NANATETSU ROCK FIREBALL COLUMN Vol.269
ハロ~諸君!前回に引き続き、「ちょっとコアなロックドキュメント」をやらせて頂くぞ! The-Kingが久しぶりに豪勢なイタリアンカラーシャツのラインナップを発表し、諸君をハッピーな外出へと駆り立てておる時に、お部屋にこもってのビデオ鑑賞なんぞを推奨しとるようでチトバツが悪いが(笑)、コイツラを観賞することでロッカーとしてのエネルギーを体内に充満させてから一気にイタリアンカラーシャツで外出!とシャレコンデほしいぞ。
今回は5タイトルを紹介するが、相変わらずジャンルは滅茶苦茶であり、しかも女性シンガーものを2タイトル用意したぞ! 前回と合わせて合計11タイトルのセレクトには何ら一定の括りはないが、ひとくちにThe-Kingのカスタマーとはいえ、ロカビリーや50sファンとはいえ、色んな趣味や感性をもった方々がいらっしゃると存ずるので、何かひとつでもどなたかの心にヒットする作品があることを願ってセレクト、執筆しておりまする。どうかタイトルだけ見て素通りすることだけは止めていただき、斜め読みでも結構なんで、最後まで目を通して頂けたら幸いじゃ!
七鉄の映像作品コレクション便り Volume 4
21世紀に発表されたちょっとコアなロック・ドキュメンタリー映画~後編
■ ジ・アンソロジー/ジョニー・キャッシュ(2001年) ■
ジョニー・キャッシュへの道!ボリューム満点の2本立て映像集
異なる2つのドキュメンタリー作品を、「本編」と「特典映像」とにセットした、総収録時間2時間半を越えるジョニー・キャッシュ御大の大特集映像作品!
本編は有名曲を基軸として御大の音楽性を探る構成。 「特典映像」は、生い立ちから時系列に沿って御大の人生ストーリーが展開されていく構成。 ライブ映像や出演者のインタビューなどで両ドキュメントには一部ダブリがあるものの、それぞれ別個のドキュメンタリー作品としてのクオリティは充分に保たれておるんで問題なし!じゃ。
21世紀の幕開けとともに制作/発表された本作は、既に人間国宝級の存在となっておった70歳間近にジョニーのに対してまずは最大級の敬意が払われておるようじゃ。 ウイリー・ネルソン、ウェイロン・ジェニングス、グレン・キャンベル、レヴォン・ヘルム、クリス・クリストファーソンらの豪華なインタビュー出演者たちの賛辞の嵐が凄まじい! ドキュメンタリーのストーリー進行とは関係なしに「ジョニーは偉大だ、不世出だ」が連発される差し込み映像の多さはちょっと“やり過ぎ”の感がなきにしもあらず?!、
でもそうした「ジョニー・キャッシュ万歳!」のコンセプトにもかかわらず、本編、特典映像ともに作品全体を覆っておるシリアスな雰囲気は観る者の魂を鷲づかみにしていくことじゃろう。 それはジョニーの血筋、生い立ち、生活体験といった一般的には知られざる人生の側面に光を当てながら、発表され続けた音楽の背景を辿っていくドキュメンタリー方針が貫かれておるからじゃ。
輝かしいヒット曲の数々やコンサートの盛況ぶりが続々と紹介されていくのではなく、それぞれの楽曲やコンサートに込められたジョニーの真意、哲学、祈りが真摯に誠実に、そして濃厚に浮彫りにされていくのじゃ。 楽曲の演奏シーンは、恐らくベストパフォーマンスがセレクトされておるのじゃろうが、一曲一曲が恐ろしく厳粛に聞こえてくる素晴らしい映像集じゃ。 「何故ジョニー・キャッシュの歌は大衆の心をつかむことができたのか」その単純で難解なクエスチョンを、ジョニーの数多くの楽曲を通して観る者に教えてくれるぞ。
ジョニー・キャッシュ以降、特にロック、フォーク・シーンでは歌詞に重きを置くシンガーが続出した。ボブ・ディラン、ジョニ・ミッチェル、ニール・ヤング、ブルース・スプリングスティーン、ジャクソン・ブラウン、ドン・ヘンリー(イーグルス)などなど。 彼らはまずカントリーミュージックサイドで腕を磨きながら、ジョニーよりもはるかに言葉数が多く、より感情を込めて歌っておったもんじゃが、それはジョニーのようなシンプルでソウルフルな表現に到達出来ない故の所業だったように思えてくるわい。
そんな彼らの中には「ジョニー・キャッシュ・TVショー」に出演した連中もおり、本作にもそのシーンが登場するが、後輩の出演者たちをリラックスさせながら的確にサポートしていくジョニーは、まさに動かぬこと山の如し、巨匠そのものじゃ。
