兵士たちに敬意を表して1951年に建設された退役軍人記念会館じゃ。周辺地域では随一の多目的イベント会場として使用され続けており、エルヴィス以外の音楽的トピックスとしては、若きボブ・ディランがエレクトリック演奏にチェンジしたことで、行く先々でファンから激しいブーイングを受けた伝説のホークス(後のザ・バンド)とのツアーの中にこの会場は入っておった。
  アップステート・メディカル・ユニバ―シティ・アリーナと改称されて現在も稼働しており、ステージ上には現在でも「退役軍人を偲ぶ」と表示されておる。2026年のエルヴィス・ライブ60周年は、エルヴィスが偲ばれる特別表示が登場するかもしれない。右写真ストリートビュー2023年7月撮影。


四半世紀のゴタゴタの末復活した、ビッグロッカーゆかりのホテル
Area No.26/Serial No.665 シラキュ―ス・ホテル/シラキュース
 上記オノンダガ・ウォー・コミュニティ・オーディトリアムでのライブの際のエルヴィスの宿泊先が、シラキュ―ス・ホテル。(左写真)オーディトリアムからは僅か270メートル(徒歩5分)の位置にある、1924年オープンの当地老舗の大型ホテルじゃ。このホテルは「当時の一流ホテルデザイナーの一人が設計した20世紀初頭の近代的ホテルの優れた例」であるという点で重要とされておる。(wikipediaより)

 アイゼンハワー、ケネディ、カーター、クリントンら歴代の大統領たちがこのホテルで演説会を行ったことで業界内で名高いホテルじゃったが、20世紀末期から業績が急激に悪化し、建物の老朽化から宿泊客の評判も悪く、21世紀初頭に経営が破綻してしもうた。数年間は新しい買い手も現れずゴーストホテル状態になった。
 そこで地元メディアがこの名ホテルの改修と保存を広く訴えかける情報を発信し始め、大統領のみならず、エルヴィス、ジョン・レノン、ローリング・ストーンズらビッグ・ロッカーたちも宿泊した事実まで流布したこともあり、2014年に新しいオーナーが名乗りを上げて大幅な改修工事がスタート。
 しかし改修途中で資金トラブルが発生して工事は中断。結局マリオット・ホテルが改修を引き継ぐことになり、2024年にようやく全面再オープンとなった。

 

 上写真左側、中央は、ホテルからオーディトリアムに向かうエルヴィス。上写真右側は1971年10月9日、シラキュ―ス・ホテル内で開催されたジョン・レノン31歳の誕生日パーティー。写真の中でオノ・ヨーコとアレン・ギンズバーグ(50~60年代のアメリカ文学界の巨匠、詩人)の顔が見える。この他にもエリック・クラプトン、リンゴ・スター、クラウス・ブアマン、ジム・ゴードン、ニッキー・ホプキンスら、当時ジョン・レノンと交流の深かった錚々たるロック・ミュージシャンがパーティーに参加しておった。
 まあこの写真3枚だけでもとてつもない宣伝効果があり、どんなおんぼろホテルでも買い手が付かないはずがないのでは!(笑)現在の正式名称はマリオット・シラキュ―ソ・ダウンタウンじゃ。右写真ストリートビュー2024年7月撮影。


「エルヴィスはかっこいい。本当に音楽を感じさせてくれる。自分が王様だと教えてくれる」
 Area No.27/Serial No.666 コミュニティ・ウォー・メモリアル/ロチェスター

