
| アップデート:2026年5月23日 |
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ヒルカントリー・ブルースの聖地にも若きエルヴィスはやって来ていた!
リプリーという街は、トゥペロの北約80キロ、車で40分ほどの距離にあり、当地のハイスクール(左写真)にエルビスは1955年2月7日にやってきた。前年暮れから続くことになった果てしなき全米ドサ周りの初期の頃であり、ミシシッピー州では四番目に訪れた街じゃ。日本人にはまったく馴染みのないリプリーじゃが、ヒル・カントリー・ブルースと呼ばれるアメリカン・ルーツ・ミュージック発祥地域の中に含まれており、マニアには有名な街ではある。ヒル・カントリー・ブルースは細かくジャンル分けをすれば、ミシシッピー・デルタ・ブルースとはまた別種のルーツ・ミュージックである。 また、アメリカ南部文学史上もっとも偉大な作家と称され、1949年にノーベル文学賞を受賞したウィリアム・フォークナーの代表作「土にまみれた旗」の主人公であり、当地の発展に多大な貢献をした実業家であるフォークナーの曾祖父が19世紀後半に長期間滞在していた街として有名なんだそうじゃ。 わしは学生時代に「土にまみれた旗」の縮刷版「サートリス」を、フォークナー好きの義兄に薦められて読んだ記憶があるが、内容は忘れちゃったし、リプリー云々なんてまったく記憶にないわい・・・アホはこれだから(苦笑) エルヴィスのライブ写真は残されておらんが、この時期にしては希少な新聞記事(左写真)と広告(右上写真)の記録はネット上で発見した。エルヴィス紹介記事はこの頃の定番コピー“ルイジアナ・ヘイライドの新しいスター”的な取り上げられ方であり、ついでに“Good Looking”とも!(笑)またご丁寧に、スコッティは“hot guitar”、ビルは“thumps the bass”と書き添えられておる。 今更ジローラモじゃが、エルヴィスは音楽、アクション、ファッションだけでなく、“飛び抜けて美しいお顔”も音楽ファンには衝撃的だったことは、当時の他のミュージシャンたちと見比べれば現在でもよお~く分かるってもんじゃ(笑)。男性シンガーでわざわざ“Good Looking”とか“Handsome”と紹介されることもエルヴィスが音楽史上初だったのでは?(笑) 確か、ジョニー・キャッシュがその点に対して当時から激しく嫉妬していたと奥様のジューン・カーターが笑いながら語っておった。「エルヴィスってすごいハンサムでしょう?ジョニーはね、昔から“ったく、アイツは顔がいいから~”“大体あの野郎は顔で得して~”って妬いていたのよ」と! ![]() |
エルヴィスのライブ史上もっともマイナーな会場(!?)
1955年3月28日にエルヴィスがやってきたミシシッピー州ビッグ・クリークは、ビッグどころか、50年代当時も現在も人口150人程度の小さな、小さな村じゃった!エルヴィスがライブで訪れた数限りない場所の中で、もっとも人口の少ない場所だったのではないか!場所はミシシッピー州のど真ん中、トゥペロの南西約100キロの地点じゃ。100人あまりの村人全員がエルヴィスを観に集まったわけでもなかろうし、ビッグ・クリーク周辺数10キロ四方にも人口の多い街は無さそうだし、果たしてお客さんが集まったんじゃろうか!?上写真左側の通り、新聞の広告記事は残っておるので、ライブが開催されたことは事実なんじゃろうな。 ビッグ・クリークにハイスクールが存在していたことも、地元の簡易的な歴史紹介サイトで確認出来たが、そこに記載された所在地は非常に曖昧。Set List Wikiに掲載されておる所在地は、現在は雑木林の中に家屋らしき建物が寂しく建っておるだけ。かつてハイスクールが存在した形跡はなし。 HACの空撮写真で1955年当時の所在地をチェックしたところ、上写真中央の通り。赤丸内の建物がハイスクールに見えないこともない!?上写真右側は同じ場所のGoogle-map空撮写真。 この地域におけるハイスクールの存在自体を疑ってから調べたところ、エルヴィスとはまったく関係はないが、生涯ビッグ・クリークで過ごされたご長老の近年の逝去記事がネットにアップされておった。記事の中に「彼は地元のビッグ・クリーク・ハイスクールを卒業 し~」という一文があった。確かにハイスクールは存在したのじゃろう。。 |
