
| アップデート:2025年12月28日 |
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キング、幼馴染から新型サンダーバードを購入! 左写真は、1961年の某日メンフィスのフォード・カーディーラー・ショップにて、1962年型サンダーバード・スポーツ・ロードスターを購入したばかりのエルヴィスじゃ。左端のスーツ姿の紳士は、ディーラーショップで働くセールスマンのアニー・バラッソ氏。バラッソ氏はエルヴィスの幼馴染であり、別の学校に通っていたとはいえお互いに旧知の仲だったという。エルヴィスが車好きであったことを知っていたバラッソ氏は、「エルヴィスなら新車に興味を持つに違いない」と何度かグレースランドを訪ねてパンフレットを置いていったりとセールスしていたところ、エルヴィスがディーラーショップまでやって来て、レッドのボディとブラックの内装の新車のサンダーバードをチェックした後に即金で購入。お値段は6,248ドル! この写真は、さっそく地元新聞社のメンフィス・プレス・シミターに電話してカメラマンを派遣してもらって撮影してもらったんだそうじゃ。翌日の新聞に掲載された写真でもある! サンダーバードをいたく気に入ったエルヴィスは、そのまま運転してグレースランドに帰って行ったという。ディーラーショップまで運転してきたキャデラックは、ショップの店員が代わりに運転してグレースランドに届けたそうじゃ。 当時映画撮影でメンフィスとハリウッドを車で往復していたエルヴィスは、買ったばかりのサンダーバードを数日後からさっそく使用。カーディーラーの2人の従業員が運転手として雇われた(?)というが、不幸なことにハリウッドへの道中、ワイヤーホイールの一部が緩んで車体に接触するようになり急遽ワイヤーを交換することに。しかしこの車種専用の派手なワイヤーの製造工場が倒産しており、結局は普通の型のワイヤーに交換せざるをえず、エルヴィスはかなりガッカリしたそうな。 フォード社側は購入代金を返金する旨をエルヴィスに伝えたが、エルヴィスはサンダーバードを返品することはなかったという。エルヴィスは幼馴染へ気を使ったのではないかとされておる。 なおバラッソ氏はその後カーディーラーショップを辞め、1965年に「サンダーバード・クラブ・ラウンジ」という高級ナイトクラブの共同経営者の一人となり、エルヴィスは常連の一人として何度もクラブを利用したことが明らかになっておる。こちらは今後別の機会にご案内しよう。
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![]() 去る2023年は映画「プリシラ」が好評を博したこともあり、遅ればせながらプリシラさんのゆかりの地もひとつご案内することとしよう! 上写真(左側、右側)と左写真は1960年中期~後期に一部のセレブ女性の間で流行した超!モリモリ&モフモフ・ヘアーでおキメになられたプリシラさんじゃ。このヘアスタイルの名前は色々あるようで、ネット検索ではまずは“The Beehives and The Artichoke”(ミツバチの巣とアートチョーク)、“Bubble Bouffant”(フワフワの泡)と出てくる。見た感じ、そのまんまのネーミングかよ!(笑)1930年頃にシカゴの美容院で発案、アピールされたヘアスタイルらしい。 プリシラさんがこのヘアスタイルをキメルために通っていた美容院が、アドキンス・ビューティー・ショップ。メンフィス郊外で1941年に創業した老舗のお店じゃった。上写真中央は2002年にオリジナルデザインが復刻されたメニュー。モリモリ&モフモフ・ヘアーはメニューに無いので、お客さん限定の特別セットメニューだったのじゃろう。セットを完了するには相当な量のヘアスプレー、またフード付ヘアドライヤーの使用時間がかかったそうなので、お値段もかなり張ったに違いない! ところでプリシラさんご用達だったアドキンズ・ビューティ・ショップじゃが、その存在が俄然有名になったのは、美容院が廃業した後の2002年に、新しいオーナーが旧店舗と室内インテリアや美容器具類を再利用した「ザ・ビューティ・ショップ・レストラン」としてオープンさせてからじゃ。ビューティーショップをレストランに改造してしまう発想が突拍子もないが、これが大好評!