NANATETSU ROCK FIREBALL COLUMN Vol.471


第90回 エルヴィスゆかりの地~テネシー州メンフィス2025年前編

アップロード:2025年11月23日
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2025年も残り二ヶ月弱。昨年に続き年末はエルヴィスの故郷テネシー州メンフィスに戻ることにする!今回は少年時代、無名時代のエルヴィスが関りを持った場所が多いぞ。この類の情報はマニア間では知れ渡っておるものが少なくないが、いざ洗い出してみると情報が錯綜しており、場所の特定が難しい場合が多くて調査に苦労したわい!たくさんのエルヴィス・マニアが“エルヴィスとメンフィス”というテーマで調べてネット上で発表するのは結構じゃが、まあ精度が低いことこの上ない(笑)それでもわしの調査の基盤にはなり、この度わしなりに精一杯正確を期したのでどうかお付き合い頂きたい!

【目次】バーチャル・ロックンロールツアー エルヴィスゆかりの地
    第90回 テネシー州メンフィス2025年前編

 ・Area No.は2021年度編からのテネシー州内の番号
 ・Serial No.は「バーチャル・ロックンロールツアー」第1回からの通し番号です。

 Area No.55/Serial No.636 オールド・アセンブリー・オブ・ゴッド・チャーチ
 Area No.56/Serial No.637 オッド・フェローズ・ホール跡地 
 Area No.57/Serial No.638  クラブ・ハンディ跡地

 
 Area No.58/Serial No.639 ハイハット・ディナークラブ跡地
 Area No.59/Serial No.640 ボブ・ニール・オフィス/レコードショップ跡地
 Area No.60/Serial No.641  リバティランド
                     (旧フェアグランド・アミューズメント・パーク)跡地
 Area No.61/Serial No.642  グリディロン・レストラン
 

【バーチャル・ロックンロール・ツアーのバックナンバー】

★ 本文中の表記について ★

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SMW=スコッティ・ムーアのウェブサイト
EDD=「Elvis Day By Day」 エルヴィス・デイリー記録集
EPC=エルヴィス・プレスリー・イン・コンサート(ウェブサイト)
HAC=ヒストリック・アエリアルス(アメリカの空撮サイト)


エルヴィス一家メンフィス移住後、最初の魂の拠り所
 Area No.55/Serial No.636 オールド・アセンブリー・オブ・ゴッド・チャーチ
 ゴスペルの名唱が数多く残されておるエルヴィスだけに、トゥペロやメンフィスで過ごした少年時代における教会との関わりが数多く指摘されてきた。「バーチャル~テネシー州2024年前編」では、“例の”「危機が迫ったら歌え!」との薫陶を受けた(と思われる)イースト・トリッグ・バプテスト・チャーチ(Area No.47)をご案内したが、エルヴィスがメンフィス移住後もっとも早くから通っていた教会が、こちらオールド・アッセンブリー・オブ・ゴッド・チャーチじゃ。
 イースト・トリッグスは黒人用の教会であったことに対して、アセンブリー・オブ・ゴッド・チャーチは当時は白人用の教会だったとも思われるが、現在閲覧出来る教会関連のウェブサイトにはその点は明記はされていない。(しかしネットにアップされているわずかな教会関係者の集合写真は白人ばかり)メンフィス全体がまだまだ発展途上の街であり、殆どの住人が貧しい生活を強いられていた時代であり、白人用の教会とはいえ、その存在は単に住人たちの礼拝の場だけではなく、彼らが支え合って生活するための集会場の役割を果たしておった。
 また来場者のために優れた音楽プログラムも用意されており、アセンブリー・オブ・ゴッド・チャーチにはジェームス・ハミルトンという後にTVの音楽番組の監督を務めあげた代表者であり牧師だった人物がおった。ここでの音楽体験もまた、後にキング・オブ・ロックンロールとなる少年に多大な影響を与えておったのじゃ。

 エルヴィスがメンフィス時代の至極初期の頃に通っていた教会だけに、エルヴィス関連サイトでもスルーされがちな教会のようじゃが、よくよく調べてみると注目すべきエピソードが残されておる。エルヴィスお気に入りのゴスペル・グループ、ブラックウッド・ブラザーズのセシル・ブラックウッドと日曜日毎の礼拝で出会うことになったことじゃ。また後にエルヴィスの最初のガールフレンドとなるディクシー・ロック嬢と出会ったのもこの教会じゃった。彼女との初デートの際も2人はまずここを訪れており(真面目な学生ちゃんですなあ~笑)、教会での礼拝後にディクシーの実家に挨拶に行ったエルヴィスは、ディクシーのお父さんから「君、髪を切ってきたらどうだい?」と散髪代を渡されそうになったそうじゃ。それはディクシーの父親からエルヴィスへの純然たる厚意だったとのこと(笑)ディクシー嬢は後に教会で秘書の仕事に就いたとも言われておる。

