NANATETSU ROCK FIREBALL COLUMN Vol.470


第89回 エルヴィスゆかりの地~テキサス州2025年後編

アップロード:2025年11月9日
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テキサス州にやって来ると、ご紹介する情報の質がどんどんディープでマニアックになっていくが楽しんで頂けておるじゃろうか?!ビギナーさんにとってはハードルが高い情報が多いかもしれんが、ゆくゆくはエルヴィス・マニアに成ることを目指しておる方にとっては、テキサス州は絶対に避けては通れない地域なのでお付き合い頂いても損はないぞ!前回よりかは、これまで露出度の低かった若きエルヴィスの写真も多く掲載しており、若いテキサス・レディがスゴイ執念で探し当てたライブ地もあるので、“またひとつエルヴィスについて詳しくなった!”とご満足頂けるはずじゃ。最後までヨロシューな!

【目次】バーチャル・ロックンロールツアー エルヴィスゆかりの地
    第89回テキサス州2025年後編

 ・御覧になりたい番号をクリックすると、該当する解説文の先頭に画面が自動的に移動します。
 ・Area No.は2023年度編からのテキサス州内の番号
 ・Serial No.は「バーチャル・ロックンロールツアー」第1回からの通し番号です。

 Area No.78/Serial No.629 ボーイズ・クラブ・ジムナジウム/パリス
 Area No.79/Serial No.630 シティー・オーディトリアム/グリーンビル
 Area No.80/Serial No.631 サウスウェスト・ステイト大学オーディトリアム/サン・マーコス

 Area No.81/Serial No.632  カーセッジ・ミリング・カンパニー工場跡地/カーセッジ
 
Area No.82/Serial No.633 ウッドロウ・ウィルソン・ジュニア・ハイスクール/ポートアーサー
 Area No.83/Serial No.634  シャムロック・カフェ跡地/クリーブランド
 Area No.84/Serial No.635  ウェスタン・ヒルズ・イン跡地/ユーレス
 

 【バーチャル・ロックンロール・ツアーのバックナンバー】

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SMW=スコッティ・ムーアのウェブサイト
EDD=「Elvis Day By Day」 エルヴィス・デイリー記録集
EPC=エルヴィス・プレスリー・イン・コンサート(ウェブサイト)
HAC=ヒストリック・アエリアルス(アメリカの空撮サイト)


テキサスの中の小さなパリで、若きエルヴィスは女の子たちとエンジョイ!
Area No.78/Serial No.629 ボーイズ・クラブ・ジムナジウム/パリス
 1955年10月4日にエルヴィスがライブを行った街がテキサス州パリスはテキサス州北東部の北側オクラホマ州との州境まで40キロの位置にある。アメリカ映画マニアの方なら、ライ・クーダーが音楽を担当した「パリ・テキサス」という傑作ロードムービーを想起されるかもしれんが、パリスと映画の内容とはほとんど何の関係もない。(主人公がパリス出身という設定ぐらいか。)
 パリス・ボーイズ・クラブ・ジムナジウム(左写真)でのライブ記録は近年まで何もネット上にアップされておらんかったが、2019年になってパリス発信のローカルサイトに「エルヴィス・イン・パリ:ロックンロールのキングがパリで演奏してから64年」というコラムが掲載され、ライブ会場で座席設置のお手伝いをしたご褒美としてライブを最前列で観ることが出来た当時8歳の少女をはじめとした複数の目撃者の証言が紹介された。その一部を転載しよう。

「パリスに来た時エルヴィスは若かったし、自分は特別な人物だと思っていたみたいだったわ。パリスの住人みんなが会場に集まっているようだったわ。」

「観客席はあっという間に十代の若者でいっぱいになり、ホールの隅々まで椅子が置かれていた」

「エルヴィスは派手な服を着ていました。私たちは彼を直接見ることができて楽しかったですし、もちろん、その後彼はもっと有名になりました」

「エルヴィスはとにかくよく動き回っていた!」


 とまあ、特筆すべき出来事は語られていなかったが、「エルヴィス・イン・テキサス」という書籍の中には別の証言が掲載されておることもコラムの中に記載されておった。それはライブが終わると、エルヴィスは群がったファンたちに1ドルでサインをしまくったり、数人の女の子をピンクのキャデラックに乗せて街を周回して再び会場に戻ってきたりしていたそうな!
 また最後はビルとともに、近くを流れるレッド川の向こう側にあるモーズリーズというビアホールへ向けてキャデラックで走り去ったとか。(スコッティは?)一方では3人の女の子を乗せて走り去ったという証言もあるらしい!
 右写真はライブ前に新聞に掲載された告知コラム。エルヴィスをまだ“Bob King”と形容しておるタイトルがおもしろい!

