やがていくばくかの時間が経過してからようやく「ジェフは半世紀を越える長い長い音楽の旅を一旦終えたんだな~」と、ジェフの“新たなる旅立ち”を受け入れることができたもんじゃ。 ジェフ・ベックは1974年に「ブロウ・バイ・ブロウ」を発表してから今日に至るまで、20枚近くの主にギターインストゥルメンタル・アルバムを製作してきた。音楽フォーマットは様々であり、発表のインターバルもバラバラ。やりたい時にやりたいフォーマットでギターを弾くといった唯我独尊のスタイルを貫いておった。それだけ彼のギターサウンドが類まれな独自の音色と質感を最後まで失っていなかった証拠でもある。 この度ジェフベックの追悼コラムを書かせて頂くにあたり、もっとも多くのファンを獲得してきたギターインストゥルメンタル時代を振り返るべきかもしれんが、実はわしがもっとも好きなジェフの活動期間はギターインスト以前の期間、ヤードバーズを脱退してからの第一期&第二期ジェフ・ベック・グループ時代(1968~1972年頃)なのじゃ。この間残された4枚のアルバムや数枚のシングル盤を立て続けに聞くと、まさに“おもちゃ箱をひっくり返した”様な様々な音楽性がブチ込まれてあって賑やこの上ない。 その一方、ジェフが当時発掘してきたバンド用ミュージシャンは、後にビッグ・ロッカー、プレイヤーとして名人達人に成った連中が目白押し!楽曲単独で聞くと、今でもやたらとゾクゾクしたりウットリするプレイが各パートで聞けちゃう! そんなジェフ・ベック・グループ時代の約5年間を振り返って諸君にご紹介することでジェフ・ベックに哀悼の意を表したい。七鉄お得意の本筋から外れた脱線バナシも少々かましており、ちょいと長文になっちまったが、最後までお付き合い頂けたら嬉しい! 【100%ピュアロカビリアンの方へ】 ジェフ・ベックは、1993年にジーン・ヴィンセントのレパートリーをカヴァーした「クレイジー・レッグス」というロカビリー・アルバムを発表しており、その演奏はクリフ・ギャラップに捧げる!とされておった。前作の「ギターショップ」がグラミー賞のベスト・インスト・アルバム賞に輝くなど、ジェフがもっとも脂がのっておった時期の作品じゃ。 共演したビッグ・タウン・プレイボーイズとジェフの交流はその後も続き、YOU TUBEにはエルヴィスの「My Baby Left Me」のカバーライブもアップされておる!またブライアン・セッツァーとともに、お互いに敬愛するエディ・コクランの「20 Flight Rock」を共演した映像もある!100%ピュア・ロカビリアンの方も、この度の訃報を機に少々ジェフ・ベックを聞いて頂ければ嬉しいわい。 |
第一期ジェフ・ベック・グループ時代 ~マルチ・ギタリストを装いながらも、ハードロックバンドのフォーマットを形成 【 主要メンバー 】 ギター :ジェフ・ベック ヴォーカル:ロッド・スチュワート ベース :ロン・ウッド ドラムス :アインズレー・ダンバー → ミック・ウォーラー ピアノ :ニッキー・ホプキンス 製作アルバム:「トゥルース」「ベック・オラ」 誰なんだ、この人は?状態からスタート まずこの時代はメンバーが凄い!ロッドとロンは言うまでもなく“あの”ロッドとロンじゃ。アインズレーは後にジャーニーに参加したこともある、1990年代まで名セッション・ドラマーとして数多くの名演を残しておる。ニッキー・ホプキンスは、70~80年代にわたってローリング・ストーンズのピアニストとしても名を馳せたお方じゃ。 この「第一期」の活動当時はプロデューサーのミッキー・モストの意向により、ジェフ・ベック・グループとは名乗っておらず、レコード表記もジェフ・ベックだけじゃ。第二期ジェフベック・グループが誕生してから区別をしやすくするためにマスコミが「第一期~」と呼び始めたのをきっかけに、以降は一般的にも第一期~と呼ばれるようになった。 第一期ジェフ・ベック・グループが始動する前、1967年3月にジェフはソロシングル「ハイ・ホー・シルバー・ライニング」を発表しており、ここでは第一期ジェフ・ベック・グループの活動と一括りでご紹介しておく。ボーカルはジェフであり、なんだか三流のコーラスグループの曲みたいなヘンテコなポップス。ジェフのヴォーカルも調子っぱずれで、よくまあこんなのリリースしたな~て笑えるわい。しかし中間部にブチ込まれたギターソロは「さすがはジェフ」って唸るほどのハードエッジ! んで、シングルのB面が別の意味で凄い!