NANATETSU ROCK FIREBALL COLUMN Vol.490


第108回 エルヴィスゆかりの地~テキサス州2026年 Vol.1


アップデート:2026年9月9日
(上部スライダーは自動的に別写真へスライドし続けます。またカーソルをスライダー部分に置くとスライドが止まり、左右に矢印が表示されますので、矢印をクリックすると別写真にスライド出来ます。)

当ツアーに参加されておる方ならとっくにご存知じゃろうが、テキサス州は50年代のエルヴィスが実に122回にもわたりライブを行い、調べ尽くせないほどの足跡が残されておる地域じゃ。毎年同州にご案内しており、これから4回にわけてご案内する2026年度ツアーがファイナルじゃ。70年代の凱旋ライブ跡地を含めて、若きエルヴィスの情熱と苦悩が至る所に染み込んでおるテキサス州を存分に堪能してくれたまえ。

【目次】バーチャル・ロックンロールツアー エルヴィスゆかりの地
    第108回 テキサス州2026年 Vol.1

 ・Area No.は2022年度編からのテキサス州内の番号。
 ・Serial No.は「バーチャル・ロックンロールツアー」第1回からの通し番号です。

 Area No.86/Serial No.741 シティ・オーディトリアム跡地/ガルベストン
 
Area No.87/Serial No.742  カントリー・コロシアム/エル・パソ
 
Area No.88/Serial No.743  ユニオン・ステーション/エル・パソ

 Area No.89/Serial No.744 シビック・センター/エル・パソ
 
Area No.90/Serial No.745 ストーンリー・ホテル/ダラス

 Area No.91/Serial No.746  メモリアル・オーディトリアム跡地/ダラス


【バーチャル・ロックンロール・ツアーのバックナンバー】

★右下地図をクリックすると拡大表示されます。(クリック↓)

★ 本文中の表記について ★

←このマークをクリックすると、
Google-map上の位置が表示されます。

SMW=スコッティ・ムーアのウェブサイト
EDD=「Elvis Day By Day」 エルヴィス・デイリー記録集
EPC=エルヴィス・プレスリー・イン・コンサート(ウェブサイト)
HAC=ヒストリック・アエリアルス(アメリカの空撮サイト)

二度の大型ハリケーン襲来でロックンロールの歴史も木っ端みじんになった街
Area No.86/Serial No.741 シティ・オーディトリアム跡地/ガルベストン

 ガルベストンという地域は、ヒューストンの南東約80キロのメキシコ湾岸に広がっており、沖合約7キロに浮かぶガルベストン島に建てられていたシティ・オーディトリアム(上写真左側)にエルヴィスは1956年1月16日にハンク・スノウ一座の特別ゲストとしてやって来た。(上写真右側、新聞広告参照)
 シティ・オーディトリアムという名前はあくまでも「エルヴィス(音楽史)・サイド」からの呼称のようで、ローカル・サイトなど一般メディアにはシティ・ホールと記載されておる。 Wikipediaによると、フランス・コロニアル調の建築様式による建物だったようで、1階は屋台街(マーケット)、2階は市役所として使用されていたとされており、コンサートやイベント開催についての記載は無し。
 ただし1940年代頃からこの会場は音楽イベントが頻繁に開催されておることは間違いなく、Setlist-wikiには50年代中期にはエルヴィスの他、チャック・べリー、ジョニー・キャッシュ、ジェリー・リー・ルイスらロックンロール創世記を飾ったスターたちの出演記録が記載されておる。
 
 ガルベストンは1900年に発生した、8,000~12,000人の死者を出したアメリカの気象観測史上最大、最悪とされる「ガルベストン・ハリケーン」によって街は1日にして全壊。その後約16キロにも及ぶ防波堤が設置されるなどの復旧工事により以前の風光明媚な湾岸地域として復活。
 しかし1961年に20世紀のテキサス州史上最大のハリケーン「ハリケーン・カーラ」により再び甚大な被害を受けることになる。ハリケーン・カーラによってシティ・オーディトリアム(シティ・ホール)も倒壊。建物の残骸が完全に撤去された後、1965年跡地に消防署が建てられて現在に至っておる。(右写真ストリートビュー2024年3月撮影)
 現在のところ、地元サイト等によりシティ・オーディトリアムに出演したロックンロール・スターに関する記述はネット上ではほとんど見当たらない。ガルベストンという街は二度も大掛かりな復旧を遂げたものの、跡形もなく吹き飛ばされてしまったロックンロールの軌跡の再発掘は未だ手つかずのようじゃ。