 パリスという名前や街中にエッフェル塔のレプリカが建てられておることから(下写真左側)、パリスはフランスのパリと何か因縁でもありそうな街じゃが、wikipediaには何も触れられておらん。フランスからの入植者たち、もしくはちょっと特異な白人至上主義者たちが作った街なのか。
 この街は元々人種差別の激しい場所であったようで、wikipediaにはその点について詳しい記述があった。かなり血生臭い残酷な差別事件の歴史もあり、エルヴィスが事前に知っていたらライブは行われなかったのでは?と思われるほどゾッとしたわい。
 また下写真左側地図で御覧の通り、大通りが街の中心を一周しており、これは本場パリ仕様じゃ。エルヴィスが女の子たちを乗せてキャデラックで周回したのはこの環状線かもしれない!

 「ボーイズ・クラブ」とは、地元の青少年のためのレクリエーションを司るNPO法人であり(現在はボーイズ・アンド・ガールズに改称)、この団体専用のホールがジムナジウムであると思われる。建物は現在も稼働中であり、EPCによるとエルヴィスが登場したステージの一部も残されておるとのことじゃ。下写真右側はストリートビュー2024年5月撮影。



またまた発見した、チリチリ・ヘアーのエルヴィス写真!
 Area No.79/Serial No.630 シティー・オーディトリアム/グリーンビル
 上記パリスでのライブの翌日、1955年10月5日エルヴィスはパリスの南西40キロにあるグリーンビルに移動してライブを開催。左写真左側は新聞広告、左写真中央はこの度のネット調査でわしが初めてお目にかかったグリーンビル・シティ・オーディトリアム(バックステージ?)での撮影とされるショットじゃ。この写真はPinterestにアップされたもので、データは日付と撮影場所だけ。本当にデータ通りの写真なのか?

 とりあえず、エルヴィスのパーマがかかった(様な)クルクル・ヘアーを判断基準として、1955年10月5日前後のライブショットと参照。直近で9月26日テキサス州ギルマーと10月6日テキサス州オースチンでのライブ写真があり、いずれもエルヴィスのヘアスタイルはカールがかかっておったので、この写真はグリーンビルでの撮影の可能性ありとしておくぞ。

 この時期のエルヴィスはRCAとの大型契約間近であり、単独ライブも増えて来たものの、まだミュージック・ジャンボリーの一員としての出演もあった。グリーンビルでのミュージック・ジャンボリーはルイジアナ・ヘイライドのスターたちとの一座であり、グリーンビルには「ルイジアナ・ヘイライド・ジャンボリー・ツアー・オブ・テキサス」の一貫としてやって来た。ライブに関する情報はまったくみつからなかったので悪しからず。
 2005年10月31日に「エルヴィス・グリーンビル・ライブ50周年記念イベント」が同会場で行われ、多数のエルヴィス・インパーソネータが集まったことが地元サイトに記載されておった。(写真左側は50周年イベント用ポスター)

グリーンビル・シティ・オーディトリアムは何度も改築工事が行われ、外観は1939年のオープン当初とはかなり変わったものの、ミュニシパル・オーディトリアムと改称されて現在でも稼働中。ロビーにはデューク・エリントンやロレッタ・リンら歴代の出演アーティストたちのコラージュや、エルヴィスの出演ポスターのコピーが綺麗にディスプレイされておるそうじゃ。上写真右側ストリートビュー2022年6月撮影。


