NANATETSU ROCK FIREBALL COLUMN Vol.268

 2017年度の長旅の準備中のわし。 日本での一次準備/身辺整理は一応終わったので、ただいまタイ・バンコクで二次準備をやっておる。 一次準備の最中に久しぶりに膨大な映像データを発見したので、このところおもしろそうなモンを諸君にお届けしておるが、この6月も引き続いてやってみたい。

 それにしても、もうちょっと早くThe-Kingが「サマー・レブル・ジャケット」を発表してくれたらな~(涙) 今回の旅の絶対的必需アイテムになったのに~(涙)(涙) え?普段の行いが悪いからそーいうことになるんだってヤカマシーワイ! チキショーこのストレスを今回の寄稿にぶつけてやるぞお~。

 前回は「ここ数年間で発表されたロック・ドキュメント映画」をご紹介したが、今回はもうちょっとだけ時間を遡って、21世紀になって公開された「ちょっとコアなロック・ドキュメント集」にしよう。 これはそこそこマテリアルの数があるので次回も含めて2回に分けてお届けすす。

 日本では21世紀に入るとすっかり洋楽のパワーが落ちてしもうて寂しい限りじゃな。 2006年に東南アジアでの約8年間の仕事を切り上げて本帰国した際、その事実を目の当たりにしたわしのショックは相当のもんじゃった。 しかしアメリカやイギリスの本場では20世紀のロックの遺産に正しく光を当てて再検証する動きが少しづつ活発になっており、それは楽曲のボックスセット、ロッカー自身が筆を取った伝記、未発表映像の発表といった様々なかたちでファンに提供され始めたが、もっとも有難かった動きは、音楽ではなくて映画製作のプロフェッショナルたちがドキュメンタリー映画というかたちでロックの歴史を詳らかにし始めたことじゃった。
 劇場/TV公開という一過性の作品で終わることなく、DVDという半永久的に保存できるメディアの発達によってファンが映像作品を手元に置いて楽しめる時代になっただけに、映像作品のクオリティのアップは必然であり、オールドロッカーたちも積極的にドキュメンタリー映画に協力しておるのじゃ。 2回にわたって全12作品をご紹介する予定であり、かつては興味がなかったロッカーに食指が動くような気分が訪れることを願いながらご紹介していきたい。


七鉄の映像作品コレクション便り Volume 3
21世紀に発表されたちょっとコアなロック・ドキュメンタリー映画
~前編


■ レス・ポールの伝説(2008年) ■

音楽史上最大の発明家!

 ご存知「レス・ポール・ギター」の発明者であり、同時にギタリスト、作曲家、数々のミュージック・マシンの発明者であるレス・ポール(本名レスター・ウィリアム・ ポルスファス)の生涯綴ったドキュメンタリー映画。 日本で公開された時はたいそうなお客さんが集まって盛り上がったそうで、硬派なロックファンが多いThe-Kingのカスタマーの中にもたくさん劇場に駆け付けた方がいらっしゃったことじゃろう。
 この作品は、レス・ポールの生涯とともに、古き良きアメリカン・ミュージックと、楽器や録音技術といった音楽の裏側の世界の歴史も同時に辿ることのできるタイムマシーンに乗ったような気分になる作品じゃ。

 古き良きアメリカン・ミュージックに関しては、わしは黒人ブルースの世界にあまりにも偏りがちなのでレス・ポールのギタリスト、ミュージシャンとしての経歴をあまり知らなかったものだからとても勉強になった作品じゃ。 いやあ~50枚のシングルと35枚のアルバムを発表してグラミー賞を五度も受賞していたとは! 音楽家としてそこまでの実力者だったとは、穴があったら入りたい!とはこのこと(笑) 特に奥様のメリー・フォードとのデュエット・ソングの数々を大ヒットさせ、お二人のTVショーが7年間もアメリカのお茶の間で人気を博していた事実は驚いた!
 さらにギターのみならず、多重録音やマルチトラックレコーディングのシステム、アナログディスクのカッティングマシーンなどを次々に発明していく様は、さながら発明王エジソンの音楽版じゃ! 発明者というとどうしても超石頭で頑固な偏屈オヤジを想像してしまうが、レス・ポールは若い頃から笑顔を絶やさない開放的で人懐っこいキャラであり、発明への基本的な姿勢を「人を楽しませたいという気持ち」と名言しておる。
 だからレス・ポールが新しい技術を考案するというよりも、未知の領域の技術そのものがレス・ポールの脳みそに降りてくるって感じなんじゃろう! 「発明の原点は無邪気さである」ってどこかの偉い方がおっしゃっていた気がしたが、日本の小学生が「エジソンの伝記」じゃなくて「レス・ポールの伝記」の方を提供されておったら、日本はもっともっと技術先進国になっておったかもしれん!(笑) しかし音楽家、演奏家、技術者、それに楽天的な人格者?!っていう才能やキャラって共存するもんなんじゃろうか? わしにみたいな単細胞な人間からすりゃ、脳みそが三つも四つもある「大天才」にしか思えんわな!

