NANATETSU ROCK FIREBALL COLUMN Vol.289

 アメリカメジャーリーグ野球の大谷選手が素晴らしいスタートを切ったことにコーフンして(笑)、前回は「日米二刀流選手の歴史」なるものをご紹介した。  その勢いに乗って、もう1回「二刀流特集」を、それも野球以外の才能を発揮してLPレコードまで発表した選手をご紹介しよう。 The-Kingのボスは「ビバラス」で大奮闘をしたばかりなので、「ラスベガス」「音楽」「日米で話題の二刀流」を交えたネタでいくぞ。 今から丁度50年前、1968年のワールドシリーズを制覇したデトロイト・タイガースのエース投手だったデニー・マクレインのオハシであ~る!

 メジャーリーグ・フリークの方なら、デニー・マクレインという名前ぐらいは聞いたことがあるかもしれん。 デニーは「最後の年間30勝投手(1968年31勝)」としてメジャーリーグ・レコードブックの中に燦然と輝く存在じゃ。 そして1968年のオフ、オルガンのオール・インストゥルメンタル・アルバムまで発表した。 一流のセッション・ミュージシャンをバックに、アルバム1枚フルでリード・オルガンをプレイしたのじゃ。 それも大手キャピトル・レコードからのリリースじゃった。 野球に音楽に、まったく羨ましいほどのマルチな才能の持ち主がデニー・マクレインなのじゃ!
 まあ二刀流というよりも「兼業」の方が相応しいかもしれんが、歌の上手い人気野球選手が、歌もののシングル・レコードを吹き込んだのとはワケが違うぞ! ダメもとでyou tube内で検索してみたら、ファースト・アルバムが丸ごとアップされておった。 後ほどそのURLをリンクさせておくので、わしの拙文と併せてどうかデニーの才能を感じ取ってくれ!

最後の年間30勝投手にしてLPレコードを2枚も発表!“異種二刀流”投手・デニー・マクレインの栄光と転落


■年間30勝、20勝以上3回、サイ・ヤング賞2回の大投手! ■

 まずはデニー・マクレイン投手が残したスゴイ記録を簡単にご紹介しておこう。 1968年にマークした年間31勝(6敗・防御率1.96)は、メジャーリーグにおいては実に34年ぶりの大記録であり、以降も誰一人として1シーズンで30勝に到達した投手はおらん。 翌1969年も24勝をマークしたデニーは2年連続で投手の最高栄誉であるサイ・ヤング賞を受賞しておるのじゃ。
 因みに、日本プロ野球史における最後の30勝投手も1968年に出現しておる。(南海ホークス・皆川睦夫投手の31勝)

 1963年、弱冠19歳でMLBに昇格したデニーは、2→4→16→20と着実に勝ち星を増やしながらMLBを代表する投手への階段を上り続け、68~69年にピークを迎えたのじゃ。 先述の通り、1968年はタイガースがワールドシリーズを征した記念すべき年でもあるので、デニーの31勝という大記録はデトロイトの野球ファンにとって永遠に忘れる事のできない金字塔じゃ。
 1968年9月14日デニーが30勝に到達した試合は(対オークランド・アスレチックス)、最終回にタイガースが逆転サヨナラ勝ちを収めており(スコア5-4)、勝利の瞬間に喜びを爆発させるデニーの姿はアメリカの有名スポーツ専門誌「Sports Illustrated」9月22日号の表紙を飾っておる。(写真左)

 わしはデニーの現役時代の活躍をこの目で見たことがないので詳しくは分からんが、映像サイトにわずかにアップされておる貴重な映像から判断すると、186センチ83キロ(当時の登録サイズ)の身体の筋肉は下半身に集中しており、重心が低いフォームから球質の重いストレート、カーブ、チェンジアップをズドン!とキメル、昔ながらのオーソドックスな投手のようじゃ。 記録を見ると四死球が少なく、また投げるテンポが良いのでバックも守り易かったに違いない!


■31勝のご褒美に、球団がレコーディングを許可!■

 1968年に快進撃を続けるデニーにデトロイトのファンは熱狂し、地元ラジオ局は四六時中“デニー応援歌”を流してファンの熱気をあおり続けたらしい。 そうした地元デトロイトの後押しもあって成し遂げられた31勝じゃったが、タイガース球団は特別ボーナスとして、シーズン・オフにはデニーにレコーディングを許可したのじゃ(進言した?)。