 この教会は1948年に別の場所からメンフィス・マクルモア・アヴェニューに移転してきた。エルヴィス一家がトゥペロからメンフィスへ移転してくる僅か1年前じゃ。エルヴィスとの関わりが運命づけられていたような教会でもあり、現在でも同じ場所で現役の教会として地元民に利用され続けておる。メンフィスでちょっとマニアックなエルヴィス巡りをしてみたいファンならば足を運んでおくべき教会じゃ。右写真ストリートビュー2023年6月撮影。


エルヴィスに先立つこと100年、音楽の伝説が起こったコンサート会場
 Area No.56/Serial No.637 オッド・フェロー・ホール跡地

 「バーチャル~」ではこれまで数多くの全米のライブ会場へご案内してきたが、その中でもっとも古い時期に開場し、今や幻の会場と化しておるのが、このオッド・フェロー・ホールじゃ。この会場の全盛期は19世紀(1800年代)後半なのじゃ。
 もっともエルヴィスがライブ出演した記録はなく、メンフィス移住後のエルヴィス少年が知人の紹介でほんの一時期だけアルバイトでコンサート・ホールの後片付けをしておったという記述がネット上にアップされておる。
 エルヴィスがこの会場でのアルバイトを希望したのは、ゴスペルグループやカントリーバンドが数多く出演しておったことじゃった。そしてエルヴィスは後にサポートメンバーとして大活躍してくれることになるビル・ブラックの演奏を生で初めて聞いたのが、この会場だったとされておる。これはビルがスコッティとスターライト・ラングラーズで活動をともにする以前のハナシであるようで、恐らく1951~1952年と思われる。

 エルヴィスとこの会場とは、上述したほんの少しの関わりしか発見しておらんが、会場の歴史を辿ってみると驚くべき音楽の伝説が隠されておった!1851年3月13日のオープニング・イベントに招聘されたのは、当時世界最高のオペラ歌手としてその名が轟いておったスゥエーデン人のジェニー・リンド。コンサートチケットの価格は何と5ドル!1851年当時の5ドルは、今なら200ドル以上であ~る。にもかかわらず、僅か数時間でチケット約1,000枚は完売!(右写真、左側がジェニー・リンド。右側がメンフィスでのコンサートチケット)
 当時ワールドツアー続行中で超多忙だったジェニー・リンドは前日のコンサート地だったニューオリンズから船でメンフィスに到着し、コンサートではわずか5曲しか歌わず、その後次の公演地セント・ルイスへ。メンフィス滞在は僅か数時間だったという!
 ジェニー・リンドは後にハードスケジュールを強制し続けるマネージャーと袂を分かつことなるが、エルヴィスと同じような境遇だったんじゃな!キング・オブ・ロックンロールが現れる100年前にも、キング同様のシンガーがいて、キング同様の伝説を創っておったのじゃ。

 なお、世界中のライブ会場の歴代ライブ記録と演奏曲目を掲載しておるthe setlist.wikiに、今から170年以上も前のジェニー・リンドのメンフィス公演記録が掲載されておってビックリ!

 1851年にオープンしたこの会場は、一部のサイトではホールを擁するビル(オッド・フェロー・ビル)が解体された1924年に消滅したような記述がされておるが、新しく建設されたビルの中にオッド・フェロー・ホールはそっくり移設されてコンサート会場として稼働し続けておったようじゃ。新設されたビルの解体時期、ホールの閉鎖時期は不明。現在跡地には、コート・スクエア・アパートメントが建てられておる。右写真ストリートビュー2023年6月撮影。