 キース・リチャーズ、ジェフ・ベック、ポール・マッカートニー、エドワード・ヴァン・ヘイレン、B.B.キング、トニー・ベネット、スティーブ・ミラー、ボニー・レイット、マール・ハガード、リチャード・カーペンターら数多くのビッグ・ミュージシャンがレス・ポールに贈った賛辞が紹介されていくが、何だか皆さん、レス・ポールへの敬意の念が大き過ぎて、どうやってその気持ちを言い表すべきなのか分からないみたい(笑)  
「あんたは俺たちにサイコーのオモチャを作ってくれたぜ」(キース・リチャーズ)
「ビートルズの最初のレコーディングはあなたの曲だったんですよ」(ポール・マッカートニー)
「あなたがいなかったら、僕は今までやってきたことの半分もできなかった」(エドワード・ヴァン・ヘイレン)
「おいジイサン、90歳の誕生日おめでとう」(ジェフ・ベック)
といった賛辞が精一杯!(笑) 簡単には語り尽くせぬビッグ・ミュージシャンたちの熱い想いが、何よりもレス・ポールの偉大さを物語っておる! 

 レス・ポールは90歳を過ぎてもニューヨークのジャズ・クラブで週一度のギグをこなしていて、そのシーンが本作中で何度も断片的に差し込まれておる。 もっとも笑えるというか、なかなかのアメリカンジョークがある。 ゲスト出演したスティーブ・ミラーが、ギブソン・レスポールではなくて別種のギターを持ち込むのじゃ(笑) レスポール本人は「ギターが違うんじゃないか?」と! 客席からは「失礼じゃないか」という掛け声!! そのまま弾き始めるスティーブ・ミラーじゃが、「やっぱこのギターじゃうまくいかねえな!」って表情!!! これ映画の実質的なラストシーンなのじゃ。 お亡くなりになるまで、好奇心と探求心とジョーク、そして人間愛を忘れることのなかったレス・ポールのドキュメントに相応しいエンディングなんじゃろうな!


■ トム・ダウド/いとしのレイラをミックスした男(2004年) ■

20世紀の音楽を進化させた偉大なるテクニカル・アドバイザー

 映画を監督で選んで観るように、ロックをプロデューサーで選んで聴く、そんな少々“おたく”っぽい聴き方をしたくなるお方がトム・ダウドじゃな(笑)
 これはアトラック・レコードの伝説的エンジニア&プロデューサーじゃったトム・ダウドの生涯を追ったドキュメンタリー映画じゃ。 彼が関わったアーティストは、ロック界ならば、エリック・クラプトン、デレク&ドミノス、レイナード・スキナード、オールマン・ブラザース・バンド、ロッド・スチュワート、ケニー・ロギンス、リタ・クーリッジ等多士済々! 古くはレイ・チャールズ、アレサ・フランクリン、ウイスソン・ピケット、ブッカーTジョーンズら黒人音楽界においてもそうそうたるメンバーと渡り合ってきた、まさに現代アメリカン・ミュージックの歴史そのものといった人物なのじゃ。