今や取材動画までyou tubeにアップされており、フード付ヘアドライヤーで髪の毛を乾かしながらドリンクを楽しむお客さんの姿にわしなんか唖然としてしもうた!興味のある方は動画を御覧頂きたい。美容院時代に使われていた何台ものヘアドライヤーやブース、各ブースを隔てるガラスブロック、ドリンクカウンターの一部に残されておる洗髪台などが、違和感なくオシャレなレストランの中に溶け込んでおるので驚きじゃ!動画の中でほんの数秒だけ「かつてプリシラ・プレスリーが~」というナレーションが入るので聞き逃さないように! 残念ながら美容院時代だった頃の店舗写真、プリシラさんのヘアセット最中の写真等はネット上では見当たらず、右写真右側はプリシラさんが後年にレストランを訪ねた時のショット。右端が現オーナーのようじゃ。なおトップに掲載したオリジナルデザインのメニューは、2022年8月にレストラン・オープン20周年記念パーティー用に作られたものじゃ。右写真左側はストリートビュー2023年7月撮影。 |
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エルヴィス自ら設立した拳法道場 メンフィスには、“エルヴィスと東洋拳法”にまつわるもうひとつの場所がある。それがテネシー・カラテ・インスティテュート(通称TKI)という道場じゃ。こちらは、上記カン・リー・スタジオで名誉8段を認定された後に、エルヴィスが拳法仲間とともに1974年に創立したと伝えられておる道場じゃ。ジェネラル・マネージャーにはカン・リー氏が就いた。 設立当時から名称にkarateが使用されておるが、純然たる空手、もしくはエルヴィスが習得したpasa ryu拳法、どちらの道場なのかは分らんが、道場の写真にはカン・リー氏の祖国韓国の対極旗のデザインが挿入されたシンボルマークが壁に大きくあしらわれておる。上写真2枚、左写真でエルヴィスとともに写り込んでおるのは、当時のアメリカで空手の免許皆伝者だったエド・パーカー。ハリウッド映画界でスタントマンとしても活躍していた人物であり、ラスヴェガス幽閉時代のエルヴィスの良き相談役だった人物じゃ。エルヴィスにカン・リー氏を紹介したのもエド・パーカーとされておる。 これら3枚の写真はTKIでの撮影であることは間違いないが、エルヴィスが拳法に興じておる数々の写真は、TKIと上記カン・リー・スタジオどちらでの撮影なのか現在のところごっちゃにされて紹介されておる場合がほとんど。TKIのウェブサイトにも「?」って写真がアップされておる。 ![]() 一応TKIサイトの記述を紹介すると、エルヴィスの他に、後の空手チャンピオンが何人も出入りしており、カンフー俳優で有名だったチャック・ノリス(ブルース・リーの「ドラゴンへの道」でリーとの果し合い役で登場!)もTKI出身者らしい。エルヴィスの死後、有名な関係者の怪我等で道場は一旦閉鎖。現在は再開されておるという。右写真ストリートビュー2022年2月撮影。建物右端に「Tennessee Karate~」の表記とロゴマークが見える。 |
![]() 「アメリカン・サウンド・スタジオ」とともに、メンフィスのレコーディング・スタジオとして後世にその名を残したスタックス・スタジオ。デトロイトのモータウン・サウンドとともに60~70年代にかけて全米で愛されたメンフィス・ソウル(南部ソウル)を生み出したスタックス・レコードのスタジオじゃ。60年代最大のスターはオーティス・レディングであ~る! スタックス・レコードは1959年にサテライト・レコードの名でレーベルが立ち上げられ、1961年にスタックス・レコードに改名。レコーディング・スタジオは元々キャピトル・シアターという映画館が改造されたものであった。(左写真)スタジオとしてスタートしてからしばらくは正面入口付近の元映画館ロビー・スペースはレコード・ショップとしても利用されておった。 1973年7月、12月の2回、エルヴィスとTCBバンドたちはスタックス・レコードを貸切状態にして、数多くのレコーディング・セッションを行っておる。 グレースランドのウェブサイトでは、1ページすべてを割いてスタックス・スタジオでのレコーディングに関する記述がなされておる。 「1972年と1973年はエルヴィスにとって刺激的な年だった。