ROCK FIREBALL COLUMN by NANATETSU Vol.93



■第4回 
1980/81年
(昭和55/56年)

 50年代から60年代、60年代から70年代、かつては年代が変わる度にドキドキしたもんじゃ。 過ぎ去った10年をしみじみと懐かしみながら、自分に都合よく次の10年の予想をしたもんじゃよ。
 しかし世紀が変わった10年前は別として、いつ頃からか年代のチェンジを意識しなくなってしもうた。 昨年末の2010年を迎える時なんぞは、まったく感慨がなかったのお。
 「年代が変わっても時代はつまらん・・・」なんて醒めた



心境になったのは80年代を迎えた時じゃ。 もちろん、そんな気持ちの根底には「エルヴィス不在」という心の空洞が大きいが、「エルヴィス死すともロックは死なず!」で70年代後半を必死に乗り切ってきた(?)わしは、 日本全体に「平和」と「中流生活」が一般化して、大人の社会にも、若者の社会にも、そして子供の社会にも同じ匂いの風が吹き始めていた当時は、とても新しい年代に期待できる心境にはならんかった。 お国が平和であり、社会が安定しておることは大変にありがたいことなのじゃが、ロック・ミュージックが、もはやロッカー側ではどうにもできないほどビッグ・ビジネスの商材にされてしもうたことにドッチラケておったのじゃ。  
 だからこそ、より一層!ロックという音楽、ロックが作り上げてきた文化を激しく愛好し続けてみせる!という決意に繋がったのじゃ。 現代ではその決意をしっかりフォローしてくれるTHE-KINGブランドがあるから誠に心強いぞ! まあ80年代の到来は、いわば逆説的な意味合いにおいて、わしにとって記憶に残る時代のターニングポイントだったのじゃ。
ロックと社会性が分離し始めた「ロック史の分岐点」-1980年。ニューウェーブとオールドウェーブとのせめぎあいが始まった!   


【ザ・事件 1980/81】
 その1 〜ジョン・レノン射殺される


 世界情勢、社会経済、円相場・・・そんなことよりも何より、ロックファンにとって衝撃的で重大な事件は1980年12月8日、ジョン・レノンが熱狂的なファンの凶弾に倒れたことじゃった。 アーティストやタレントがファンに撃ち殺されるなんて事件は前代未聞であり、しかも殺されたのが天下のジョン・レノンだっただけに、日本でも当日19時からのNHKニュースで報道されたほどじゃ。 さらにこの事件はNHKのみならず、社会問題として大きく報じられた悲劇でもあったのじゃ。
 その3年前にエルヴィスの訃報を聞いた時は、わしらは当然のごとく深〜い悲しみに包まれて、思い思いのスタイルで哀悼の意を表したもんじゃが、今度ばかりは頭ん中の思考が完全に停止してしもうて、もう何をどうしたらいいのかさっぱりわからなくなった。 「殺されたって・・・え? ファンに?・・・一体どういうこと?」 誤報を信じるべきなのか、誰かに伝えるべきなのか、直にマスコミに確認するべきなのか・・・あの日訃報を聞いた後に何をしたのか、さっぱり覚えておらんのじゃ。 夜中に飲んだ酒がさっぱり味がしなかったことを除いて・・・。
 余談ながら感心したのは、ジョン・レノンの作品販売権をもったレコード会社が便乗商売を控えたこと。 さらにかつての朋友ポール・マッカートニーも安易なコメントを控え、追悼曲をしばらく発表しなかったことじゃ。 その反面、日本のタレントどもが突然文化人づらして、ジョン・レノンを“さん付け”で語り始めやがったのは不愉快じゃったな。 追悼曲として「イエスタディ」を流した大バカモノもおったな。