 わしは常々強調してきたが、音楽業界の一流プロデューサーはもっと一般的に注目されて然るべきであり、こうした映像作品は大歓迎なのじゃ。 何よりもロックの世界では、若きロッカーというのは感性先行型な連中ばかりであり、彼らには自分の音を大衆に届ける術がに疎い。 それはデビュー当時のエルヴィス然り、ビートルズ然り、ストーンズ然り。彼らの有り余る才能は、優秀なプロデューサー(もしくはエンジニア)の手腕がなければ世の中に届けられることはないからじゃ。 また実績がありながらもスランプに陥ったロッカーたちに、新しい船出を用意してみせるのもプロデューサの仕事なのじゃ。

 当作品においては、トム・ダウドとロッカーたちとの関わりは1時間近くが経過した辺りから登場するんで、ロックファンには前置きが長すぎるかもしれんが(笑)、大物ミュージシャンと一プロデューサーがスタジオで対等に渡り合う為には、いかなる経験、自己研鑽や人間修行が必要なのか?といった素朴な疑問がどストレートにわかるような編集がほどこされておる。
 それはレコード会社やミュージシャンへの滅私奉公の精神から始まり、時々の流行や最新技術へのアンテナ力との応用術、マーケティング能力、音楽全般への幅広い知識の吸収力といったあまりにも多過ぎる基礎力の自己養成であり、その果てにようやく芽生えてくる全ての人類と音楽(音楽家)への平等な博愛精神。 この長い歳月の間に培ってきた「プロデュース修行」の経緯がトム・ダウド自身の言葉によって明らかにされていくのじゃ。 同時に20世紀のレコーディング技術の進化の歴史そのものも知ることも出来る!
 もちろん、偉人の歴史を時代順に追跡するだけの起伏のない編集映像ではなく、例えばクリームの名曲「サンシャイン・ラブ」の独特な頭打ちリズムはトム・ダウドの発案であったりとか、ある時は多少立場を越えて名曲の仕上げに関与した興味深いエピソードも登場!個人的には「愛しのレイラ」後半のピアノソロ導入の経緯も知りたかった。 あのピアノ・ソロのメロディーはトム・ダウドがアルバム制作に関わった事もあるリタ・クーリッジの曲“タイム”のパクリってのは今や“有名な秘話”じゃし(笑) 

 プロデューサーやエンジニアーという存在が以前より注目され始めたのは1980年代からか?一聴すれば「誰がプロデュースしたのか」が分かるサウンドがロック界で多くなった。 こうした傾向についてトム・ダウドは穏やかに警告しておる。 「プロデューサーが表に出てしまったら音楽ではなくなるんだ。 音楽は音楽家がプレイするものであり、我々は音楽家が心で奏でることができるヘルプをする裏方なのだ」と。
 その一方で、60年代後半にイギリスのビートルズを訪ねた時のコメントがオモシロイ!「彼らはまだ4トラックを使っていたから、ジョージ・マーティンに色々アドバイスしたよ」と(笑) 技術者としての自信、矜持がチラリ垣間見えた気がした! 音楽のみならず、ダイヤモンドの原石をいかにして世に送り出すか?その為のノウハウが詰まった作品じゃ。

 インタビュー出演したエリック・クラプトンがこんなニュアンスの発言をしておる。
「最初はこの人は誰?って感じ。 俺は自分に自信があったし、裏方には興味がなかったからね。 でも気が付いたら、彼の人柄と知識と技術に誘導された感じになっていたよ」
まさに理想的なプロデューサー像じゃな!


■ ロニー~ロックとモッズに愛された男(2006年) ■

ロックもモッズも嫌いだった男じゃなかったっけ?!


 元スモール・フェイセス~フェイセスのロニー・レーンのドキュメンタリー映画。 ロニーは60年代中期からモッズの旗手と称されたスモール・フェイセスのベーシスト(兼シンガー、作曲者)として活躍。 後のフェイセスにも参加したもののフェイセス脱退後は、“ロックン・フォーク”と名付けられたロック&トラッドのユニークなミクスチャーサウンドを追求しておった。 やがて家系の遺伝ともいわれる多発性硬化症という難病に苦しみ、1997年に51歳という若さで死亡。
 なお大物ミュージシャンが集結して定期的に行われていた「ARMSコンサート」とは、もともとは世界の難病研究費用捻出のためにロニーが発案、開催したのじゃ。 また「ロニー・レーン・モービル・ユニット」という大掛かりな移動式スタジオの所有者としても有名であり、レッド・ツェッペリン、バッド・カンパニー、ロリー・ギャラガーら、70年代の大物ロッカーたちがレコーディングで使用しておったことも、熱心なブリティシュ・ロック・ファンならロニーの隠れた功績のひとつとしてご存知であろう。

