NANATETSU ROCK FIREBALL COLUM Vol.295



七鉄の映像コレクション便り(2018年度版)~Volume 3
 猛暑、酷暑の折り、諸君は元気にやっとるか  あまりの自然現象の激しさに、外出したくなくてお部屋にこもっておるんじゃないかって、とても心配じゃ。
 まあ部屋にこもるなら、まず第一にThe-Kingコレクションのおさらいじゃな(笑) あらためてコーディネイトを考えたり、着て行くに相応しい場所を選定し直したり、やることはいっぱいあるわな! そしてそれに飽きたら、七鉄が薦める映像作品でも楽しんで頂きたいってわけで、「七鉄のロック映像コレクション便り」を3回連続でお届けするぞ!

 今回は女性アーティストたちの生涯を追った伝記映画を5本紹介する。  最初は女性ジャーナリストや女性画家など多岐にわたって伝記映画をセレクトしてみたんじゃが、やっぱりミュージシャン(もしくは関係者)に絞ることに相成った。 お部屋にこもりがちってことは運動不足なわけだから、身体が動きやすくなるような音楽関連映画がええ!ってのが理由ってのはジョーダンじゃけど、あんまりわしの嗜好を押し付け過ぎるのも余計に暑苦しくなるじゃろうから、なんとかロックファンの諸君の意向を考慮してみたってのが真意でアリマス!
 しかしご存じの通り女性ロッカーの伝記映画なんて数えるぐらしかないから、ビリー・ホリディ(ジャズ・シンガー)、クララ・シューマン(クラシック・ピアニスト)、ロック界と深く関わっていたイーディー・セジウィック(モデル)の映画をセレクトしたんで、とりあえず解説を読む分には内容に起伏があって退屈しないじゃろう!(笑) 女性アーティストたちの懸命に生きる姿を目の当たりすることが、諸君の暑気払いになることを願ってご紹介致しやす!

(写真上)ドキュメンタリー「ビリー・ホリディの真実」から
(写真右)映画「ファクトリー・ガール」から



七鉄のロック映像コレクション便り(2018年度版)~Volume 3
男性社会で奮闘した女性アーティストたちの強さと美しさを学ぼう


ジャニス・ジョプリン・ファンの祈り

■ ローズ ■

【製作】1979年アメリカ
【概要】永遠のロック・クイーン、ジャニス・ジョプリンがモデルになった、女性ロックシンガーの凄まじい生き様を描いた作品。 酒、ドラッグ、セックスに溺れながらも、歌うことだけが生き甲斐の女性シンガー・ローズを女優兼シンガーのベッド・ミドラーが熱演。 ロックンロール・デーモンがロッククイーンの生を食いちぎるか、それとも彼女の凄まじい生命力がロックンロール・デーモンを退けるか。 シンプルながらも、アクション・ドラマのような迫力ある展開はまさにロックンローラーの伝記映画そのもの。

【解説】
 まず観る側が、「ジャニス・ジョプリンの伝記映画」もしくは映画のモデルがジャニス・ジョプリンという先入観を捨てないと楽しめないかもしれない。 ジャニスはブルースシンガーであり、ベッド・ミドラーはいわばホイットニー・ヒューストン系のアダルト・ポップ・シンガー。 ジャニスが生きた時代は60年代後半であり、ローズが活躍する舞台は70年代後半風。 ジャニスのロックンロール・ライフは前例がなく、ローズの周辺にはロックスター用の延命装置がちらつく。 前述の先入観が強いと、この辺のとてつもなく大きな差異が気になってしまって「どこがジャニスの映画だ!」と声を荒げてしまいそうになるじゃろう。

