NANATETSU ROCK FIREBALL COLUMN Vol.472


第91回 エルヴィスゆかりの地~テネシー州2025年中編

アップロード:2025年12月9日
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2025年の年末も「バーチャル~」はテネシー州周遊じゃ。“バーチャル”とはいえ、もう4年あまりもアメリカ全土を飛び回っておるので、テネシー州へ戻ってくると何だかホッとするな。ということで、今回はエルヴィスが余暇で利用した場所へご案内するぞ。ついでにちょっくらメンフィス郊外に出かけてみたりもしておる。無邪気なエルヴィス、スポーティーなエルヴィス、ガールフレンド想いのエルヴィス等、オフステージでのキングの素顔にあらためて触れてみよう!

【目次】バーチャル・ロックンロールツアー エルヴィスゆかりの地
    第91回 テネシー州2025年中編

 ・Area No.は2021年度編からのテネシー州メンフィス内の番号。またはテネシー州メンフィス、ナッシュビル以外の番号。
 ・Serial No.は「バーチャル・ロックンロールツアー」第1回からの通し番号です。

 【メンフィス、ナッシュビル以外の地域】
 Area No. 2/Serial No.643 シティ・オーディトリアム/パリス
 Area No. 3/Serial No.644 ラフィン・シアター/コヴィトン

 【メンフィス】
 Area No.62/Serial No.645  デイブ・ウェルズ・コミュニティー・センター
 Area No.63/Serial No.646 プリマス・カーディーラー跡地
 Area No.64/Serial No.647 ベルビュー・ドライブ・イン跡地
 Area No.65/Serial No.648  レインボウ・ローラー・ドローム跡地

 Area No.66/Serial No.649  メフィアン・シアター


【バーチャル・ロックンロール・ツアーのバックナンバー】

★ 本文中の表記について ★

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SMW=スコッティ・ムーアのウェブサイト
EDD=「Elvis Day By Day」 エルヴィス・デイリー記録集
EPC=エルヴィス・プレスリー・イン・コンサート(ウェブサイト)
HAC=ヒストリック・アエリアルス(アメリカの空撮サイト)


【メンフィス、ナッシュビル以外のテネシー州】
僭越ながら、この場所を探しておる方、見付けましたぞ!
Area No.2/Serial No.643 シティ・オーディトリアム跡地/パリス
 「バーチャル~テネシー州2025年中編」は、メンフィスの郊外にある2つのエルヴィスゆかりの地から先にご案内しよう。
 メンフィス中心地から北東に向かって79号線を約200キロ移動した所にパリスという街がある。パリスにはメンフィスと同じくポプラー アベニューという名前のストリートがあり、エルヴィスはストリート沿いにあったシティ・オーディトリアムにおいて、デビュー間もない1955年3月9日にライブを行った。(左写真参照)
 実は1955年3月7日から3月9日までの3日間のエルヴィスのライブ記録は未だに不鮮明なのじゃが、新聞広告が発見されておるので、3月9日は会場のブッキングは間違いなくされておった。

 最近になってから実際にシティ・オーディトリアムでライブを観て、エルヴィスからサインももらったと証言する女性の動画がネットにアップされておった。(右写真はサインをもらったプロマイド)またパリスのタウン・ネットの類でも「エルヴィスは来た!」説を強調しており、やはりライブ体験者の証言を掲載するようになった。
 どうやら1955年3月9日時点ではエルヴィスはパリスでは無名に近かったようで、当日は街のビューティーコンテストやらなんやら色んなイベントが合体したフェスティバルがシティ・オーディトリアムで開催されたという。
 エルヴィスがステージに登場した時、会場のお客はエルヴィスの服装に対して「変な服を着ているわ!」って笑い出す者も多かったそうじゃが、ライブが終了すると女の子たちは一斉にサインを求めてエルヴィスへ群がったそうな! 
 