彼は1972年、コンサート・ドキュメンタリー『エルヴィス・オン・ツアー』の成功で幕を閉じ、この作品は後にゴールデン・グローブ賞を受賞した。 1973 年は、「衛星放送によるハワイからのアロハ」スペシャルの大成功により、盛況のうちに幕を開けました。 エルヴィスは73年の前半の大部分をツアーに費やしましたが、RCA の音楽を録音するためにスタジオに入る必要があることはわかっていました。しかし、彼はナッシュビルやロサンゼルスのスタジオに戻る気はなかった。彼はもう少し家に近い場所を望んでいました。エルヴィスは以前メンフィスでレコーディングをしており、今度はスタックスを試してみることにした。スタックスはメンフィスのマクレモア・アベニューにあり、かつては映画館でした。グレースランドから車でわずか10分の距離にあったため、そこでレコーディングすることで自宅在住の快適さも満喫し、娘のリサ・マリーと時間を過ごすことができ、同時に作品を完成させることができたのです」 キング・オブ・ロックンロールのレコーディングにスタックス・レコード(スタジオ)側も大喜び!レーベルお抱えのミュージシャンのレコーディング・スケジュールを調整し直すなど、レーベルをあげてエルヴィスのレコーディングをバックアップした。 またメンフィスでのレコーディングというエルヴィスの提案に、パーカー大佐も快諾したと言われておる。なお残念ながらセッション中の写真はネットにはアップされておらず、セッションの合間に撮影された写真がいくつかアップされておる。 1973年7月20~25日、12月10~16日の2回に分けて行われたレコーディング・セッションのテイクは『レイズド・オン・ロック』『プロミスド・ランド』『グッド・タイムズ』の3枚のアルバム(上写真3枚)に振り分けて収録されることになり、その中から4枚のシングルヒットが生まれておる。両期間中のレコーディング曲もグレースランドのウェブサイトで紹介されておる。 0年代に入るとその人気は翳りを迎えることになり、1975年にレーベル、スタジオともに廃業となってしまった。エルヴィスのレコーディングは、スタックス・スタジオ最後の輝ける時だったのである。閉鎖後のスタジオはしばらくは朽ちるに任せた廃墟状態になった後、1989年に取り壊された。20世紀終わり頃から、かつてスタックス・レコードの宣伝部長であり、後に映画監督になったティニー・パーカーが中心となってスタックス・カルチャーのリバイバルに動き出し、2003年スタジオ跡地に「スタックス・アメリカン・ソウル・ミュージック・ミュージアム」をオープンさせて現在に至っておる。右写真ストリートビュー2023年6月撮影。 |
1972年4月8日キングがテネシー州へ帰ってきた!
1969年からライブ、ツアーを再開したエルヴィスが最初にテネシー州に戻ってきた時期は意外と遅く、1972年4月8日ノックスビル公演じゃった。ノックスビルとはテネシー州南西の端、メンフィスから約550キロ、ナッシュビルから260キロ離れた場所にある当時人口20万人弱の工業都市である。50年代にはノックスビルでライブは行われてはおらず、何故ツアー再開から3年も経ってメンフィスでもナッシュビルでもなくノックスビルが選ばれたのかは不明。エルヴィス側の単なるスケジュールの都合だったのか、パーカー大佐がテネシー州自体をドル箱とは捉えておらんかったのか? ノックスビルのライブは「ツアー・カムバック後初のテネシー州凱旋ライブ!」とまでは報じられなかったものの、前日のライブ地オハイオ州デイトンから飛行機でノックスビル・マクギー・タイソン空港にやって来たエルヴィスは想定外の女性から歓迎を受けた! 上写真中央、左写真でエルヴィスの襟にバッヂか何かを付けておるような仕草をしておる女性は、当時のノックスビル市長の奥様ジャネット・テスターマンさん。 丁度この時期、ノックスビルは「ハナミズキ・アートフェスティバル」の開催期間中であり、エルヴィスのライブを市ではフェスティバルのメインイベントとして宣伝しておったようで、市長の奥様が直々にキングを出迎えたようじゃ。 (※白とピンクのハナミズキは、テネシー州では日本の桜のような存在であり、特にノックスビルのハナミズキは美しいと評判らしい。