 ジャニス・ジョプリンは、その絶大な知名度とは裏腹に、生涯を追った資料や映像に良質なものが少ない。 ジャニスと同時期に若くして死んだブライアン・ジョーンズ、ジミ・ヘンドリックス、ジム・モリスンが様々な角度から音楽遺産が解析され続けていることに対し、ジャニスの場合はいつまでたってもスキャンダルが強調されたものばかり。 先年の伝記映画「リトル・ブルー・ガール」も然り。 それほどジャニスの音楽というのは、専門的な解析が困難なのであろうか。
 この映画は、ある意味でファン目線で製作された「ジャニスに捧げられた作品」じゃ。 自分自身を見失ってしまい、ひたすらロックンロール街道を驀進するしか術のなかったジャニス。 しかしジャニスを愛するファンにとっては、ジャニスはスターというよりもこの世にたったひとつの宝石のような存在じゃった。 いつまでも素晴らしい歌を届けてほしい、親や兄弟を超越したソウル・フレンドだったのじゃ。
 その辺がまったく分からないままジャニスは死んでしまったが、そんな悲劇のライフ・ストーリーはファンは誰も望んでいなかったのだって事を天国のジャニスに届けたくて製作されたような映画じゃ。 だからこそ、映画の中でローズはどんなにボロボロであっても輝いておるようなアングルで撮られておる。 それはことさらロックンロール悪道に徹底するわけにもいかない「一般映画」の事情があったにせよ、ファンのジャニスに向けるいじらしいまでの思いが脚本の基本になっとるからじゃろう。
 確かにスキャンダラスなエピソードが散りばめられているものの、まるで「ロックスターの復活祭」に参加したような静粛な気分にさせられる珍しいロックンロール映画じゃ。



黒く澄み切ったソウル

■ ビリーホリディの真実(ドキュメンタリー) ■

【製作】1999年アメリカ
【概要】1930~1950年代に活躍した名女性ジャズ・シンガー、ビリー・ホリディの活動時代を貴重な映像で振り返るドキュメンタリー作品。 伝説のプロデューサー、ジョン・ハモンドのインタビューをはじめ、ルイ・アームストロング、ベニー・グッドマン、レスター・ヤングらの伝説的ジャズ・ミュージシャンの演奏シーンも登場。 その他当時のアポロ・シアターや禁酒法時代の闇酒場の模様なども収録されていて、資料的価値も抜群。 歌手としての活動時代の軌跡が主体となっているので、ビリー・ホリディの出生から成長期を追った伝記的作品ではないが、数多くの証言者の登場により、名曲に合わせて知られざるビリーの実像やレコーディングの実態が詳らかにされていく。

【解説】
 ビリー・ホリディの伝記映画として、ダイアナ・ロスがビリーを演じた「ビリー・ホリディ物語/奇妙な果実」(1972年アメリカ公開)があるが、どうにも好きになれないのでこの度はドキュメンタリーの方を紹介する。 「奇妙な果実」は、 「ダイアナ・ロスがビリーって、全然違うじゃろう!」ってことはさておいても、とにかく脚本がスキャンダラスなエピソードが主体になり過ぎていて、興味本位な70年代の娯楽映画の域を出ていないと思えるのじゃ。 冒頭のシーンからドラッグで服役中のシーンじゃし、ダイアナ・ロスのお顔はまるで殺人犯じゃった。

 正確なジャンル分けはよお分からんが、ビリー・ホリディは一般的にはジャズ・シンガーとされておる。 わしにとってのビリーはブルース・シンガーに近い“心のぬめり”が魅力じゃ。 女性ブルース・シンガーの大御所はベッシ―・スミスじゃが、もっと洗練された演奏のアレンジと開放されたトーンの歌声によって、ビリーはジャズ・シンガーとカテゴライズされておるんじゃろうと、わしは勝手に解釈しとる。
 数々の名曲のエピソードが次々と証言されているが、それぞれのレコーディングに共通したニュアンスとして、ビリーの歌だけが突出していたわけではなく、バックの演奏と溶け合うことによって演奏全体のテンションが閃きを伴ってアップしていき、オーケストラの様な壮大なスケールを描き出していったことが分かる。 いわばビリーはレコーディング・セッションにおいて指揮者の様な存在だったようじゃ。 とりたてて美声でもなく、トリッキーなテクニックも派手なアレンジも用いないが、東海岸の黒人たちが熱狂していったビリーの魅力はこのトータル・コンタクトの天性のセンスにあったのかもしれない。
 一方、彼女の代名詞ともなった超有名曲「奇妙な果実」と遺作「レディ・イン・サテン」以外の曲の解析は、レコーディング当時のスキャンダルを重ね合わせて紹介されていくパターンが多くて鑑賞当初はいただけなかった。 しかし歌唱に込められた素晴らしき抑制されたソウルに触れるにつれて、様々なトラブルこそ彼女の生きる糧であり、生きることはすなわち歌うこと、といった通常ではアリエナイ人生を送っていたのがビリー・ホリディである!と言わしめるだけの構成がじわりじわりと理解出来てくる作品じゃ。
 冒頭のシーンで、作曲者の男性が「これでもかこれでもかとトラブルが続いた人生なのに、あれだけの芸術的高みに至ったってことが彼女の偉大さなのだ」と強調するが、まさにその言葉通りの展開じゃ。
 しかし、ロバート・ジョンソンにしろ、エルヴィス・プレスリーにしろ、ビリー・ホリディにしろ、聴く者の心に住み着いて離れない偉大なシンガーは、どうして皆トラブル続きの人生だったのじゃろうか。 トラブルに潰れそうになりながら歌い続けることが「偉大なるソウル」を獲得できる唯一の方法なのじゃろうか。 それがいわゆる「悪魔に魂を売り、その代わりに・・・」ってことなのじゃろうか。



ギャル・バンドはこうして誕生した!