 冒頭から「あんなカッコイイヤツ(perfect stagger and swagger)はいまだにいないよ」っつった友人のコメントが出てくるので、これはスモール・フェイセス時代の話が中心か?!と期待したが、スモール・フェイセス&フェイセス時代の映像やオハナシは、どうしても超強力なヴォーカリスト、スティーブ・マリオットとロッド・スチュワートの威光に隠れてしまって、いまひとつロニーの魅力が強調されておらん(笑)  まあ世間的なイメージとは裏腹で、両バンドの事実上のリーダーはロニーだったようであり、2人のヴォーカリストのエゴによってバンド運営を苦しめられたロニーのコメントが純粋過ぎて痛々しい。それでもやはりフェイセス在籍時までがもっともロニーが輝いていた時期じゃ。
 フェイエス脱退後は、スター生活を一切合切捨て去り、先述したモービルユニットとともに人生を送り、大自然やそこに住む村人たちとの交流を生活のメインにしながら音楽活動を続けていくことになるのじゃが、とにかくこのお方はお金に縁の薄い方だったらしく、フェイセス時代に稼いだお金はモービル・ユニットの購入だけで消えてしまい、契約の関係上なのか印税は一銭も入らず、またソロ活動のツアー資金やARMSコンサートの収益も金庫番に持ち逃げされたりとお金の苦労は終生つきまとわれたようで、そうした状況の中で次第に症状が重くなっていく病気に苦しみながらも必死に音楽活動を続けていく軌跡があまりにも気の毒じゃ。 華やかなバンド・メンバー時代のドキュメントよりも、ソロに転じた後の茨の道の描写が本作のメインじゃな。

 スターダムを拒否し、お金にも逃げられっぱなしのロニーの人生も、女性には恵まれたようじゃ。 生涯にわたって三度結婚をしておるが、いずれの女性もロニーの人生、音楽制作にとって大変に有益な影響力をもたらしていたようで、コメントを寄せるバンドの同僚や友人たちもとても好意的じゃ。 最後の奥様のインタビューに登場するが「お金はなかったけれど、とても幸せな結婚でした」って、こんなコメントは有名ロッカーの奥様からは聞いたことがない!

 晩年病気に苦しめられながらも地道に音楽活動を続け、ライブでもインタビューでも笑顔を絶やさないロニーの姿は、残り少ない命を削って創作に意欲を燃やす悲壮感はあまり感じられない。 まあそれが逆に痛々しいとも言えるのじゃが、そんなロニーのか細くも凛としたオーラを感じておると、「このお方は、音楽の才能があってルックスも良かったからロッカーになったものの、根本的に職業の選択を誤ってしまったのではないか?」と思えてくる。 同じミュージック・ビジネスでも、ソングライター、スタジオ・ミュージシャン、プロデューサーの方が適役だったのかもしれん。 そう思ってスモール・フェイセスやフェイセスのノリノリロックンロールを聞くとまた違った味わいが出てくるはずじゃ。
 ロニーの「逝去10周年」として公開された本作じゃが、宣伝効果を考慮すれば、かつてバンドの同僚じゃったロニー・ウッド、ロッド・スチュワート、スティーブ・マリオットのインタビュー・シーンがフューチャーされてもいいが、スタープレイヤーの出演は友人として親交のあったエリック・クラプトンやピート・タウンゼントに留められておる。 制作サイドも本作を「本来あるべきだった、もうひとつのロニーの人生」をそこはかとなく描き出したかったのかもしれんな。