 RCAのプロモ・スルーから16年、最高のパフォーマンスで凱旋完了!
Area No.87/Serial No.742 カントリー・コロシアム/エル・パソ


 1956年4月11日にエル・パソのこの会場で行われたライブに関しては、現在のところ上写真右側の3種類の新聞記事/広告が発見されているだけであり、その他詳細は不明。「Heart Break Hotel」が物凄い勢いでヒットチャートを賑わし始めていた時期であるものの、このライブは恐らくサンレコード在籍期間にボブ・ニールが取り付けた出演契約であろう。
 こうした類のライブの場合は、RCA側(パーカー大佐側)は「我々の交わした契約ではないのでさっさと片付けておいてくれ」と言わんばかりのズサンさで、ほとんど記録を残す仕事をしていなかったと思われる。メジャーデビュー直後のキングの、表沙汰にはならない裏の実態のひとつじゃろうな。

 70年代にはエル・パソでは2回ライブが行われており、1972年11月10日の会場は1956年と同じこのカントリー・コロシアムであった。

 

 地元メディア「エルパソ・タイム」は、映画「エルヴィス」の公開に際し、生前のエルヴィスとエルパソとの関わりの歴史を特集して2022年3月にウェブサイトにアップしておる。その中で“1972年当時は特にはライブ・レビューは書かれなかった”と記載されておるが、諦めずにしつこく探しておったら、当時の「エル・パソ・タイム」に掲載されたらしいレビューが別サイトの中で見つかった(笑)。以下転載しておこう。

 「エルヴィス・プレスリーと彼の大勢のミュージシャンが金曜の夜コロシアムに集結し、エルパソにしては高額なチケット代を払って押し寄せた9,000人以上の観衆を熱狂させた。“エルビス・ザ・ペルヴィス”は消え去って久しいが、こうした回転は、同じように挑発的でセクシーな魅力を醸し出す、より繊細な動きに取って代わられた。彼は、素晴らしく、温かみがあり、よく訓練された歌声を持ち、コロシアムでその歌声を明瞭なダイナミクスで響かせた。
 伝説のマネージャー、トム・パーカー大佐の綿密な指導の下、エルヴィス・プレスリーのショーはコロシアムで上演されたショーの中でも最大規模のショーの一つに成長した。」

「彼のプログラムは、ミリオンセラーとなったヒット曲を多く含むよう綿密に計画されており、彼はそれらの曲を、素晴らしい声と迫力あるスタイルで披露しただけでなく、見えない観客全員に何マイルも届くようなドラマチックな演出、ステージ上の軽快で頻繁な動き、大量の汗、最前列に3枚のスカーフを投げるといった演出も施した。最後の曲でケープを羽織ったのは、ほとんどやりすぎだった。」

「彼は観客に相応しいパフォーマンスを披露し、熱烈に登場し、十分に長く滞在し、すぐに立ち去り、ショーを見に来た観客の熱狂的な拍手を獲得した。」

 また「エル・パソ・タイム」は、1972年当時地元のファンクラブの19歳の会長さんが深夜のパーティーに招待された件を取り上げておる。ファンクラブからは黒のソンブレロ(つばの広いメキシカンハット)がエルヴィスへ贈られ、会長さんへはエルヴィスからサインとプレゼントが贈られたという。会長さんのコメントは次の通り。
「彼はとても美しく、しわなどありませんでした。ひどく疲れていましたが、とても礼儀正しかったです。私は彼にクラブのことを話し、ソンブレロを渡しました。彼は何度も『ありがとう』と言ってくれました。彼が私の首に寄りかかって抱きしめてきたときは信じられませんでした」


この会場は50年代にはシンプルに「コロシアム」と呼ばれておったようで、“カントリー”が付けられて呼ばれるのは70年以降のようじゃ。アメリカのyou tuber動画の中に、会場内にエルヴィスの72年出演時の写真とチケットが額装されてディスプレイされておる様子が撮影されておる。
 三角形の屋根が特徴的な建物の外観は現在でもほとんど変化しておらず、現役のイベント会場として稼働中じゃ。右写真ストリートビュー2022年4月撮影