1955年4月20日、13日間で3,800キロ移動の強行ツアーのスタート地点 ご紹介していくにつれて掲載出来る情報が益々少なくなってしまうが、1955年4月20日にエルヴィスがライブを行ったグレナダという地域とアメリカン・リージョン・ハットという施設に関する情報は、左写真の広告のみ。あとはネット上にはまったくありませので悪しからず。グレナダは上記ビッグクリークの西約40キロの地点じゃ。この日のライブに関しても全く情報がないが、強いてご紹介出来る事実としては、1954年暮れから休みなく続行中のツアーが55年4月16日のテキサス州ダラスでのライブを終えて一旦休憩となり、グレナダは4月20日からまたスタートする強行スケジュール・ツアーのスタート地点だったということか。 下地図は、4月20日のグレナダから5月2日のルイジアナ州バトンルージュまで、お休みは僅か1日だけで13都市を周回したエルヴィスの足跡じゃ。これはあくまでも直線による移動経路であり、実際は幹線道路を使った車移動だったので距離はもっと長かったはずじゃ。 グレナダからバトンルージュまでの移動距離の合計は約3,800キロ。これは稚内から鹿児島までを往復した距離に相当し、ただただ「スゲエ」のひと言!もしエルヴィス一行が、グレナダ到着後に地図を広げて以降のスケジュールを確認したら、「マジかよ・・・」と唖然としたかもしれない・・・。当時のツアー中の一定期間の例に過ぎないが、こんな具合でエルヴィス&ブルームーンボーイズは1955年いっぱい全米を駆けずり回ってまわっておったのじゃ。 この先のツアースケジュールも地図上で各ライブ地を繋げてみるのも一考ではあったが、それをやると移動経路線で地図が真っ黒になってワケわかんなくなってしまう!
現在ネット上ではグレナダの退役軍人会が存続し、施設が使用されておるかは 確認出来なかったが、建物の現状は右写真の通り。左側はストリートビュー2014年2月撮影写真で、施設が稼働中の模様。右写真は2024年9月撮影。グレナダの中心地から7キロ東に離れた幹線道路沿い位置にある。 |
何かと事実確認調査を悩ませてくれるミシシッピー州のエルヴィスゆかりの地!このマコームという地域にあるハイスクールもまた然り!?マコームはミシシッピー州有数の都市ジャクソンのほぼ真南150キロ、更に30キロ南下するとルイジアナ州との州境に達する地点にある。この周辺はデルタ・ブルースゆかりの地も点在しておる。 エルヴィスは1955年9月9日、マコームのハイスクールでライブを行った記録があり、その時の広告も3種類ネット上でアップされておる。(右下写真3枚)当日、ジョニー・キャッシュも共演したことが広告から確認出来る。 しかしこのハイスクールは現存しておるにも関わらず、これまでの歴史の実体がネット上では不鮮明なのじゃ。左上写真2枚、左側はマコーム・ハイスクールのクレジットがなされておるが、右写真はギブソン・ハイスクール。このギブソン・ハイスクールという名称は、Google-map以外のネット地図では、マコーム・ハイスクールと同じ場所に表記されておる。マコーム・ハイスクールの前身名かと思いきや、学校名の変更の事実は確認出来ないのじゃ。 さらに不可解なのは、ネット上でギブソン・ハイスクールの名称によるスクールの文字情報はゼロ(?)Wikipediaでもマコーム・ハイスクールの歴史に関しては、開校年をはじめとして年月の表記が一切ない(??)一方、ギブソン・ハイスクール卒業という方の同窓会的Facebookは存在する(???)更に、現在のマコーム・ハイスクールの建物の形状が、上写真右側のギブソン・ハイスクールの写真とほぼ同じ(????)エルヴィスがライブを行った事実は間違いないのじゃが、一体何なんだ、このハイスクールは・・・。 マコームという街の歴史を調べてみると、19世紀から深刻な人種隔離問題や黒人のデモや暴動が起こっていたことが分かる。19世紀のアメリカ経済の発展に大きく貢献したグレイト・ノーザン鉄道の工場がルイジアナから移設された場所がマコームであり、移設の理由が「ルイジアナはバーが多過ぎて労働者たちが働かない!」だったとか。