このフェスは60年代から現在まで毎年開催されておる。) エルヴィス到着の模様を振り返った地元のネットニュースを見付けたが、エルヴィスの警戒態勢は厳重であり、新聞記者やカメラマンですら飛行機を降りたエルヴィスに近づくことは容易ではなかったそうじゃ。上写真右側(左端)に写っておるパーカー大佐の不機嫌そうな顔がそれを物語っておる。地元のファンクラブの会長だった女性も、手作りのプレゼント持参で空港に駆け付けたが、エルヴィスに近づくことすら許されなかったそうじゃ。しかしさすがに、市長の奥様だけは特別扱いだったのじゃろうな。奥様の歓迎を受けた後、エルヴィスは車に押し込まれて、宿泊予定のホテルであるシェラトン・キャンパス・インへ向かった。 ィスは70年代にノックスビルで3回ライブを行っておるが、マクギー・タイソン空港が利用された証拠写真は1972年4月8日以外は残ってはおらん。恐らく写真の一部は悪名高きパパラッチの撮影じゃろうが、ノックスビルのエルヴィスファンにとっては貴重なはずじゃ!右写真左側は1950年代当時の撮影。右側はGoogle-mapの空撮。 |
![]() テネシー州では1961年2月25日メンフィスのエリス・オーディトリアム以来約11年ぶり、メンフィス以外のテネシー州の都市では1955年9月21日キングスポートのシティ・オーディトリアム以来16年半ぶりとなる、1972年4月8日にノックスビルのストークリー・アスレチック・センター(左写真)にて昼夜2回エルヴィスのライブが開催された。(昼はホワイト、夜はブルーのジャンプスーツ・スタイル) EDDによると、当時ラスヴェガスのステージがメインとなった新しいライブアルバム用の録音が各会場で行われておったが、ストークリー・アスレチック・センターは音響効果が悪く、録音機器を司る電源システムの故障も頻発して、どうやらライブ録音は頓挫したそうじゃ。 ライブレポートをチェックしてみると、機器類の故障がステージ上のエルヴィスにも伝えられたようで、エルヴィスは何度か「会場の機材が〇〇しちゃって~」とジョーク紛いのMCを飛ばしておったそうじゃ。 また某サイトには、エルヴィスのライブに限らず、当時の大型ライブ会場では同様のアクシデントは茶飯事であり、さしものキング・オブ・ロックンロールを擁する天下のRCAでさえ、この事態はなかなか改善出来なかったと同情的に記しておる。当時のライブアルバムの大半が後ほどスタジオで大幅修正されていたのも致し方ない時代だったのじゃ。 ただしEDDは興味深い記述も追記しておる。この会場でのライブ録音の失敗がパーカー大佐に「マジソン・スクエア・ガーデンのライブを丸ごとアルバムにしてしまえ!」というインスピレーションを与えたとしておる。ライブ・レコーディングの繋ぎ合わせ作業にかかる労力と費用にうんざりしていたのか!? ライブ録音は成功しなかったものの、ライブ自体は概ね好評だったようじゃ。以下、ライブレポートの抜粋じゃ。 ![]() 「エルヴィスは今でも良いショーを披露しているが、初期のような継続的な旋回運動は今では時折のけいれんに変わり、骨盤を脱臼しようとする努力というよりも空手の動きに似ている」。 「ラヴ・ミー・テンダー、ハウ・グレート・トゥー・アート、そして現在物議を醸しているディクシーなどの曲を「戦いの讃歌」としてメドレーで演奏して好評を博しており、彼の声は明らかにこれまでと同じように黄金色でしなやかだった。彼は聖書のような音楽の導入に続いてステージに登場した。 ライブ開始から会場のサウンドシステムの問題がいくつかあったにもかかわらず、エルヴィスはそれを観客に冗談めかして語ったが、それでも女性ファンの琴線に応えるパフォーマンスの仕方を知っていた。さすがはキングである。 なお、1974年3月14日、1977年5月20日にもノックスビル・ストークリー・アスレチックセンターでライブが行われておる、後者はエルヴィスの生前最後のテネシー州でのライブとなった。(右写真、下写真は1974年のライブ)
![]() なお未発表の映像も含めて、上記マクギー・タイソン空港やストークリー・アスレチック・センターにおけるエルヴィスの映像は、断片的にいくつかのプロモーションビデオに挿入されておることもwikipediaに記述されておる。 |
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