NANATETSU ROCK FIREBALL COLUM Vol.209


 来年はエルヴィス生誕80周年、再来年はエルヴィス・メジャー・デビュー60周年じゃ。 20世紀の新しい音楽だったロックにも長い歳月が流れたことを実感させるおも〜い数字じゃな。 もっともその歴史の中でThe-Kingというロックファッション・ブランドが生まれたことを考えれば“じ〜ん”としてしまうがな! ボスのロック・スピリットとブランドの存在力は不滅じゃが、一方お年を召したビッグ・ロッカーの訃報は後を経たず、もはや「諸行無常」として受け止めざるをえなくなってきたのお。
 しかし去る12月2日、3日に届いた連日の訃報には愕然とした! ローリング・ストーンズのサウンドに不可欠じゃったボビー・キーズ、元フェイセスのメンバーでありストーンズとも関わりの深かったイアン・マクレガンが相次いで天に召されてしまったからじゃ。 「・・・諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす・・・」なんてガラにもなく平家物語をやっとる気にはとてもなれん!

 その二週間ほど前に、ストーンズの全盛時代〜成熟時代の名演映像「L.A. フォーラム・ライヴ・イン 1975」「ハンプトン・コロシアム・ライヴ・イン 1981」の日本盤DVDが発売になったばかりであり、ストーンズ・マニアはまさに喜びと悲しみを続けて味わったに違いない。
 ボビー・キーズもイアン・マクレガンも、長年ロックシーンで幅広く活躍してきた名バイプレイヤー(セッション・ミュージシャン)でもあっただけに、わしは二人の連日の訃報に、我々世代が知っておる“ロックの大黄金時代”が歴史の彼方へと葬り去られる時がカウントダウンされてきたように思えて、そのショックは尋常ではなかったな。
 そして、これでストーンズの長い歴史を彩っていた重要なセッション・メンバーの大半が亡くなった事になったので、ストーンズ自体の形骸化と引退へのスピードが加速するんじゃないか?ってマジで心配じゃ。

 旅に出てからはYou Tubeとかで、ローリーや野村のよっちゃんやマーティン・フリードマンの見事な「ロックお笑い&感心講座」なんて類の映像を観てゲラゲラ笑いながら 「たまにゃあ〜ロックを斜めから“眺める”のもオモシレー!」なんてホザイテおったのに、一転して「もっと真剣にロックをおベンキョウせんといかん!」とシリアスにボビーとイアンを追悼したくなった次第じゃ。
 でも皆様は師走のお忙しい時期であり、あんまりディープな内容はご迷惑、失礼かと存ずるので、ボビーとイアンが残した「ロック・スピリット」っつうもんを感じて頂ければ幸いです、というタッチで追悼文を書かせて頂きました。 一年の最後の話題としては少々湿っぽい話題かもしれんが、どうかお付き合い下さいな。


ボビーキーズ&イアン・マクレガン、バイプレイヤーの巨星、相次いで墜つ。
ローリング・ストーンズは、絶対パーツだった彼らの死も克服できるか?


★ボビー・キーズ Bobby Keys★
人生の大半をストーンズと過ごした“ビッグなサイド・ストーン”

バディ・ホリーのバックも務めた生粋のテキサス・ロッカー
 1943年12月18日テキサスに生まれたボビーは、、キース・リチャーズと同じ生年月日だったこともあり、二人は兄弟の様に仲が良かったとされておる。 10代の頃よりプロのミュージシャンとして活動していたボビーは、故郷の大スターであるバディ・ホリーのツアーバンドにも参加していた。
 ボビーとストーンズとの出会いは古い。 1964年ストーンズ初の全米ツアーにおける、ボビーの故郷テキサスのサン・アントニオ公演のバックステージでストーンズに引き合わされたのが始まり。
 ボビーは、バディー・ホリーの「ノット・フェイド・アウェイ」のカバーをやるストーンズを興味本位に見に行ったらしい。 このコンサートでストーンズは地元の聴衆から激しいブーイングを浴びせられたが、ボビーはストーンズのメンバーたちのアメリカン・ルーツ・ミュージックへの深い造詣に驚き、「こいつらはタダモンじゃねえ!」と直感したとのことじゃ。

 ストーンズとの最初のジョイントは、ストーンズ1968年発表の「ベガーズ・バンケット」から。 以降ストーンズのアルバム、ライブには1974年からの6年間を除き、ほとんど参加しており、ライブ映画「レディース&ジェントルメン」を初めとしたストーンズのライブ映像作品の数多くにボビーの姿を確認出来る。
 90年の初の日本公演にも帯同。 ステージ上でミック・ジャガーから紹介を受けた際、熱心なファンから歓声が上がったほど、ストーンズ・ファンの中では知れ渡った存在じゃった。
 余談じゃが、わしは“PRESENTED TO BOBBY KEYS”と刻されたアルバム「スティッキー・フィンガース」のゴールドディスクをこの目で見た事がある。 ゴールドディスクやプラチナディスクとは、ビッグヒットを記念して主なレコード制作者宛てにごく少数制作される超貴重な記念品であり、それを贈与されるということはボビーがいかにストーンズの中で重要な存在であったかを物語っておるといえよう。