その労働者たちとは黒人労働者だったようで、20世紀初めには黒人労働者たちの大規模なストライキ、デモも起こった。更にマコーム・ハイスクールは50年代当時は白人専用だったようで、別の学校(ギブソン・ハイスクールではない)に集められていた黒人学生たちの激しい抗議デモも起こった。 “黒人の人権を認めるか否か”に長い年月を要し、人種隔離問題が表面上解決したのは1980年代。それからはマコーム・ハイスクールは事実上黒人学生専用の学校となった。こうした歴史的背景はwikipediaではほとんど触れられておらず、あたかも80年代以降に開校されたようなニュアンスの書き込みしか見られない。 ![]() 右写真はストリートビュー2022年3月撮影であり、冒頭に掲載した50~60年代撮影のギブソン・ハイスクールの写真と外観、形状はほぼ同一じゃ。 |
エルヴィス・プレスリー・バースプレイス&パークは、ミシシッピー州トゥペロにあるエルヴィスの生家と周囲の関連施設全体の総称であり、ユースセンターとはかつて敷地内にあった地元の子供たち用のレクリエーション施設じゃ。(正式名称はElvis Presley Recrietion Youth Centre。上写真3枚)「バースプレイス&パーク」は「バーチャル~ミシシッピー州2011年編」で紹介しておるが、かつて存在したユースセンターには触れておらんかったのでこの度追加情報としてご紹介しておこう。 1956年9月26日トゥペロのフェアグラウンズで故郷凱旋ライブを行った際(「バーチャル~ミシシッピー州2011年編」Point-7参照)、エルヴィスはジェームス・バラッド・トゥペロ市長に次の様に願い出た。 「私が生まれた家と15エーカーの土地が売りに出されているのを見ました。この小切手で買収して、イースト・トゥペロの子供たちのために公園を建設してほしいのです。」 そして14,000ドルの小切手を市長に渡して「エルヴィス・プレスリー・ユースセンター」の建設、造園を依頼した。 小切手を受け取ってホクホクの市長さんと関係者は土地を買収して(上写真左側)、その後エルヴィスの崇高な理想は具現化されるはずだった。 ところが以降も工事の方は一向に進められず、業を煮やした(?)エルヴィスはついに1961年に「工事が着手されない場合は法的な手段に出ますよと」と市の行政を一括!市長さんは慌てて工事をスタートさせて短期間のうちにユースセンターは完成した。 ダンスホールのある建物を初めとして、その周囲にピクニック・エリアやプールもあったという。上写真中央、右側は1967年頃の撮影じゃ。ユースセンターの建物の西側にあるエル ヴィスの生家も1960年代中頃には修復されて、後に一般公開されるようになった。ジャームス・バラッド市長さんは、フェアグラウンズのライブにも顔を出してエルヴィスに「名誉市民」の証である大型の鍵を贈呈したり(右写真右側~左端の人物)、ステージ上でスピーチしたり(右写真左側~右端の人物)するなどチャッカリとエルヴィス人気に便乗しておったが、ユースセンター建設の要請は真に受けず、14,000ドルの小切手をエルヴィスからの寄付同然とか都合よく解釈したのじゃろう。土地買収金の支払い以外は、飲んだり食ったりして使っちゃったんじゃねえのか(笑)
エルヴィスがどのぐらいの頻度でユースセンターを訪ねておったのかは定かではないが、プリシラと結婚した後にエルヴィスは数回彼女をトゥペロへ連れて行き、970年12月29日にプリシラを伴ってユースセンターにやって来た時の写真は残されておる。(上写真左側)この時はトゥペロが属するミシシッピー州リー郡の副保安官バッヂを副保安官から直々に受け取っておる。(上写真中央)この副保安官ビル・ミッチェル氏は、エルヴィスが子供の頃に足繁く通ったラジオ局WELOでミシシッピ・スリムが率いるバンドでフィドルを演奏しておったそうな。また同日、エルヴィスの幼馴染であり警察巡査長だったガイ・ハリス氏にも会っておる。(上写真右側)巡査長バッヂも貰っちゃったのかもしれない(笑) なおプリシラは2014年にバースプレイス&パークを訪問した際、「1970年代初め以来久しぶり」と語っておったので、上写真左 側の訪問時以来ということじゃろう。 |
