
| アップデート:2026年2月9日 |
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![]() 1957年4月6日以来14年半ぶりにフィラデルフィアで行われたライブを皮切りに(1971年11月8日)、エルヴィスは70年代に合計5度当地のスペクトラム・アリーナ(左写真)に登場した。(以後74年6月23日昼夜2回、76年6月28日、77年5月28日) 1957年のライブでは、“エルヴィス黄金時代”真っ只中にも関わらず、地元の大人たちではなくて大学生たちが大袈裟なエルヴィス・ヘイト騒動を起こし、ホテルでエルヴィスを襲撃して“ヤツを丸坊主にしてやる”と宣言。この騒動は地元の新聞に大々的に取り上げられたこともあり、ライブ日前後のエルヴィスの動向は一切極秘にされておった。現在でも、エルヴィスのフィラデルフィアでの宿泊先はまったく不明じゃ。 ライブ中も会場に乱入した学生たちからエルヴィスは生卵を投げつけられ、生卵がスコッティのギターに当たるとエルヴィスは「そんなコントロールじゃフィリーズ(地元のメジャーリーグ球団)に入れないぜ!」とやり返すなど終始不穏な空気が会場内に蔓延しておった。詳細は「バーチャ~ペンシルベニア州2023年編」Area No.1参照してくれ~い。 71年のライブ・レビューは当時高校生だった観客の一人が書いており、“生まれて初めてスゴイ事を体験した”という実感が、アマチュアレベルの表現力の拙さを越えてひしひしと伝わってきた。かなり長文じゃが、とても読みやすいので是非目を通してみてくれ。ここでは〆のフレーズのみ転載しておこう。「70年代初期のエルヴィスのコンサートに行ったことがある人なら、この日の彼の声が本当に素晴らしかったということがお分かりいただけるでしょう。70 年代を通じて他のエルヴィスのコンサートもいくつか見る機会がありましたが、1971年11月8日、ペンシルバニア州フィラデルフィアでのコンサートは、私が今までに行った中で最高のコンサートでした」 また別人のライブレビューも読み応えがあった。 「エルは絶え間なく動き、殺人本能で獲物(観客)を追いかけ、スカーフを投げて観客の片方から血を流し、ステージ上の警備員を退却させ、別の忠誠者のグループにまた攻撃を仕掛ける。女性用下着が数枚、敬意を表してステージに投げ込まれたが、ステージの警備員がすぐにそれを拾って視界から消す。あからさまにするのは意味がない、そうだろう?」 「皮肉屋たちは、エルヴィス現象の原因を、彼の肉体的な存在に内在する官能性、あるいは彼の喉から出るうめき声がリスナーに呼び起こす低俗な本能、あるいはマネージャーのトム・パーカー大佐のヒップスターぶりにあると主張し続けている。 しかし(エルヴィスの)才能は本物であり、ショーは才能次第だ。16,601人の永遠の若者は昨夜、それをはっきりと実感した。」 (上写真4枚は71年、下写真3枚は74年のライブ撮影)
![]() 74年のライブ・レビューは素晴し過ぎたクオリティをライターさんも表現仕切れず、「ほとんどコンピューター的(完璧過ぎということ)」「パーカー大佐はコンピューター・プログラマーだ」としておる! 「エルヴィスは充実した1時間のパフォーマンスを披露した。そして、このショーはもはやコンピューター化された性格を持っていたが(しかもちょうど60分)、1人あたり10 ドルを支払った19,000人以上の観客は誰も失望していなかった。」 「昨日、エルヴィス・プレスリーは(昼夜)合計で約40,000 人を前に演奏したが、これはスペクトラムの2公演分の満員の収容人数に相当する。しかし、もちろん、大佐の功績でもある。当初からエルヴィスのマネージャーでありコンピュータープログラマーであったトム・パーカーにとって、他の方法はない、最高のプログラミングだっただろう。 77年のライブレビューの〆もまたユニークじゃ。 「エルヴィスのアンサンブルはクラックスとブラッシーが混在した活気に溢れ、彼の声は深みと迫力があった。彼は一切手を抜いていなかった。衣装は残念だったが、それ以外は1977年フィラデルフィアのエルヴィス・プレスリーは選りすぐりで完璧だった」 クラックスとブラッシーとは、恐らく麻薬が製造される時の破裂音を示す俗語からの引用じゃろう。堕落と紙一重の快楽の比喩じゃろうな。(右写真は77年のライブ) 1967年にオープンしたスペクトラム・アリーナは、フィラデルフィアでロックの人気が高いことや、音響効果が優れていることもあり、数多くのビッグ・ロッカーたちのライブが年中行われていた歴史を持ち、優れたライブ盤もレコーディングされておった。またジョン・レノンが射殺された翌日(1980年12月9日)、かつてこの会場でアリーナ・デビューを果たしたブルース・スプリングスティーンとバンドメンバーたちが、涙を流しながら34曲のロング・ラン・ライブを行ってジョン・レノンを偲んだことでも有名じゃ。2004年に惜しくも解体され、跡地はクファイ二ティー・モバイル・センターという新しいイベント会場の駐車場になっておる。右写真はストリートビュー2022年7月撮影。 |
エルヴィスは“不幸なホテル”にも泊っていた!?