 数多ある私設エルヴィス・サイトは「1955年.3月9日テネシー州パリスでライブ」と記載しておるものの、シティ・オーディトリアムの住所が明記されたサイトはひとつもない。今では稼働することなく空き家状態になっておるオーディトリアムを訪ねた2つの英字ブログでも、現状写真は掲載してあるものの住所の表記は無し。この会場が紹介されたFacebookにも「何処なの?」「場所を教えて!」というコメントがあったので、わしはパリスの街をストリートビューで闇雲に探索しまくった(笑)
 そして約3時間もの格闘の末に運よく見付けることが出来ましたぞ!それがポプラーアベニュー沿いに建物だけは現存しておる右写真じゃ。(ストリートビュー2022年11月撮影)エルヴィスが登場した頃とほとんど変わっていない外装であり、近年リノベーションされたと思われる。しかし現時点では建物の用途はGoogle-mapに登録されておらん。各箇所拡大表示してみても使用されておる形跡は無い。


【メンフィス、ナッシュビル以外のテネシー州】
会場のオーナーはYou're a Heartbreaker”の作曲者!
Area No.3/Serial No.644 ラフィン・シアター/コヴィントン
 上記パリスのライブ会場のお次は、9日後の1955年3月16日にライブが行われた会場であり、メンフィス中心地から51号線を約60キロ北東に向かって走ると到達するコヴィントンという街の映画館、ラフィン・シアターじゃ。(左写真)
 こちらは映画館なので存在自体が明らかであり、“オールド・ムービー・シアター”を紹介するサイトに、1905年に開場されたことや、1936年火災で全焼し、その後に復旧されたことなど詳しい歴史が掲載されており、エルヴィスの出演記録もアピールされておる。当時の座席数は640席だったそうな。ただし、古い写真はネットにアップされていない。左写真もカラーなので1980~90年代の撮影と思われる。
 
 ライブに関する情報はやはりまったく入手出来なかったが、思わぬ関連情報が!当時のラフィン・シアターのオーナーだったジャック・サリーは“You're a Heartbreaker”(シングルMilk Cow Blues BoogieeのB面曲)の作曲者だったのじゃ。(下のシングル盤ラベル写真のクレジット参照)ジャック氏はエルヴィスが登場するステージを地元のラジオ局に「オープリーの短縮版のようなイベント」として紹介したという。(何もエルヴィスがコケにされたオープリーじゃなくてもいいではないか!ヘイライドとは言えんかったのか!?)
 またラジオ内で「今年中にティプトン・カウンティ・フェアにエルヴィスは登場するかもしれない(有望株だ!)」ともPRされたそうじゃ。ティプトン・カウンティ・フェアとはアメリカ南部各州で行われる大々的なフェスティバルのひとつであり、それがコヴィントン周辺で行われる予定だったのかもしれない。

 ラフィン・シアターは1970年代から経営状態が芳しくなく、オーナーが何度も変わりながら、閉鎖と再開を繰り返したものの、現在でも稼働中である。(下写真左側ストリートビュー2022年3月撮影)

 ワシントンポスト紙のネットコラムに、世界的に有名なエルヴィス研究家であるエルンスト・ヨルゲンセン氏が21世紀の初めに
ラフィン・シアターを訪れた時のコメントが記載されておる。「エルヴィスが今出て来ても不思議ではないほど、館内の装飾はオリジナルで綺麗に管理されている」と書かれてあるぞ!


 キングのエキサイティングな休日
 Area No.62/Serial No.645 デイブ・ウェルズ・コミュニティー・センター


 フットボールに興じる数々のスポーティなエルヴィスのショット!1956年12月27日、デイブ・ウェルズ・コミュニティー・センターという総合スポーツ施設内のグランドでのシーンじゃ。集められたメンバーは何処の何方なのか知りたかったが、ネット上では“Elvis's friend”としか紹介されておらず、判明したのはレッド・ウェストのみ。まあいいか!(笑)
 エルヴィスのためにこのフットボール・ゲームが企画されたのは想像に難くなく、この日数百人の観衆がグラウンドに集まったとされておる。写真はどう見てもプロ・ショットなので、恐らくパーカー大佐が当日手配したのじゃろう。エルヴィスを「スポーツを愛する健全なアメリカ青年」として世間にアピールし、世の男性陣にも好感を持たせようという算段だったのじゃろうな。だとしたら、大佐ってのはホントに“アタマのまわる”(悪賢い!?)マネージャーじゃな。

 この時期、エルヴィスは約三ヶ月のバカンス中であり、スーパースターの座に駆け上がってからは初めての長期バカンスじゃ。キング・オブ・ロックンロールの面影はなく、夢中になってボールを投げ、走り、相手チームに体当たりしているエルヴィスは清々しい限りじゃ。大佐はエルヴィスが怪我をすることを心配しておったらしいが、夕暮れの時間まで目一杯プレーしたエルヴィスは僅かな打撲と擦り傷だけで済んだとのことじゃ!