 デビュー半年前、奇妙なパフォーマンスに観客が酔いしれた伝説のクラブ
Area No.57/Serial No.638 クラブ・ハンディ跡地
 早いもので、映画「エルヴィス」の公開から3年以上もの月日が経過したが、公開以前よりわしが注目しておったポイントのひとつは、サンレコードから正式にデビューする前のエルヴィスが顔を出していたメンフィスのクラブがどの程度描き出されておるかというトコじゃった。
 わしの期待に応えて映画の中で登場してくれたのが「クラブ・ハンディ」じゃった!若きエルヴィスとBBキングが交流し、リトル・リチャードが熱いパフォーマンスを披露するシーンに活用されておったナイトクラブじゃ!
 クラブ・ハンディは元々「ドミノ・ラウンジ」と称して、1946年ビール・ストリートとヘルナンド・ストリートの交差点南西側のビルにオープンした。1階がパンタゼ・ドラッグ・ストア、2階がクラブ・ハンディ、3階がミッチェル・ホテル。Wikipediaによると、2階と3階はいずれもサンビーム・ミッチェルという人物がオーナーであり、当初ドミノ・ラウンジは階上のミッチェル・ホテルの宿泊客用のラウンジじゃった。そしてミッチェル氏は1958年に亡くなった黒人の作曲家WCハンディにちなんで「ドミノ・ラウンジ」を「クラブ・ハンディ」に改名したという。
 映画「エルヴィス」の中で、エルヴィスはデビュー前とデビュー後にクラブハンディを訪ねるシーンがあり、いずれも「クラブハンディ」の名前で撮影セットが造られており、Wikipediaの解説が正しいとすればデビュー前のシーンにおいては撮影セットは重大なミスをしておることになる。まあこの点に関しては「ドミノ・ラウンジ」よりも「クラブハンディ」の方が名が通っておるからあえて正確を期さなかっただけのオハナシじゃろうな(笑) 下写真3枚は映画の中に登場するクラブ・ハンディ(映像の静止画)。上写真2枚と見比べてみると、外装だけではなく、ステージ後方の壁画まで当時の雰囲気が実によく再現されておることが分かる!あえて難点を探すとすれば、リトル・リチャード役の男優さんの“顔がデカクない”ことじゃな!(笑)
 

 エルヴィスがデビュー前にふらりと遊びに行ったり、出演バンドに飛び入りしておったメンフィスのクラブは相当数にのぼるといわれておるが、エルヴィスが訪ねた時の具体的なエピソード等の記録はネット上で一切見つからなかったが、この度クラブ・ハンディにおいてエルヴィスがバンドに参加した時の模様が、エルヴィスのファッションまで含めて実に克明に記されておるサイトを見付けた!
 時は1954年1月の寒い夜。エルヴィスはバンドリーダーから「サム・フィリップスのサンレコードで働いているエルヴィス・プレスリー君に歌ってもらいましょう!」と紹介されて「ミルクカウ・ブルース・ブギ」を歌い始めたというが、そんな事実よりも、驚くべき事実の記述はその後!
 バンドが紡ぎ出すリズムとエルヴィスの歌のリズムが明らかにズレていたという。それでもエルヴィスは構わず歌い続け、やがて観客はバンドではなくてエルヴィスのリズムに合わせて身体をシェイクしていたというのじゃ。読んでいて背筋がゾクッとしたわい!新しいリズム、新しい音楽、新しいスターが誕生する時代がすぐそこまで来ている事を象徴するようなシーンではないか!スゴイぞ、エルヴィス君!!このエピソードが掲載されたサイトは“エルヴィス・プレスリー・エンタープライズ正式認可”と銘打たれているだけに真実なのであろう!リトル・リチャードのパフォーマンスも悪くなかったが、この時の再現シーンも映画の中に挿入してほしかったなあ。でもさすがのオースチン・バトラー殿も、「そんな芸当までは俺には出来ないよ」ってバズ・ラーマン監督に訴えたのかもしれんな!

 クラブ・ハンディが正式にいつ頃まで営業されていたかは定かではない。1970年撮影とされる建物全体の写真をネットで拾ったものの、その写真にはお店の看板は写っておらんかった。
 また所在地(住所)については、大概の紹介サイトではヘルナンド・ストリート195番地とされておるが、これはクラブが存在していた当時の旧住所であり、周辺の土地再開発がされた後の現住所はビール・ストリート209番地に該当する。クラブハンディやミッチェル・ホテルがあったビルは現存しており、現在はWet Williesというレストランが1,2階を使用しておる模様。右写真ストリートビュー2019年7月撮影。
 紛らわしいことは、Wet Williesの対角線上、北東わずか45メートルの位置にクラブ・ハンディを名乗るミュージック・バーがあることじゃ。オリジナルのクラブ・ハンディとは関係は無さそうじゃ。


