NANATETSU ROCK FIREBALL COLUMN Vol.349


エドワード・ヴァンヘイレンを偲んで~
ロックギター第二次革命期を彩った、ギターヒーロー四銃士の功績を振り返る

 ロック史上に永遠の栄光を刻んだギターヒーロー、エドワード・ヴァンヘイレンが先日逝去された。エディが登場した1970年代末期、わしは既にハードロック離れをしておった時期に当たるので、彼の登場に激しく興奮したロックファンではなかった。しかし振り返ってみると、あの当時はエディの他にも続々と新しいギターヒーローが誕生しておる。
 ロック史の流れで見ると、ジミ・ヘンドリックス、エリック・クラプトン、ジェフ・ベック、ジミー・ペイジが起こした60年代末期の「第一期ロックギター革命期」から約10年を経て、「第二期ロックギター革命期」が始まったのじゃ。
 エディを筆頭に、イングヴェイ・マルムスティーン、ブライアン・セッツァー、ランディ・ローズ、この4人が絶対的なニューギターヒーローになったのじゃ。

 現在進行形で「第二期ロックギター革命期」を堪能しなかったのはチト残念ではあるが、人間っつうのはオモシロイ生き物であり!?、夢中にならなかったから逆に「ロックシーンでスゴイことが起きている!」「第一期革命期とは明らかに質の異なる革命が起きている」という事実を客観的に冷静に把握しておったのじゃ。
 エディ、インギ―、ブライアン、ランディ。彼らの何がどうスゴカッタのか?エディの逝去を機にあらためて四銃士たちの功績を冷静に振り返ってみたい。わしはギターが弾けんので、彼らのいずれ劣らぬすさまじいギターテクニックを専門的に解説はできんので、あくまでも楽曲を聞いた印象と彼らのバックボーンの反映の仕方を軸に語ってみたい。


■エドワード・ヴァン・ヘイレン■
 ~ロックギターからルーツ性を葬り去ってみせた、驚愕のディストーションサウンド


 それまでのロックギターの絶対的フォーマットだったブルース臭さ、カントリー臭さをエディのギターは木っ端微塵にしてみせた!ルーツなんかカンケーネー!ロックはロックなのだ!!とばかりの凄まじいディストーションとライトハンド奏法による一小節の中に無限に音をぶち込む超絶的な早弾きは世界中のロックファンのまさに度肝を抜いたテクニックじゃった。実際にエディはブルースやカントリーの造詣が深いのだが、ニュアンスとしてほのかに感じさせるだけ!この手のロックギタリストはそれまでは皆無じゃったな。

 またハードロック/ヘヴィ・メタルというジャンルに、初めて本格的なアメリカンねあかフィーリングをブチかました功績もデカイ!
どんなスゴイテクニックでギターを弾きまくろうが、エディのアクションは極めてライト!あっけらか~ん♪としてシリアスさをほとんど感じさせないのじゃ。ある意味で、ゲラゲラ笑いながら100メートルを全力疾走するようなバケモノ的なコミカルさがエディのギターの真骨頂といえるじゃろう。1キロ先からわずかに聞こえてきても「エディのギターだ!」と分かるほどの圧倒的にユニークなギターサウンドじゃった。

 ヴァンヘイレンのヴォーカリスト、デヴィッド・リー・ロスの古典的なマッチョの風貌ながらもユーモア溢れるキャラクターとパフォーマンスがまたエディの持ち味と見事にマッチしておったことも忘れてはならない。ローリング・ストーンズのミック&キース、レッド・ツェッペリンのロバート・プラント&ジミー・ペイジ、デヴィッド・ボウイ&ミック・ロンソンらが形成した「ロック・デュオリズム」のまったく新しいスタイルをデイブ&エディが完成してみせたのである!

 いちオールドロックファンとしてエディに心から感謝したいことは、とにかくロックファンを「ロックサウンド」そのものへ連れ戻してくれたことじゃ。
 1976~1977年頃のロックシーンは、ロンドンパンク一色。「旧体制に噛みつかないとロックじゃない」「音楽的素養も鍛錬も必要なし!言いたいことをブチまけるのがロックだ」みたいな風潮にロック界は塗られてしまい、特に英語の歌詞が分からない日本のロックファンは、パンクロックの薄っぺらくて粗野でテキトーなサウンドがロックンロールだと勘違いヤロウが続出して、わしなんかはうんざりしておった。そこに登場したエディの衝撃はすさまじく、ハードロックの好き嫌いは別として「とにかくロック界にトンデモナクスゲーヤツがいる!」ってことで、ロンドンパンクの形骸化していたブームを吹っ飛ばしてくれたのじゃ。


