NANATETSU ROCK FIREBALL COLUMN Vol.369


インドネシア建国の父、スカルノ初代大統領もエルヴィスに会っていた!

 前回の当コーナーで、タイのプミポン前国王が1960年にエルヴィスを訪問した件を諸君にご紹介した。久しぶりに別角度からあらためてロックンロールの歴史の細部を調べることにちょいと快感を覚えてしまい(笑)、他のアセアン諸国とロックンロールの出会いを探してみたところ、再びデッカイもんをみっけたぞ!
 インドネシアの初代大統領スカルノも、1961年にエルヴィスを訪問していたのである!(左写真、左から2番目がスカルノ大統領)

 スカルノ大統領といえば、日本のセレブ・タレントであるデヴィ夫人を第三夫人として娶った方じゃねーか!1961年には既にデヴィ夫人は大統領の愛人としてインドネシアで暮らしており(結婚は1962年)、大統領がエルヴィスに会いに行っていたことを知らんかったわけがない。何で日本のロックファンに公表しないんじゃ!って今更怒ったってしょーがねーから、デヴィ夫人の代わりに(?)わしがこの度辿り着くことの出来た情報を諸君にご紹介しよう!


インドネシアとロックとの不思議な接点の記憶に誘われて

 タイの次はどの国とロックンロールとの関わりの歴史を調べるか。わしは真っ先にインドネシアをターゲットにした。数年ほど前にアセアン諸国を周遊している時にインドネシア・マニアの旅人と出会い、「インドネシアは意外と洋楽普及度が強いですよ。地元バンドのレベルも高いし、それは東南アジア一かもしれないです」という見解を聞いておったからじゃ。わしは東南アジア一の洋楽ロック普及度は漠然と「フィリピンじゃろう」と思っていたので、彼の話は実に意外だったんじゃ。

 また、1975年12月に当時のハードロック界の雄ディープ・パープルがインドネシアの首都ジャカルタで「東南アジア初の本格的洋楽ハードロック公演」を行った事実を思い出したからじゃ。
 実はその3年前の1972年8月にわしは人生初の海外旅行としてインドネシアに約一ヶ月ほど滞在した。当時わしの親父が首都ジャカルタに海洋事業駐在員として赴任しており、わしは学校の夏休みを利用して親父に会いに行ったのじゃ。
 「日本の駐在員様のご子息が遠路はるばるいらっしゃった!」って、そりゃもう親父の会社の従業員や現地人から上げ膳下げ膳のチヤホヤされまくり!ってそんな事はどーでもええわい(笑)
当時のインドネシアの発展途上国特有の貧困状況や都市文明の後進状況を目の当たりにしただけに、「国民の大半が食うや食わずの貧しいインドネシアに洋楽ロックを受け入れる文化的度量があるのか!」と非常に驚いた記憶が今も強烈じゃ。


一筋縄ではなかったスカルノ外交

 さてエルヴィスを訪問したスカルノ大統領じゃが、この人の生涯はまさに激動!そしてなんとも狡猾!?な外交活動で名高い。
 第二次世界大戦以前のインドネシアは長らくオランダの植民地であり、スカルノ氏は若くして国家独立運動家として活動していただけに何度もオランダ植民地政府から投獄、流刑される試練を味わっておる。
 またオランダは世界大戦の敗戦国となったもののインドネシアの占有権を戦後もなかなか放棄せず、独立国家となったインドネシア側と何度も衝突したことで、スカルノ氏は初代大統領として認められているようで、そうでもないような中途半端な立場と国民評価に甘んじる期間がそれなりに続いた。

 スカルノ大統領は就任直後から諸外国と積極的な外交政策を実施したが、アメリカとソビエトとの東西冷戦期において、西側と東側両方の先進的諸国との繋がりを維持しながら国家財政の立て直しを画策していた国際的なバランサーとしての行動が際立っておったお方じゃった。
 諸外国訪問記録、首脳会談記録だけを調べても、アメリカや日本と手を組んだと思われた矢先に、西側諸国との国交断絶状態じゃった中国や北朝鮮とも友好関係を結び、更にキューバ(当時アメリカと険悪状態)まで訪れておる。アメリカのアイゼンハワー大統領やケネディー大統領、中国の毛沢東主席、更にはキューバのカストロ議長とのツーショットも公然と発表している。