本作鑑賞後にあらためて認識したことは、やはりジョニー・キャッシュは唯一無比のロックンローラーだったってことじゃ! 古臭い言い方じゃが、「ロックン・ロール」というのは生涯変わらぬライフ・スタイルのことじゃ。 それは己の信念に生涯を捧げ、世俗にまみれることなく常に社会的弱者への味方であることじゃな。
ジョニーは晩年身体の不調との闘いを余儀なくされた様じゃが、ボロボロヨタヨタになっても鋭い眼光を失うことなくカントリーミュージックを通して、世の中の不条理、差別と闘う姿勢を失わなかった。 それも常に新曲においてじゃ!(決して懐メロではない!!) お年を召して凄まじいプレイは出来なくなってもなお、ひとつひとつの言葉、静かなリズムの中に己の信念を込めて歌い続けたのじゃ。 これこそまさにロックンローラーじゃ。
あまりにも楽曲の魅力に深く切り込み過ぎたためか?!ジョニーのライブ・パフォーマーやシンガー/プレイヤーとしての魅力に迫るパートは残念ながら少ない。 アメリカン・スピリチュアル・ミュージシャンに対して、そんなプレイヤー・マガジン誌のような分析は必要ないのかもしれんが、ジョニーの孫の世代にあたるギタリストたちの中でもジョニー信者は大変に多いという厳然たる事実があるので、この点に関しては今後の新しいドキュメント作品の方で期待してみたい。
■ ニューヨーク・ドール(2005年) ■
ロックの神様が用意した傑作ドキュメンタリー! 幻想と現実、ロックと非ロックが溶け合う時へ
アメリカン・パンクの元祖として70年代中期突如シーンに登場したニューヨーク・ドールズ。 本作はベーシストじゃったアーサー“キラー”ケインのバンド解散後の動向と、2004年の再結成ライブにまつわるアーサーを中心としたドールズの生き残っておるメンバー(オリジナル・メンバー3人は既に死去)のエピソードをからめた異色のドキュメンタリー作品じゃ。
スターでありソロ活動も続けておったデヴィッド・ヨハンセン(ボーカル)やジョニー・サンダース(ギター)ではなく、割と地味な存在じゃったアーサーが主役なだけに、作品の話題性に「?」が付きまといやすいとは思うが、本作は21世紀になって発表され続けるロック・ドキュメンタリーの中ではそのクオリティはダントツで素晴らしい!
ニューヨーク・ドールス解散後のアーサーはソロ活動がまったくうまくいかず、やがてロックシーンから消え去る運命が待っておった。 ドラッグやアルコールに溺れる日々を送りながら、宗教(モルモン教)に人生の新しい光を見つけ、以降は熱心な信者として、また教会の職員として地道な生活を送ることになる。 その歳月は実に30年にも及んだのじゃ。
かつてロックスターだったイメージは消え去り、頭髪の薄いおなかの出た中年のおじさんとなったアーサーの教会職員としての第二の人生から本作はスタートする。 とはいえ、かつての栄光の残像に苦しみ、デヴィッドやジョニーのソロ活動を羨望し、「なんで俺だけこんなに惨めなんだ」と葛藤する模様が結構残酷に描き出されておる。
それでも教会の教授のお導きや同僚の暖かい励ましによってかろうじて平凡な日々を送るアーサー。 「この人がロックスターだったなんて信じられないわ。 だってとてもマジメだし、皆んなから頼りにされてるし」などと教会の職員から語られるシーンは観る者の涙を誘うじゃろう。
そして長い年月を経て、突然ニューヨーク・ドールズ再結成コンサートの吉報(?)がアーサーの元に入るのじゃが、プレイヤーとしての演奏への不安を抱え、またかつてソロ活動でのサポートを無視された元同僚たちへの恨みつらみを堪えながら久しぶりのリハーサルに挑むアーサー。 この辺が本作の見所じゃが、年老いた元ロックスターは全ての状況を淡々と受け止めてコンサート開催までの時間を過ごすシーンがとても美しい。 用意された豪華なホテルの部屋や、レセプションでの美味しいランチにとまどいながらも素直に喜ぶアーサーの姿は悲しすぎて見ていられないが(涙)。
やがてコンサートは大盛況に終わり、ニューヨーク・ドールズの正式な再結成へのお誘いの声もかかるが、アーサーは元ロックスターとしては長過ぎる暗闇から脱する千載一遇の機会をもやんわりと断り、仲間の待つ教会へと戻っていくのじゃ。
華やかなロックシーンから忘れ去れた30年という月日は、一体アーサーに何をもたらしたのか。 シーンに舞い戻れば、あの華やかで経済的に恵まれた生活を送ることが出来るのに、地道な生活に戻っていく姿の真相は、ただの人に戻った深層心理を包み隠さないアーサーの数多いコメントを聞いて判断するしかない。
「教会に戻るって、オマエ冗談だろう?」とからかわれながら、その冗談みたいな選択をするアーサー。 ロックスターではなく、ただの人間としての幸せとはどこにあるのじゃろうか?
