NANATETSU ROCK FIREBALL COLUMN VOL.153

 現在進行中のわしのコラム「ロック・オリジナル・ファッションを辿る旅」を読んで下さった知人の何人かが“ハヤマッタ”行動を起こしておる。 
「バギースーツ作ったぜい! ついでに上野のアメ横でトミーガンのオモチャを買ったぜい!」
「ズートスーツなら、ズングリムックリの僕の体型をカヴァー出来きそうなんで作っちゃいました!」とか。
 う〜ん・・・誰もが猛暑の中でヘロヘロの時にこの極端なアクションは勇ましいが、ちとズレとるぞ。 決して強制はせんが、前回に続いてもう一度言うぞ。
「まずはロック・オリジナル・ファッションありき!」
「アメリカン・ストリート・ファッションは“ナッソー”によって大いなる完成に到達したのじゃ。 まず、ソイツが先じゃ!」
 まあカシコイ輩が揃っておる諸君のことじゃ。 わしのコラムで歴史っちゅうもんを確認してから、秋口にはサラリ!とThe-Kingの「ナッソー」のゲットに突っ走って下さることを期待するぞ。 今回のThe-Kingの新作イタリアンカラーシャツのラインナップは、いわば2012年サマーファッションのオオトリなんで、今夏の思い出のアイテムをしかと味わってから来たるべき秋のナッソー・アクションへのステップとしてくれたまえ。
 そんな願いを込めて、「ロック・オリジナル・ファッションを辿る旅」第6回目は「ノーフォーク・ジャケット」といこう。 そう、こと見た目のスタイルに関しては、どんなオールド・ジャケットよりもこの「ノーフォーク・ジャケット」がもっとも「ナッソー・ジャケット」に近いジャケットなのじゃ。 なお「ナッソージャケット」の歴史に関しては、ご存知の通り、The-KingのHP上でボスとジム樋口氏が簡潔、的確に述べていらっしゃるので、まずはそこを再確認してから下記のわしの拙文へと行って頂きたい。


ロック・ファッション・ルーツを辿る旅 〜第6回 ノーフォーク・ジャケット
300年以上も前に登場した、
ナッソーど直系の歴史的狩猟用ジャケット

   

■プロローグ 〜「ノーフォークジャケット」解説の誤記(?)について ■

 あらためてネット上や幾つかの書籍で「ノーフォーク・ジャケット」の記述を確認してみたのじゃが、ひとつだけ非常に気になる点があり、それが読んでおる者のアタマを混乱させる恐れがあるので、その点を正しておこう。
 「ノーフォーク・ジャケット」および「ナッソー・ジャケット」最大の特徴は、前身ごろと後身ごろに走る左右2本の“細長く突起した”逆襞(ぎゃくひだ)のラインじゃ。 この部分なんじゃが、書いておる方はみんな表記に苦慮しておるようじゃ。 「縦長の箱形の逆襞」「突起したボックスプリーツ」「ショルダーベルト」「縦型帯」とか色々じゃ。 ファッション用語における「襞」「プリーツ」ってのは生地上の“連続した”細長い凹凸ポイントじゃが、「ボックスプリーツ」というと、これはもうThe-King「ナッソー」のもうひとつのパターンである、内側に広がった凹み(襞)を活かした状態を連想するな。 また「ベルト」「帯」つうのは腰まわりに渡す付属品であり、縦の「ベルト」「帯」って表記は何だか苦し紛れじゃなあ〜。 知らん者が読んだら、写真やイラストが無いとなんだかよく分からんじゃろう。
 そこで調べた結果、正式には「インパーテッド・プリーツ(逆にした襞)」と言うらしい。 “インパーテッド”なんて“パープリン”みたいで聞き慣れない英語じゃが、これを機に覚えておいてほしいぞ。 