■フェスティバル・エクスプレス(2005年発表)■

長い眠りから覚めた、60年代のもうひとつの歴史的音楽イベント

 1970年6月27日~7月4日にかけてカナダで企画された移動式フェスティバルが「フェスティバル・エクスプレス」じゃ。 ジャニス・ジョプリン、グレイトフル・デッド、ザ・バンド、バディ・ガイ、フライング・ブリトー・ブラザーズ、マッシュマッカーン、シャ・ナ・ナら、当時のアメリカン・ミュージック・シーンを代表するメンバーたちが出演した、トロント、ウィニペグ、カルガリーの野外フェスの模様と、フェス出演者全員が生活用&セッション用にカスタマイズされた列車に乗り込み、寝食を共にしながら8日間を過ごした実態が収められたドキュメンタリーじゃ。
 「ウッドストック」「ワイト島フェスティバル」と並んで、ロック黄金時代をシンボライズした大イベントだったにもかかわらず、プロモーター側と映画制作側とのトラブルや興行権の問題なので長らくオクラ入りになっていた映像集であり、撮影から実に35年の歳月を経て奇跡的に日の目を見た作品でもあるのじゃ。

 まずライブ映像じゃが、これは問題なく素晴らしい。 フェスだけのコンプリート作品ではないので各バンドの収録時間の短さは致し方ないが、特にジャニス・ジョプリンやバディ・ガイのプレイは、今まで公開されたライブ映像の中でもベストの部類に入るパフォーマンスじゃ。 ジャニスは、このフェスティバルの三ヶ月後に亡くなるので、熱唱の感慨もひとしおじゃ。
 ザ・バンドのロックンロール・バンド然としたプレイも必見。 フライング・ブリトー・ブラザーズ、マッシュマッカーンといった日本では無名のロッカーの気合の入った演奏も注目されたし。 ホント、この時代のロックのプレイは精神性が高くて恐れ入るわい!
 公演各地で起こる「フリー・コンサートにしろ」と主張する一部の群衆の模様と、「チケット代(16ドル)が高すぎる」と主張するミュージシャンのコメントとの“微妙なズレ”もオモシロイ! バカであつかましく、無料で大騒ぎしたいだけの愚かな客はいつの時代も多いもんじゃ!

 次に列車内でのリラックスしたセッションや生活風景。 車両ごとの気ままなセッションにロッカーが飛び入りしたり、食堂車でグデングデンに酔っぱらったり、ドラッグを溶け込ませたウイスキーをあおったり、移動時間内での和気あいあいとしたコミュニケーションの様子は、普段着のままのスターたちの素顔が楽しめる。
 じゃが、鑑賞者としては何かが物足りない。 ミュージシャンは素のままで充分にええんじゃが、撮影側が映画製作を前提とした仕事をしておらんのじゃ。 撮影者はロッカーたちの素の態度から素晴らしい撮影アングルを即座に捉え、また編集者は素晴らしい発言を引き出すためのクエスチョンを用意しておくべきなのじゃ。 こうした映画制作者側の意識不足のために、ただ漫然と列車内の光景が撮影されておるような不満が残るのじゃ。
 また、移動中に列車内の酒が無くなり、急遽列車を途中停車させて酒屋に仕入れに走るシーンがあってサイコーのご愛敬じゃが、こうしたハプニングが他にあったはずであり、もっと差し込んで笑いを作ってほしかったわい! ロッカーがこのツアーに持ち込んだ荷物を開けて見せたり、歯を磨いたり洗顔したり、男と女の偶然の出来事とか?! “やらせ”でも構わないのでロッカーの生活感と人間味が溢れる映像が欲しかったわい。
 まあ早々と公開されておったら、何よりも貴重な映像ばかりなのでこんな文句も出なかったじゃろうが、優れたロック・ドキュメンタリーが続出する21世紀の視点からすれば、どうしても映画自体のクオリティの甘さが気になって仕方がないのじゃ。

 一説によると、市販のDVDの特典デスクに収録された映画未公開映像も含めて、実際に日の目をみた映像は撮影フィルム全体の3分の2程度とか。 あらためて注目される機会が到来したらならば、是非ともディレクターズカット方式で、いまだお蔵入りの部分も含めた再編集版の登場を期待したい。

■ まぼろしの世界/ドアーズ(2009年) ■

ドアーズをガッコの授業に登場させたいのですか?!