そして本作には意外な結末が用意されることになった。 再結成コンサート終了後、ほどなくしてアーサーは白血病を発症してあっさりとこの世を去ることになる。 つまり本作の企画/制作段階ではアーサーの死はまったくの想定外だったのじゃ。 30年間もアーサーを無視し続けたロックの女神は、最後の最後でアーサーにロックスターらしい死に様を用意したと言えるかもしれんな。 ドキュメンタリー映画ではなくて、まさにフィクション映画のようなエンディングじゃ。
不遇の経験談の際にも、再結成の報にも、同僚との再会の機会にも、コンサートの大成功にも、喜怒哀楽を一切表さずに振舞うアーサーの姿はちょっと“神って”おったが、実は身体の不調を自覚しており、自分の最後の運命を既に悟っておったのじゃろう。 アーメン。
■ ヤードバーズ(DVD2001年発表) ■
60年代英国R&B界の縮図を知る
60年代のブリティッシュ・ホワイトR&Bシーンを牽引し、エリック・クラプトン、ジェフ・ベック、ジミー・ペイジのいわゆる三大ギタリストを輩出したことでも有名なヤードバーズのドキュメンタリー映像集。
初出はVHSにて1990年代の初頭だったと記憶しとるが、日本では2001年にDVDで再発売されて実質的に日の目を見た作品なので、21世紀枠扱いでご紹介する。
60年代中期以降のロックシーンはアルバム主体の時代を迎えるものの、クラプトンとベック時代のヤードバーズにはシングルを集めたコンピレーション・アルバムしかない(原因は割愛)ので、従ってこのドキュメンタリーはヤードバーズの楽曲を基軸として進んでいく。ヤードバーズの音楽性は、入れ替わり立ち代わり参加した3人のビッグ・ギタリストの嗜好、実験精神が大きく反映されていたので、その実態がアルバムという大枠ではなく、楽曲単位で紹介、解説されていくストーリーはシンプルで大変に分かりやすいに違いない。
3人のギタリストが誠実にヤードバーズの思い出を語っておるインタビューは微笑ましいともいえるが、自分の嗜好と合致すればやった! しなければやらなかった(辞めた)!!といった個人のエゴがまかり通っていたことにあらためて驚かされるわい。 だから短期間でギタリストの交代劇を続けることになったんじゃが、他のメンバーの心境や如何に?
時々のギタリストの才能が凄過ぎただけに黙って従うしかなかったのか。 その辺を想像しながら鑑賞するのもオモシロイ。 ヴォーカルのキース・レルフは力量不足のシンガーとしてありがたくない評価が下されておる不幸なメンバーじゃが、ブルースハープの腕前は悪くはない。 時代の流れとギタリストたちの感性によってバンドサウンドがいじくりまわされる中、必死にR&Bバンドという原点をキープしようとしておるようでちょっと痛々しい。
結局はクラプトン、ベック&ペイジの後々の活動の叩き台、踏み台にされた感の強いヤードバーズじゃが、ヤードバーズの軌跡とは白人ロックが音楽的に進化する時代の象徴であり経緯そのものなのじゃ。 60年代のロックの経緯、いかにしてブルース・ロックやハードロックが生まれたのかってのを知りたければ、とりあえずはヤードバーズの歴史を辿っていけばいい事をこのドキュメンタリーが物語っておる。
ジェフ・ベックがステージ上でギターを叩き壊すシーンによって、一躍バンドを有名した映画「欲望」(1966年公開)の該当シーンもチラリと登場!無軌道な若者の実態、精神状態の象徴として映画に挿入されたシーンじゃが、これもまた後のザ・フーやジミ・ヘンドリックスの暴力的ステージ・アクションの基本になったのじゃ。
バンド脱退の後、クラプトンはクリームを、ベックはジェフ・ベック・グループを、ペイジはレッド・ツェッペリンを結成することになるが、この偉大なる3グループの原型のサウンドは間違いなくヤードバーズの中にある。 それが理屈抜きに手にとるように分かるのが本作最大の魅力じゃ。
また通常のロックバンドのドキュメントには、当時の社会情勢や音楽シーンの流行との対比を設定することでバンドやバンドサウンドの変化や進化を詳らかにしていくものじゃが、本作では同様の編集がほとんどないことが、逆に若きクラプトン、ベック&ペイジの独自の鋭利なセンスを際立たせておると言えるじゃろう。