![]() 1971年11月8日のフィラデルフィアでのライブの際にエルヴィスが宿泊したホテルがこちら。上写真3枚に写っておるアルフォンゾ・キャノン軍曹、ジョン・ギャラガー&マイケル・マンジオネなるオフィサーっつう方々が一体誰なのか、エルヴィスとはどんな間柄なのか、サッパリ分かりません!(ネット掲載無し) 恐らく軍とか警察のお偉いさんかとは思うが、単なる記念撮影以上にエルヴィスと親しそうに写っておるのでチト気にはなる。現時点では詳細は不明じゃが、70年代の貴重なホテル内でのエルヴィスの様子を伝えてくれる写真なのでご紹介した次第じゃ。緊張感が抜けちゃっておるエルヴィスの表情も悪くはない! ベルビュー・ストラッド・ホテルは19世紀初頭に建設された、アメリカの大都市にはほぼ例外なく存在する老舗の大型ホテルであり、エルヴィスをはじめとして時の著名人たちが宿泊していた歴史をもつが、このホテルを有名に“してしまった”のは、エルヴィスが宿泊した5年後の1976年7月に起こったアメリカの大型ホテル史上稀有で悪夢な伝染病事件じゃ。 ホテル内の空調設備の中で繁殖した病原菌によって29人の死者と100人を越える感染者たちを出したこの事件によってホテルの評判は激しく下落してしまい、事件発生から僅か四ヶ月後の1976年11月に廃業に追い込まれてしまったのじゃ。Wilipesiaにも、ホテルのそれまでも栄えある歴史よりも、この事件の記述で占められておる。 ![]() 76年11月の閉鎖以降、何人かの新しいオーナーによる建物の買収と改修、再オープンが続いたものの、評判が上向くことはなく、長い間経営の頓挫が繰り返されてきた。現在もホテルと集合住宅として存在し続けてはおる。(右写真ストリートビュー2024年10月撮影) |
“大好物”片手にチェックアウトする珍しい写真が残るホテル
![]() “悪夢”のベルビュー・ストラッドフォード・ホテル(上記Area No.4参照)ではなくて、1976年6月28日のフィラデルフィア・ライブの際に利用されたホテルが、こちらヒルトン・インじゃ。(左写真) このホテルでのエルヴィスの様子が撮られた写真は1974年6月23日の宿泊時(および翌24日)の隠し撮り写真が多い。露出度は上カラー写真3枚よりも、むしろ下写真3枚が高いだろう。「バーチャル~ペンシルベニア州2023年編Area No.2 フィラデルフィア国際空港」で掲載済の、6月29日にホテルをチェックアウトして車に乗り込む際の写真じゃ。 エルヴィスは左手にファンから差し出された好物のピーナッツ・バターのカップを持っておるのが特徴的なショット(赤丸部分)じゃ。左写真のホテル右側の長く突き出した庇部分が、下写真でエルヴィスが写されておる場所じゃ。(下写真右側だけは、空港で撮影された可能性あり)
下写真左側は、74年6月28日、マチネーを終えて一旦ヒルトン・インへ戻ってきた際のエルヴィス。 下写真中央、右側は76年6月28日フィラデルフィアのエルヴィスとされる写真。(撮影場所のデータ無し)エルヴィスが水色のジャージの上に白いコート(?)を羽織っておる珍しい写真じゃ。ライブ会場(スペクトラム・アリーナ)かホテルか、どちらの駐車場なのか識別が難しいが、恐らくジャージ姿、周囲にメンフィスマフィア以外の人物がいる状況等から、ナイトショー終了後にヒルトン・インに戻ってきた時の撮影と思われる。ジャージ姿ではライブ会場に乗り込まないはずじゃ!