ジョン・レノン、エリック・クラプトンら超ビッグ・ロッカーも共演を楽しんだ人気者!
 ストーンズとの交流とともに、70年代初頭にデラニー&ボニーというエリック・クラプトンが参加していたスワンプ・ロックのバンドに帯同して益々高い評価を得たボビーは、それからおびただしい数のロック・セッションへ引っ張りだこの人気者になった。
 その反面、大酒飲みでもロック史にその名を刻しており(?)、1970年代中期にジョン・レノンがヨーコさんの逆鱗に触れて家を叩き出されて飲み狂っておった頃の飲み仲間でもあった。 ボビーがストーンズから一時離脱していた時期とも重なり、当時はジョン・レノン同様にボビーもまた荒んだ生活を送っていたようじゃ。
 そんな不安定な心身状態ながら、ジョン・レノン、リンゴ・スター、ロン・ウッド、レイナード・スキナードらが発表した当時のロックシーンを代表するアルバムでプレイをこなしておるのが、この男のすごいところ!

 70〜80年代には、ボビー、メル・コリンズ、アンディ・マッケイ(ロキシー・ミュージック)の3人が「ロック界3大サクソフォン・プレイヤー」と呼ばれたものじゃ。 メル・コリンズやアンディ・マッケイのプレイがしなやかに演奏の中に溶け込んでいくジェントルな響きが特徴だったのに対して、ボビーのプレイはラフでルーズで横道に逸れかかりそうなロックンロールのノリを一気に本道に引き戻す豪快な先導力に溢れており、その迫力は“リード・サックス”とも呼ばれておった。 名曲「ブラウン・シュガー」がその代表格じゃ。 70年代には一時期ブラス・ロックなるブームがあったが、ボビーほど曲の中央にどっかり腰を据えた様な吹奏をかませるサックスプレーヤーは皆無じゃったよ。
 またインプロビゼーションのセンスにも長けており、ボビーのフレーズに誘導されながらストーンズがクールなセッションを繰り広げる「キャン・ユー・ヒア・ミー・ノッキング」という名演もある!
 ボビーが不在となった当初のストーンズのライブでは、ボビーの代役など早々は見つからないと観念していたのか、ボビーのソロパートをキースがギターでお茶を濁すといった非常手段に出ておったもんじゃ。 それほどボビーはストーンズの連中に愛され、ストーンズ・サウンドの要を担っておった存在じゃった。


★イアン・マクレガン Ian Mclagan ★
“英国産ロックンロール”を二大バンドの後ろから支えた鍵盤の雄

バンド・サウンドが“転がり続ける”ための不可欠な存在
 ザ・フーとともに60年代にイギリスで一世を風靡したモッズ・ブームの代表、スモール・フェイセスのデビュー直後にバンドに参加したキーボード・プレイヤーがイアン・マクレガンじゃ。 スモール・フェイセスは70年にロッド・スチュワートとロン・ウッドにフロントを代えてフェイセズとして生まれ変わり、以降は「カッコいいロックンロールならストーンズ。 ゴキゲン!なロックンロールならフェイセズ」と言われたもんじゃ。

 イアンはスモール・フェイセス/フェイセスにおいて、まさに“ゴキゲン”なパートを紡ぎだす、「ロックおもちゃ職人」の様な存在じゃった。 バンドのフロントはスティーブ・マリオットであったり ロッド&ロンであったりしたが、曲によっては「このキーボード弾いているのって誰?」って絶対に気になってしまう存在じゃった。
 それも超絶技巧的なテクニックではなくて、アーシーなトーンやコロコロと転がり続けるコミカルな音色で聴衆のハートをガッチリつかむプレイヤーだったのじゃ。 イアンの活躍により、ロック界でハモンドオルガンやエレクトリック・ピアノの存在が取り沙汰され、ファンにも注目を浴びるようになるのじゃ。
 フェイセスのアルバム「馬の耳に念仏 」のジャケットはライブステージのバックショットじゃが、そのアングルのユニークさもさることながら、ロッド&ロニーがハモっている姿よりもキーボードを弾くイアンの方が何故か目立って見えるのは、フェイセズがイアンなくしては成り立たなかったことの証明のようじゃ!