 実はデニーは、野球よりも先にオルガン・プレイヤーとしての才能が開花しており、弱冠13歳の時に地元のナイトクラブとプロ契約を結んでいた経緯があったという。 野球の才能は、その後に開花したのじゃ。 デトロイトといえば「モータウン・サウンド」のメッカであり、50年代末期から60年代はその大全盛期じゃ。 デトロイトの至る所にナイトクラブ(ライブ・ハウス)があり、デニーは投手として駆け出しの頃は、シーズン中もオルガン・プレイヤーとしてナイトクラブでアルバイトをしていたらしい。
 投手として覚醒してからはさすがにアルバイトはやらなくなったらしいが、それでもシーズン・オフはこっそりと(笑) そんなデニーの素行を見て見ぬふりをしていた球団も、31勝という大記録記念として本格的なレコーディングにOKしたのじゃ! しかもリリース元はアメリカ・レコード会社の最大手「キャピトル・レコード」じゃ。 どうして地元「モータウン・レーベル」ではなかったのかは不明じゃが、恐らく球団上層部の誰かが、キャピトル・レコードにコネクションがあったと思われる。


■「Denny Mclaine at the Organ」「Denny Mclaine in Las Vegas」■


 かくしてデニー・マクレインがLP丸ごと1枚でハモンド・オルガンを弾きまくる「Denny Mclaine at the Organ」がリリースされた。 しかし、ユニフォーム姿のショットをアルバム・カバーにするとはお笑いじゃが、今となってはアメリカの古き良き時代が伝わってくるほのぼのカバーじゃな。
 チャートアクションは不明じゃが、翌年のシーズン・オフにはセカンド・アルバム「Denny Mclaine in Las Vegas」もリリースされておるんで、そこそこ売れていたんじゃろうな! レコーディングの詳細は分からんが、タイトルからすると、ラス・ベガスで録音されたんじゃろうか?
 1968年頃からエルヴィス・プレスリーは活動のフランチャイズをラス・ベガスに移しており、全米の音楽ファンにラスベガスという都市が大きく注目され始めた時期でもあるので、その辺も考慮されてデニーもまたラス・ベガスに呼ばれたのであろう。 この間、デニーは、『エド・サリバン・ショー』や『スティーヴ・アレン・ショー』にも出演しておるのじゃ。

 2枚のアルバムはいずれもアメリカ某音楽サイトによると、使用されたハモンドオルガン「X-77」は当時最新鋭だったオルガンらしい。 アルバムのジャンル分けは「Lounge」(ラウンジ)とされておる。 「ラウンジ」とは、イージー・リスニングの一種であり、ゆったりとリラックスしながら聞く耳に優しいインストゥルメンタル・ミュージックじゃ。 音楽の原型はジャズやスタンダードポップスではあるが、あくまでも聞き流すための音楽であり、わしなんかはちょっと苦手なジャンルではある(笑)

 メジャーリーグのスタジアムでは、どこでも7回表終了時に「セブンス・イニング・ストレッチ」と題された休憩タイムが球場側から観客に呼び掛けられ、流麗でさわやかなハモンドオルガンの演奏に合わせて観客が背筋を伸ばしたり両腕を広げたりする軽いストレッチを行うのが通例じゃ。 デニーのアルバムでは、まさに「セブンス・イニング・ストレッチ」にピッタリと合うようなオルガン・プレイが聞くことが出来る。

 「セブンス・イニング・ストレッチ」の習慣の起源は1910年代とされておるが、オルガン演奏が有名になったのは、デニーの故郷シカゴを本拠地とするホワイトソックスのホームグラウンド「コミスキー・パーク」の女性オルガニストであるナンシー・ファウスト氏のプレイ。 観客をリラックスさせながらボルテージをアップさせていく彼女の抜群のオルガン・センスが話題を呼び、スタジアムでのオルガン演奏が普及していったと言われておる。
 ナンシー氏の登場は1970年とされており、デニーがセカンド・アルバムを発表した翌年に当たる。 デニーのオルガン・アルバムが、ベースボール・スタジアムでのオルガン演奏の誕生を触発したと言っても過言ではない!
 どのスタジアムでも「セブンス・イニング・ストレッチ」の時に演奏されるのは、「Take Me Out To The Ballgame/私を野球に連れて行って」や「God Bless America」が定番じゃが、1970年代にはデニー所縁のシカゴやデトロイトのスタジアムでは上記2枚のアルバムから何曲かセレクトされてプレイされていたかもしれない!? スケールが大きくて開放的なメジャーリーグのスタジアムで、デニーのアルバム収録曲を聞いたならば、「ラウンジ・ミュージックごめんなさい」のわしも、ビールを飲む手を止めて(笑)他の観客と一緒にリフレッシュなアクションをするじゃろうな!