 このキングのフットボールゲーム企画、ネット上ではアップ写真の多さと反対に、企画の詳細がさっぱり紹介されておらん。事前告知があったのか。公式な催しなのか。集まった観客は“無料鑑賞だったのか。プレー写真の背景を見ると「スターたちの運動会」的催しでは無さそうじゃ。まあ事前告知なんかしていたら女の子たちが集まり過ぎて、エルヴィスはプレーどころではなかったじゃろう。

 デイブ・ウェル・コミュニーティー・センターは現在まで存続しており、公式のウェブサイトも開設されておるが、「かつてエルヴィスが~」といった記載はまったく見当たらず。エルヴィスと何らかの関わりのあった会場や施設としては異例
じゃ。
 現在
デイブ・ウェル・コミュニーティー・センターの周囲には複数のグラウンド(もしくは広場)があり、エルヴィスが何処でプレーしたのかは不明じゃ。右写真は、コミュニティーセンター本館の東側に広がるグラウンド。ストリートビュー2023年1月撮影。


アニタ・ウッドちゃんと、惜別プレゼント購入デート!
 Area No.63/Serial No.646 プリマス・カーディーラー跡地

 左写真上段2枚は、1958年3月19日夜、エルヴィスがアニタ・ウッド嬢同伴でメンフィスのカーディーラーを訪れた時の写真じゃ。
 EDDには、2日後の3月21日にアニタ嬢のために軍隊入隊前の惜別プレゼントとして「フォード1956」を購入したと記されておる。さては写真の場所はフォードのカーディーラーか?でも左写真左側、エルヴィスの背後のウインドウにはPLYMOUTH(プリマス)のロゴが見える。
 プリマスはクライスラー社のブランドなので、フォードとは別物じゃ。どうやらこの日アニタ嬢へのプレゼント・カーを購入することなく、ただ見に来ただけで2人してディーラーをあとにしたと思われる。(どうでもいいことじゃが、アニタ嬢はちっちゃくて可愛いのお。エルヴィスは彼女のことを“littleちゃん”と呼んでおったそうな~笑)

 チョイト調べてみたところ、1958年当時メンフィスにプリマスのカーディーラーは確かに存在しており、50年代のディーラーショップの写真(左写真下段)や住所が判明した。
 ショップの写真は遠目からの撮影であり、エルヴィスとアニタ嬢の背後のウインドウ写真と照合しても同一なのかどうかは判明しないが、当時メンフィスにプリマスのカーディーラーは他に存在していた記録はネット上では見当たらなかったので上段、下段の写真は同一の場所とした次第じゃ。

 ネット情報によると、50年代のメンフィスのプリマス・カーディーラーはユニオン・アヴェニューがベルビュー・アベニューと交差する場所にあったそうな。サンスタジオ前からユニオン・アベニューを真東に1.6キロ移動した地点。
 ただし交差点のどの方向にプリマス・カーディーラーがあったのかは不明。右写真はストリートビュー2023年8月撮影の交差点四方の様子じゃ。


入隊前の最後の夜を過ごした映画館
Area No.64/Serial No.647 ベルビュー・ドライブイン・シアター跡地
 1958年3月24日から陸軍に入隊することになっていたエルヴィスは、スケート場のレインボウ・ローラー・ドローム(下記No.648参照)を一週間借り切ってガールフレンドだったアニタ・ウッド嬢や友人たちと遊び、3月23日の最後の夜はスケート場へ行く前に映画鑑賞をしたとされておる。(EDDより)その鑑賞場所がベルビュー・ドライブ・イン・シアターだったという説が強い。(EDDには上映場所の記載は無し)