ジミー・ペイジがジェフのために書いたと伝えられる「ベックズ・ボレロ」。フランスの作曲家モーリス・ラベルの行進曲風「ボレロ」をジミー(とジェフ)がロック・リフ調に改編した異色のインストでメッチャかっこいい!ジェフのヤードバーズ在籍時にサイド・プロジェクトとして企画された演奏であり、ジミー・ペイジ、ジョン・ポール・ジョーンズ、キース・ムーン(ザ・フー)がレコーディングに参加。完成から10ヶ月後に「ハイ・ホー~」のB面として日の目を見ることになった。 2009年ジェフのロック殿堂入り表彰式の際、その記念演奏で客演に駆け付けたジミー・ペイジと合奏した曲でもあり、中間部でツェッペリンの「移民の歌」を挿入した往年のブリティッシュロック・ファンだったら唸るような演奏を披露した。 第2弾シングルの「タリーマン」もまた、ジェフのボーカルによるみょうちくりんなポップス。ジェフの声って200%ボーカリスト向きじゃないことを証明しとるようじゃ。ドラマーのアインズレーはこの曲のポップチューンに嫌気がさしてグループを脱退したという。「ヤツのヘヴィーなグルーブ感を失うのは痛かったな」とはジェフの談じゃが、だったらなんでこんな曲やるんじゃい?しかしこれまたねじ込まれたギター・ソロが無茶苦茶カッコいい! B面の「ロック・マイ・プリムソウル」は、A面のどっちらけムードを一掃するような超ヘビーブルースのしびれる1曲。希代の名シンガー、ロッド・スチュワート登場!ってなド迫力! 更に不可解なのが第3弾シングル。なんとムード音楽界の巨匠ポール・モリアの大人気曲「恋は水色」のギターインストじゃ!あの哀愁のメロディをジェフがパッツンパッツンと爪弾いておる。なんなんだ、これは?ってなロウ・テンションな一曲。 B面はまたまたヘヴィー・ブルースの「アイブ・ビーン・ドリンキング」であり、やはりロッドの名唱ばっかり目立っておる!こうした天と地ほどかけ離れたA面とB面のカップリングの異様さはレコード史上最狂であり、このシングル3枚計6曲発表の時点でジェフのレコードカタログは支離滅裂であることはお分かり頂けるに違いない!?もしここでジェフを聞くことを止めてしまった人がいるならば、その人にとってジェフ・ベックって永遠に謎のギタリストになっちまうじゃろうな。 結局「売れてなんぼ」「売れなきゃ、名ギタリストだろうがただのギター野郎」というミッキー・モストの指示だったとしか考えられんわい。生涯にわたって孤高を貫いたギタリストも、ヤードバーズという有名な器から離れた直後はプロデューサーの言いなりだったのじゃろう。 ロック史上前代未聞の凸凹アルバム ファースト・アルバム「トゥルース」(1968年発表)も、上記シングル収録の6曲の凸凹さ加減がそのまま移植されており(左写真)、有名ミュージカル「ショウボート」挿入曲の「オール・マン・リバー」、英国トラッドの「グリーンスリーブス」まで演奏されちゃっておる。2005年にリイシュー盤が発売され、上記シングル6曲がボーナストラックとして追加されており、そいつを丸ごと聞いた時はあらためて当時のジェフのハチャメチャなレコーディング記録に唖然としたものの、逆にここまで多様な楽曲をとりあえず弾いてみせたセンスというか、貪欲さというか、節操の無さに感心してしまったわい! 【余談】 アルバム・カヴァーに使用された女性は当時のジェフの恋人セリア・ハモンド。スティファン・ゴールドブラットなる新進カメラマンの、二重露光(1コマの中に複数の画像を重ね写し込むこと)写真であり、高校生の時に「トゥルース」を初めて手にしたわしは、この写真によって二重露光という特殊撮影方法を知ったっつう思い出がある。何故分かったかって?アルバムカバーの裏側にはジェフ自らの手によるライナーノーツが記載されておって、確かその中に書かれてあったはずじゃ! ジェフ&ロッドでもエルヴィスには適わない! セカンドアルバム「ベックオラ」では、「トゥルース」の凸凹プレイに飽きちゃったのか、基本的にはハードなブルースロックナンバーを数多く演奏してアルバムの統一感を図っておるが、エルヴィスの「監獄ロック」と「オール・シュック・アップ」のカバーだけが異様なテンションじゃ。ロッドはまるでパンクロックをやっとるようで突っ走り過ぎ。ジェフはジェフで「テメーうるせーぞ!」ってロッドの暴走をかき消すようなフルボリュームの力業!