「エルヴィスも、取材陣も、ファンも一切お断り」を貫く頑固変哲な会場!?
Area No.80/Serial No.631 サウスウエスト・ステイト大学オーディトリアム/サン・マーコス
 50年代の膨大なエルヴィスのライブ地において、もっとも情報が少ない会場のひとつがココかも知れない。その原因のひとつは、ライブ開催日が上記グリーンヒル・シティ・オーディトリアムの翌日1955年10月6日がダブルライブ・デーであり、夜のライブ地オースチン・スカイライン・クラブばかり注目されて(「バーチャル~テキサス州2024年中編」Area No.52参照)、昼のライブ地のココがスルーされている傾向が強いことじゃ。
 またサウスウエスト大学は全米でも有数の大規模な大学であり、各学部の教育レベルが大変に高くて優秀な学生さんが多いことから(第36代アメリカ大統領ジョンソン氏卒業大学)、学業最優先方針のイメージづくりのためか、(ちょっと堅苦しく)充実したスクール・サイトはキング・オブ・ロックンロールの痕跡すら入り込む余地など無い。意地悪く察すると、「かつてここでエルヴィスが~」といった事実を封印しておるような感じ!?
 
 EPCによると、地元紙のアーカイブにもライブ当日の新聞広告は見当たらず、50年代の建物の写真もサイト上では見つからない。エルヴィス研究者たちにとって情報がほとんど無い無い尽くし状態じゃ。左写真は長らくオースチン・スカイライン・クラブでのライブ写真とされておるが(Area No.52で掲載済)、最近はPinterestがサウスウエスト大学でのライブ写真としてアップしており、どちらの会場なのか識別する資料も無い状態じゃ。

 広大な大学のキャンパス内に建てられておるオーディトリアムは現在エバンス・オーディトリアムと改称されておる。オーディトリアム単体でネット情報を探ったが、やはりエルヴィスに関する情報は無し。ひと言でも“かつてエルヴィスが~”と記載すると、わしのようなノー天気パー太郎なファンが殺到して真面目な学生さんたちが迷惑するに違いないという大学側の配慮なんじゃろうか。詳細を知りたければ、事前に大学側から了承をとって取材するしかなさそうじゃが、そうした取材記事すら見当たらないので「取材お断り、動画撮影絶対禁止」なんじゃろうな。逆にエルヴィスのライブ軌跡の中でもっとも注目に値する会場と言えるかもしれない!?
 右写真はストリートビュー2024年10月撮影のエバンス・オーディトリアム。


 全米ブレイク直前、工場開きのパーティーにエルヴィス登場!
Area No.81/Serial No.632 カーセッジ・ミリング・カンパニー工場跡地/カーセッジ

 カーセッジという街は、テキサス州の南東部の端に位置し、東側のルイジアナ州との州境まで約35キロ、ルイジアナ・ヘイライドのシュリーブポートまでは65キロじゃ。
 1955年11月12日、RCAとの契約直前の時期にエルヴィスはカーセッジへやって来て、カーセッジ・ミリング・カンパニーという何だかヨクワカラン名前の会場でライブを行った。このライブ、会場に関する情報もつい最近までネット上で皆無じゃったが、2023年10月テキサスの女性エルヴィス・ファン&ブロガーさんが素晴しい調査力を発揮して調べ上げた情報がネットにアップされた!

 カーセッジ・ミリング・カンパニーとは、飼料の原料を製粉化する工場(左写真)を経営する会社であり、1957年11月の工場開きのパーティーにエルヴィスが呼ばれたという信じ難い事実があったのじゃ!上記女性ブロガーさんは、苦労の末に工場経営者の実娘さんと連絡を取ることに成功し、実娘さんが大切にしていた超貴重!な工場開きライブの写真までブログに掲載しておった!(上写真中央)。工場関係者だけが集まった内輪のパーティーかと思いきや、上写真左右の新聞広告で御覧の通りに一般向けにプロモートもされており、工場敷地には300人の地元の人たちが集まったんだそうじゃ。

 工場のオーナーさんは工場開きを盛大に行う予定であり、特別の出し物を検討していたところ、「エルヴィス・プレスリーというシンガーがルイジアナ・ヘイライドで大人気だから呼んでみたら?」という当時14歳だった実娘さんのアドバイスがあった。気軽にアドバイスに従ってパーカー大佐に連絡をしたところ、パーティーの翌日11月13日に出演するルイジアナ・ヘイライド(シュリーブポート)に向かう途中にカーセッジに立ち寄れるので、出演はOK!という返事がきたという。エルヴィスへのギャラは小切手で300ドルが支払われたそうじゃ。左写真下段は小切手のコピーじゃ。
 また実娘さんの回想によると、工場開きパーティーに集まった300人の人たちのほとんどは「多分エルヴィスを知らなかったし、誰一人としてその翌年にエルヴィスが大ブレイクするなんて思っていなかったでしょう」とのことじゃ(笑)ちなみに当時から実娘さんの家族全員が熱烈なエルヴィスファンだったそうじゃ。