 公爵が発案して、国王が有名にした、由緒正しきジャケット ■ 

 「ノーフォーク・ジャケット」の歴史は大変に古いのじゃ。 諸説様々じゃが、どうやら起源は18世紀(1700年代)初頭と、実に300年も前じゃから恐れ入る。 ノーフォーク (Norfolk) はイングランド南東部にある地方であり、古くから農業と織物業を主産業としていた所じゃ。(左地図赤部分) ここの地域名を称する「ノーフォーク公」という伯爵は、イングランド貴族の公爵位のうち特に主要な公爵の1つなんだそうじゃ。 そのノーフォーク公の8代目トマス・ハワードっつう公爵(1683〜1732年)が「ノーフォーク・ジャケット」を発案したというのが定説じゃ。
 というのも、この8代目は狩猟の名手だったそうでな。 狩猟の名所でもあるノーフォークにおいて、8代目が狩猟の時に着用していたことから、「ノーフォーク・ジャケット」の名で呼ばれるようになったとか。
 狩猟用ジャケットとしてそれから約200年間貴族のオフタイムに重宝された「ノーフォーク・ジャケット」じゃが、イギリスで一般的に有名にしたのがやはりエドワード7世じゃ。 よっ!大御所待ってました!!って感じじゃが、これ事実じゃぞ。 エドワード7世は狩猟の時だけでなく、普段着としても愛用していたそうじゃ。 エドワード7世が年中ノーフォークへ出向き、さらにそこでいつもこのジャケットばかり着ておったから「ノーフォーク・ジャケット」と呼ばれるようになったという説もある。 ノーフォーク8世か、エドワード7世か。 「ノーフォーク・ジャケット命名の由来者」は、まあどっちでもええわい。 発案者がノーフォーク8世。 知名度普及者がエドワード7世ってとこで手を打とう!


■ スポーティかつファッショナブルなディテールの数々 ■ 

 
では「ノーフォーク・ジャケット」の特徴を挙げてみよう。
・厚手、粗織りのツイード生地
  〜狩猟用ジャケットであるだけに、防寒性と耐久性が追及された結果、厚手のツイードが最適とされたらしい。 もちろん、ツイードはイギリス・ファッションのいわば象徴的な生地のひとつであることも考慮されておるじゃろう。 「ノーフォーク・ジャケット」の写真のほとんどがツイードじゃ。
 ところで「ツイード」という生地の名称は、素材の種類を示すものではなくて、イギリスのスコットランド地方で作られる様々な生地の総称じゃ。 「ノーフォーク・ジャケット」の生地は狭義で言うと「ディストリクト・チェック」。 これは「準タータン・チェック」とも呼ばれておる。 当時「タータンチェック」は身分によって色彩の数が厳しく決められており、身分の高くない者は地味な色彩のタータンしか着用できなかったんじゃ。 この地味なタータンがいわば「ディストリクト・チェック」じゃ。 また貴族の中では公の場やパーティーでは「タータン」、プライベートでは「ディストリクト」と使い分けする者もおったのじゃ。 「ノーフォーク・ジャケット」にこの生地が使用された背景には、そんな習慣もあったのじゃ。

・前身ごろ左右2本の「インパーテッド・プリーツ」と「ウエストベルト」
 〜「ノーフォーク・ジャケット」が登場する以前の狩猟スタイルは太い革製のサスペンダーとベルトが重要な付属品じゃったらしい。 それは狩猟でゲットした獲物を挟んだり、ぶら下げたりする為に必要だったからじゃ。 「インパーテッド・プリーツ」と「ウエストベルト」は、まさにその名残りじゃ。 「ノーフォーク・ジャケット」登場直後は、革製のサスペンダーとベルトをツイードで覆って縫いつけ、一部は獲物の挟みこみの為に空洞が作られておったらしい。 やがてこの突起したスタイルがオシャレ!ってなって後年は全部縫い込むようになったそうじゃ。
 え?それじゃあ、捕まっちゃった鳥さんやうさぎさんを挟めないじゃないですか!ってか。 まあその通りなんじゃが、この縫い込みアイディアは別の効果をもたらしておったんじゃ。 狩猟には標的を追って動いたり止まったり、銃を構えて標的を狙うために立ったりしゃがんだり這いつくばったりととにかくその行動は忙しい。 その上半身の様々なアクションをよりスムーズにするために考案されたファッション・アイディアだったからじゃ。
 なお元祖「ノーフォーク・ジャケット」には、後身ごろの「インパーテッド・プリーツ」が1本のヴァージョンも存在したらしい。 現存する写真のほとんどは正面から撮影されたものばかりなので、真偽のほどは定かではない。

・型口から脇までのボックス・プリーツ
 〜この部分は“アクション・プリーツ”とも呼ばれており、「インパーテッド・プリーツ」同様にハンターのアクションをよりスムーズにするための工夫じゃ。

