NANATETSU ROCK FIREBALL COLUMN Vol.332

 


時代が狂っていたのか、俺たちが狂っていたのか!?
バブル狂騒時代に原宿に咲き乱れたロック・アーティスト専門ショップたち!
「Love Me Tender」「Get Back」「Gimmie Shelter」「Yardbirds/World Tour」
「Gun's Shop」「Keibuy Gallery」etc

遅刻したって残業すりゃ文句ねえだろう!
血を吐くまで酒飲んだこともないヤツなんて信用できるか!
バックルームで居眠りしてようが、酒飲もうが、売上げ良けりゃ問題ねえ!
俺たちはメンフィス・マフィア直系だ、アップルレコードの社員だ、ストーンズファミリーだ!俺たちの情熱こそが会社の理念だ!!

青春の残り火を激しく燃やし尽くした、愛すべきスタッフたちのあの異常な熱量は何だったのか。


前書きにかえて

 今年2020年は、56年ぶりの東京オリンピック・イヤーじゃ。 「オリンピック特需だ」「バブル景気復活か」「日本経済没落前の最後の狂乱期!?」 世間様が騒げば騒ぐほど、わしの様な天邪鬼はどうも達観しがちじゃ。
「どうせ自分の残り少ない人生には大して影響なさそっ」
 スポーツ大好きのわしは、もちろんオリンピックは盛り上がってほしいが、それよりももう一度「洋楽」「欧米のロックンロール」が日本で復権してほしいと願っておる。 2020年はわしにとっては「オリンピックイヤー」というよりも、「ローリングストーンズ、ポール・マッカートニー初来日30周年」だからじゃ。

 30年前のわしは当時栄華を誇っておった原宿ロックアーティスト専門ショップを数多く経営するA社の一員として、それこそ公私混同もへったくれもない、ガチでロックンロール一色の毎日を送っておった。 もっともオフィスやショップに行けばそんな連中ばかり。 特にショップ勤めの連中は店内で大音量で取り扱いアーティストのサウンドを流し、そのノリで語り、動き回る彼らは一見仕事をしているのか遊んでいるのかよお分からんかったもんじゃ(笑)

 A社に入社した約1年後の1990年、2月にローリング・ストーンズ、3月にポール・マッカートニーの初来日公演があった。 わしを含めたストーンズとポール関連事業担当者たちは1989年の年末からは大忙しを超越した人生最狂と言ってもいいほどの、まさに寝る暇もない毎日となった。
 このストーンズとポールの初来日公演ブームに見事に便乗するかたちで、会社の業績と知名度は一気にアップし、「ロックアーティスト専門ショップ」各店、各事業部は活性の一途を辿ることになったんじゃ。

 30年前の「ロックアーティスト専門店」の思い出バナシを綴ったところで、日本に洋楽ロック黄金時代が復活してくれるほど世の中あまかないわな(笑) でも当時の同業者的存在を振り返ってみると、やはりA社の連中は異常に仕事にのめり込んでいたと思う。 それ以前に、異常なまでに好きなアーティストにのめり込んでいて、その関連の仕事が出来るならば多少の採算の度外視、私生活の乱れなんてへっちゃらな連中ばかりじゃった。 みんな若かった、というより、狂っておったよ!でも男として型破りな魅力に溢れた逞しい連中が多かった。

 そんな生涯忘れられない愛すべき30年前の同僚、同志たちに(現The-Kingのボスも含めてほとんどは会社の先輩じゃったが、あえて同僚、同志と呼ばせて頂く)精一杯の親愛の情を込めて、また彼らのようなロックンロールへのクレイジー・スピリットを仕事へ転換できる若者が集結し、日本に再び洋楽ロック黄金時代が訪れることを願いながら、これから「原宿ロックンロール・ドリーム/ロック専門ショップ激闘記」を連載させていただきやす。