特に「オール・シュック・アップ」は最初はエルヴィスのカバーだとは気が付かんかったほどパンキッシュな演奏であり、良く言えばエルヴィスナンバーの新しい解釈、悪く言えば冒涜ってのは言い過ぎか。ジェフやロッドに言わせれば「だって、エルヴィスは俺にはこんな感じで聞こえたんだ!文句あっか」ってことなのかもしれんな。 手当たり次第に様々なタイプの音楽を取り上げた第一期ジェフ・ベック・グループじゃったが、「ベックオラ」でやってみせたブルースを基盤としてメンバー全員がフルボリューム、フルボルテージでがっぷり四つに組むハードロック・バンドのスタイルってヤツをロック史上初めて実践したことになったのじゃ。 【余談】 「監獄ロック」と「オール・シュック・アップ」の2曲のカバーは、実はロック史における新しい見解(?)をわしにもたらした!ジェフ&ロッドというロック史上最高峰の名コンビの無茶苦茶でヒステリックなカバーぶりの裏には、ロックという音楽の進化、変化する原動力が隠されておるのじゃよ。つまり、誰もエルヴィスの様にロック出来ない、誰もエルヴィスの様に歌えない、誰もエルヴィスに近づくことすらできないフラストレーションから、様々な唱法、楽器テクニック、カバーがロック界に生まれたってことじゃ。 いやあ~これはジェフのギター以上に強引な力業、もとい強引な私論ではあるが、「ベック・オラ」における「監獄ロック」と「オール・シュック・アップ」のカバーを聞くにつけ、この私論を信じてみたくなる(笑)それにしても、やはり何度聞いてもロッドのヴォーカルが耳障りなので、いっそのことジェフにギターインストでやってみせてほしかったもんじゃ! |
第二期ジェフ・ベック・グループ時代 ~英米間を彷徨いながらモダン・ブラックフィーリングの導入に成功 【 第二期ジェフベック・グループ主要メンバー 】 ギター :ジェフ・ベック ヴォーカル:ボビー・テンチ ベース :クライブ・チュアマン ドラムス :コージー・パウエル キーボード:マックス・ミドルトン 製作アルバム:「ラフ・アンド・レディ」「ジェフ・ベック・グループ」 行くぞコージー!モータウンへ殴り込みだ!! 第一期ジェフベック・グループは一定の評価と人気を獲得したものの一旦解散。気の合うロッドとロニーはフェイセス結成のためにジェフの元を離れ、ジェフはヴァニラ・ファッジのリズムセクション2人(ベース:ティム・ボガート、ドラム:カーマイン・アピス)とニューバンド結成を計画するものの、ジェフ自身の交通事故でオジャン。事故の傷が癒えた後にジェフはオーディションによって新しいバンド・メンバーを探すことなるが、この時期のジェフの行動も真意もヨクワカンナイ! 「アメリカ・デトロイトのモータウン・スタジオに出向いて、モータウンのヒット曲をギターインストで演る!」ってのが当初の目論見だったらしい。この着想自体が恐ろしいが、何故新しい標的がモータウン・サウンドだったのか?恐らく、一般的なポップスやロックンロール、またブルースやジャズとも別世界、別次元で独自の進化を続けていたモータウン・サウンドの情緒性や精神性に、ジェフは己のギターの新しい可能性を重ね合わせることが出来たんじゃろう。やはりジェフってブッ飛んでおる。 しかしオーディションをデトロイトではなくて何故かロンドンで行い、しかも最初に採用したのがドラマーのコージー・パウエル!?コージーは後に幾多のハードロックバンドを渡り歩いたパワードラマーであるが、ジェフはモータウン志向だったのになんでコージー?ジェフが密かに抱えていた“打倒ツェッペリン願望”がコージーとの出会いで不意に燃え上がってしまったのかもしれん。 【余談】 オーディションの際のコージーの思い出話が非常にオモシロイ。 「俺はジェフの目の前にドラムをセットし、ジェフが弾き始めた直後に左右のシンバルとツインバスドラを両手両足で目一杯ヒットさせてジェフの度肝を抜いたんだ。“コノヤロー!”ってジェフが睨みつけてきたのを覚えているよ!」 「オーディション会場は暖房が無くて寒かったけれど、ジェフとのセッションが終わった時には俺たち二人は汗だくさ!」 これがモータウン・サウンドを追求するバンドのオーディションなのか! やがてジェフはコージーを連れてデトロイトのモータウン・スタジオに行ってしまった!コージーは26インチのでかいバスドラ2個を運び込んだっつうんだからこれはほとんど殴り込みじゃよ! ジェフとコージーのモータウン・セッションは現地のミュージシャンからは概ね不評じゃったらしい。「君たち、モータウンの音が欲しいんじゃないのか?」