■ ランナウェイズ ■


【製作】2010年アメリカ
【概要】1970年代後半に活動したガールズロックバンドのランナウェイズの伝記映画。 ボーカルでフロントだったシェリー・カリーと、バンドの実質創始者でリーダーだったギタリストのジョーン・ジェットの動向を中心に物語は展開する。 ランナウェイズはメジャー・バンドにもならず、後に大スターになったジョーン・ジェットを輩出した以外では表立った音楽的功績はない。 しかしガールズバンドへの偏見と無理解、女性の集合体ゆえの確執、発想と指導は斬新ながらも奇行を繰り返すマネージャーとバンドとの闘い等、先駆者としての悲劇、喜劇が存分に描かれている。

【解説】
 いまだに「ラナウェイズ」ではなく、日本語英語の「ランナウェイズ」とタイトルされるのは止めてもらいたい!とまずはどーでもいい事を書いておこう(笑) 以下「ラナウェイズ」表記でイキマス!
 わしはラナウェイズの音楽にはまったく興味もなかったし、ルックス的に惹かれるメンバーもおらんし、正直「なんであの程度のバンドが映画化されるのか」じゃった。 唯一気になる存在だったのが、マネージャーのキム・フォーリー。 この人は70年代から色んなアメリカン・ロックのアルバムにプロデューサーとかマネージャーとかスペシャル・サンクス(協力者?)ってクレジットされておったがよくワカラン存在じゃった。 そのキムの実像が見えてくるんじゃないか?って期待でこの映画を観てしまったが、その点ではドンピシャ!
 キムはいわゆる鬼才的マネージャーであり、ギャル・バンドなんててんで相手にされない時代にラナウェイズを育てる方針が圧巻じゃ! それは「テメエらの股で野郎どもを食いちぎれ!」的なロックンロールをラナウェイズに強要したことじゃ! スゲーパンクなスピリットだし、男性社会のロック界で女性ロッカーたちが生き抜くための当時は異例なスタイルじゃ!
 ヤジられた時のトレーニングだ!と、ラナウェイズのリハ中にサクラに石や空き缶を投げつけさせたり、ヤッテル最中に電話でメンバーに指示を出したり、オリジナルの歌詞を強引に卑猥な内容に改ざん?したり、下着姿で大股開きをやるシェリーへの他のメンバーの嫉妬もバンドのエネルギーとしてあえて利用したり、もうメッチャクチャで爽快じゃ! ラナウェイズってキム・フォーリーのバンドだったと言えるかもしれない。

 その一方で、「女だけでロックをやってどこが悪い!」と正しいツッパリ根性を貫くジョーン・ジェットもめっちゃカッコイイ。 ラナウェイズ解散後数年を経て、ソロ・プロジェクトで「アイ・ラブ・ロックンロール」を大ヒットさせたジョーンじゃが、彼女の不屈のロックンロール・スピリットはこの映画の中に溢れかえっておる。
 まだティーンエイジャーだったラナウェイズにスターという最高のエクスタシーを与えながら、酒とドラッグを覚させ、ギャラもチョロマカし、テンションが上がらなければポイ捨てという、業界の悪しき習慣にラナウェイズは潰されてしまったようなものじゃが、それでもめげることなく這い上がってきたジョーンって、やっぱりロック殿堂入りに相応しいロッカーじゃ。
 往年の日本のロックファンにとっては懐かしいシーンもある。 ラナウェイズは1976年に日本公演を行っておるが、シェリーが表紙を飾った数々の日本の雑誌のレプリカをはじめ、日本公演やオフの模様が鮮明に再現されておるんじゃ。 日本公演中のメンバー間のトラブルがシェリー脱退に繋がったことは有名じゃが、ジョーンが「あんたはポルノ女優じゃない。 ロックンローラーよ!」とシェリーに詰め寄るシーンがあり、これは恐らく実話なんじゃないかと! またラナウェイズの楽屋まで押しかけて来る日本のファンの大多数が年端も行かない女の子たちってのは間違いなく実話! 「同性からキャーって追いかけられるって、なんかヘンな感じね」ってシェリーがインタビューで語っておったのを何故かわしは覚えておったのじゃ! まあラナウェイズはC級ギャル・バンドって偏見を持たずに観てもらいたい。 楽しめますぞ!