 ドライブイン形式の映画館は1930年代後半に出現してからは全米で爆発的なブームを呼び、一時期テネシー州内で約100、50年代のメンフィスにも6つのドライブイン・シアターがあった。映画が“庶民の娯楽の王様”だった時期特有の現象であり、エルヴィスもデビュー前からあちこちの映画館やドライブインを訪れていた記録が残っておるが、入隊前夜に訪れたという事実が以降のベルビュー・ドライブ・インの評判に箔をつけていたことは間違いない!またベルビュー・ドライブインは1955年にマルコ・シアター(エルヴィスが駐禁の切符を切られた映画館で有名)所有になっておった経緯もある。
  3月23日にエルヴィスが観た映画はトミー・サンズ主演のロックンローラーの栄枯必衰を描いた「Sing Boy Sing」だったという。この映画は前年にTV放送された「The Singing Idol」というドラマの映画版であり、モデルはエルヴィスだった。
 トミー・サンズは元々パーカー大佐が発掘したアイドル・シンガーであり、1954~55年のエルヴィスのローカル・ツアーにも時々参加しておった。この映画の主役にトミー・サンズを強く推薦したのもパーカー大佐だったらしい。
 映画「Sing Boy Sing」はアメリカではさほどヒットしなかったらしいが、トミー・サンズの演技は好評を博し、以降の俳優仕事のギャラが3倍に跳ね上がった!
 それにしても軍役期間中に人気が落ちてしまうことを懸念していたエルヴィスは、よりによって入隊前夜に“ロックンローラの栄枯必衰”なんて映画を観てしまって心情はいかがなものだったんじゃろうか?

 1970年代後半から80年代にはドライブ・イン・シアターの人気は一気に下火となり、アメリカ全土で約1,000のシアターが閉鎖に追い込まれた。原因は映画ブームの衰退だけではなく、元々“光害”問題を避けるために街の郊外に建てられていたものの、街が拡大化していくにつれて土地代が高騰していったことが経営を圧迫したという向きが多い。
 ベルビュー・パークも1984年に閉鎖。建物は完全に取り壊され、現在は使途不明の建物が野晒しにされた広場になっておる。バプテスト教会のマークは入口に刻まれておるが、稼働しておる様子はない。(廃墟?)グレイスランドからElvis Presley Blvdを丁度3キロ北上した周囲にある。上写真ストリートビュー2023年1月撮影。


 エルヴィスが幾度も貸切状態にして楽しんだローラースケート場
 Area No.65/Serial No.648 レインボウ・ローラー・ドローム跡地


 レインボウ・ローラースケート・ドロームは、メンフィス移住後のエルヴィスにとって何かと縁の深いラマー・アベニューに存在した複合エンターテイメント施設の敷地内にあったローラースケート場じゃ。その他にもプールや室内娯楽場、地元民が“南部で最高のレストラン”と評していた「テラスルーム」等があった。
 上写真3枚は、1960年3月19日、軍隊除隊直後にメンフィスに帰ってきたエルヴィスが深夜貸切り状態にして仲間たちと楽しんだ時のショットじゃ。GIカットからまだ髪の毛がエルヴィスらしく伸び切っていないヘアスタイルもなかなか(笑)また除隊直後だっただけにエルヴィスはロックンロール・スターというよりも、国家重要任務に就いていた人物らしい凛々しい面構えじゃな!
 上写真左側のカワイイ女の子は、当時14歳のエリザベス・モス・ウルバートンちゃん。このお嬢ちゃんの素性が分からなかったが、アメリカの2022年物故者リスト・サイトの中に彼女の名前があってびっくり!サイトの中でエリザベスちゃんは“キング・エルヴィスの有名な知人”とされており、“ママ・リズ”の愛称で周囲の人々に親しまれながら長らくメンフィスの病院や企業に務めておったという。生涯エルヴィス・ファンを自認しておった彼女は、2022年に76歳で亡くなったんだそうじゃ。成人されてからも大変にチャーミングな方だったようじゃ。(左写真参照~笑)

 エルヴィスとこのローラースケート場の関わりは深く、EDDによると、1953年1月30日に最初のガール・フレンドだったディクシー・ロック嬢と初めてデートした場所だった。その為か、エルヴィス関連サイトの一部は、エリザベスちゃんの写真をディクシー嬢としておるが、これは誤りであります。(1960年にはエルヴィスとディクシー嬢はとっくに別れております)
 ローラースケートを楽しんだ翌日1960年3月20日、エルヴィス、スコッティ、DJはレコーディングのためにバスをチャーしてナッシュビルのRCAスタジオに向かった。(ビルは自身バンド活動のために不参加)早くも本職の向けて再スタートを切ったのじゃ。