 カーセッジ・ミリング・カンパニーの工場はオープンから10年後の1967年に火事で全焼してしまい、オーナーは工場を再建しなかったという。やがて跡地には倉庫が建てられてしばらく稼働しておったそうな。その倉庫もGoogle-mapには「営業終了の可能性あり」と表記されておる。右写真ストリートビュー2023年5月撮影。


RCAとの大型契約直後の初ライブは、観客わずか100人だった
Area No.82/Serial No.633 ウッドロウ・ウィルソン・ジュニア・ハイスクール/ポートアーサー
 1955年度テキサス州最後のライブ地へのご案内じゃ。11月25日のポート・アーサーという街ののウッドロウ・ハイスクールじゃ。(右写真)
 ポート・アーサーはヒューストンの真東140キロのメキシコ湾岸の街である。この会場のライブ情報もまたもやほとんど無し(泣)

 ライブの日付にピ~ンときた方はかなりのエルヴィス・マニアじゃ。そう、エルヴィスがRCAレコードと契約した日(1955年11月23日)の後、初めて行われたライブなのじゃ。それにもかかわらず、当日の観客数たったの100人。ネットで確認出来る情報はこれだけでございます・・・。前途洋々たる、まるで“日本晴れ”のような心持ちだったはずのエルヴィスもズッコケ気分だったんじゃろうな。

 念願のメジャーレーベルとの契約を達成たしたとはいえ、まだ出演契約の残っておったローカルの小さな会場のライブスケジュールをこなすお勤めをエルヴィスは果たす義務があったのじゃ。
 またこの時期のライブは割と不入りが続いていた記録が残っており、パーカー大佐はエルヴィスの契約条件に関するRCAとの丁々発止の駆け引きに腐心するあまり、ライブ・プロモーションの方が疎かになっておったとしか思えん。ボブ・ニールにも現場仕事は既にさせておらんかったようじゃ。
 とはいえ、大佐は客入りに関わらず1ライヴに付きエルヴィスの取り分は300~350ドルという契約を各ライブ開催側と交わしておったので、金銭的にはエルヴィスに打撃はなかったはずじゃ。したがって大佐ローカルのドサ周り的ライブに客が入ろうがどうしようが関心はなかったのじゃろう。

 なおEDDにはこの日のライブの翌日(11月26日)、大佐はマネージャーとして契約が四ヶ月残っておったボブ・ニールに手紙を書き、「エルヴィスに時間通りにライブ会場へ到着すること。エルヴィスにもバンドにもライブ中のコメディ的なMCは止めることの指示を促したとの記述がある。ボブ・ニールの最後のお仕事はエルヴィスの教育担当係に専念することだったようじゃ(笑)

 ウィルソン・ジュニア・ハイスクールは、後にミドル・ハイスクールとなり、現在の正式名称はウッドロウ・ウィルソン・アーリー・カレッジ・ハイスクール。エルヴィスが演奏した場所は、setlist,wikiによると、スクール内のウッドロウ・ウィルソン・オーディトリアムと呼ばれる場合もあるようじゃ。右写真ストリートビュー2022年10月撮影。


 エルヴィスが“王様の朝食”を食したカフェ・レストラン
Area No.83/Serial No.634 リトル・シャムロック・カフェ跡地/クリーブランド
 50年代のテキサス州におけるエルヴィスの痕跡の中で、情報が非常に少ない場所ばかりのご案内となった「テキサス州2025年後編」。当日のエルヴィスの写真が発見出来ない場所ばかりで視覚的に楽しんで頂けなかったので、最後にとびっきり!クールな写真をご紹介するのでお許しを頂こう!