■イングヴェイ・マルムスティーン■
~究極の“勘違いロックギタリスト”にして、空前絶後のギターダイナミズムを創造した異端児

 恐らくアクロバティックな超絶ギターテクでは、エドワード・ヴァンヘイレンと双璧を成すギタリストであろう。しかし音楽性は真逆じゃ。インギ―は徹頭徹尾クラシック音楽というルーツを堅守し、その路線から決して外れることはなかった。奔放過ぎる他者批判を繰り返し、年がら年中バックメンバーの首を斬り続ける「俺様野郎」じゃが、ことクラシック音楽と遠い昔の巨匠たちへの精神的な忠誠心がブレルことはなかった。

 とはいえ、音楽的にはクラシックのアンサンブルという絶対要素は無視しっぱなし!アンサンブルよりも俺様ダイナミズム!!極論を言えば、交響楽団の多重奏をエレクトリックギター1本でやってみせようとする傍若無人な音楽家。クラシックを完全に履き違えたような捉え方をしていて、なおかつそれを押し通す!それがイングヴェイ・マルムスティーン最大の個性なのである。バッハもベートーベンもモーツァルトもショパンもシューベルトも、すべてのスコアは俺様のギターで超拡大再現してみせる!そんな音楽家はクラシック界にもいなかったはずじゃ。
 かつてのジミ・ヘンドリックスのブルースのトンデモカバーに似たスタイルでもあるが、ジミのブルースを聞いてホンモノの黒人ブルース志向を持ち始めたファンはいたが、インギ―のギターテクとフレーズにハマッテも、そこからクラシックも聞くようになったというファンはほとんどいなかった(笑)そこが先人の人気ロックギタリストとのインギ―とのスタイルの決定的な違いじゃった。

 まあ超絶的な早弾きにおいては、エディ・ヴァンヘイレンを最終的には凌駕していたはず。ってそんなことはドーデモイイことっちゃイイコトなんじゃが、インギ―はこの点に異様に拘っておった。仮にエディが10の音を弾くパートをインギ―はマジで100をぶち込もうとしていた(笑)それはギターという楽器の性質上では不可能であるのに、それをやってのけて喝采を浴びるのもインギ―の特徴じゃった。もはや音楽ではなくスポーツの領域であると思えるが、それでもファンはインギ―の神技を越えた超絶テクニックを待望しておったのである。

 このような感じ方は、わしのようにギターを実際に弾いたことのないファンの言い分なのかもしれんが、そのスポーツ的なギターテクニックスタイルの反動、支障は80年代後半あたりからインギ―の作品にはっきりと聞き取れるようになってきたので、あながち間違ってないとは思う。
 目にもとまらぬ音速テクは衰えることはなかったが、ギタートーンは雑になってメロディアスなフレーズの音の質感が明らかに薄っぺらになってきた。それがインギ―というギタリストの特異な運命だったのかしれないが、クラシックへの造詣が恐ろしく深い音楽家だっただけに、もっと違った音楽性に熱を入れて欲しかったとも言える。


■ブライアン・セッツァー■
 ~誰もがスルーしていた原始的ロックを華麗に磨き上げ、成層圏の彼方まで轟かせた奇才

 この方の溢れんばかりのギターの才能なら、わしよりも諸君の方が遥かに饒舌に語ることが出来るじゃろうから、わしからは何も言わん!ってわけにもいかないので、一応わしなりのギタリスト・ブライアン像を少々語ってみたい。

 ストレイ・キャッツのギタリストとして登場した1981年当時、ブライアンの存在は全てが異様で不気味だったというのがわしの印象じゃ。テクニックのスピード感とアクロバット感、フレーズの質感と斬新感、これらを全てをハイレベルで兼ね備えているのが当時のギターヒーローの絶対的条件。逆にそれさえ備えておれば楽曲自体は二の次、三の次な風潮だった当時、ブライアンはその絶対条件をロカビリーサウンドというモダンロックとは水と油のフォーマット上で披露しておった!
 超絶的なテクニックの持ち主は得てしてフォーマットをぶち壊してしまうダイナミズムが身上であるが、ブライアンはぶち壊すのではなくて昇華させるという神技的なセンスをもっておった。畑違いとはいえ、これだけはエディにもインギ―にも出来なかったブライアンだけの金字塔じゃ。ってことを理解出来るようになったのは随分後になってからであり、日の出の勢いのデビュー当時はわしは自分のセンスでは到底付いて行けない音楽をやっておる嗜好外のギタリストじゃった。