その2 〜67カ国不参加のモスクワ・オリンピック
 
 旧ソ連のアフガニスタン侵攻に抗議して、日本、アメリカ、西ドイツなど、国際オリンピック連盟加盟148カ国中67の西側諸国が不参加のままで、1980年7月モスクワ五輪が開催されてしもうた。 マラソンの瀬古選手、柔道の山下選手など、当時のトップアスリートたちが「4年に一度のオリンピックのために頑張ってきた我々の気持ちを・・・」と涙の嘆願会見をしておったもんじゃ。 続く1984年のロサンゼルス五輪ではその正反対、東側諸国が参加をボイコットすることにもなり、アメリカ、旧ソ連の世界二大大国の国際社会における対立は、ついに平和の祭典でもある五輪の場まで汚してしもうたんじゃな。
 まあこの事態は両大国同士の意地の張り合いであり、直接カンケーネー国や国民の目は冷ややか。 また社会の鏡であるロックを動かすには至らんかったな。 しかし両大国の横暴さに嫌気がさしたヨーロッパでは、各地が俄然騒がしくなり、国家的自立、旧体制崩壊の機運が高まっていったことは事実じゃ。 それが後々の「ソ連崩壊」「サラエボ事件」「ルーマニア革命」「東西ドイツ統一」などの「20世紀最後のヨーロッパ動乱」へと発展するのじゃ。

 


【ロック 1980/81】
 
その1 〜ポール・マッカートニー日本で逮捕

 「ジョン・レノン射殺というショッキングな事件で始まった1980年代〜」というべきなんじゃが、実は1980年の年初、初の来日公演が予定されていたポール・マッカートニーが、麻薬所持の現行犯で成田空港において逮捕される事件があった。 ロックという音楽から徐々に「凄み」が消えていった80年代を象徴するようなショーモナイ事件じゃった。 以上!

 

その2 〜・レッド・ツェッペリン解散
 

 1980年9月にドラマーのジョン・ボーナムが亡くなったレッド・ツェッペリンは、その年の暮れに潔く解散を表明しおった。 「我々はかけがいのない友人を失いました。 ジョンなしでのバンドの存続は到底考えられず・・・」という実直な解散声明文はカッコよかったもんじゃ。 昔のバンドは、メンバー全員で苦楽をともにしておったから、結束力はそりゃもう強固だったのじゃ。 「アイツがいなけりゃ次コイツ」なんてしょっちゅうメンバーチェンジをしている昨今のバンドとは雲泥の差じゃ。
 70年代最大の人気バンドだったツェッペリンの解散は、かろうじて続いていると感じていた「ロック本物時代」の終わりを告げる悲しい出来事ではあった。 79年に発売済のラストアルバム「イン・スルー・ジ・アウト・ドア」では、中近東サウンドへの果敢なアプローチを試みており、それが実にキマっておっただけに、80年代の新しいツェッペリンを聞きたかったもんじゃ。 「ロック多国籍ブーム」(後述)がそこまでやってきていただけに、必ずやツェッペリンは80年代のロックシーンも牽引していたに違いない。

その3 〜“イケメン・ロッカー君が通る!”ニューロマンティクス・ブーム到来
 

 商業路線に侵されつつあったロックを、もう一度荒野に戻したような70年代後半のパンクロック・ブーム。 しかしその嵐はあっという間に静まり、気がつけば音楽的に優秀じゃったバンドだけが残って「ニューウェーブ」なんつう言葉にすり替えられ、80年代になるとそれが「ニュー・ロマンティクス」に。 もはやパンクとは似ても似つかないブームに発展しておった。
 ブームがコロコロと尻軽的に変わっていく段階で、「ロック的サウンド」ますますお呼びではなくなり、そりゃーねーだろう!って感じじゃった。 しかしまあ、デュラン・デュランスパンドゥー・バレエカルチャー・クラブ、カジャ・グーグーなんて、カワユイ男の子たちが次々と登場してきたんで、ヤッカミ半分で 「ったくイギリスもくだらん国になったもんじゃ」とわしは怒り心頭じゃった! 
とはいうものの、当時のわしのカノジョさんはこのブームに夢中であり、何度か日本公演に連れていかれてしもうた!