 ドアーズ・フリークであるわしとしては、まず最初にこの映画の名誉のために、第53回グラミー賞において最優秀長編ミュージックビデオ賞を受賞した作品であり、映画全編のナレーションには、大スターのジョニー・ディップが起用されておることをご紹介しておこう。 かつてのこの七鉄コラムでも好意的な解説を書いた記憶もあります。

 しかしながら正直に申し上げるとだな、この作品はドアーズ・フリーク、ドアーズ・ビギナー、また一ロックファンが観てもまったくオモシロクない! ドキュメンタリー映画としてのクオリティが低いということではなくて、ロックバンドのドキュメンタリーとしてはあまりにも“音楽的”“ロック・ミュージック的”では無さ過ぎるからなのじゃ。 なんだかアメリカの国会図書館かなんかが制作/編集して、高校のホームルームで上映されてもおかしくない『ドアーズとその時代』みたいな色彩感にも起伏にも乏しい映像作品じゃ。
 ドアーズというバンドとその音楽は、掘り下げて探求していけばいくほどアメリカの歴史と文化への社会学者的視点が原本であることが分かる。 そのドアーズが結成された1966年からジム・モリスンが死去する1971年までのバンドの動向と、激動に揺れ続けた当時のアメリカ(もしくは世界)の社会情勢とを参照しながら展開していくストーリーは最高の構成なのじゃ。 それにも関わらずツマンネーのは、ドアーズとジム・モリスンが当時の政治的オピニオン・リーダーもしくは超過激派バンドの様な描かれ方になってしまっておるからじゃ。
 それはドアーズの当時の存在感からすれば間違ってはおらんが、ドアーズにはまずデビューから50年が経過した今でもフォロワーすら生み出さない絶対的な孤高の音楽性があり、ファンはまずその音楽に熱狂したのじゃ。 本作を細切れで検証していけば、純粋に音楽のみに光を当てておる部分は少なくはないが、あまりにもドアーズと社会情勢との対比に作品の見所を担わせたことによって、結果として肝心の音楽集団としてのドアーズの本質の描写が疎かになってしまっておる。
 本作の制作においては、ドアーズの音楽的リーダーじゃったレイ・マンザレクが深く関与しておるんじゃけど、やはりジム・モリスンという希代の鬼才、ドアーズという超個性派音楽集団を正確に描き出すことは難しいのかもしれんな。 制作開始当初は、ジム・モリスンの超破滅的なセクシー・シンガーとしての側面を強調し過ぎたオリバー・ストーンの『ドアーズ』への返答というフレコミの作品じゃったがなあ。

 余談ながら、グラミー賞を受賞したとはいえ、やはりわしと同じような評価を下した方は少なくなかったのか、3~4年前に新たにドアーズのドキュメンタリー映画が企画されておるというニュースがあったが、あれはどうなっちゃったんじゃろう? その後の進展のニュースを聞かないので頓挫してしまったのか。 本作がドアーズ・ドキュメントの限界と見なされたのか・・・。
 また本作にはサウンド・トラック盤が存在するが、わしは映画本編よりもこのサントラ盤を高く評価しておる。 詩人としてのジム・モリソンのセンスに焦点を絞り、ジムが書き残した詩をジョニー・ディップが朗読しながらドアーズの楽曲と交錯させ、ジムの生涯を綴っていく編集のされ方はとても秀逸じゃ。 本編よりもサントラを気に入るってことは我ながら珍しいと思うが、ドアーズというより、ジム・モリスンが好きな方(ジムを注目しておる方)にはサントラ盤をまずオススメしたい!


■ リヴ・フォーエバー(2003年) ■

20世紀末のブリティッシュ・ロック・シーンを知る


 1990年代末期(大体1993~97年)にイギリスで大輪の花を咲かせた音楽ブーム「ブリット・ポップ・ブーム」と、それに付随したカルチャーブーム「クール・ブリタニア」の盛者必衰の模様を描いた作品。 ストーリーは「ブリット・ポップ」の二大スターじゃったブラー、オアシスというバンドそれぞれの動向と両バンドの確執の実態を基軸として進行していくが、わしはブラーにもオアシスにもブリット・ポップにもほんの2~3年前まではまったく興味がなかっただけに、本作は「ロック史のオベンキョー」の為にレンタル、視聴したのじゃ。
 