アンディ・ウォーホール劇場の生贄嬢

■ ファクトリー・ガール ■

【公開】2006年アメリカ
【概要】アンディー・ウォーホルお抱えのモデルであり、1960年代中期のアメリア東海岸におけるグラビア・ミューズであったイーディ・セジウィックの伝記映画。 ウォーホルズ・モデルであったために、イーディは数多くのロックンローラーと交流していたことでも知られている。 実際にはボブ・ディランの恋人であり、またベルベット・アンダーグランドのメンバーは飲み仲間、ジム・モリスンは火遊び相手だったとも言われておる。 かわいらしい容姿そのままに、性格は無垢で無邪気であったイーディは、やがて業界のお約束である“ドラッグ地獄”にハマッテ人生は急降下していくことに。 イーディのキャラの描写は少なく、輝ける時代からの凋落ぶりに主眼がおかれているだけに、ベルベットのリーダーだったルー・リードは「事実無根、金儲けのために映画だ」と、ボブ・ディランは「イーディの自殺未遂の原因がオレだったみたいじゃないか」と非難しているが・・・。

【解説】
 上述のルー・リードやボブ・ディランの指摘はともかくとして、イーディを初めとしたアンディー・ウォーホルを慕う女性モデルたちの顛末としては本作は大きく外れてはいないと思う。 もう30年ぐらい前に、ウォーホルの元でC級モデルをやりながら落ちぶれていき、精神を病んでしまった女性を追ったカルトムービーを観たことがあるが(タイトル失念)、この映画の展開とクリソツじゃった。
 アンディー・ウォーホルってのは、ポップアートにしても映画にしても、プレス受けはいいが一般人気は無い。 ってことは大金が無い。 だから起用するモデルさんは実質ノーギャラじゃが、ウォーホル作品に起用されれば話題性が付いてくるので外部から仕事もやって来る。 そうなったら「どうぞ勝手にやってちょうだい。 僕にはまた新しいモデルたちがやって来るから」ってのがウォーホル・スタイル(笑) ちゃんとモデルさんの面倒を見ないのじゃ。
 でもウォーホルの元には続々と有名人が集まってくるので、モデルたちはウォーホルから離れることが出来ない。 やがてウォーホルの取り巻きが持ち込むドラッグと退廃的な生活にハマっていくというパターンが待っているのじゃ。 “ニューヨークのミューズ”“60年代のレディ・アイコン”とまで言われ、トップ・ファッション誌「ヴォーグ」の表紙まで飾ったイーディも、アンディー・ウォーホルの魔界から抜け出すことが出来なかったのじゃ。

 おかしな言い方だが、この映画はアンディー・ウォーホルが嫌いな人向けじゃ(笑) 明らかにディランと分かるミュージシャンが「アイツ(ウォーホル)はロクに金儲けも出来ない上辺だけの男、俗物だ」とイーディに忠告するシーンは胸がすく思いがするじゃろうし、堕落していくイーディを更に焚きつけるように次々と新しいモデルを連れて来るウォーホルには単純に怒りを感じるじゃろう。 
 自らのモデルへの愛を起点としてそのモデルを有名には出来ても、更に成長させることが出来ない為に、とっかえひっかえ新しいモデルへと鞍替えするウォーホルが実にヤワな男として描かれておるのがオモシロイ。 あたかも、フランス映画の名監督ロジェ・バデムの様な、愛を真の芸術に変換する才能はウォ-ホルには無い!と言い切っておるようじゃ。 おしなべて言うと、この映画は、イーディはウォーホル虚構の芸術世界の代表的な生贄だったって言いたいのじゃろう。 だからこそイーディの内面に深く切り込んでいく脚本は必要なかったのかもしれない。
 