デビュー前にも“君はトラック運転手に戻った方がいい”と言われていた!
Area No.58/Serial No.639 ハイハット・ディナークラブ跡地

 「クラブ・ハンディ」とともに、この度実体が多少判明した、エルヴィスがデビュー前に関わっていたナイトクラブをもうひとつご案内しよう。メンフィスの中心地から南へ10キロほど離れた街はずれにあった「ハイハット・ディナー・クラブ」じゃ。
 このクラブの詳細記録はネット上で乏しく、しかも名称が「ハイハット・クラブ」とされており、ミシシッピー州ハティスバーグにあった数多くの黒人ブルースマンたちが出演していた音楽史上有名な「ハイハット・クラブ」と情報が混濁しておるのが現状じゃ。ハティスバーグの跡地に設置されたヒストリカル・マーカー(歴史的建造物跡地標識)の写真を“場所:メンフィス”と表記しておるサイトもあるから非常に紛らわしいので、お間違えのないように。メンフィスの方の名称は「ハイハット・ディナー・クラブ」であり、ハティスバーグの「ハイハット・クラブ」との関係は不明じゃ。

 ハイハット・ディナー・クラブはエルヴィスにとって“ほろ苦い”思い出のあったクラブじゃ。1953年の某日、音楽愛好仲間だったロニー・スミスがエルヴィスにエディ・ボンドのバンド・オーディションを受けることを提案。エディ・ボンドは既にローカル・クラブで活動していたプロのロカビリー・ミュージシャンじゃった。ロニーはエディと知り合いだったという。そのオーディションの場所がハイハット・ディナー・クラブであった。(上写真左側がエディ・ボンド。右側がロニー・スミス。右下写真はクラブのプロモリフレット)

 当時のガールフレンドのディクシー・ロック嬢を連れてオーディションにやってきたエルヴィスは数曲を披露。しかしエディはまったく気に入らず、「君はトラック運転手をやっていた方がいいよ」と烙印を押してしまった。この台詞、翌年グランド・オール・オープリーに初出演して観客にドン引きされた際に会場のオーナーに皮肉られた有名な言葉と同じじゃ!
 エディ・ボンドは後にサンレコードと契約し、ほんの一時期エルヴィスと一緒にドサ周りツアーをやることになるものの、エルヴィスの様にビッグになることはなかった。
 ハイハット・ディナー・クラブでの一件に関してはエディは、「エルヴィスを不合格にしたのは俺じゃない。クラブのオーナーだよ」と語っていたらしいが、wikipediaには「エルヴィスをオーディションで落とした悪名高きロカビリーミュージシャン」と列記されちゃっておる。

 ハイハット・ディナー・クラブがいつ頃まで営業していたかは不明。一部のサイトには移転先が写真付きで明記されたおったが、名称が「ハイハット・カフェ」とされていて関係性は不明じゃ。
 下写真左側は、クラブの跡地写真として各サイトにアップされておるもの。SISCO TVというサインを掲げるTV修理業務店のあるビルにクラブが入っていたとされる。SISCOTVは現在まで存続しており、下写真中央がストリートビューが2023年6月に撮影した全容。なお、3年前にアメリカのyou tuberがロニー・スミスにインタビューをしており、ロニーの記憶によるとハイハット・ディナークラブが建っていた場所はSISCO TVから約180メートル北上した位置だったそうな。現在は空地になっておる(下写真右側)


二代目マネージャー、ボブ・ニールのオフィスとレコードショップ
Area No.59/Serial No.640 ボブ・ニール・オフィス/レコード・ショップ跡地
 「バーチャル~」スタート以来初のボブ・ニールゆかりの地じゃ!?1955年1月1日から正式にエルヴィスの2代目マネージャーとなったボブ・ニール。この方は元々メンフィスのローカル・ラジオ局のDJ兼プロモーターであり、パーカー大佐とはある意味で対照的な性格の持ち主。エルヴィスを歌の上手な一人の若者として可愛がり過ぎて、エルヴィスの途轍もなく大きな才能には気が付いていなかったと言われておる。プロモーターとしての才覚も“並み”だったとされ、当初は特別顧問だった大佐はいつもボブの仕事にイラつき、子分のトム・ディスキンに年中愚痴っていたというエピソードはネット資料でもよく目にしたもんじゃ(笑)