 “職場復帰”直前の熱烈ゲリラ歓迎!?
Area No.88/Serial No.743 ユニオン・ステーション/エル・パソ

 1960年4月20日、軍隊除隊後初の本格的なお仕事となった映画「G.I.ブルース」の撮影のため、エルヴィスはメンフィスから列車でハリウッドへ向かう途中、エル・パソのユニオン・ステーション(上写真左側)で地元ファンから熱烈な歓迎を受けた。当日エルヴィスを乗せた列車の到着時間は夜の10時45分。その4時間も前からファンたちは駅に集まり始め、最終的には2,000人を越えるファンが集まってエルヴィス列車を迎えた。エルヴィスの服装は黒いベルベットのパンツ、黒いエナメルの靴、赤い開襟シャツだった。
 集まったファンの中には厳重な警備網をすり抜けてエルヴィス列車への侵入に成功した16歳の女性もいた!エルヴィスは彼女の侵入を歓迎してキスをプレゼント!(上写真中央)また30歳代の女性2人がエルヴィスを列車からひきづり降ろそうとする騒動もあったとか。警備に当たっていた者は、ファンと列車を隔てる高い鉄格子を彼女たちがどうやって乗り越えて列車にたどり着けたたのか分らないと後日語ったそうな! 

 エルヴィスはその後一旦列車を降りて、警備員4人に付き添われながらファンが殺到している金網フェンス沿いを軽く散歩しながらファンたちとおしゃべりをしたり、インタビューにも答えておる。

 「エルパソは素晴らしい街だと思います。ここは何度か来てますよ。私は西テキサスの子供みたいなものですから。かつてはこことフアレスを一人でぶらぶら散歩したこともあります。ファンたちが許してくれるなら、今すぐにでももう一度行ってみたいですね!」とまずエル・パソへリップサービス!
 さらに「軍役を退役出来て良かったが、軍隊では多くの友達だ出来た」「ドイツでデートした女性(プリシラの事?)はただのデート相手」「音楽スタイルを変えるつもりはない」「ロックンロール・ミュージカル映画を長く続けることは不可能」「シンガーにならなかったら大学に通いたかった」等々様々な質問に丁寧に答えておる。(右写真2枚は4月20日列車内での撮影とされておるが、撮影時間がエル・パソでの停車時間内だったのか否かは不明)

 Wilipediaによると、エル・パソのユニオン・ステーションはいくつかの別路線への乗換駅として機能しており、カリフォルニア州方面へのサザン・パシフィック鉄道も乗り入れておる。エルヴィス列車はこの駅でサザン・パシフィック鉄道の線路へ乗り入れたのじゃろう。現在でも稼働中のステーションであり、駅舎の建物は国家歴史登録財になっておる。
  エルヴィス列車は特別チャーター列車であり、1時間45分ユニオン・ステーションに停車した後にカリフォルニア方面に向けて出発した。列車が夜の闇の中に消え去るまでファンたちはエルヴィスを見送っておったという。右写真ストリートビュー2018年5月撮影。


カラー写真無しながら、熱狂の記録は残っている76年のテキサス・ライブ
Area Area No.89/Serial No.744 シビック・センター/エル・パソ

 1976年4月2日に行われた、もうひとつのエル・パソでのライブ会場がこちらシビック・センターじゃ。Setlist-wikiでは上記のカントリー・コロシアムとなっておるがこれは誤りなので要注意。シビック・センターとカントリー・コロシアムはいずれも62号線沿道に建てられており、約5キロ(車で9分)離れておる。
 この時期のライブにしては珍しく、ネット上でカラー写真がまったく見つからず、モノクロ写真も日時と場所が明記されておるのは上写真3枚のみじゃ。ライブ・レビューは上記「カントリー・コロシアム」で上述した「エルパソ・タイム」のウェブサイトに下記の通り復刻掲載されておった。
 
 
ショービジネス界の生ける伝説、エルビス・プレスリーは水曜日の夜、シビックセンターのグランドホールに7050人の観客が集まり、拍手、タップ、歓声、叫び声をあげ、再びその才能を証明した。他にも何千人もの観客が来るはずだったが、席が足りなかった。

このショーは始まる前から熱狂的な盛り上がりを見せていた。午後8時過ぎには駐車場が不足し、座席は予約済みでキックオフは午後8時30分までなかったにもかかわらず、人々は急いでホールに向かった。休憩を挟んで午後9時40分、ついにエルヴィスがボディーガードに囲まれ、テーマソングとサイケデリックな照明に導かれてステージに登場した。観客は熱狂し、エルヴィスが最初の曲「CCライダー」を歌う前からスタンディングオベーションで喝采を浴びた。

 ベビーブルーのフレアパンツとベストに白い長袖シャツ、そしてもちろん幅広のラインストーンのベルトとパンツのキラキラ輝くインセットを身につけたプレスリーは、1、2分ほど観客と戯れ、雰囲気を確かめていた。彼は盛り上がると感じ、すぐに「アイヴ・ガット・ア・ウーマン」と「アーメン」に移り、後者では観客も参加した。