■最後の4割打者との確執、そして突然の失速と悪行 ■

 メジャーリーグ昇格後7年間で114もの勝ち星を挙げたデニーは、まだ25歳という若さで全米のベースボール・ヒーローとなったが、その輝かしいキャリアは突然に失速することになった。
 元々のキャラは悪ガキ・タイプの無邪気な青年だったらしいが、シーズン・オフにはさしたる身体のケアもせず、先述のレコーディングを初め、TVやラジオ出演に明け暮れ、さらに高級クラブで派手に遊びまわり、しかも1日にコーラを20本以上も飲みまくるといった奇行も目立ち始め、人物としての評判は悪化の一途を辿ることになる。 当時デニーがラジオ番組に出演した写真を見つけたが(左写真)、マイクの先にはしっかりとコーラ瓶が映っておる。

 本職の野球においても、1970年には拳銃の不法所持と野球賭博への関与、さらには賭博師との交際が発覚したために開幕から3ヶ月間の出場停止処分を受け僅か14試合の登板で3勝5敗と成績は急降下。 球団や首脳陣、マスコミとのトラブルも絶えず、また地元ギャングとの交際も明るみに出て、「デトロイトのヒーロー」という称号はあっという間に地に落ちてしまったのじゃ。

 1971年、タイガースはデニーの面倒を見切れなくなってワシントン・セネタースにデニーを放出。 タイガースとしてはアルバム「Denny Mclaine at the Organ」の製作をOKしてからわずか3年後の苦渋の決断じゃった。
 デニーの素行の悪さはセネタースでも相変わらず。 当時の監督は「最後の4割バッター」として野球の神様と呼ばれたテッド・ウイリアムズ。 デニーはこの神様にまでベンチ内で食って掛かるような悪行を繰り返し、成績も10勝22敗と散々。
 1972年にはオークランド・アスレチックス(成績1勝2敗)、同年夏にはアトランタ・ブレーブス(3勝5敗)、1973年にはミルウォーキー・ブリュワーズ(登板無し)、シカゴ・ホワイトソックス(登板無し)へと放出され続け、1974年に30歳という若さで現役を引退することになったのじゃ。

 「野球を辞めても音楽があるじゃないか。 その後はオルガン・プレイヤーとして飯を食っていたんだろう」と思われるじゃろうが、野球と音楽で大金を稼いだ悪ガキを悪党どもが放っておくはずがない。 前述の賭博師やギャングとの付き合いは絶えず、様々な事業にも失敗。 ついにはコカインの密売や業務上横領、詐欺などで逮捕・服役を繰り返す人生が現役引退後に待っておったのじゃ。

■ 「何が正しいか、何が間違っているか、まったく知らなかった」 ■

 日本のプロ野球経験者の中にも、覚醒剤使用の清原元選手や殺人事件を犯した小川元選手(元ロッテ・1988年パ・リーグ最多奪三振投手)等、栄光の座から激しく転落してしまった者は少なくないが、彼らのほとんどは現役引退後に罪を犯しておる。 しかしデニー・マクレインは選手として絶頂期の転落であり、まさにエベレスト山からマリアナ海溝まで真っ逆さまに転げ落ちてしまったのじゃ。
 デニーのメジャー・リーグ現役引退後の軌跡を調べていくと、1985年に懲役23年の刑を受けている事実が分かったが、3年後の1988年には「Strickout」という自叙伝を発表しておる。 刑務所内で書き綴られたものじゃろうが、その中にこんな記述がある。

「何が正しく、何が間違っているのか、誰がよい方向へ導き、誰が破滅へと導くかを知らなかったために、言葉巧みに近寄るハリウッドやラスベガスのショービジネス界の関係者たちと交際するうちに悪事に加担するようになった」

 オルガン・プレイヤーとしてエンターテイメントの聖地に進出したことが、デニーの人生を暗転させてしまったということか!? もしタイガースがレコーディングをOKしなかったら・・・もし最後の4割打者(監督・テッド・ウイリアムズ)が最後の30勝投手(投手デニー)をハンドリング出来たならば・・・もしデニーがニューヨーク・ヤンキースやセントルイス・カージナルスのような選手管理に厳しい球団に所属していたら・・・タラレバを考えるとキリがないが、自叙伝「Strickout」におけるデニーの告白は、あまりにも正直で悲しいわい。


 長い服役を終えて、現在デニーは公衆の面前に姿を現しているが、その身体は巨象のように肥え太り、かつてのヒーローの面影は全くない。 それでもタイガースの始球式やOBのサイン会などには積極的に参加しておるようじゃ。
 オルガン・プレイヤーとしての仕事はやっておるのかどうかは定かではないが、あんなに太ってしまったら座ってオルガンを弾くことすら出来んじゃろうなあ・・・オルガンをプレイしたレコードが自分の転落、堕落の発端になったとデニー自身が考えているならば、もう二度とオルガンを弾かないかもしれん。 それでもスタジアム内で「セブンス・イニング・ストレッチ」のオルガン・プレイを聞いたら、自分のプレイを思い出したりしておるじゃろうなあ~。 そんな風に考えながらデニーの残した2枚のレコードを聞くと、また味わいも変わってくるもんじゃ。

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