 ボブはエルヴィスとのマネージメント契約を1954年年末に果たし、翌年から業務をスタート。上写真左側は、ボブとエルヴィスとの契約を伝える地元新聞(メンフィス・プレス・シミター)の記事。さっそく、メンフィス・ピーボディ・ホテルの真正面のビルの一室にボブはマネージメント・オフィスを構えた。上写真中央はそのオフィスでのショットとされておる。(撮影は1955年6~7月頃)

 また上写真右側は、ボブとエルヴィスとの契約の事実を紹介するウェブサイト等に添付されることの多いサム・フィリップスも一緒の写真じゃが、1954年年末時の契約時の写真であれば、この時ボブはまだオフィスを開設しておらん。某サイトによると、撮影場所はこの写真撮影者の自宅とか(?!)いずれにせよ、この当時の写真としては非常に珍しく美麗にもかかわらず、少なくともネット上では撮影の詳細は未だに不明なのじゃ。

 パーカー大佐と比較するとスケールの小さいマネージメントしか出来なかったとされるボブ・ニールじゃが、1956年3月1日には自前のレコードショップもメンフィスでオープンさせ、ショップの開店記念イベントとしてエルヴィスのサイン会を催すなど、彼なりにエルヴィスを誠実にプロモートしておった。(レコード・ショップ開店時は既にエルヴィスとの契約は終了しておった)
 左写真は初代エルヴィス・ファン・クラブの会長ケイ・ウェラー様がショップを訪ねた時の有名なショットじゃ。彼女はテキサス在住者だったので、ボブ・ニールにメンフィスへ招待されたのかもしれない!
 しかしながら、このレコードショップの方の所在地が未だ判然としない。“メンフィスのメイン・ストリート”“メンフィスの中心地(in the heart of Memphis)”もしくはオフィスと同じ住所と、情報サイトによって所在地の表記がバラバラ。

 ボブ・ニールのオフィス(兼レコードショップ?)だった場所は、現在はラスウッド・パーク・バー・アンド・グリル(Google-mapでは臨時休業中)というカフェバーになっておる。右写真はストリートビュー2018年12月撮影。ビル自体がオリジナルであり、また飲食店利用が出来るだけの広さのあるテナントであればレコードショップとして使用されていた可能性はあるな。 ラスウッド・パークといえば、かつて存在した“エルヴィス・メンフィス凱旋ライブ・スタジアム”じゃ。その名を冠するバー・アンド・グリルは、かつてのスタジアム経営陣の一族がオーナーなのであろうか!?


 エルヴィスも贔屓にしていた、今は無きメンフィスの名物遊園地
  Area No.60/Serial No.641
 リバティランド(旧フェアグラウンズ・アミューズメントパーク)跡地


 リバティランドとは、2008年までメンフィスで稼働しておった遊園地であり、1975年まではフェアグランズ・アミューズメント・パークという名称であった。
 メンフィスの中心地の南東約6キロの位置に、東西約800メートル、南北約1キロにわたるフェアグラウンズという広大な敷地内の一画にあり、フェアグラウンド自体がアメリカ南部特有のフェスティバルである見本市やコットンフェスティバルの開催会場じゃ。

 1956年6月19日、エルヴィスはガール・フレンドのバーバラ・ハーン嬢を伴ってアミューズメント・パークにやって来た。この日パーカー大佐が当時のファンクラブ雑誌「Elvis Speak」とエルヴィスの写真掲載許可契約を結び、さっそくカメラマンのロバート・ウィリアム氏がエルヴィスの元へ馳せ参じて随行撮影と相成った。
 またこの日は「ブラック・コミュニティ・デー」と呼ばれた黒人に遊園地を解放する日でもあり、エルヴィスはあえてこの日を撮影日として選んだとも言われておる。
 ロバート氏の随行撮影は、その後メンフィスの街中、レストラン(下記Area No.62参照)、そしてオーデュポン・ドライブの自宅にまで及んだ。それにしても解せないのは、熱狂的女性ファンが舐めるように観るであろうファンクラブ雑誌の写真撮影に、何故バーバラ嬢を同伴させたのじゃろうか?(笑)2人で仲良く手をつないで歩くショットや、車の中で熱いキスを交わす写真も残されておるが、バーバラ嬢との2ショットは雑誌には掲載されなかったのであろうか!