・スロート(首)・ラッチ(金具)・カラー
 〜「ノーフォーク・ジャケット」は防寒のために時には襟を立てて着用されたんじゃ。 その為に左側の上襟、下襟それぞれに金具もしくはボタン、右側のそれにはボタンホールがアジャストとしてあったんじゃ。

・ボタン付きフラップポケット
 〜これは弾丸を詰め、移動の際に紛失しない為のアイディア。 またボタンも太陽光線が反射しないように(標的の獲物に気付かれないため)革のボタンが使用されておった。

・様々なパターンのバックサイド
 〜長い歴史の中で、背面のスタイルは着用する者の好みで様々なパターンがあったようじゃ。 前述の「インパーテッド・プリーツ」1本のパターンをはじめ、胸部や背中のボックスプリーツ1箇所、2箇所、もしくは無し。 ウエストベルト付近のギャザーの有無等など。 

・ガンパッチ、エルボーパッチ
 〜これはもちろん生地の補強用じゃが、ガンパッチ(銃床当て)はThe-Kingのジャケットの「上部切り返し」の様なワイドでカラフルなパターンもあったようで、補強目的以上に、オシャレ感覚によるアイディアとも言われておる。
 ジャケットに「ガンパッチ」「エルボーバッチ」が付けられたのはどうやら「ノーフォーク・ジャケット」が初めてであったらしい。 もっとも当初は一部の超上流階級者のみの使用に留まっておったようじゃ。



■ アメリカ、そしてナッソーへ ■
 エドワード7世の着用によってイギリスでポピュラーになった「ノーフォーク・ジャケット」じゃが、どんな経緯でアメリカへ、そしてナッソー(バハマ)へ伝わっていったのじゃろうか。
 まず1911年にアメリカの大手服飾店が「ゴルフジャケット」として売り出したのが、「ノーフォーク・ジャケット」のアメリカ・デビューなんだそうじゃ。 「アメリカン・サックスーツ」の超ルーズフィットのジャケットが当たり前じゃった当時のアメリカとしては、それはそれは斬新なスタイルだったことじゃろう。 やがて「ゴルフジャケット」の域を越えて、ファッショナブルなスポーツ・ジャケットとして人気を呼ぶことで存在が知れ渡るようになり、1920年代の大好景気時代にはアメリカのお金持ちでオシャレな男性の必需品となったとされておる。 右の写真は、1920年代のアメリカを代表する人気作家スコット・フィッツジェラルドが「ノーフォーク・ジャケット」を羽織った有名なショット。 ネクタイもして大胆なキメ方をしておる!
 
 さてお次はバハマのナッソーへと伝わった件じゃが、バハマの歴史を傍観すると、イギリスとアメリカのファッションの歴史との繋がりを勘ぐることのできる事実がいくつかある。 バハマは1783年に正式にイギリス領となったんじゃが、その数年前からアメリカ独立戦争から逃れようとしたイギリス王党派(貴族)が、多くの黒人奴隷を引き連れてこの地に移り住むようになったのじゃ。 ということは、早くもこの時点で「ノーフォーク・ジャケット」がバハマに伝わった可能性があるのじゃ。
 時は移り、1920年にアメリカで禁酒法が制定されると、バハマは密造酒醸造の中心地となり、密造酒で巨額の富を得ることになるアメリカン・ギャングどもが頻繁にバハマに出入りすることになるのじゃ。 ということは「バギースーツ」もバハマ・ファッションの流れに入り込んだということじゃ。 さらに1940年から1945年までは、イギリス国王のエドワード8世がバハマ総督に就き、これにより「エドワーディアン」もまたバハマへ!
 エドワード8世のバハマ総督退位の頃から、現地では「反植民地運動」が起こり始めたものの、既にバハマと首都ナッソーは「セレブのリゾート地」として発展を遂げており、その過程で「ノーフォーク・ジャケット」が「バギー」や「エドワーディアン」のエッセンスをミックスしながら「ナッソージャケット」として完成されていったに違いないのじゃ。