と呆れられたという。そりゃまあ、飢えた狼みたいなイギリス人のギタリストとドラマーが道場破りみたいにやってくりゃあ、誰だっていい顔をするはずがない。 しかし興味深いエピソードも残されておる。ジェフ&コージーのモータウン・セッションの一部に、スティーヴィー・ワンダーが立ち会っており、スティーヴィーはコージーの凄まじいドラミングをいたく気に入っていたという! ブルースはもう古い!お次はファンクといこう!! 結局モータウン殴り込みはジェフに大した成果をもたらさなかったようで、イギリスに戻って再びメンバー探し。ここでジェフは一種の賭けに出る。ヴォーカリストとベーシストに黒人ミュージシャンを採用したのじゃ。サウンドは一旦モータウンを忘れて?ブラック・ファンク系に方向転換じゃ。この変わり身の早さは驚くばかり! しかしドラマーが前述のコージー・パウエルなだけに、白人ロック・ファンの期待は裏切らない!アルバム「ラフ・アンド・レディ」は、白人ロックのベースの上で黒人ファンクが躍りまくるというユニークなアルバムに仕上がっておる!ロックの中のブラックミュージックといえば、何はともあれブルースであり、ブルースをいかに扱うかで白人ミュージシャンの力量が測られる時代に、ジェフのセンスと目論見はもっと先を行っておったといえるじゃろう。まあブルースとの融合は第一期で存分にかましておるんで、お次はファンク!ってかる~い気分でやっちまったのかもしれない! ところがセカンドアルバム「ジェフ・ベック・グループ」ではモータウン病が再発!?今度は殴り込みではなく、モータウン・スタジオの名ギタリストだったスティーブ・クロッパーがメンフィスに所有していたTMIスタジオでセカンドをレコーディングすることになった。プロデューサーは勿論クロッパーじゃ。アルバム発表毎に音楽スタイルをコロコロ変えるのはデヴィッド・ボウイの専売特許じゃが、ジェフの方が本家本元じゃわい! このセカンドについて「モータウン病云々」ってあまり紹介されておらんが、明白な楽曲がある。ギターインスト「帰らぬ恋/I Can't Give Back The Love I Feel For You」じゃ。この曲は1968年にリタ・ライトなるモータウンの女性シンガーがヒットさせており、リタの原曲とジェフのギターインストを聞き比べると実に楽しい!ジェフが心底モータウンサウンドのエモーションを自分のギターでアレンジしてみたかったことが痛いほどに分かる名演じゃ! 【余談】 シブイ役割で光っておるのは、キーボード・プレイヤーのマックス・ミドルトン。この方はソングライターとしてバンドに大いに貢献しており、特にセカンドアルバムにおいては、まるでジェフのロックギタリストとしての根本的な資質とモータウン志向という現在進行形の興味を知り尽くしておるような、ジェフを満足させるに充分な楽曲を提供しておる。ただしマックスが作曲した楽曲はすべて作曲者としてジェフの名前がクレジットされておる。90年代だったか、マックスが某音楽メディアのインタビューで「あのクレジットのされ方は、“ジェフ、それはないよ”って気分だったよ」と語っておった。 メンフィスにおける、エルヴィスとジェフとの接点 その1/TMIスタジオ跡地&メシック・ハイスクール跡地 第二期ジェフベック・グループのセカンドアルバムを仕上げたスティーブ・クロッパーは、モータウン・スタジオのギタリストとして高名だったミュージシャンであり、その時のバンドがブッカーT&MG's。1960年代末期にブッカーT&MG'sを脱退したS.クロッパーは、メンフィスにTMIスタジオを設立した。1971年12月に第二期ジェフベック・グループがレコーディングにやって来たわけじゃが、メンフィスが地元のエルヴィスがTMIスタジオでレコーディングしたという記録は無い。 TMIスタジオの稼働期間は僅か数年と非常に短く、やがてS.クロッパーは活動の拠点をロサンゼルスに移すことになりスタジオは閉鎖されたが、建物は劇場に改造されて現在でも「エバーグリーン・シアター」として稼働しておる。(上写真左側はスタジオのガイドリフレット、右側はセカンドアルバムのPR用リフレット。 エルヴィスこそ使用しなかったが、ジェフ同様にS.クロッパーを頼って、ジョン・レノンやリンゴ・スター、ストーンズのメンバー等がやって来ておったという。「エバーグリーン (Evergreen)」とは劇場が位置する地域名であり、常緑、不朽を意味する英語の名詞・形容詞でもある。 