・バブル経済期のロックビジネスの実態
・各ショップ店長さんたちの素顔
・有名業界人、評論家たちとの関係
・ショップに現れたロックスターたち
・バブル崩壊とロックビジネスの行方
・実働期間僅かだった幻の専門店
・ショップをご利用頂いた個性豊かなお客様たち

などなど、あの当時、専門店にお越し頂いたり通販をご利用頂いた方なら「なるほど、そういうことだったのか」とか「やっぱりそうだったのか!」とか、腕組みしたり膝を叩きたくなるような事実を毎回ご紹介していきますぞ。

なおこの連載の本文においては、一人称における「わし」といった表現やくだけた方言をはじめとしたお年寄り的口語調は封印して書かせて頂きます。 


原宿ロックンロール・ドリーム/ロックアーティスト専門ショップ激闘記  Volume1~序

■今は無きロックアーティスト専門ショップへの道程■

 JR山手線原宿駅で下車して竹下口を抜け、そのまま竹下通りに入って数分すると右手に大き目の路地があり、そこを入るとすぐに左手に「COXY 176」というビルが見える。 ウナギの寝床みたいな細長いビルであり、2階はオープンエアの回廊が伸び、まず「ロカビリー専門店/ラブ・ミー・テンダー」があり、ファッションショップ「アルティロ」を挟み、回廊に沿って「ブリティッシュロック専門店/ヤードバーズ」「洋画専門店/ハリウッド」と続き、ドンツキに「ローリング・ストーンズ専門店/ギミー・シェルター」があった。 

 このCOXY176の2階は実によく出来た構造であり、例えば「ラブミーテンダー」を覗いてから回廊に出て外柵に両肘付きながらタバコ吸って一息入れてから「さあお次はヤードバーズだ、ギミーシェルターだ」とロック専門ショップを順繰りに周回出来るのだ。 たとえ「ラブ・ミー・テンダー」にしか興味がなくても、「ヤードバーズとギミーシェルターもついでに見てみっか」って気分に自然とさせてくれる構造だった。 
 店内に閉じ籠り気味のスタッフにとっても、外気に触れることのできるこの回廊は息抜きスペースであり、他店のスタッフとの交流の場でもあった。

 「ビートルズ専門店/ゲットバック」だけは竹下通りの真ん中辺りの雑居ビルの2階(高原ビル)にあり、ビートルズという健全なバンドのイメージやおとなしそうな(?)ファンの気質を思えば、「ゲットバック」だけはCOXY176ではなくて却って正解だった気もする(笑)

■ 1時間超の面接で内定 ■

 竹下通りに店舗を構える5つの専門店を経営するA社に、俺は1988年11月に入社した。 確かアルバイト情報紙「フロムA」に掲載されていた「洋楽出版業務担当/編集者募集」の記載に飛びついて応募した記憶がある。 面接担当者と1時間以上の面談となってその場で採用内定が決まった。
 面接担当者は後に上司となるT部長であり、何を話したのかはほとんど覚えてないが、採用して頂ける確信を得た瞬間の記憶は今も鮮明である。
「〇〇社(俺の前勤務先)って一流企業でしょう。 そこを辞めてウチで働きたいって本当ですか?」
不思議そうに俺を見つめるT部長に向かって言い放った俺の一言に、T部長の瞳がキラリと光った。
「死ぬほど好きなロックを仕事にしないと、生きている実感がしないのです」
そしてT部長は面接の終了間際に、採用内定と受け取れるお言葉を下さった。
「帰る前に竹下通りにある5つの専門店を必ず見ておいて下さい。 これから全部のお店とお付き合いすることになるから」
 T部長の言いつけ通り、俺は面接終了後に竹下通りにある各専門店へ向かった。