 1976年7月26日、上記オノンダガでの2回のライブ日の中間日に、シラキュ―ス/オノンダガの真西約120キロにあるロチェスターで行われたライブ会場がコミュニティー・ウォー・メモリアルじゃ。(左写真)翌1977年5月25日にも再度ライブ会場に選ばれておる。
 右下写真は、現在ネット上で見られる唯一(?)の1976年ライブの写真。この時期のライブ写真が1枚しかネット上に無いのは異例中の異例。プライベート撮影の映像は複数出回っており静止画に移しこむことも試みたが、基本的に映像が粗雑で、エルヴィスの全身が終始白ボケした様な状態で写っておるので断念。悪しからず。
 ※この日のライブを収録したブートレッグCD盤の裏ジャケに、Area No.25に掲載したライブ写真(前日のオノンダガでのライブ~バックシンガーたちも写っておる写真)が使用されておるので要注意。なお、1977年ライブの写真は下写真3枚じゃ。

1976年のライブはかなり長文のレビューがネットにアップされておるので、抜粋しておこう。エルヴィスは好調だった!

 エルヴィスについて語られていないことは何だろう? ご存知のとおり、彼は世界で唯一、名字を必要としない人物だ。その理由は、彼がファーストネームをロックンロールのキングとして巧みに使いこなしたからである。そして、キングは昨夜、ロチェスターのコミュニティ戦争記念碑(コミュニティー・ウォー・メモリアル)に彼の名を刻んだ。

 スポットライトが右からエルヴィスを照らした。彼はオフホワイトの衣装にゴールド モールのようなベストを着ていた。ショーは、7 年前にハリウッドからコンサートステージに戻って以来のエルヴィスのショーの基本パターンを踏襲していた。彼は CC ライダーで幕を開け、すぐにレイ チャールズの名曲「アイ ガット ア ウーマン」に移った。どちらも素晴らしい基本的なロック曲で、彼はこれらの曲を十分に歌い切ったが、それで終わりではなかった。

 ロックとバラードが交互に流れ、If You Love Me Let Me Know、You Gave Me a Mountain、All Shook Up、Teddy Bear、Don't Be Cruel の3曲、そしてもう 1 曲バラードが続いた。次にコンサートで大ヒットした 2 曲が続く。ロック史上初の完璧で、ざらざらした、荒々しいプロダクション ナンバーである Jailhouse Rock と、エルヴィスが今でも「ザ ペルヴィス」であることを示すために使ったミディアム テンポのセックス ソングFeverだ。

 建国200周年記念として、America the Beautiful を歌ったが、これは驚くほど力強く、好評だった(最後のコーラスを繰り返したほど)。エルヴィスはWaves of GrainからDown to Louisianaへ移行し、Polk Salad Annieを歌い上げた。

 ショーの後半は、主に「Love Letters」、ティミ・ユーロの「Hurt」の最新リメイク、初期のトレードマークである「Hound Dog」のコーラス数曲、ウィリー・ネルソンの「Funny How Time Slips Away」、そして恒例の締めくくりの「Can't Help Falling in Love」など、力強い歌声のナンバーだった。エルヴィスの声は、最初の曲のいくつかでは少し疲れてか細い感じがしたが、「Hurt」では全力を尽くさなければならず、調子は上々だった。彼の官能的なバリトンは高らかに響いた。

 1977年のライブ・レビューは、絶賛の嵐じゃ。観客の感激の声を拾いながら究極の賛辞が並ぶ!

 
昨夜、ウォー・メモリアルのステージから蹴ったり叫んだりしながら運び出されたヒステリックなファンにとって、エルヴィス・プレスリーは依然としてすべてのポップスターの中のポップスターだった。
 イースト・ロチェスター在住の 31 歳の女性は、エルヴィスが歌ったりやったりすることなら何でもいいと言った。15 歳の少女は、昨夜のエルヴィスのパフォーマンスは昨年 7 月のロチェスター公演よりも良かったと証言した。スコッツビル在住の 22 歳の男性は、エルヴィスのコンサートのチケットは好きな日を選べることを意味すると語った。33 歳の主婦は、エルヴィスは年を重ねるにつれてセクシーになっていると語った。16 歳の少年は、「エルヴィスはかっこいい・・・ 彼は本当に音楽を感じさせてくれる・・・ 彼は自分が王様だと教えてくれる!」と語った。