■ エピローグ ■
 「ノーフォーク・ジャケット」の歴史とスタイルのアウトラインを取り急ぎまとめてご紹介してきたわけじゃが、なにせ歴史が長く、その中で様々なマイナーチェンジが繰り返され、さらにイギリスの王室からアメリカ、そしてナッソーとホームグラウンドの流転もある。 「ノーフォーク→ナッソー」の史的資料およびそこから推察される可能性の数は膨大じゃ。 スペースの関係上、現時点で調べ上げたことの10分の1ぐらいしか今回は書けておらんので、今後折を見て「ノーフォーク・ジャケット」を取り上げてみたいと思うとる次第じゃ。
 300年以上の歴史を誇る「ノーフォーク・ジャケット」が「ナッソージャケット」として華麗な変身を遂げて、21世紀の日本において多くのロック・ファンを魅了することになるとは、まさかまさかエドワード7世は夢想だにしなかったことじゃろう! でも「テディ」の愛称で国民から慕われ、後のロック・ファッションの誕生に大きな影響を与えた人物だけに、The-Kingの先導によって世界中で広がる「ナッソー・ジャケット・シンドローム」を天国からにこやかに見守っておるに違いない!


七鉄の酔眼雑記 〜「今強いとむかつく」じゃとお?

 最後の最後で日本に金メダルが2個(ボクシングとレスリング)増えたロンドン・オリンピック。 お隣の某国が色々と騒ぎを起こして後味が悪くなった競技もいくつかあったものの、今はオリンピックが終わってしもうた喪失感みたいなのがやってきておる。 夏の高校野球は真っ盛りだったし、サッカーのキリン杯なんかもあったが、やはりオリンピックほど興奮せんなあ。 こういう単純なオツムはまさに親父殿譲り。 親父殿はロックにもファッションにもぜ〜んぜん興味が無かったが、スポーツは心から愛しておった。 じゃからオリンピックが終わると気の抜けたようになっておった姿が懐かしいっつうか、やっぱりわしの親父だったんじゃのお〜とこの期に及んでミョーな再認識をしながらお盆を迎えておった七鉄でござる!

 そう言えば、オリンピックの日本人選手の活躍に対して、誠にワケワカラン意見を聞いてしもうた。 あれは男子サッカーで日本が優勝候補のスペインを破った試合じゃった。 いきつけの居酒屋でTV観戦しながら飲んでおったが、お隣の中年男性客が上機嫌のわしにむかって「そんなに嬉しいかい?」と怪訝そうに問いかけてきよった。 一瞬何を言っておるのか理解出来んかった。 「だって、わしらの若い頃の日本のサッカーは弱かったじゃろう?だから今の若きイレブンに感謝じゃよ!」と返したところ、「へえ〜感謝しちゃうの。 あんたも人がいいねえ。 昔弱かったから、今強いとむかつくじゃないか!」と・・・。
 いや・・・はや・・・何と申しましょうか・・・この人の思考回路って・・・??? どうやら彼は今時の若モンが嫌いらしく、そんなヤロウどもが華々しく活躍するのが気に喰わないらしい。 それに自分たちの世代が「負けの世代」って決めつけられるようで情けなくなるそうなんじゃ。 う〜ん、職場で若モンにいじめられておるんじゃろうか、この人は。 こういう思考、わしは永遠に理解でけんな〜。

 オリンピックが「平和の祭典」なんてのは今やジャレゴトに近いし、政治的意図抜きの国威高揚の重要な場所であることは明白じゃ。 特にここ20年ばかりは、本来日本が強かった競技の多くは激しいルール変更が行われ、日本人選手たちはオリンピック毎に苦戦を強いられておる。 柔道なんて、もはや「柔道」でも「JUDO」でもなく、フロアレスリングになってしもうた。 それだけに、IOC国際オリンピック委員会での日本の発言力を回復させるためにも、「にっぽん!にっぽん!!」となってしまうのじゃ。
 でもやはりスポーツってのは、選手側にも観る側にも、混じりっけのないヒューマニズムなしには成立せんのじゃ。 観る側のヒューマニズムってのは、「正々堂々と勝つことを願う」気持ちじゃ。 悲しいかな「正々堂々」が成立する(可能性がある)のはこの世でスポーツの世界だけじゃ。 そのスポーツに「個人の屁理屈や怨念」を持ち込む者はスポーツを観る必要はないと思うがな〜。 
 あの日、あの中年男性は、下馬評通りに日本がスペインに惨敗するのを楽しみに居酒屋に来たんじゃろうな。 もし日本が負けたら、さぞかし酒が美味しかったんじゃろう。 悲しいのお、そういう性って。 単細胞、オメデタイ性格、道楽ジジイ等など、なんと言われようともわしはスポーツを単純明快に楽しみたい!



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