■これがロックアーティスト専門ショップの接客なのか!?■

 実は竹下通りに足を踏み入れるのは初めてだった。 「竹下通りイコールおこちゃま通り」というイメージが強かったからだ。 実際の竹下通りはそのイメージ通りであり、ケーキだかクレープだがソフトクリームだか、得体の知れない甘ったるい匂いが充満していて、言葉は悪いが「おんな、こども」相手のファッションやらアクセサリーやらを集めた店舗ばかり目に付いた。まだ日が高いにもかかわらず制服を着た女子高生たちもちらほらいた。 
「この子たちは学校をサボッテいるのだろうか」
いやいやそんなことよりも、俺の頭の中は先程の面接で聞いておくべきだった疑問でいっぱいになっていった。
「なんでロック専門ショップを子供相手の竹下通りでやっているのか?」
「大人のロックファンは竹下通りに入りずらいのではないか」
「東京でロックと言えば、新宿か渋谷ではないのか」

 まだ内定の段階に過ぎないので、とりあえずはお客づらして各専門店を訪問したが、各店ともなかなか強烈な印象が残っている。

●「ラブミーテンダー」~茶髪の小柄な小僧から、まるで魚屋か八百屋に入った時の様なやたらと威勢の良い声で「いらっしゃいませ!」と言われて驚いた(笑) 案外この会社は体育会系で上下関係が厳しいのかもしれない、とか見当外れな予想をしてしまったものだ(笑)

●「ヤードバーズ」~店員らしき男女のスタッフ2人が楽し気に内輪話をしていて、俺の来店をまったく意に介さない(笑) ところが店を出る間際に愛想良く「またよろしくお願いしま~す!」って合唱された(笑) 彼らは接客教育を受けているのか、そうじゃないのか!?

●「ギミーシェルター」~女性店員がオレの顔も見ないでそっけなく「いらっしゃいませ」・・・ちょっとムカツイタので意地悪な気分になり、当時廃盤扱いになっていたブライアン・ジョーンズのソロ作品はあるか?と聞いたら、またまたぶっきらぼうにひと言。
「ないです」
 「普通は“ないです”の前に“申し訳ございませんが”を付けるだろうが、このアマ!」と呆れつつも、ある意味でストーンズ専門店らしい硬派で不愛想な接客だなって苦笑するしかなかった。

●「ゲットバック」~試しに「メリーホプキン(アップルレコード契約歌手)のファーストソロありますか?」って聞くと、痩せこけて顔色の悪い男性店員が“有る無し”には答えずに人を小馬鹿にするように言い放った。
「初版盤ですか? いや~メリー・ホプキンじゃあ、うちはお客さんには負けませんよ!」
ニヤニヤしながら自信たっぷりに腕組みしていやがった(笑) 言外に「そんな物、あるに決まっているじゃねえか、この初心者めが」とでも言いたげな態度である。 いきなり客に対抗してくる店も珍しいなって唖然とした!

 時代はまさにバブル経済真っ只中。 良い物を提供すれば無条件で客が飛びつくといわれた時代であり、客に対して絶対的なセールスポイントがあれば上から目線の商売が成立していた時代でもあったのだろう。
 それにしても、正しいのか否か、このよく分からない接客をする各店の連中とサラリーマン上がりの俺がこれから対等に渡り合っていくためにはどうしたらいいのか。 まずは彼らに負けないだけのアーティストに対する知識を身に付けないといけないな!って俄然ファイトが湧いてきたものだ。



■初めて知ったオークションというシステム■


 社員40人ほどの社内は、大まかには店舗事業部、出版部、貿易部に分かれていたが、「新規編集部員」として俺が配属された部署は出版部ではなく、新設の新規事業開発部みたいな部署。 各店舗で保管されている超高額なアイテム、例えばアーティストやスターたちが使用した楽器や着用した衣装、直筆サイン入りアイテム、レアなレコード等、仕入れ価格は目の玉が飛び出るくらい高値のアイテムを集め、毎月1回の通信オークションの実施と、その為のカタログを製作する部署である。 「サザビーズやクリスティーズといった有名オークションのロック版だよ!」とT部長は説明してくれた。

 俺は惚れ込んだロックアーティストに対して入手困難な廃盤や音源、また当時は製品自体が少なかった映像作品を探し求めるタイプのロックファンだったので、恥ずかしながら初めて見せられた貴重品の数々、そしてその仕入れ価格に驚いたものだ。 さらにレアなロックアイテムそのものが、欧米ではまるで骨董品、美術品扱いされている現実、それをオークションによって値段を吊り上げて売却するというシステムも初めて知った。