音楽では「時を経ても色褪せない名曲」というニュアンスで使われることもある。劇場の中には、S.クロッパーやジェフ・ベックが建物を使用していたことを伝える何かしらの痕跡アイテムやアイコンがあるかもしれない。メンフィスに行ったら是非訪ねてみたい場所がまたひとつ増えた!(右写真はストリートビュー2022年2月撮影) ■Google-map上の位置■ スティーブ・クロッパーは9歳の時に家族でメンフィスに引っ越してきて、地元のメシック・ハイスクールに通学しておった。このメシック・ハイスクールは1955年1月末から2月初めにかけてエルヴィスがライブを行った学校じゃ!同時期にS.クロッパーとともに同校に在籍していたのが、ブッカーT&MG'sで共演していたドナルド・ダック・ダンであり、両者ともにエルヴィスのごく初期のライブを観ていた可能性が高い! メシック・ハイスクールはTMIスタジオから約8キロ、車で約10分で移動できる距離にあり、案外レコーディングの合間に「ここでエルヴィスを観たんだ!」とS.クロッパーはジェフを案内していたかもしれない!メシック・ハイスクールでのエルヴィスのライブに関しては、「バーチャル・ロックンロールツアー」第3回Point30で紹介しておるので御覧頂きたい。 ■Google-map上の位置■ メンフィスにおける、エルヴィスとジェフとの接点 その2/ミッド・サウス・コロシアム TMIスタジオでのレコーディング終了後、1972年3月から第二期ジェフベック・グループはアメリカン・ツアーをスタート。ツアーのラストは5月21日メンフィスのミッド・サウス・コロシアムじゃった!この会場は12,000人を収容できるメンフィス有数の大型イベントホールであり、エルヴィスも1974年から3年連続でライブを行っておる。(下写真左側は、1976年7月5日に登場したエルヴィス))第二期ジェフベック・グループが出演した丁度一ヶ月前の1972年4月21日には、第一期ジェフベック・グループを解雇(?)されたロッド・スチュワートとロン・ウッドが参加したフェイセズも出演しておる。 気になるのは、第二期ジェフベック・グループがこのコロシアムでどの程度観客を集めたかってこと!正式な記録は発見できなかったが、発売されて間もないセカンドアルバムがアメリカでよく売れていただけに半分以上の客席は埋まったのでは!?実はセカンドアルバムのヒットチャート・アクションは、ジェフ・ベック・グループ全4枚のアルバムの中でもっとも高ランクを記録しておる。(全米第19位) 1964年に開場したミッド・サウス・コロシアムは、メンフィス初の黒人と白人を差別なく統合して入場させた会場であり、また1966年にはジョン・レノンの「ビートルズはイエス・キリストより有名だ」の発言によるライブ前の激しい抗議が起こった会場でもある。2006年に老築化から閉鎖。2015年頃から修復、再開場の動きが具体化しておるらしいが、2022年3月撮影のストリートビューで現場を確認したところ、まだ再開場には至っておらんようじゃ。(右写真右側) ■Google-map上の位置■ あとがき 今にして思えば、ジェフ・ベック・グループ時代の5年間は、後のジェフの代名詞「ギターインストのキング」に成るための多彩な原初的実験期間じゃった。エリック・クラプトンはレイドバック路線、ジミー・ペイジはレッド・ツェッペリン結成と己の進路を明確にしていたことに対して、3大ギタリストのもう一人のジェフ・ベックは焦点が定まらない状況にあり、またビジネス的見地からもジェフは3大ギタリストの中でもっとも晩成じゃった。 そしてやりたい事や出来そうな事を片っ端から実践していたジェフ・ベック・グループ時代、エリックやジミーよりも、ジェフはもっともロック的なビジュアルじゃった。たまらなくワイルドで一匹狼的存在感が人気の秘訣でもあり、それが終生変わらなかったのも驚きじゃった! いつかきっかけがあれば、ジェフの長かったギターインスト・キング時代も紐解いてみたいが、今はもっともロック・ギタリストらしかったジェフの彷徨える時代を諸君に知って頂く為のこの度の駄文をささやかな追悼文に代えさせて頂きやす。 ジェフ、ありがとう。わしのお袋さんも貴方の大ファンじゃったよ!どうか安らかに。 |
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