その4 〜これぞ、真のニューウェーブ! ロックの多国籍化症候

 パンク・ロックがすたれると同時に、期待のもてそうな、ちょっとしたオモシロイ動きがあった。 アフリカン・ミュージック、ワールド・ミュージック、レゲエなどの、いわゆる第三世界の音楽要素を取り入れた耳新しいサウンドが出てきおったのじゃ。 「大幅な商業化」を遂げるくらいなら、ロックもアフリカやジャマイカくんだりまで逃げて新しい変身を遂げるのひとつの方法じゃ!とも思うたもんじゃ。
 んでもって、当時話題を呼んだレゲエ化した(?)ポリス、 トーキング・ヘッズ、ピーター・ゲイブリエル、ポップ・グループなんかをわしもおもしろがって聞いており、「こりゃあロック多国籍時代じゃのお〜」なんてガラにもないこと考えながらジャマイカのラム酒をかっくらっておったよ!
 でも正直なところ、「ニューロマンティクスなんざ聞くぐらいならこっちの方が断然ましじゃ!」程度の愛好のレベルではあり、アフリカンもレゲエも、わしの血や肉とはならんかった。 ロックともブルースとも観念的な部分でまったく別種の・・・なんてコムヅカシイ理論は、またあらためて。


その5 〜ローリング・ストーンズ&ピンク・フロイドがオールド・ウェーブの貫録を誇示!

 
60〜70年代に栄華を誇った大物バンドはほとんど音沙汰がなくなっておった中で、大健闘したのがローリング・ストーンズとピンク・フロイドじゃ。  まずストーンズ。 傑作アルバム「刺青の男」と大ヒット・シング「スタート・ミー・アップ」でベテラン健在!を知らしめ、81年の北米ツアーは各地で大盛況! 会社を辞めてまでこのツアーに駆け付けたわしの友人は、「サイコーなんてもんじゃない!ストーンズはバリバリに生きてるよ!」と。 その友人の証言は正しく、後にこのツアーの模様は映画にもなり、日本のファンははじめて“動くストーンズ”を拝めることになったのじゃ。
 一方ピンク・フロイドは79年末に「プログレ最後の大傑作」といわれる「ウォール」を発表。 社会体制に挑戦するようなテーマと、情緒性と攻撃性がミックスされたサウンドは世界中で大ヒット!「どうだ小僧パンク・ロッカーども!!」といわんばかりのスケールの大きい作品であり、その後何年もチャートにランクインし続ける超マンモス・ヒット・アルバムとなったのじゃ。


 
【にっぽん 1980/81】
ONが居なくなって、インベーダーがピコピコ侵略(?!)
ツービートの爆走ギャグに気分爽快!

 この頃の日本は何だか退屈じゃったなあ〜という印象しか残っておらんので、この部分は省略!ともいかんか・・・。 うむ、そうじゃった。 1980年は国民的ヒーローじゃった
長嶋茂雄監督が巨人軍をクビになったな。その衝撃冷めやらぬ内に、今度は“世界のホームラン王”王貞治選手が現役引退を発表。 ONと呼ばれた2人の本物のヒーローは、計ったように時代の節目で辞めていったのじゃ。
 街に出ると、子供たちは
「ルービック・キューブ」をガチャガチャやっとるし、「インベーダーゲーム」目当ての若者が流行りはじめた「ゲーセン」にわんさかおった。 インベーダーゲームは喫茶店の中まで侵入してきておったのお・・・あっ!「ノーパン喫茶」なんてのもブームじゃった。 アウトドア派のわしとしては、「都会の逃げ場所が奪われた」ような暗澹たる気分じゃった。
 そんな中で、
「漫才ブーム」の旗頭ツービートの「たけし」の毒舌には随分との世話になった! 「赤信号、みんなで渡れば怖くない!」「気をつけよう、ブスが痴漢を待っている」などなど、笑ってはいけないテーマで爆笑させるその才能は凄いもんがあった。 著書「ツービートのわッ毒ガスだ!」はすぐに愛読書となり、こういう書籍が「文芸なんとか賞」でもとる時代になりゃ〜、ちっとは・・・なんてマジで考えたもんじゃ。