天才音楽家カップルの真っすぐな愛

■ クララ・シューマン物語/哀愁のトロイメライ ■


【公開】1981年西ドイツ/東ドイツ
【概要】クラシック作曲家の大家ロベルト・シューマンと、妻クララが結ばれるまでの熱烈な恋愛劇。 超絶技巧ピアニストを目指していたロベルトは、過度のレッスンとトレーニングで指を負傷してしまい、以後作曲家として一本立ちすることを決意する。 一方クララは幼少期より天才ピアニストとしてその名を馳せ、父親はクララを女性モーツァルトにするべく愛情たっぷりながらも過酷な演奏家ツアーを強いる。 激しく惹かれ合うロベルトとクララだが、クララの父親に結婚を頑なに反対される。 二人は音楽家としての研鑽を続けながら、愛の結実へと邁進することに。

【解説】
 唐突にクラシック音楽映画のセレクトをしてしまって恐縮じゃが、ロベルト&クララ・シューマンが生きた19世紀のクラシック界ってのは、後のロックン・ロールの世界に大いに共通する部分が多いのじゃ。 まずテクニック至上主義。 ツアーに明け暮れることで名声と収入を激増させていく日常。 レッスンと演奏会(ロック的に言うとライブ)の合間に繰り広げられる男と女の虚実ないまぜな恋愛劇。 クラシック音楽を一般視聴者に向けて崇高な音楽であると声高に語る連中は多いが、その黎明期においてはロックンロールを生み出す環境と似たり寄ったりであったことが鮮明に描かれておるぞ。 しかもストーリーの骨格は才能に溢れた男と女のミュージシャン同士の恋愛劇なのじゃ。 案外楽しいぞお~(笑)
 それからクラシック音楽やシューマン夫妻に対して堅苦しいイメージを払拭するために、個人的エピソードを記しておこう。 わしがシューマンの音楽を好きになった理由は、子供の頃に見たウルトラセブンの最終回! ウルトラセブンであるモロボシダンが、アンヌ隊員に向かって、「アンヌ、僕は、僕はね、人間じゃないんだよ。 M78星雲から来たウルトラセブンなんだ!」と告発して、キンキラのバックに2人のシルエットが浮かび上がるシーンに流れるのがシューマンの「ピアノ協奏曲イ短調」。 子供ながらに「なんて感動的な曲なんだ」って痺れてしもうた。 まあわしのクラシック初体験ってわけじゃ!

 シューマン夫妻の純愛における最大のハードルは、クララの頑固な父親であり、映画の中では父親のクララに対する異常な愛情が、まるで“近親相姦”的に描かれている。 また音楽家として名声を得る為には、パトロンになってもらう貴族への媚びへつらいが絶対に必要。 見栄とハッタリを駆使する惨めな当時のミュージック・ビジネスの実態が詳らかにされておる。 そしてクララへの愛が進行せずに苦しむシューマンが、周囲の女性たちと次々と欲情行為へ走るシーンなど、クラシック音楽家に対する美しいイメージを根底からひっくり返すようなシーンが満載で、わしとしてはとても痛快! クラシック音楽とは、決してお金持ちのぬるま湯的環境から生まれて来たわけではないのであ~るってもんじゃ!
 同時代の大作曲家であるメンデルスゾーンやパガニーニも登場するが、テクニック至上主義時代のもうひとりの天才ピアニストだったフランツ・リストや、後にシューマン夫妻の前に現れるロマン派の代表的作曲家ブラームスなども加えて、もっと豪華絢爛に、もっとひっちゃかめっちゃかに当時のミュージック・シーンを描き出してほしかった! まあ「クララ・シューマンの生涯」ではなくて、シューマン夫妻の恋愛がテーマだからリストやブラームスの不在は諦めるしかないか!?

 クララ・シューマンを演じるナスターシャ・キンスキーは、鑑賞当初は淑女のイメージが強いクララとは相容れないと思ったものじゃ。 しかし父親のエスカレートする異常な愛情と過酷なツアースケジュールにもめげることなくロベルトへの愛を貫く“炎の女クララ”をナスターシャは見事にやってのけておる!
 ロベルト・シューマンを演じるヘルバート・グリューネマイヤーは元々ピアニストだったらしく、吹き替え無しのピアノ演奏シーンはド迫力じゃ。 指を鍛えるための特殊器具を使うシーンもあり、本当に当時のミュージシャンは異常な情熱でもってテクニックを磨き上げようとしていたことがダイレクトに伝わって来る。(ちなみにわしは2015年にポーランド・ワルシャワの「ショパン博物館」で同様の器具を見学した)
 恋愛映画として、音楽映画として、19世紀の音楽界を知る資料的映画として、いろんな視点から楽しめることは間違いない作品じゃ!




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