 まあここは他国の政治経済や歴史問題を論じる場ではないのでスカルノ大統領の真意や国策の深部への考察は控えるが、とにかく世界大戦以後の東南アジア諸国のトップとしてはもっとも多彩でしかもアリエナイはずの国家間の交友関係まで築こうとしていた人物、それがスカルノ大統領じゃった。


スカルノ大統領は、大のエルヴィスファン、ロックファンだった!

 スカルノ大統領がエルヴィスを訪問したのは、1961年にエルヴィスが映画「ブルーハワイ」をハワイで撮影しておる時期じゃった。(残念ながら日時は未だ不明)アイゼンハワー大統領とのホワイトハウスでの首脳会談の前に、わざわざハワイに立ち寄り、ファトマワティ第一夫人とともにエルヴィスの元を訪れておる。これはなかなかの事件じゃ!途中下車までしてエルヴィスに会いにいっちゃったんじゃぞ(笑)スカルノ大統領自身が相当のエルヴィス・ファンだったことが伺い知れる!

 しかしいかに大ファンだったとはいえ、一国の大統領が大国アメリカの大統領よりもロックンロール・キングへの訪問を優先するって世の中のジョーシキでは考えられない!日本の総理大臣がそんなことをしてしまったら、そりゃもうソッコーで国中から袋叩きに遭って辞任に追い込まれるわい。
 大統領としての世間体よりも自分の願望に忠実であろうとした?スカルノ大統領ってスゲーな!ってわしは最初は感心したものの、この一件はどこか腑に落ちない・・・アイゼンハワーよりもエルヴィスを優先した事実の裏には何か知られざる理由があるのでは?
 そこで七鉄渾身の調査(嘘!)の結果、あるひとつの仮説が出来上がってしまったので、以降もどうかご一読願いたい!


1961年「ブルーハワイ」撮影現場は、実は“再会の場”だった!?

 スカルノ大統領は1956年にもアメリカを訪れておる。その時はアイゼンハワー大統領との記念撮影(左写真)が残されておるんじゃが、メジャーデビュー間もないエルヴィスを訪れた形跡は見当たらなかった。1956年時点では遠いインドネシアまでエルヴィスの評判が届いていなかったから、スカルノ大統領はまだエルヴィスの存在を知らんかったとも考えられる。

 ところが、である!
 試しに「Elvis Presley Indonesia」でグーグル写真検索をしてみたら、見たことのない東洋人のオッサンとお嬢さんと若さほとばしるエルヴィスとのショットを発見。(下写真)
 このオッサンは明らかにスカルノ大統領とは別人じゃ。「誰なんだ、この人は?」と追跡してみたら、BASUKI DJATIASMORO(何て読むのか分からん)なる人物で、インドネシア外務大臣(写真投稿者の表記はMinister of foreign affairs from repbulic of Indonesia)とのこと。お嬢さんは彼の実娘であり、撮影は1956年とされておった!

 わしはこの写真が「1956年のエルヴィスである」と断定は出来ない。羽織っておるシャツはメッチャクールで、今までお目にかかったことのないタイプ。更に細いスカーフ(みたいな布)を首から下げておる珍しいコーディネイトでもある。
 仮にこの写真が1956年だとしたら、DJATIASMORO氏は同年のスカルノ大統領の訪米活動に随行した際にエルヴィスを訪問したに違いない。しかも外務大臣だけがエルヴィスを訪れる事は非常に不自然なので、スカルノ大統領もこの場にいたはずじゃ!
 