![]() 21世紀になると周囲の土地再開発に伴いホテルは約半世紀の歴史に幕が降ろされて取り壊しとなった。現在はライブ・カジノ・リゾートという新しいビルが2024年に建てられておる。右写真は完成したばかりのライブ・カジノ・リゾートの全容写真。(ストリートビューはまだ未撮影。) |
ピッツバーグは、フィラデルフィアに次ぐペンシルベニア州第二の大都市じゃ。市という括りでは人口2,000,000人のフィラデルフィアに対してピッツバーグ市は300,000人じゃが、「ピッツバーグ周辺地域」で人口を換算すると2,000,000人にも及ぶ。アレゲニー川、モノンガヒラ川、オハイオ川の3つの大河の合流地点のダウンタウンを中心に都市部が広がっており、この地域は“ゴールデン・トライアングル”とも呼ばれておる。また1970~2000年まで合流地点を臨むような位置に存在していた、メジャー・リーグのパイレーツとナショナル・フットボール・リーグのスティラーズの本拠地球場は「スリーリバーズ・スタジアム」と命名されておった。(スリーリバーズ・スタジアムについては下記Area
No.8参照)エルヴィスは“ゴールデン・トライアングル”の中心地に位置しておったシビック・アリーナ(左写真)で、1973年6月25、26日、そして1976年12月31日には「ニューイヤーズ・ライブ」を行っておる。特に後者はエルヴィスの最晩年の活動期間では屈指のクオリティと評された名ライブじゃ。とはいえ、まずは1973年のライブも素晴らしいレビューが残されておるのでそちらかまずご紹介しよう。(下写真4枚は73年6月25日もしくは26日の撮影)
「『20年後にエルヴィスの猟犬を数えたい。エルヴィスが1976年になってもまだキャデラックを集めているかどうかは、時が経てばわかるだろう。- スパイク・ジョーンズ・1956年。』~スパイク、古い友よ。昨夜、君が数時間だけこの世に戻って、シビック アリーナに立ち寄ってくれたらよかったのに。76年まであと3年あるが、あの古き良き男の「愛犬」のほぼ14,000人が彼の最初のピッツバーグコンサートを見にやって来た。今夜もそれくらいの人数が再び集まると予想されている。そして、微笑み、敬礼、あるいは身をくねらせることで、彼は今でも彼らを吠えさせることができるのだ。月ではなく、星、真のスーパースターに」 「彼は、50 年代半ばの胴体をひねり回した頃から変わったのだ。彼の声は滑らかなバリトンに落ち着き、生意気な南部のロカビリーよりもロマンチックなバラードに似合うようになった。(中略)おそらく彼は、気ままな若いロックスターたちと競争したくないのかもしれないし、あるいは38歳になって、日曜の夜にスティーブ・アレンとエド・サリバンが彼の視聴率を上げる才能を競い合っていた頃よりも、椎間板ヘルニアになりやすいことに気づいたのかもしれない」 「彼の観客も変わった。あるいは、同じ観客が彼とともに少し年をとっただけかもしれない。昨夜の観客は主に25歳から40歳代で、ニットのスラックス、白い靴、パンツスーツ、ロングドレスを着ていた。~彼は万雷の拍手とともに王に任命された。彼は騎士ではない。彼は王であり、おそらくこれからもずっと王であり続けるだろう」 もう何もいう事はありませんな! その夜のエルヴィスはエネルギッシュで、何事があっても動じないようでした。(byジンジャー・オールデン) そしてエルヴィスの生涯最後のニューイヤーズ・ライブとなった1976年12月31日から1977年1月1日のライブのレビューは以下の通りじゃ。 「深夜0時の35分前にエルヴィスはステージに登場したが、エルヴィスは時計が既に12時を打ったと思っていたのだろう。彼は、何千ものフラッシュライトと“エルビスを愛しています”という看板の寄せ集めに彩られた耳をつんざくような拍手喝采を受けた。プレスリーは、おそらくジョニー・キャッシュがフォルサム刑務所で演奏して以来、最も観客を虜にした 。そして、彼がステージ上での90分間、観衆をしっかりと掴みとることをほとんど怠らなかった。