 なお、1956年3月24日に軍陸軍入隊のためにエルヴィスはメンフィスのケネディ記念病院へ出向き身体検査を受けてから軍役に就くことになるが(「バーチャル~2022年バックイン・テネシー編Area No.34参照)、EDDによると、その一週間前からぶっ通しで閉館後の時間帯にこのローラースケート場を貸切り状態にして友人たちと遊んでおった。下写真左側がローラースケート場入口。下写真右側は、レストランのテラス・ルーム入口。


 メンフィスの歴史的施設を紹介するサイトにおいては、レインボウは大変に繁盛したものの、何故だか徐々に客層が悪くなり、客同士の喧嘩、窃盗、火事等のトラブルが続いたと記述されておる。オーナーはリゾートホテルに改造計画を立てて経営の建て直しを目論んだものの実現せず、1960年代にはメンフィスのAFL-CIOという建築協会に売却された。建築協会は娯楽施設を会議場に改造するなど建物の再利用経営を進めていたものの、その後大火災等で破産となり、1980年代には建物全てが取り壊しになった。跡地はショッピングセンターになっておる。右写真ストリートビュー2019年7月撮影。


 メンフィスには“エルヴィス専用”の映画館もあった!
Area No.66/Serial No.649 メフィアン・シアター
 上記レインボウ・ローラードロームが1960年頃までエルヴィスが貸切状態で遊んでいた場所だったことに対して、それ以降はこちらのメフィアン・シアターという映画館が頻繁に貸切で利用されておった。ネットにアップされておるもっとも古い証明写真が上のモノクロ写真。1962年頃の撮影らしい。
 メフィアン・シアターは1928年にアメリカン・シアターとしてメンフィスにオープンし、翌1929年にマルコ・シアター(例のエルヴィスが駐禁切符を切られた映画館の前身?)となり、やがてマルコシアター時代に働いていた使用人のケモンズ・ウィルソンなる人物がオーナーになってメフィアン・シアターとなった経緯がある。

 エルヴィスは1970年代まで長きにわたってこのメフィアン・シアターを貸切り利用しており、時には噂を聞きつけて集まってきたファンを劇場の中に招き入れて小パーティを行ったりしていたという。70年代の一時期ガールフレンドだったリンダ・トンプソンともメフィアン・シアターで知り合ったという説もある!

 左写真左側はマルコシアター時代の貴重な写真。
 左写真中央はオーナーのケモンズ氏と彼が導入して大人気スナックとなったポップコーンのマシーン。ケモンズ氏は使用人時代に当時50ドルで自腹購入したこのマシーンでポップコーンの劇場内販売を始めたところ、売上額はあっという間に劇場のチケット売上額を越えてしまい、劇場側からポップコーン販売権利を横取りされそうになったことが劇場の所有権を買収するきっかけになったというからオモシロイ!ってエルヴィスとは関係ないハナシじゃがな(笑)
 上写真右側はメフィアン・シアターでエルヴィス映画第一弾「やさしく愛して」が上映された際の新聞の広告。上映当時はまだエルヴィスはメフィアン・シアターには来ていなかったらしい!

 下写真3枚は、メフィアン・シアターでのファンたちとの写真。同劇場での同じようなショットは他にも多数ネットで公開されておる。プライベート・タイムでは、決まった場所で決まった仲間と引き籠る事が多かったとされるエルヴィスだが、貸切劇場にファンを招き入れて交流していたとは意外、いやいやファンを大切にしていたエルヴィスらしいと言うべきであろう。


 メフィアン・シアターは1980年代中期に一度閉鎖されたものの、90年代に新しいオーナーによって「ザ・サーキット・プレイハウス」の名で再オープン。現在では児童演劇も催される劇場になっておる。
 右写真はストリートビュー2023年7月撮影。現状写真をチェックすると、正面入り口左側のポスターをディスプレイする2つのケースと、その中間のガラスブロックは、エルヴィスが写っている最上部写真2枚(左側と中央写真)と見比べるとほとんど変わっていないことが分かる!館内にはエルヴィスが座っていたシートも指定保存されておるという。決して有名でも大資本下でもないが、メンフィスの中では、昔ながらの良質な“街映画館”として、静かに、そして確かに存在し続けておる。

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