 低音域には、あの豊かでささやくようなベース音、あの脈打つようなビブラート、雄弁に突き刺すようなアクセント、そしてその間のさまざまな声色があった。まさに音楽だった。
 観客の中にいた37歳の会計士の男性は、人々がエルヴィスを見に集まるのは、年配の世代が大晦日にガイ・ロンバードを見るのと同じ理由からだろうと推測した。「若返った気分になれるから」だ。しかし、母親からエルヴィスに夢中になったギリシャの13歳の少女もいる。彼女は、父親ほどの年齢の歌手になぜ夢中になっているのか説明できない。理由が何であれ、エルヴィスのステージを見るためだけに10ドルから15ドル払う価値はあったようだ。しかし、私たちは音楽を聴きたくて会場に入り、エルヴィスがもっと音楽を聴かせてくれることを願って会場を後にした。


 エルヴィスがこの会場に登場する11年前、1965年11月1日にローリング・ストーンズが僅か7分間のライブを行った!?というか、ライブ開始から観客の熱狂が大爆発して会場が大混乱になってライブは続行不可になったことで、ロチェスター・コミュニティー・ウォー・メモリアルの名はロック史に刻まれておる!(右上写真)
 1990年代から大幅な改装工事が続けられて現在も稼働中だが、建物の外観は往年の面影はない。現在の名称は「ブルー・クロス・アリーナ」。右下写真ストリートビュー2022年5月撮影。


ニューヨーク州ライブ終焉の地
Area No.28/Serial No.667
ブルーム・コミュニティ・ベテランズ・メモリアル・アリーナ/ビンガムトン

 前日のロチェスターで(上記Area No.27参照)で感動的なライブを繰り広げたとされるエルヴィスは、翌1977年5月26日はロチェスターの南東約180キロにあるビンガムトンという街にやって来た。ペンシルベニア州の北側国境までわずか11キロであり、果てしなく続いた1970年代の全米ツアースケジュールの中で、結果として最後のニューヨーク州でのライブ地となった。ライブ会場はブルーム・コミュニティ・ベテランズ・メモリアル・アリーナじゃ。(上写真左側)その翌日27日と2夜連続のライブがここで行われ、果たしてエルヴィスの好調ぶりは維持されていたのか!?

 この日のライブレビューもロチェスター同様に観客の声がレポートされておる。
「ライブ時間が短かった」「エルヴィスが太り過ぎてがっかりした」「もっと昔の曲をたくさん歌うべきだ」
といったネガティブな意見も一応拾われたようじゃが、ライターさんは次のような表現で一蹴しておる。

「テレビで衝撃的な腰振りを披露したことは遠い記憶となり、エルヴィスのお腹は不快だが、アリーナを埋め尽くした7,000人のファンにとってそんなことはこの日のエルヴィスのライブには敵わない!」
 なんだか変な言い方だが、要するに昔の美しい記憶も現在のビジュアルの不快感も全て吹き飛ばしてしまうようなライブだった、ということじゃ。
「もう絶対に元通りのエルヴィスには戻れないけれど、この日のエルヴィスは本当に素晴しかった」
という中年女性の感想も付け加えられておる。
 「カントリーシンガーのまま年を取ることは難しくないが、ロックシンガーのまま年を取るのは難しい」という某シンガーの格言めいた言葉があるが、エルヴィス最晩年の好調だった時のライブ評を読むと、誰も成し得なかったロックシンガーのまま年を取ることの難しさをキングなら克服出来たのではないか?と思える時があるな!