ストーンズの歴史的分岐点に大貢献を果たした助っ人
  1974年になると、フェイセズはロッドがソロ活動に専念するため、またベーシストのロニー・レインが重病のために解散。 それが結果としてギタリストのロン・ウッドのストーンズ移籍に繋がっていくのじゃが、イアンのストーンズ・サポートもフェイセスが解散した後からであり、ストーンズはフェイセスのエッセンスまで頂いちゃった恐るべきチャッカリ野郎どもなのじゃ。
 ってそんな事はどうでもいいが、イアンはいきなりストーンズで大きな仕事! 大ヒット・シングル「ミス・ユー」でハーピストのシュガー・ブルーとともに見事なセッション・プレイを聞かせてストーンズ・サウンドに新しい息吹を注入したのじゃ。 続くシングル「ジャスト・マイ・イマジネイション」でも大活躍。 パンクブームを吹き飛ばす、オールドウエイブとしての貫禄を見せつけた当時のストーンズじゃったが、言わばイアンはストーンズがその宿命的な「大一番」をキメるために参加を要請されたようなものじゃった。
 その後、78年と81年の全米ツアーに参加し、ライブ盤「ライブ・イン・テキサス78」「スティル・ライフ」でイアンのプレイを確認することができる。 パンク、ニューウェイブの嵐が吹き荒れていた時代に、大きな舵切りが迫られていた過渡期のストーンズをイアンは見事にサポートしていたのである。

 これは憶測じゃが、ストーンズのサポートを始めたイアンの胸中には、ザ・フー、ストーンズ、キンクスとともに60年代から英国ロックの威厳を示してきたスモール・フェイセス/フェイセスを、「維持することが出来なかった」という強い悔恨の念があったような気がするな。 だから「ストーンズには、解散したフェイセスの分まで〜」という純粋な願望があったのじゃ。
 またストーンズには、専任ともいえるキーボード・プレイヤーがおらん問題があった。 ロード・マネージャー兼任のイアン・スチュワートはプレイする曲を限定していたし、それまでストーンズに付き従ってきたニッキー・ホプキンスは体調不良もあって一時離脱。 そこでイアンとストーンズの思惑が合致したんじゃろう。 82年以降はストーンズと直接関わることはなかったが、そのインパクト、貢献度はストーンズ史の中でも特筆に値するのじゃ。

 ストーンズから離れた後は、ボビー同様に幾多のビッグロッカーのセッションに参加。 キーボード・プレイヤーのセッションマンとしては世界でもっとも稼げる男になった! また21世紀になると活動の拠点をアメリカ南部に移し、自らのリーダース・バンドであるザ・バンプ・バンドを継続。 スモール・フェイセスやフェイセス時代に聴衆を魅了した“イアン流パブ・ロック・プレイ”を存分に披露しておった。 2006年のストーンズのテキサス公演のオープニング・アクトを務めたこともあった。


■ボビーとイアンの、ストーンズとの共演について■
 この2人のストーンズでのアルバム・セッションおよびライブ・アクトは、ほとんどすれ違いじゃ。 前述したが、ボビーは1974年からの70年代いっぱいはストーンズを一時離脱しておる。 一方、イアンが参加したアルバムはこれも前述の通り1978年発表の「サム・ガールズ」、ライブは78年と81年の全米ツアーであり、ライブアルバム「スティル・ライフ」とその映像版ともいうべき映画「レッツ・スペンド・ナイト・トゥゲザー」らが収録記録じゃが、ボビーは不在じゃ。
 
 ところが、今年日本発売となったDVD「ハンプトン・コロシアム・ライヴ・イン 1981」では両者ともにストーンズのステージにおるそうじゃ! このライブはイアンが全面参加した81年全米ツアーの終盤(12月18日)に当たり、恐らくその頃よりボビーはストーンズのライブに正式に復帰していたと思われる。 


 また79年のロニー&キースのソロ・プロジェクト「ニュー・バーバリアンズ」のライブ(&ライブ・アルバム)において、ボビーとイアンは共演をしとる。 べーシストにはジャズ界のスターじゃったスタンリー・クラークを起用したスーパー・バンドじゃ! (上グループショット、左端がイアン、中央がボビー)。
 ボビーにとってはストーンズ復帰への布石となった機会であり、またボビーもキース・リチャーズも「ドラッグ泥沼生活」から抜け出すためのきっかけにもなり、口の悪いストーンズ・ファンからは「キース&ボビー救済プロジェクト」なんて冷やかされておったな。 
 


 ボビー・キーズ、イアン・マクレガンの他に、全盛時代のストーンズを支えた有名なセッションマンで既に故人となったメンバーは以下の通り。

・イアン・スチュワート(キーボード)〜ストーンズのオリジナルメンバーであり、ストーンズのデビュー後はロード・マネージャーを兼任。 1985年に亡くなる直前までストーンズを陰から支え続けておった。 詳しくは、わしのこのコラムの156回目「限りなくストーンズに近く、そして遠かった男」を読んでくれ〜