なお本作は、現在では1967年ジミー・ペイジ在籍時の未発表ライブ映像と2006年の再結成公演を収録した特典デスクをセットして『ザ・ストーリー・オブ・ヤードバーズ+ライブ1967・フューチャリング・ジミー・ペイジ』のタイトルで発売されておる。
■ ウーマン・オブ・ハート・アンド・マインド~ジョニ・ミッチェル・ストーリー(2003年) ■
世紀を越えて吹き続けた静かなるレディ・パワー
20世紀のもっとも個性的なフォーク・シンガー、ジョニ・ミッチェルの生涯を綴ったドキュメンタリー作品じゃ。 ジョニの音楽性をひと口に語ることはとても困難であるからして、その超個性を適格に表現することもまた至難の業じゃ。 基本はアコースティックのフォークじゃが、音階を自由自在に昇降できる美声と魔訶不思議なメロディーによって奏でられる作品の数々は、フォークでありカントリーでありロックでありジャズであり、カテゴライズすること自体がまったく無意味と言えるほどの驚くべきノン・ジャンル・シンガーがジョニ・ミッチェルなのじゃ。
わしは取り立ててジョニの大ファンってわけではないが、彼女の特異な音楽性の背景をどうしても知りたくて本作を視聴した。 特殊な幼少期を体験しただとか、アマチュア時代から幅広いジャンルのミュージシャンと交流していただとか、強過ぎる向上心と気紛れが好転し続けただとか、そんなキャリアを期待したのじゃが、そこは下種の勘繰りだったのか?! わしのつまらぬ興味を直接的に満たしてくれるような描写はなかった・・・。 こりゃもう、天賦の才!としか言いようのないセンスの持ち主じゃったわい。 ってこれじゃ作品の説明にならんから誠に困ってしまう!
本作には他のロック・ドキュメンタリー作品と同様に数多くのゲストたちがコメントを寄せておるが、そこから判断すると、どうやらジョニ・ミッチェルの個性というのは、ちょっと男性では理解できない領域によって形成されておる気がする。 つまり新しい生命を誕生させることのできる女性特有の感性によるものなのじゃろう。
「人は愛するものと、愛されるものがなければ生きていけない」というが、ジョニ・ミッチェルは様々な生命、事象と愛を交わし続けることによって音楽という新しい生命を肉体から生み出しておるのじゃ。 それは全ての女性アーティストの共通点じゃろうが、ジョニの場合はより愛の対象が広く(ビッチという意味ではないぞ!)、与えるべきより豊かな愛情が常に肉体に宿っておるのじゃろう。
例えば、女性が10人の子供を産んだ場合、その子供の人間性、肉体的能力が同一ではないことと同じことがジョニの紡ぎだす音楽の個性にも当てはめられるかもしれない。 ってちょっと苦しい解説になってきたが(汗)、数多くの音楽ジャンルをベースにできるジョニの驚くべき才能のご紹介としては、男のわしはこんなことしか言えんなあ~。
かつての恋人たちの存在を明け透けに語っていくジョニの姿にはまったく嫌味がなく、彼女の創作活動と男たちの存在とは実に有機的に繋がっておることが分かる。 マドンナの様に男を利用してのし上がっていくのではなくて、愛情を注いだ男から受ける新しい愛を糧として新しい音楽を次々と産み落としていくジョニの真実がそこにあるのじゃ。
子供を産んで母親として成長しながら幸せな家庭を築いていく一般女性とは違うが、ジョニにとって音楽、楽曲は子供であり、1枚のアルバムは平和な家庭みたいなものなのかもしれんな。
ジョニ・ミッチェルの楽曲には、ヒットチャートを席捲したり、すぐさま口ずさめるようなありきたりのメロディはない。 じゃが本作に挿入されておる楽曲の数々は、何処からともなく風に乗って聞こえてきた様な、ご近所のお姉さんが何気に口ずさんでおった様な、通りすがりの車のカーステレオから流れ出していた様な、感性の鋭かった子供時代にどこかで耳にしたことがあるようなほんのりとした懐かしさがある。 だからとても聴覚に優しく、無意識のうちに身体を委ねてしまえるような安堵感に包まれる楽曲が多い。
これは母なる女性の生み出す音楽って事ではないじゃろうか。 ロックシーンにも男勝りの逞しい女性が増えた昨今(笑)、清楚な自然体、なおかつ独創的なスタイルを貫いてきた女性シンガー・ジョニ・ミッチェルの魅力を再認識してみてはいかがかのう?