 ギターを放り投げ、彼は「If You Love Me Let Me Go」を歌いながら、スカーフを手を伸ばして落とし始めた。スカーフのギミックによりステージ前は大混雑となり、警官が腕を組んで壁を作り、女性たちを押し戻すことで最終的に鎮圧された。プレスリーはプログラムの間中スカーフを与え続けたが、これは間違いなくフロアにいたほとんどの観客の気を散らすものとなった。

 プレスリーはコーラスとリード奏者を紹介するのにかなりの時間を費やし、楽器奏者に短いソロ演奏の機会を与えた。ここでも、観衆がプレスリーを見聞きするために来ていたことは明らかだった。そこで、彼は仕事に戻り、観客の要望に応えて「I'm Hurt」を力強く演奏し、「Hound Dog」と「Take My Hand」を再び演奏して、観衆を満足させながら帰路についた。


シビック・センターの周囲には次々と大型ホールが建てられており、現在「エルパソ・コンベンション・センター」という複合イベント施設のひとつになっておる。Google-mapで確認すると建物の名称は「Abraham Chavez Theatre」とされておる。エルヴィスが出演した当時の独特の外観は現在でもまったく変わっていない。(右写真左側Google-map空撮、右側ストリートビュー2015年10月撮影)


50年代観客数最多記録ライブの際に宿泊したホテル
Area No.90/Serial No.745 ストーンリー・ホテル/ダラス
 エルヴィスが登場した50年代のライブにおいて、最大の観客数が集まったのは1956年10月11日、テキサス州ダラスで開催中の「ステイト・フェア」のミュージックイベントであり、26,000人の大観衆が会場のコットン・ボウルに押し寄せた。ドラマーのD.J.サンタナは「まるで戦争の中に放り込まれたようだった」と凄まじい数の観客の熱狂を述懐しておった。(「バーチャル~テキサス州2023年前編」Area No.24でご紹介済)
 このイベントに出演するために、当日エルヴィス一行はダラス老舗の大型ホテルストーンリー・ホテルに宿泊した。(左上写真)1923年創業のこのホテルはエルヴィスが宿泊するに相応しい豪華な設備とサービスを兼ね備えていたこともさることながら、ステイト・フェアの開催によってダラスの街中に人が溢れかえっていた期間に、中心地から北へ数キロ離れていたホテルのロケーションが「エルヴィスの身の安全」に腐心していたパーカー大佐のお眼鏡にかなってブッキングされたらしい。

 オープン当時は主に富裕層相手の高級アパートメントだったストーンリー・ホテルは、一般の旅行者用の部屋数は僅かだったらしい。エルヴィスが宿泊した当時、旅行者用の部屋がどの程度用意されておったかは不明じゃが、ひょっとして大佐とエルヴィスとごく少数のSP担当者しかこのホテルには宿泊しなかったかもしれん。
 ホテル最大のセールスポイントは各部屋に当時は高価だったラジオが備え付けられておったことと、画期的な「Savidor デリバリーサービス」じゃ。Savidorとは部屋の扉の外側にドライクリーニング物を入れておける縦長の収納スペースが取り付けられており(左写真参照)、クリーニング物の受け渡しの際に宿泊者と従業員が顔を合わせる必要がなく、宿泊者のプライベート厳守が考慮されたアイディアじゃ。右写真はSavidorシステムのための扉。ストーンリー・ホテルの写真ではないが、ご参考まで!アメリカの古いホテルのごく一部は、このタイプの扉が未だに使用されておるらしい。

 またストーンリー・ホテルはラウンジ、レストラン、ビリヤードルーム、ボールルームの他、食料品店や理髪店等のテナントも充実しておったこともあり、一時期はデキシー・マフィア(ミシシッピー州のギャング集団)の溜まり場でもあったという。


 ストーンリー・ホテルの建物は2018年に大幅に改修され、現在は業界大手メルディアン・ホテル傘下の、ル・メルディアン・ダラス・ザ・ストーンリーとして経営されておる。右写真ストリートビュー2024年8月撮影。


 ベガス地獄も体調不良も吹き飛ばして・・・!
Area No.91/Serial No.746 メモリアル・オーディトリアム跡地/ダラス

 ダラスはヒューストン、サンアントニオに続くテキサス州第3の人口を擁する大都市じゃ。石油産業により、絶え間ない経済発展が続き、wikipediaによると50年代の人口は約70万人、70年代には100万人近くまで膨れ上がった。
 50年代にテキサス州を駆け回って122回ものライブを行ったエルヴィスはダラスへは9回、70年代に入ると1971年11月13日(昼夜2回)、1975年6月6日、1976年12月28日メモリアル・オーディトリアム(左写真)にやって来た。
(上写真はいずれも71年のライブ撮影。左側がマチネー、中央と右側がナイトショー)