 Wikipediaによると、ビンガムトンの土地は二つの川の合流地点にできたおわん型の谷であり、電子機器や防衛関連の企業が集中しておることから持続的な経済発展が見られて「チャンスの谷」と呼ばれることもあるという。エルヴィスのライブを体験したファンには新たな人生のチャンスが訪れたに違いないが、エルヴィス自身は再びビンガムトンに戻ってくることもなく、ライブから約80日後に亡くなってしもうた。
 1973年に多目的イベントスペースと舞台芸術スペースを融合させてオープンしたこの会場は、ヴィジョン・ベテランズ・メモリアル・アリーナとして現在でも稼働中である。右写真ストリートビュー2023年5月撮影。


深夜到着したキングの僅かなエピソードが残されているホテル
 Area No.29/Serial No.668 トリードウェイ・イン/ビンガムトン
 ビンガムトンでの2日連続ライブの際にエルヴィスが宿泊したホテルがこちら。
 エルヴィス一行はライブの前日1977年5月25日の深夜12時にホテルに到着。それからの模様が、ほんの少しだが珍しく(?)翌日発行の「イブニング・プレス」でレポされておる。転載しておこう。

ビンガムトンのダウンタウンのはるか上空、ビンガムトン トレッドウェイ・インの 8 階で、ロックンロールの王様が孤独に眠っていた。
少なくとも、トレイドウェイ・インにいた全員がそう言っていた。昨夜12時ごろブルーム郡に到着したエルビス・プレスリーを実際に見た人を見つけるのはほぼ不可能だった。

実際にエルヴィスを目にした数少ない人物の一人、ホテルのサービス責任者ジョン・ホッチキスは、トレイドウェイのコーヒーショップに大きな「E」が現れたことについて不安げに尋問された。
「彼はどんな感じ?」とウェイトレスが尋ねた。
「彼は元気そうだ」とホッチキスは答えた。
「彼は太っていますか?」ウェイトレスは尋ねた。微妙な質問だ。
「悪くないね。悪くないよ」とホッチキスは答えた。「彼は良さそうだね」。
ホッチキス氏によると、プレスリーは午前4時ごろ、ルームサービスにチーズバーガー2個とピクルスと玉ねぎ、サラダを届けてもらったという。
エルヴィスは早起きの人として有名ではない。コーヒーショップでは、彼は午後半ばに起きて午後4時頃に食事をするという噂だった。
エルヴィスが今夜と明日の夜に公演を行うブルーム・カウンティ・アリーナへの行き帰りの計画は、極秘に包まれていた。
「誰も彼を見ることはないだろう」とホッチキス氏は語った。
「誰も彼に会うことはないでしょう」とフロントの係員は言った。

 確かに7月25日ホテル到着日は“誰も彼を見ることはないだろう。会うこともないだろう”じゃったが、翌26日ライブ終了後にエルヴィスがホテルに戻ってきた時は下写真の通り、ファンが待ち構えていた!


 実はこの写真が撮られる前にちょっとしたトラブルが発生しておった。エルヴィスが駐車場で車を降りてホテルの裏口から館内に入ろうとしたが、裏口の扉にカギがかかっていて入れなかった。側近者たちはイライラしてホテル関係者に連絡を取ろうとしたが、当のエルヴィスは怒るわけでもなくニコニコ。ファンが集まり始めていたので混乱を避けるため「オーケー。みんな一旦車に戻ろうぜ」と言って再度車に乗り込んでライブ会場方面へ車を走らせ、約10分後に戻ってきたんだそうじゃ!

 ビンガムトンのトレイド・インに関する情報はネット上にはなく、ニューヨーク州北東部やペンシルベニア州にいくつかブランチを擁するチェーン・ホテルのひとつという以外は情報無しじゃ。写真も夜間に撮影された絵葉書用もの1枚のみ(上写真)。エルヴィスが到着したのが深夜だったので、夜間写真でもOKして下さい(笑)

 建物は現存しており、現在ホリディ・イン・ビンガムトン・ダウンタウンとして再利用されておる。右写真ストリートビュー2018年7月撮影。
 なおこのホテルの東側正面入口反対側は川が流れていることでリバーサイド・カフェになっており、西側には通用口無し。エルヴィスが出入りした裏口は、ホテル北側側面の出入口(右写真右側)と思われる。(エルヴィスが昇った階段や手摺りは撤去されておる)


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