 この遊園地で2度目に写真撮影が行われたのは、約4年後の1960年7月11日。(上写真4枚)この時はアニタ・ウッド嬢と側近連中と一緒じゃった。ジェットコースターやゴーカートで戯れる楽しげなエルヴィスが多数撮影されておる。エルヴィスが乗っているジェットコースターの「ジェッピン・ピピン」は“キングお気に入り”として有名になり、以降は遊園地一の人気の乗り物になったそうじゃ。
 ちなみに美しいブロンドヘアーがトレードマークだったアニタ嬢は、この時はブラックヘア。ブロンドではない彼女の写真は貴重かもしれない。なお1960年10月26日にもエルヴィスはアニタ嬢を伴ってこの遊園地で遊んでおる。この時はアニタ嬢はブロンドに戻っておる。(左写真)
 アニタ嬢は2023年に85歳でお亡くなりなっておる。生前の彼女のエルヴィスに関するインタビューを読んだことがあるが、非常に誠実にエルヴィスとの思い出を語っておったのが印象的じゃった。

 さらに17年後、エルヴィスは亡くなるわずか8日前の1977年8月8日、当時9歳の娘リサ・マリーちゃんへの贈り物としてリバティランドを貸切った。午前1時から夜明けまで、エルヴィス、リサ・マリー、エルヴィスの当時の婚約者ジンジャー・オールデン、そして12人ほどの知人らが、当時14種類あった遊園地の乗り物に乗りまくったという。

 リバティーランドを擁した広大なフェアグランズの敷地内には、現在メンフィス・フェアグラウンズ、ザ・サルヴェイション・アーミー・クロック・センター・メンフィス、タイガーレーン、ミッド・サウス・コロシアムの5つのスタジアムやアリーナが建てられており、様々なコンサート、スポーツイベントが開催され続けておる。リバティーランドが占めていた区画は広大な駐車場になっておる。上Googleマークの位置は現メンフィス・フェアグラウンズ。右写真は、フェアグラウンズ南の駐車場の様子。ストリートビュー2022年1月撮影。


 賠償金5,500ドル!キングの“おふざけ”が過ぎたレストラン!?
Area No.61/Serial No.642 グリディロン・レストラン跡地

 上述したフェアグラウンズ・アミューズメントパークの次にエルヴィスとバーバラ嬢はグリディロン・レストランという、当時メンフィスで数軒のチェーン店があったハンバーガー・レストランへ。ここでエルヴィスはちょっとした騒動を起こしてしまう。バーバラ嬢が一緒だったにもかかわらず、エルヴィスは隣の席にいた一般客女性をからかい始めた。この時もカメラマンは随行していたので、ばっちり撮影されて「ELVIS PRESLEY SPEAK」に掲載されてしまった!

 上写真の通り、エルヴィスは一般女性客に馴れ馴れしくしたり、もたれかかったり、また彼女のハンバーガーを横取りしたりと、ちょっと度が過ぎたおふざけ、お戯れをやっちまったのじゃ。一説によると、エルヴィスは横取りしたハンバーガー代金も支払わなかったという。まあどこまでが事実なのかは不明じゃが、バーバラ嬢がエルヴィスを制止したというハナシも無いので、これは単なるエルヴィスのカメラサービスだったのかもしれないし、カメラマンからのちょいと悪趣味なリクエストだったのかもしれない!?
 事の真相はどうあれ、「ELVIS PRESLEY SPEAKS」に写真が掲載されてしまったことで、この女性は「精神的苦痛、プライベートの侵害」を理由にエルヴィスを訴え、賠償金5,500ドルを請求したという!もっともこの訴えが公表されると、今度は彼女は大勢のエルヴィス・ファンの女性たちから猛攻撃を受けることになってしまったという!ちなみにエルヴィスはすぐに5,500ドルを払って彼女とは和解したとか。1956年の5,500ドルは現在ならば20,000ドルじゃ!


 時代の流れとともにメンフィスに数軒存在していたグリディロン・レストランは次々と姿を消していった。最後まで残っていた店舗は、グレースランドから国道51号線を真南に1.3キロほど走った位置で営業を続けておった。エルヴィスとバーバラ嬢が訪れたのはどうやらこの店舗らしく、The-Kingの盟友的ブランド706 unionのボスがかつて訪れて写真撮影をされておるのでお写真を拝借させて頂こう。(右写真左側)
 ちなみにこの店舗は現在BIG BILLというバーベキュー・レストランになっているが、店構えや店内はグリディロン・レストラン時代のまま使用されておる。右写真右側は、ストリートビュー2023年8月撮影。ストリートビューの撮影履歴を辿っていくと2009年までグリディロン・レストランの看板が掲げられておることが分かる。


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