 71年後半のエルヴィスのライブスケジュールを確認すると、あらためて気の毒、というかゾッとする。7月20日から9月5日まで、ほぼ休みなしにラスベガスとレイク・タホでのロングラン・ライブ・・・同じ会場、同じ様な観客とセットリスト・・・これは素人目に判断しても明らかにエルヴィスがウンザリしていたことは想像に難くない。二ヶ月の休暇の後に11月5日からツアーがスタートして、ダラス・メモリアル・オーディトリアムは8番目の会場だった。
 ラスベガス病から回復出来たのであろう。1971年11月のツアーは好評であり、ダラスでのライブ・レビューは下記の通り。


 エルヴィス・プレスリーは、土曜日の夜、メモリアル・オーディトリアムで全力のパフォーマンスを披露し、満員の、叫び声を上げ、溢れかえり、熱狂的な(などなど)観客を両手でしっかりとつかんでいた。
 彼は「2001年宇宙の旅」のクラシック序曲に合わせて、大歓声とともにステージに飛び上がり、観客を疲れる旅へと連れて行った。

 実際のところ、観客はローリング ストーンズの観客と混同されることはなかった。半数以上が女性で、幼い子供を持つ母親で、半ば体制側のホット パンツと白いブーツを履いていた。それは間違いなく、ストレート セットの「最高の夜」だった。そしてエルヴィスは彼らを失望させなかった。
 彼の声は成熟し、気取りが少なくなり、力強くなった。彼は22曲を歌い、合間のおしゃべりはほとんどなかった。
演劇、アクロバット、発声法、そして個人の力の輝きでメモリアル・オーディトリアムを席巻した。

 1976年12月のツアーは、エルヴィスがグッド・コンディションを取り戻し、同年のツアーの中で最高のクオリティのライブが多かったとされておる。中でも31日のペンシルベニアでのニューイヤーズ・ライブとともに28日のダラスでのライブがベストという声もある
。(右写真左側75年、右写真右側76年のライブ撮影)

「YEAH SEE, See See Rider」・・・.観客は驚嘆する。彼はここ1年半よりも調子が良く、声はとても力強く、エネルギーに満ちている。今夜は本当に歌いに来たようだ!! いくつかの言葉を強調し、引き伸ばしている。このロック ソングの素晴らしいバージョンを披露しているのだ。
 彼のジョークも冴えている。熱狂する観客を揶揄う。「皆さん、これはコンサートです。乱交パーティーではありませんよ!!」.
 ジェームスはエルヴィスに Love Me を始めるよう合図します。今夜彼は、リラックスして集中した良いバージョンを披露した。彼の声はとても温かい。この歌をこのように歌うのを聞くのは楽しいです。すばらしい!

 1976年12月のツアーは、エルヴィスが元気を取り戻した最後のツアーだった。彼の気分、声、熱意は素晴らしく、ショーは彼のキャリアの中でほぼ最高のものだった。彼は最高のものを最後に残したのだ。このショーはこれまでで最高のショーのひとつだった。彼は1時間以上も歌い続けていたのだ!


 1957年にオープンしたメモリアル・オーディトリアムは、エルヴィスをはじめとしてビートルズ、レッド・ツェッペリン等ダラスを訪れたビッグロッカーたちのライブ会場として使用されてきた歴史を持つ。時代の経過とともに周囲により最新設備を誇るよりビッグ・サイズの会場が併設されていき、現在は複合イベント施設内のひとつとして、小規模なコンサート会場として使用され続けておる。
 エルヴィスが登場した当時の住所をGoogle-mapで検索すると、「ケイ・ベリー・ハッチソン・コンベンション・センター」の位置がヒットするが、これは後年作られたアリーナであり、旧メモリアル・オーディトリアムは真東へ約270メートル先にあるCity of Dallas Office of Special Eventsと改称された「市庁舎」表記の建物である。右写真ストリートビュー2024年6月撮影。

バーチャル・ロックンロール・ツアー」の全てのバックナンバーは「一覧ページ」から御覧になれます。
「バーチャル・ロックンロール・ツアー一覧ページ」
 (←クリック)

直近3回のバックナンバーは、下のバナーをクリックして下さい。
     


GO TO TOP