 とまあ80年代の到来に関して、エルヴィスが不在であるだけに、あーだこーだと懐疑的に述べてしもうた。 が、実は50年代から続いてきたロック文化の質が80〜81年辺りで完全に変貌したことは充分に分かっておるのじゃ。 そしてその流れは現代まで脈々と繋がっていることもじゃ。 80〜81年とは、ロック文化の大きな分岐点だったのであ〜る。
 ただしそれまでのロックが、社会を如実に映し出す鏡であったのに対して、80年代以降のロックにはそうした時代性が表面的には希薄になっていったもんじゃ。 そっちの方がカッコいいと受け止められる時代になったんじゃな。
 その傾向は現代のシーンまで続くことになるが、ファッションの方は50年代の本物のかっこよさを受け継いだTHE-KINGブランドが現在活躍しとるので、そっちは心配なしじゃ! 80年代以降のロックと社会との関連性を述べていくのは、チト厄介じゃが、この後必ずこの七鉄がわかりやす〜く紐解いてしんぜよう。 以降もこうご期待!




七鉄の酔眼雑記
 〜ロック野郎に東洋の風を運んできた書籍と、その運命

  海外と言えば「アメリカ」「イギリス」、それに文学界に憧憬のあった「フランス」の3つしかまったく興味のなかったわしは、81年に発表された一冊の旅の紀行書によって俄然東洋への旅に想いを馳せるようになった。 タイトルは「全東洋街道」(藤原新也著)。 全編に渡って写真とショートエッセイがビッシリ!の贅沢な内容は、まだ見ぬ東洋の土地柄、風土、習慣をより直接的な視覚イメージをもって訴えかけてくる誠にお見事な内容じゃった。 
 紀行書の名作としては、1961年の「何でもみてやろう」(小田実著)、1986〜7年の「深夜特急」(沢木耕太郎著)、1994年の「アジアン・ジャパニーズ」(小林紀晴著)らが今でも人気が高いようじゃが、わしにとっては断然この作品じゃ。 東洋各国、各地の歴史の暗闇の中まで分かるような気がして、それこそ表紙がボロボロになるまで読んだもんじゃった。
 ロックの現状に興味が薄れかけ、世の中の風潮に拒絶反応を起こすことが多くなり、「自分の居場所は自分で探そう!」と粋がっておった頃だったので、この「全東洋街道」は、わしの心の空洞を埋めてなお余りある真新しい情報と情緒を提供してくれた忘れ難き一冊であ〜る。

 実際に東洋への旅を実行したのは、諸事情があってずっと後になるのじゃ、表紙が擦り切れ、手あかにまみれた愛読書「全東洋街道」も一緒に連れて行ったのじゃ。 どうしてかというとだな。 旅先で出会った誠実な旅人に譲り渡し、新しい読者によって自分の愛読書に新しい生命、使命を宿してほしかったからじゃ。 こういうシャレが分かってくれて、しかも譲りたくなるような好人物とはなかなか巡り合わなかったが、東洋への旅が都合6年目を迎えた年に、めでたくI氏の手に渡ることとなったのじゃ。
 それから3年後にI氏に再会することになり、I氏からまた別の人物のW氏に渡ったことが判明! I氏もW氏も今なお旅人じゃ。 購入から20年以上、かつての愛読書が今も世界のどこかで誰かの手の中で生き続けていることが分かるって、何とステキなことじゃろう! これだからシャレ心が活きる「旅」ってのはやめられんのじゃ!



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