 実際に入社するまでは、自分の仕事はレコード評やら書評やら商品解説やらを書き、各店のカタログを作るのが自分の仕事とばかり思っていた。 長時間の面接の中でもその様な説明を受けていた。 だからオークション事業部配属という事態には少々驚いてしまった。
 しかも部署はT部長と俺との二人だけ。 前職である大企業の大所帯慣れ(ズレ)していた俺は拍子抜けしたものだ。 やがてT部長は面接時における俺に対する評価の真相を明かしてくれた。
「ロックのオークションっていったって、まだ日本では何処もやっていないから説明しても分かんなかったんじゃない? でも各店のアイテムを集めてカタログを作るっていうのは間違いじゃなかったでしょう(笑) それに面接の時、君とビートルズだ、ストーンズだ、ブルースだってスゴイ盛り上がって、君の音楽に対する情熱は店舗の連中と同じだなあ~って思って採用したんだよ」
 
 4年前の就職活動の時は、学生側の売り手市場とはいえ、出身大学や英語のTOEICの点数、また資格の種類等が問われて“門前払い”を何度も喰らったので、「ロックへの情熱」が採用ポイントだなんて夢を見ている気分になり、採用後の業務内容が予想と微妙に異なっていたことはもはやどうでもよくなったものだ。

■歓迎会も傍から見れば■

  「この部署は今は二人しかいないけどさ、今夜歓迎会みたいなのをやってあげるよ」
 入社して3日目だったか、T部長が飲みに誘ってくれた。 後ほど店の店長連中も参加するという。 
「店の連中はみんな酒をよく飲むよ! まあロックに酒は付き物だからね」
T部長は笑顔で近くの居酒屋に案内してくれた。

 前職では上司や先輩と一緒の気乗りのしない付き合い酒が少なくなかったが、これからは「会社の連中と酒を飲みながらロックの話を当たり前にできるのだ!」と思うと何だか小躍りしたくなるような気分だった。
 歓迎会に真っ先に現れてくれたのが「ラブ・ミー・テンダー」の正木店長(現The-Kingのボス)だった。 生まれて初めてリーゼント・ヘアーなるものを目の当たりにした。 それも西洋の宗教画に描かれた精密な人物画の頭髪を思わせ、単なるヘアスタイルのパターンというよりもひとつの作品といった完成度である。 俺の今までのロックフレンドたちは、60年代ヒッピーか70年代ハードロック野郎みたいなロン毛ばかりだったので、正木店長のリーゼントは殊更強烈だった。
 正木店長は「ようこそ!」と笑顔で語り掛けてくれるが、目ぢからが異様に強い。 いかにも仕事が出来そうな雰囲気だ。 T部長が良いタイミングで補足説明をしてくれた。
「彼はね、18歳からうちで働ている叩き上げなんだ。 ハンパなく仕事するよ!」

 やがて「ヤードバーズ」のI店長、「ギミーシェルター」のM店長も顔を出してくれた。 正木店長ほどのインパクトはないが、彼らのファッションも“そのものずばり”だ。 I店長は細長いおみあしをスリムジーンズに包んだ、いかにも70年代ハードロックバンドのギタリスト風情! M店長は、ストーンズの絵柄のTシャツの上に無造作にジャケットを羽織ったラフさがカッコイイ。 オフタイムのミック・ジャガーかキース・リチャーズ的!? 俺とT部長は事務所勤めなのでスーツ姿だったが、傍から見たら俺たち5人は職場仲間には見えないだろう(笑)

 3人の店長さんが集まったところで、T部長は俺の簡単なプロフィールを彼らに紹介し始めた。 I店長はちょっと俺をからかい気味で喋りまくる。
「前職がサラリーマンって、ウチで大丈夫かなあ~」
「俺たちはロックアーティストの伝道師なんだよ。 だから俺たちの仕事はロックの布教活動なんだよ」
 反対にM店長は至って不愛想(笑) 「ヤロウ、ストーンズのツッパリ気質でも気取ってるつもりか」って感じだ(笑)