 左写真2枚、いやあ~シビレますな~!この写真は1957年9月11日(もしくは12日)、テキサス州クリーブランドの「リトル・シャムロック・カフェ」と、その駐車場で撮られた写真じゃ。
 EDDによると、エルヴィスは1957年9月5日からハリウッドのラジオ・レコーダーズ(レコーディング・スタジオ)で同年のクリスマス・アルバムとシングル曲3曲のレコーディングを開始。レコーディング終了後、当時のガールフレンドのアニタ・ウッドらとともに9月9日に列車でメンフィスに向かうが、9月11日にヒューストンで下車し、車でメンフィスへ向かった。メンフィス到着は午後10時とされておる。
 ヒューストンからリトル・シャムロック・カフェのあったクリーブランドまでは車で約50分。エルヴィス一行がカフェで一旦休憩して朝食を摂った際の撮影じゃ。カメラマンが同行していたかどうかは不明じゃが、素人撮影にしてはステキ過ぎ!なショットじゃ。
 クリーブランドの発信のローカル・サイトに、エルヴィスに朝食を運んだウェイトレスのインタビューが掲載されており、彼女の記憶によると
、「エルヴィスは卵2個、ベーコン1皿、トースト2杯、コーヒー、パンケーキ、チョコレートパイ1切れ、ペプシコーラからなるボリュームたっぷりの朝食を注文しました。王様の朝食だったと思います。」とのことじゃ!

 リトル・シャムロック・カフェがいつ頃まで営業しておったのかは不明であり、“エルヴィスが立ち寄った”ことで地元では伝説的な存在になっておるそうじゃ。しかし所在地情報が非常に少なくて跡地が特定出来なかった(泣)

 ローカルサイトには「クリーブランドの南端、105号線とワシントン・アベニューのジャンクション付近」とされておるが、HACの1958年空撮写真でその地点を見ると105号線が写っていないし、周囲は手つかずの自然状態・・・これはHACのアップロード画像のミスなのか?その当時105号線はまだ開通していなかったのか?
 またこのジャンクションからワシントン・アベニューを約4キロ北上した地点という説もネット上で見付けたが、この情報も“保証の限りではない”という注釈付き。跡地の特定が出来ないのでストリートビュー写真掲載はスルーさせて頂くが、上Google-mapマークの位置は参考までに、105号線とワシントン・アベニューのジャンクションをリンクさせておくぞ。


 軍役時代の希少な休暇を学生気分で過ごしたモーテル
Area No.84/Serial No.635 ウェスタン・ヒルズ・イン跡地/ユーレス

 こちらのエルヴィスのイケメン写真は、1958年8月9日、軍役中の休暇日に訪れたユーレスという地域にあった高級モーテル、ウエスタン・ヒルズ・インで撮影されたものじゃ。ユーレスは当時エルヴィスがレンタルしていた家のあるキーリンから車で2時間半ほどの場所であり、街はずれにあったこのモーテルでエルヴィスは休暇を過ごすことが度々あったそうじゃ。
 この日はテキサス・クリスチャン大学の学生パーティーがモーテルで開かれており、たまたま滞在していたエルヴィスに会えた学生たちは大喜び!エルヴィスもご機嫌でギターを弾いてみせたりしたという。(上写真右側は、ギターのチューニングをするエルヴィス)

 当時エルヴィスは23歳。そして写真に写り込んでおる学生君みんなもエルヴィスとほぼ同年齢。エルヴィスと学生君たちが学友みたいにも見えて微笑ましいですな。でもこう言っちゃ~なんじゃが、エルヴィスだけ別人種に見えるほど圧倒的にイケメンじゃな!(今更ジローじゃけど~笑)
 また女学生ちゃんたちは、ライブで絶叫しておる女の子たちよりはオネーサンじゃが、希代のスーパースターの傍で輝くような表情をしてますな!
ユーレスは当時の人口2,000人程度の小さな街だったが、ウエスタン・ヒルズ・インは、ダラスの有名人や富裕層がバカンスで利用することで名高いリゾート・モーテルだったとのこと。エルヴィスは軍役時代の休暇だけではなく、後のダラスや隣りの都市フォートワースでのライブの際に宿泊先として利用していたという説もあり!
 上写真右側は1950年代末期の空撮写真であり、かなり広大な敷地を擁したモーテルだったようじゃが、1980年代頃に閉鎖。建物は長らく放置されたままだったとか。現在跡地にはホームセンター、ファミレス、スタバなど複数の店舗が軒を連ねておる。(右写真ストリートビュー2024年8月撮影)

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