 更に突っ込んで想像すると、3人の背景を拡大してみると何処かの撮影現場の様でもあり、エルヴィスのTV出演時かフォトセッションの楽屋裏にも見える。
 1956年に破竹の勢いでメジャーシーンに登場してきたエルヴィスだが、当時は世間一般的にはまだ「悪魔の音楽の申し子」じゃ。そんな評判を恐れずにエルヴィスを訪問した外務大臣、そしてスカルノ大統領(?)に大拍手じゃ!ただし、外務大臣のお嬢さんもご一緒なので、これはスカルノ大統領のプライベートなエルヴィス訪問だったのじゃろう。だから記念撮影の公表は見合わされたのかもしれない
 
 こんな具合に考えてみるとだな、1956年時点でスカルノ大統領はエルヴィスと顔見知りになり、1961年の訪問はエルヴィスの知人としての「ブルーハワイ陣中見舞い」だったかもしれない!というワクワクするような仮説が出来上がってしまった!
 知人、友人としてならば、アイゼンハワー大統領よりも先にエルヴィスに会いに行ったって、まあ世間様も大目にみてくれるだろう!ってスカルノ大統領は楽観していたかもしれない(笑)本当にスカルノ大統領はエルヴィスが大好きだったのじゃろう。

 またオランダ植民地時代に思春期、青春期を送ったスカルノ大統領はオランダ語やオランダ文化に精通しており、それが元々はオランダ人じゃったパーカー大佐とのコネクション作りに大いに役立っていたという説も存在する!ハワイでのエルヴィス訪問は、パーカー大佐のスペシャル・セッティングだったのかしれない。


デヴィ夫人はハワイに連れて行ってもらいたかっただろなあ~

 ちなみに、スカルノ大統領1961年訪米の際には、エリザベス・テーラー、マリリン・モンローが参列したパーティーにも出席しておる(下写真)。スカルノ大統領のすぐ左はケネディー大統領夫人ジャクリーンじゃ。
 この写真を1956年撮影とするサイト情報もあるが、エリザベス・テーラーのお顔は1962年に撮影された出演映画「クレオパトラ」を連想させる陰影のある得も言われぬフェロモンが漂っており、また1956年当時はジャクリーンはまだファーストレディではないので(ケネディが上院議員時代)、国賓をもてなす場に列席するのは時期尚早とも思える。

 なお先述した通り、スカルノ大統領はファトマワティ第一夫人を伴ってエルヴィスに会いに行ったわけじゃが、やっぱり第三夫人のデヴィ夫人(当時はまだ愛人)としては胸中は複雑だったかもしれない。
 某芸能ニュースサイトの記事内で、デヴィ夫人はジャンプスーツみたいな衣装を着て「私、女エルヴィスみたい」とかコメントしとる事から想像して、彼女もまたエルヴィスのファンのようじゃ。さぞかし自分がハワイに連れて行ってもらってエルヴィスに会いたかったに違いないってドーデモイイ話じゃけどな(笑)


果たしてインドネシアにエルヴィス・ブームは訪れたのか?

 スカルノ大統領とエルヴィスとの関係を、幾つかの事実を裏付けとしながら「二度も会っていたかもしれない」と書いてみたが、楽しんで頂けたかのう!

 この度の調査においては、金悠進なる方の記した下記2つの論文を発見して参考にさせて頂いた。

「バンドンにおける若者の文化実践とアウトサイダーの台頭」
「連帯の光と影― 第三世界都市バンドンにおける植民地主義とその脱却」


 この論文の中で1950年代後半になると、インドネシアはエルヴィス・プレスリーの爆発的ブームが起こる」と明記されておる。

 公式記録としては残されていない(わしが未だに見つけていないだけ?)1956年のスカルノ大統領のエルヴィス訪問が、果たしてインドネシアが洋楽ロックを受け入れるきっかけになったのか。また本当に50年代後半に爆発的なエルヴィスブームになったのか?
 この点については只今調査中じゃが、エルヴィスの活躍がインドネシアの洋楽/ロック文化のスタートになり、やがて前述した1975年12月の「インドネシア初の本格的ハードロックコンサート/ディープ・パープル・ジャカルタ公演」の開催へと有機的に繋がっていくことは判明した。その辺の歴史の流れについては次回にご紹介致しやす!

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