・ニッキー・ホプキンス(キーボード)〜ジェフ・ベック・グループの一員としてメジャーデビュー。 ストーンズとの関わりは80年代初頭まで。 ボビー・キーズ同様に数多くのロック・アルバムでその名を連ねる名セッション・ピアニスト。 1994年死去。

・ビリー・プレストン(キーボード)〜ご存知、ビートルズの「レット・イット・ビー・セッション」でも重宝されていた、ニッキー・ホプキンスと並ぶ名セッション・マン。 ストーンズとの関わりは、やはりニッキー同様に80年代初頭まで。 1997年「ブリッジ・トゥ・バビロン」で久々にストーンズと共演。 2006年死去。

・ジャック・ニッチェ(作曲家/編曲家)〜初期のジャガー/リチャーズの覆面作曲家ではないか?と言われた映画音楽の作曲家。 数々の楽器をこなすマルチプレイヤーでもあり、60年代のストーンズに映画音楽風味のオーケストレーションや美しいアレンジをほどこしておった。 2000年死去。
 
 ボビーとイアンをカウントすると、もう6人もお亡くなりなってしもうた。 ちなみにご存命の方というと、ボビーとストーンズのホーン・セクションを形成しておったジム・プライス。 ストーンズの「ミス・ユー」でのプレイで名声を勝ち得たハーピストのシュガー・ブルー。 その「ミス・ユー」を含むアルバム「サム・ガールズ」において、ボビーの一時離脱の代役を見事にこなしたメル・コリンズの3人じゃろな。
 1990年代からの断続的な活動には、チャック・リーヴェル(キーボード)、ダリル・ジョーンズ(ベース)、ドン・ウォズ(キーボード)、ウエイン・ショーター(サックス)らのビッグネームが名を連ねておるが、やはり「ストーンズ・サウンドの絶体」の形成に深く関わっておったのは、ボビー・キーズであり、イアン・マクレガンであり、そして彼らよりも先に鬼籍に入られたイアン・スチュワートやニッキー・ホプキンスらだったのじゃ。

 ストーンズは今でも気丈に、そして過剰に「不死身」を演じておるが、得てして終わりというものは、大動脈自体の衰えよりも、その周囲の機能不全が引き金になるものなのじゃ。 もしこの度の“事件”をもストーンズは乗り切って新しいパワーに還元してしまったならば、彼らは正真正銘の“奇跡のロックンロール・バンド”じゃ。 今はただ、その奇跡ってのを信じるしかなさそうじゃ!
 ボビー、イアン、本当にお疲れ様でした。 どうかストーンズの行く末を、そしてロックンロールの未来を見守っていて下され。
 



七鉄の酔眼雑記 〜スルー出来なかった、もうひとつの訃報 

 赤の他人とはいえ、絶対贔屓にしていたロッカーの死はやはり辛いですわ。 ボビー・キーズとイアン・マクレガンの名演を聞いていたら、やっぱり涙が・・・いや、ほんと、わしも歳です。 残されたストーンズやフェイセスのメンバーにとっては、その云十倍、云百倍の哀しみじゃろうが・・・って湿っぽいのはこれぐらいにしておこう。

 訃報といえば、わしがこの度の長期旅行に旅立つ前日、10月1日にひとりのイギリス人女性シンガー・ソング・ライターが亡くなられた。 その名はリンジー・ディ・ポール。 主に70年代に大活躍した方で、チョットけばいセクシーお姉さん系ルックスと、囁きとため息混じりの故意的な一本調子っぽいウィスパーボイスでヒットチャートを賑わしておった。 「恋のウー・アイ・ドゥー」「シュガー・ミー」「恋のため息」「マイ・マン&ミー」といったヒット曲のちょっとエッチな雰囲気を、胸をドキドキ、目をパチクリさせながら!?楽しませて頂いたもんじゃ。
 まあ唱法はともかく(笑)、音楽性もとてもユニークであり、おとぎ話や童話の世界観と日常生活の憂いが繋がった様なイメージで楽曲をまとめあげるセンスがまた魅惑的であり、少年が一人でコッソリ聞く深夜のラジオ放送にピッタリの艶と彩(いろどり)に溢れておった。 わしはデビューアルバムを含む4枚の作品をコッソリ持っておった。

 思えば、リンジーの魅力に対して的を得た紹介文というのは読んだ記憶がない。 いわば彼女は、リスナーの夢の世界において語りかけてくるシンガーだからなのかもしれんな。
 諸君も聞いてみたらいかがかな? 楽しかった過去へそれとなく回帰できる不思議な魅力をもったシンガーじゃ。 諸君の重要な過去に当たる時代が、リンジーが活躍していた時代と一致していなくても、今こそ振り返るべき過去へとリンジーの歌声が優しく(&ちょっとエッチに?)誘ってくれるかもしれない。 



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