![]() 「プレスリーは、1973年半ばに初めてここを訪れた時よりもずっと温かい人柄だった。今回は、観衆と交流しただけでなく、ファンに誕生日おめでとう (実際、彼は土曜日に42歳になる) と新年おめでとうと祝福してもらうために、1分ほどマイクを手放した。また、彼に敬意を表すために集まった人々から何十ものプレゼントを受け取った。彼は42枚のスカーフを配り、信じられないかもしれないが、リクエストにも答えた。また、このピッツバーグ訪問では声量も良く、驚くほど上手に歌い、低い音域でフレージングに迫力を与えた。彼は難しい音楽領域にも踏み込み、軽いヘルニアを引き起こしかねない音を出した。そして、観衆のよい反応を得た後、彼はマゾヒズムに等しいリプライズでその曲を披露した。 「真夜中になると、会場の照明が点灯し、エルヴィスが観客を率いて「オール・ラング・サイン」を歌い始めた。観客から一瞬歓声が上がったが、数分後にはプレスリーが再び歌い始めたのだった。」 なおこのニューイヤーズ・ライブの会場には最後のガールフレンドのジンジャー・オールデン、まだ幼かったリサ・マリーちゃんもおり、エルヴィスはライブ中に彼女たちを観客に向けて紹介しておる。右写真中で、エルヴィスの足元付近に写っておる白い帽子を被った女性がジンジャー。ジンジャーは手記の中でこの日のライブを下記の通りに語っておる。 「私たちが到着した時、シビック アリーナの雰囲気は最高潮でした。人々はエルヴィスと一緒に大晦日を祝う準備ができていて、彼らの興奮が私の気分を高揚させました。ステージの片側にはリサ、ヴァーノン、サンディ、そして私のために椅子が置かれていましたが、コンサートの間、リサは私の膝の上に座ることを選びました。私は彼女の近くにいられて嬉しくて、彼女を抱きしめました。その夜のエルビスのパフォーマンスはエネルギッシュで、何事にも動じないようでした。コンサートが始まってすぐに、彼は父親を紹介し、次にリサを紹介しました。私はリサが他の人に見えるように立ち上がるのを手伝いました。やがてピアノの前に座ると、エルビスは“この曲をパパとリサとジンジャーに捧げたい”と言ってアンチェインド・メロディを演奏し始めました。いつものように、エルビスの声と心に残る歌詞は私の魂に触れました。素晴らしいショーでした。 登場していたとは驚き!一説によると、夜間使用時に一時的に屋根を開き、夜空に向けて花火を打ち上げるアトラクションもこの会場が世界初と言われておる。その最先端のスタイルと音響効果の良さによって、数多くのビッグ・ロッカーたちのライブ会場に選ばれ続けていたシビック・アリーナも、収容可能人員数(約17,000人)が新時代のビッグイベントに求められる規模にそぐわなくなり、2011年に閉鎖、取り壊しとなった。跡地は隣接する土地の新設されたイベント会場用の駐車場として利用されておる。右写真ストリートビュー2024年11月撮影。 |
![]() 1976年12月31日のニューイヤーズ・ライブ終了後、エルヴィスはピッツバーグの何処のホテルに戻って1977年元旦を過ごしたのか。生前最後の元旦だけにとても気になるところじゃが、この情報がネット上ではほとんどない。 上写真3枚は、前日のライブ地ジョージア州アトランタからピッツバーグに移動し、ジンジャーを伴って当地のホテル(の裏口?)にやってきたエルヴィスじゃが、写真掲載サイトにホテル名の記載が無い。 またニュー・イヤーズ・ライブ終了後、ホテルに戻ったエルヴィスにジミー・カーター大統領)から電話がかかって来たという記事も発見したが、やはりホテル名の記載は無し。 唯一、地元民の「ピッツバーグのエルヴィスを偲ぶ」的なFacebookへ1970年代に地元でホテル従業員だった者から“エルヴィスはオールド・ヒルトンに泊っていたよ”との投稿があり、この投稿がキング逗留先調査のカギとなった。 一方私設エルヴィス・サイト以外の情報では、近年発表されたジンジャーの手記の中で、ホテルは“ヒルトン”とされておった。またEDDによると、エルヴィス一行は元旦の早朝午前6時30分に全員メンフィスに戻ったとされておるので、当時ピッツバーグ空港に隣接していた旧ヒルトン・エアポート・イン(現ヒルトン・エアポートとは別)かと早合点したが、ここが“オールド・ヒルトン”と呼ばれていた形跡は一切なかった。結局、シビック・アリーナの近くにあったヒルトン・ピッツバーグが“オールド・ヒルトン”であったことが判明した。(上写真) エルヴィスと一緒に1977年元旦を迎えたジンジャーは、手記の中で12月31日のヒルトンでの2人の模様を次の様に綴っておった。 「エルヴィスは私を部屋に呼びました。ベッドの上には彼のステージ衣装が2着ありました。