 当時のわしにとってロカビリーサウンド、フィフティーズサウンドなるものは、黒人ブルースと同じく「神の領域の音楽」じゃっただけに、アレンジされたカバーには常に違和感があった。ブライアンはアレンジというよりも、クラシックカーのボディを磨き直し、エンジンだけ現代車とチェンジしたような超反則技的なセンスのギターだったのじゃ。誰もが感じたことじゃろうが、フィフティーズ時代からタイムスリップしてきて現代ロックをモノにしたような破天荒で神秘的なギタリストじゃった。サウンドを聞けば「コイツは天才じゃ!」って直感で分かるのじゃが、その天才の正体が理解出来なかったから異様に不気味だったのじゃ。

 ブライアンの様な類のセンスは、実は全てのミュージシャンにとって憧れのはずじゃ。誰もが自らのルーツミュージックがあるし、それを正統的かつ斬新と思えるスタイルに変換し、オリジナル作品として自分が生きている時代のファンに届けることが夢なのじゃ。それが出来たロック系ギタリストは、ジミ・ヘンドリックス、エリック・クラプトン、そしてブライアン・セッツァーの3人だけだとわしは感じておる次第じゃ!


■ランディ・ローズ■
 ~ロックがクラシックに接近出来た奇跡の音楽空間を作った神童

 ジジイになるまでロックを聞き続けてきたロックフリークだから言えることがある。期間としてはロックの半分くらいはクラシックを聞き続けてきたからこそ言えることもある(笑)それはロックとクラシックのスピリチュアルな音楽領域での融合は絶対に不可能であることじゃ。もしそれが可能であるならば、クラシック界の天才、奇才、鬼才、超変態たちがロック界に進出してきておるはずじゃしな!

 アレンジ、フレーズ、パフォーマンスの要素を駆使して、多くのロッカーたちがロックとクラシックの融合を試みた歴史は確かにあるが、あらためて振り返ると、それらは全てロック側からの“クラシック借用”の域を出なかったと思う。
 使用楽器が違う。楽器のトーンが違う。それぞれが創造された時代の土壌が違う。育成時代における求められた役割が違う。学ばれ方も違う。音楽理論上の構成もまるで違う。ロックとクラシックの融合ってのは、常に動いている状態のサッカーというスポーツと、静と動との兼ね合いによって成立する野球というスポーツを合体させて新しいスポーツを生み出そうするようなものなのじゃ。

 そんな到底アリエネー、不可能な事を僅かな期間だけ成立させたギタリスト、それがランディー・ローズじゃった。オジー・オズボーンのバンドに在籍しておったから当然サウンドはメロディアスなハードロックじゃが、ランディが参加した2枚のオジーのアルバムだけは、トーンがクラシックに限りなく近いという奇跡が起こっておるのじゃよ。
 ランディのギターフレーズや音色は従来のロックギターとは明らかに一線を画し、楽譜の上を自由自在に飛び跳ねておる音符を正確無比に、そしてスピーディーに再現しておるから、それだけでもとてつもなく斬新じゃが、それ以上に交響曲のような空間的広がりと精神の第三世界へと誘うような崇高さに溢れておるのじゃ。どうしてランディだけがそんなギターが弾けたのか?数多くの音楽雑誌での論点になってきたが、いまだに解明されていない。だからフォロワーも出現していない。

 アルバム2枚を残しただけで、若くして夭折してしもうたのでランディの偉業と存在は神格化され続けておるが、わしから言えることはただひとつ。
「ランディ・ローズというギタリストは元々クラシックギターを弾く運命を携えてこの世に生を受けたはずだったが、現世においてロックミュージックと出会ってしまった」
ということじゃ。

 おかしな言い方を承知で言ってしまうが、異性を愛することの出来ない「性同一性障害」の様な潜在的な精神のずれをランディは抱えていたのではないか?
 つまり才能は自然とクラシック的ベクトルに向かってるのに、差し出されてくる事象、仕事はロック。「性同一性障害」の場合は深い悩みへと発展してしまうが、ランディはロックをクラシックの様に奏でることの出来るという才能によって自らの障害を美しき創造力へと転化して救われていたのではないか。残された僅か2枚のアルバムをもう40年近く聞き続けておるが、それ以上にランディ・ローズというギタリストを語る言葉は、わしには無い。


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