1956年に故郷トゥペロの生家周辺にエルヴィス・プレスリー・ユースセンターを設立するための資金14,000ドルをトゥペロ市長に渡した時、エルヴィスはそう語ったと言われておる。その後エルヴィスがトゥペロを訪れた機会は、実際はお忍びで訪問することが多かったので回数は定かではない。 トゥペロどころか、ミシシッピー州でのライブが少なかったことは確かじゃ。1975年5月5日に18年ぶりに同州の州都ジャクソンでライブを行い、以降同年6月8、9日、76年9月5日のわずか3度(ライブ回数は5回)だけである。会場はいずれもミシシッピー・コロシアム(下写真左側)だった。50年代はミシシッピー州の草深い地域を這いずり回るようにライブツアーを行ったエルヴィスだが、以外にも州都ジャクソンには1975年に初めてやって来たのじゃ。 (※上写真は左側75年5月5日、中央75年6月8日マチネー、右側6月8日ナイトショーの撮影)
![]() 1975年5月5日は竜巻の被害を被った同州マコームの被災者のための慈善ライブであり、ライブのチケット売上から約110,000ドルをエルヴィスは同州へ寄付しておる。上写真中央は、ライブ前に舞台裏でエルヴィスから小切手を受け取る同州のビル・ウォーラー知事。上写真右側は、エルヴィスと知事が並んでおる舞台裏の現在の様子であり、ほとんど変わっておらんようじゃ! 知事はエルヴィスの寄付に際して。「非常に異例で寛大な行為」とコメントし、慈善ライブに関する感謝の決議文のコピーをエルヴィスに進呈。決議文には「この慈愛に満ちた行為に対して、全ミシシッピー州民が感謝している」と記されておった。 なお、チケット売上金だけではなく、当日会場で販売されておったエルヴィス・グッズの売上金も全て寄付されたという。 当日コロシアムでは、地元のエルヴィス・ファンクラブがコロシアムをレッド カーペット、特別仕様の看板、および「ミシシッピはエルビス熱に沸く」などのスローガンを書いた風船で飾り付け、コロシアムの向かい側にあるモーテルの前には「エルビス、お帰りなさい」の横断幕が掲げられたという。(※左上写真は76年9月5日のライブ撮影) 現在のところミシシッピー州ジャクソンで行われた3度(5回)のライブのレビューがネット上で発見出来ないのがミョーに不思議。この時期のライブレビューに少なからず書かれておる「太った」「エネ ルギーが続かない」「1時間弱で終わってしまった」といった些細な揶揄いや失望感の描写でさえ、エルヴィスの慈善行為に対して「不謹慎」と見なされて公開されておらんのであろうか? |
| 【参考情報】 ミシシッピー州ヒューストンの「アーモリー」について 以上をもって、ミシシッピー州のエルヴィスのライブ会場へのご案内を全て終了させて頂くことにする。ただし一ヵ所だけご案内を見送った会場がある。それは、現在のところ“1955年10月25日にライブが行われた可能性がある”とEDDで但し書きされておる、ミシシッピー州ヒューストンの「アーモリー」じゃ。テキサス州ではなくて、ミシシッピー州のヒューストンじゃ。 不確定情報については「?」マークを付けるSMWには、日付と会場名のみ記載されており、私設エルヴィス・サイトでも同じゃ。某Facebbookだけが、会場の写真とライブ写真が併せて掲載しておる。(下写真左側、右側)
アーモリーとは、全米各地に点在しておるアメリカ軍の武器格納庫および軍人施設じゃが、ネット上ではミシシッピー州ヒューストンにアーモリーが存在していた事実は確認出来なかった。また某Facebookが掲載しておるアーモリーの写真(上写真左側)は、テキサス州ヒューストンの方に現存しておるアーモリー(上写真中央)と同一の建物に見えるので、明らかにエルヴィスのライブ会場としてのこの写真(上写真左側)の掲載は誤まった情報と思われる。 そうなるとライブ写真の方(上写真右側)も疑わしくなってくるものじゃ。この写真はアーカンソー州テクサーカナのミュニシパル・オーディトリアムでの撮影に見えないこともない!? ライブ情報はおろか、ライブ会場の情報すらまったく見つけられなかったミシシッピー州ヒューストンの「アーモリー」は、同州のエルヴィスゆかりの地巡りにおいてはスルーさせて頂いたのでご了承頂きたい。 |
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