1着はカラフルな青いストライプ、もう 1 着は前面と背面に黒い鷲の絵が描かれていました。「どちらを着るべきだと思うかい?」と彼は尋ねました。 私はうれしかった。彼はこれまで、ステージ衣装について私の意見を求めたことはありませんでした。大晦日で普通の夜ではないので、私はアメリカのシンボルである鷲のジャンプスーツを指さしました。 ホテルを出発する前に、エルヴィスは私に白いミンクのロングコートとそれに合う帽子を着るように言いました。私はコートではなく、エルヴィスが先ほど私の気分を高め、私のことをどれだけ気にかけているのかを示すためにできる限りのことをしてくれているという事実に慰められていたので、エルヴィスの指示通りにそれらを着ました」 「ヒルトンに戻ると、エルビスはジミー・カーター大統領から電話を受け、アメリカの若者のための特別顧問に就任してほしいと言われたことで、その夜はさらに素晴らしいものになりました。彼の誇らしげな表情と興奮した声から、カーター大統領の要請をエルヴィスがいかに光栄に思い、感動していたかが分かり、私も彼のために興奮しました。」 ったが、この度ピッツバーグ・ヒルトンをエルヴィスが泊った“オールド・ヒルトン”とした最大の要因は、シビック・センターと至近距離(2キロ弱、車で数分)であったことじゃ。また目の前が大きな公園(ポイント州立公園)が広がっており、この類の見晴らしをエルヴィスが好んでいたこともある。また1960年代にウォルト・デズニーが当地の視察した来た際に宿泊したホテルが“オールド・ヒルトン”とされており、地域も特定されておったので間違いないじゃろう。現在はオーナーが変わり、ウィンダム・グランド・ピッツバーグという3つ星ホテルになっておる。右写真ストリートビュー2024年11月撮影。 |
グレースランドのTVを飾ったフットボール・スタジアム&プレーヤー
![]() ピッツバーグの街を形作り、繁栄へと導いた3つの大河、アレゲニー川、モノンガヒラ川、オハイオ川の存在をシンボライズさせて命名された巨大なスポーツ・アリーナがスリー・リバーズ・スタジアムであり(上写真左側)、ピッツバーグを本拠地とするメジャー・リーグのパイレーツ、ナショナル・フットボール・リーグのスティーラーズが活躍していた舞台じゃ。 大のフットボール好きであり、アマチュア・チームのスポンサーまで引き受けていたエルヴィスは、時にはグレースランドのTVルーム(上写真右側)に設置された3つのテレビを全てフットボール中継にして楽しんでいたことは有名じゃ。 特に1970年代のエルヴィスは、黄金時代を迎えようとしていたピッツバーグ・スティーラーズのスター選手だったテリー・ブラッドショー(左写真)の大ファンじゃった。スリー・リバーズ・スタジアムとブラッドショー選手が頻繁にグレースランドのテレビに映し出されてエルヴィスを魅了しておったことは想像に難くない!スリー・リバーズ・スタジアムでエルヴィスがライブを行ったことはないが、特別に“エルヴィスゆかりの地”として追加することにした! 1948年生まれで、今年78歳を迎えるブラッドショーは高齢にも関わらずご健勝のご様子であり、2021年にはインタビューでエルヴィスに関して貴重な証言を発した! 「1970年代のある日、エルヴィスから電話がかかってきました。最初は疑っていました。でも、あの独特の話し方をして、間違いなく彼だったんです。そう、エルヴィス。エルヴィスが僕に電話してきて、一緒にフットボールをやろうと誘ってきたんです。今でもそのことを思い出します」 両者のスケジュールが合わずに、結局エルヴィスとブラッドショーが直接会うことはなかったそうじゃが、エルヴィスは明らかに以降の親交を求めていたという。 少年時代にルイジアナ・ヘイライドでエルヴィスを観たブラッドショーはそれからカントリー・ミュージックのファンになり、フットボール選手としての現役を終えた後もテレビタレントやシンガーとして多才ぶりを発揮。グレースランドのウェブサイトによると、2022年に特別出演したテレビ番組では、かつてエルヴィスが歌った「Im So Lonesome I could cry」「You'll Never Walk alone」の2曲を自ら披露してみせたとのことじゃ。 ![]() |
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