 ロックという音楽に対して、よく「歴史は繰り返す」「リバイバル」といった表現が当てこまれるな。 要するに、かつて流行したパターンが、現代風にアレンジされて復活するのがロック史のパターンってことじゃ。 まあこういう事をしたり顔で言い放つ野郎ってのは、一見ロックを理解しておるフリをしながら、実はクラシックやジャズよりもロックは下等音楽だと決めつけておるから、「何故、同じパターンを繰り返しているように聞こえるのか?」ってことまで切り込んで論じておらん。 だからここで、わしが論じてみせよう(笑) それはロックがいつの時代も「反逆の音楽」だからなのじゃ!
 エルヴィスは大人たちが押し付けてくる古い人生観、価値観に対する反抗。 ビートルズやストーンズは甘ったるい白人ラブソングと旧体質然とした音楽業界への反抗。 サイケデリック・ロックは既成概念への反抗。 ハードロックはそれまでのロックの反抗の歴史への反抗(笑)。 プログレはロックという概念とスタイルへの反抗。 つまりいかに力強く確信をもって「No!」と言えるかがロック・ミュージックの普遍的な基準であるからして、超人気バンドや大ブームには時代を越えて同じ匂いがするのであ~る!
 ってハナシがブリットポップから離れてしまったが、ブリットポップはロック史上もっともシリアスに時の政権(マーガレット・サッチャー政権)と対峙することによって磨きがかけられたロックじゃった。 体制側の仕切りによってもたらされる毎日のリアルな苦境、苦悩に対してよりシリアスに「No!」と言い放つことで成長してきた若者の生活感溢れるロックであり、ハードロックやパンクロックよりもリアリティがあって建設的なロックだったのじゃ。
 そのブリットポップの誕生から衰退までの流れを知るためには、百花繚乱状態のブーム全体をなぞるには的がデカすぎただけに、ブラーとオアシスにターゲットを絞った編集は正解だったであろう。 中産階級出身のブラーと労働者階級出身のオアシスはブリットポップ界の対極にあり、両者の動向やファンの反応を交錯させていくことでブリットポップ・ブームの実情、逞しさと危うさとやらが見えてくるのじゃ。
 
 しかしながら、50年代、60年代のロックを聞きまくってきたわしのようなオールドファンにとっては、正直なところ「ブリット・ポップ・ブーム」は、そのスピリットは尊いものの「全国的な宴」の域を出なていなかった現象に映るのではないじゃろうか。 崇めたくなるスターはおるけど、運命を共にするには恐ろし過ぎるほどのカリスマがおらんわい。 スターの皆さんたちが、メッセージをオーディエンスに向かって発信し過ぎなのじゃ。
 真のカリスマが発する真のメッセージとは、「外に向かって解き放つ前に自らに向かって突き刺すような肉感的リアリティがある」というのがわしの持論であり、その点ではブラーもオアシスも役不足であり、オーディエンスの反応を計算し過ぎなのじゃ。
 そこが一種のうさん臭さを生み、結局は業界に活動をコントロールされてしまう隙を生むのじゃ。 ビートルズやストーンズやドアーズにはその隙が無かった!と言うとジジイの小言になってしまうが(笑)、結局ブリットポップを牽引した連中の目的意識が「体制を覆すことで大衆の絶大な支持を受ける」という地点で結実してしまったことがブーム終焉の実質的な原因じゃ。
 ブリットポップは、確かに保守派のヒラリー政権を革新派のブレア陣営が大差をもって打ち負かすことに大きく貢献したのかもしれん。 じゃが、その後の展望がブリット・ポップにはなかったのじゃ。 だから革新政権が動き出すと同時にブームはひと段落した見なされて、業界は「もう反抗の時間は終わりだ」とばかりにジャリタレ・アイドルちゃんを売り出し始めることになるんじゃけど、そうしたシリアスな現実までも鋭く描いておるから、出演者に対する自分の知識不足を棚に上げながらも、わしは本作をロック・ドキュメンタリーの優秀作のひとつとして挙げておきたい。 

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