■ ドリーム・オブ・ライフ/パティ・スミス(2008年) ■
闘い続ける女性ロッカーのクリエイティブ過ぎる人生
今もなお「ニューヨーク・パンクの女王」と謳われるパテイ・スミスのライフ・ドキュメント。 デビュー以降11年間にわたって撮り貯められた映像マテリアルを主体として、全編にわたって素晴らしい編集技術が駆使されており、映像クオリティのアーティスティックな完成度においてはロック・ドキュメンタリーの最高峰ともいえるじゃろう。
またパンク・シンガー、ギタリスト、詩人、写真家と多芸を誇るパティの豊かな感性と活動状況を多角的に捉えたドキュメンタリー作品でもあり、過激で前衛的なパンクシンガーという世間の固定したイメージを払拭し、多彩な表現手段を通してパティ・スミスという一人の超アーティスティックな女性の実像に迫ろうとしたストーリーも秀逸じゃ。
パティ・スミスが1970年代中期にデビューした当時、「ジミ・ヘンドリックスやジム・モリスンに憧れた少女は、肉体が大人になる過程において何よりも自分の胸が膨らみ始めた事を嘆き悲しんだ」といった類のフレーズが多用され、男性ロッカーを越えようとした勇ましい女性ロッカーとして売り出されていたもんじゃが、本作においてはそうした過剰な脚色やPRは一切なく、男女の性別を超越した領域で自分と自分を取り巻く現実に真っすぐに向き合いながら表現活動を続けていた事実が明らかにされていくのじゃ。
何よりもまず映像の主体は徹頭徹尾パティ自身とその作品であり、音声の主体ももちろんパテイ。 ゲスト出演者の映像やコメントは最低限に留められておる点も本作の代表的な特徴であり、周囲の視点や評価によって主役の価値や知られざる側面を浮き彫りにする演出はほとんど用いられておらんということじゃ。
一人のアーティストが高みに達する過程において影響を受けた先達者や支援者がいないわけはないが、そうした内外の協力者の存在価値や交流の模様も基本的にパティ自身の言葉によって誠実かつ正確に語られていくだけに、その説得力の強さは視聴者にダイレクトに伝わってくる!
既に物故者となったアーティストのドキュメンタリーでは到底成立しない構成の作品であるだけに、まだ存命中のアーティストの生涯ドキュメンタリーならば、今後是非とも制作の参考にされて然るべき傑作映像集じゃ。
歌を歌い、詩を書き、ギターを弾き、絵を描き、写真を撮るパティの姿は全てが自然体であり、その一方で愛娘を育てる母親としての側面もまたナチュラル。 パティの毎日がまるでひとかけらの曇りもなく繰り返されているような羨望感を感じてしまう(笑) 喜びに対しても苦悩に対しても正面から向かっていける驚くべき人間的強さがパティには漲っており、その強さをより高いレベルで発揮するためにあらゆる表現手段を縦横無尽に使っておるのじゃ! 楽器演奏のひとつ、文章執筆のひとつでさえ四苦八苦しているわしのような無能な愚者からすればとても人間とは思えない存在じゃわい(苦笑)
パティの全ての表現活動の核心とは、世界中に巣くう人種、性、生活習慣、アートに対する「差別意識」と「差別する者の横暴さ」への反抗じゃ。 そのスピリットが音楽というフィルターを通るとロックン・ロールになるのじゃ。
パティにとってのロックンロールとは、「歌ってはいけないことなどない」「誰もが楽しくロックンロール権利がある」というロックの自由主義を謳うことであるのじゃ。 またパティのロックがカテゴライズされるアメリカン・パンクとは、ベルベット・アンダーグラウンドやニューヨーク・ドールズに代表される「セックス・ドラッグ・ロックンロール」の本家本元ではあるものの、そうした非生産的な享楽的世界観とはもっとも対極に位置しておるのがパティのロックであることも、本作はじっくりと丁寧に解説しておるようじゃ。
本作のような優れたロック・ドキュメントに触れると、情熱的な過激さをもって信念を貫こうとするロックを十把一絡げに「パンク、パンク」とカテゴライズするロック界の悪しき風習を何としても一蹴、一掃したい気分になる。 パティ・スミスはパンク(くず)どころか、ダイヤモンドの様な美しさと強さを兼ね備えた女性だからじゃ!
GO TO TOP