 正木店長は俺のプロフィールの意外な部分に反応した。 俺の出身大学の所在地が彼の居住地に近いらしく、三流大学ながらもその存在を知っていた。
「あそこの大学って英語上手い人が多くて有名だよね」
心の中で「あ~余計な事を言いやがって。 俺は例外だよ」って舌打ちしてしまった(笑)  でもT部長は嬉しそうだ。
「へえ~そうなんだ、いい事聞いたよ。 採用して良かった」
まあロック英語なら何とかなるだろうってその場は開き直ってひたすらビールを飲み続けたものだ。

 正木店長は「一度に飲むビールの量が多いなあ~」と嬉しそうに俺を見ている。 「呑み助見つけたり!」って表情に見えなくもない(笑) この先30年以上も正木店長とお付き合いさせて頂ける、酒をご一緒させて頂けるなどとはその時は想像も出来るわけもないが、何処かで正木店長との交流第1ラウンドのゴングが鳴った気がしたことはよく覚えている。 (つづく)


■余談~本当はアメリカ放浪をする予定だった■

 「原宿ロックンロール・ドリーム」第1回目はいかがでしたかのお。 まあ今回は序章なんで、かる~い話だけで留めておいたので、次回以降をどうぞお楽しみに!?
 実はな、わしの前職は一部上場企業の海外貿易部社員だったのじゃ。 サラリーマンとしては成功した部類に入る親父のコネによって入社することが出来た、お坊ちゃんサラリーマンじゃわい(笑) そんな世間的には誠に有難い職を、たったの3年半で辞めてしまったのじゃ。
 親父には退職時に報告しておいたが、お袋は癌で余命三ヶ月の宣告を受けていたので、「余計な心配をかけないように」と親父から口止めされておった。 だが転職を果たした直後に、病床のお袋に全てを報告したのじゃ。

 「親のコネで入れた一流企業を断りもなしに勝手に辞めたんだから、スゲー怒られるだろうな」と覚悟していたが、予想に反してお袋は喜んでくれよった。 「オマエの好きなロックの会社なんでしょ。 お父さんもお姉ちゃんも好きな仕事をやっているけどオマエはそうじゃなかったから可哀想だったのよ。 自分で好きな仕事を見つけてきたんだから、それが一番よ!」
 子育てにはまったく無頓着だった親父とは真逆で、わしはお袋にはやたらと厳しく育てられたもんじゃ。 親父には殴られたことがないが、お袋には何度も引っ叩かれたぐらいじゃ。 それだけに、生まれて初めて見るようなお袋の優しい笑顔に涙が出そうになったわい。

 前職を辞してからわずか一ヶ月後に再就職活動をしたんじゃが、その原因はお袋の病状だった。 本当は前職の退職金を使って(たった3年半のお勤めで約80万円!今なら150万円相当か)アメリカ大陸放浪を決めておったが、計画の最中にお袋の不治の病状が明らかとなって断念し、急遽音楽業界に的を絞って職探しをすることにしたのじゃ。
 長年の夢じゃったアメリカ放浪はあきらめたが、ロック関連職も学生時代からの大きな希望だったので、ある程度の気持ちの整理を付けることは出来た。 後に地獄の様な業務状況がやってくるなど微塵も予想出来なかったが、余命僅かのお袋も喜んでくれたし、悪くはない転職だとその時は素直に喜んだものじゃ。

 お袋の病状と同様に昭和天皇のご病気も進行しており、毎日のニュースでは昭和天皇のご容態が報じられる時期でもあった。 長かった昭和の時代は刻々と終わりへと近づいており、時代の移り変わりとともにわしの生活も一部上場企業のサラリーマンから「仕事も趣味もロック野郎」へと激変していったのじゃ。


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