NANATETSU ROCK FIREBALL COLUMN Vol.267

 2017年度5月23日、今年10回目のThe-King新作発表を終えたら、わしはまた旅に出るぞ! そんなわしへの、まるで壮行会がわりとも言うべき素晴らしいイタリアンカラーシャツの新作ラインナップに、わしもニンマリ! これで思い残すなく旅立てるわい。 おっと、希望がひとつ残っておった。 諸君のすなお~なお買い物アクションじゃ(笑) わしの日本留守中も、どうかThe-King在庫空っぽ大作戦を決行してくれ!
 さてと、一ヶ月ほど前から色々と身辺整理をしておったんじが、映像作品の保存データの多さにはチト驚いた。 ソイツの整理整頓の傍ら、前回「異種偉人ドキュメンタリーから、あらたなるエネルギーを頂け!」をやらせて頂いた。 レンタルビデオ屋さんでも借りられる映像作品(ロック関連以外)を取り上げたてみたんじゃが、諸君に観てもらいたい(あらためて観直してもらいたい)映像作品がまだまだいっぱいあるので、この際映像作品のご紹介を「シリーズ化」することにしたぞ! これからはロック関連の作品を中心にしていくので、どうかヨロシューな!

 第2回に当たる今回は、ここ数年間に発表されたロック関連のドキュメンタリー映画を6本ご紹介するぞ。 劇場で観てからまだ日が浅いものもあるが、少し時間をおいてからあらためて自宅で観直したすると、新しい発見があったり、新しい感想が出てきたり、作品を自分なりに第三者的に捉えることが出来るもんじゃ。 まあ音楽アルバムと一緒で、好き嫌いは個人の自由じゃから「絶対に観なさい!」ってノリでは紹介しておらんので、その点は安心して読んでくれたまえ。
 セレクトの原則としては、今回もレンタルビデオ屋さんに用意されておる作品じゃ。 中にはコケオロシておる作品もあり(笑)、その作品を既に御覧になられた方はお怒りなるのも大いに結構。 まあ最終的には「ほお、そんな観方もあるんだな」って寛容な姿勢で受け止めて頂きたい!


七鉄の映像作品コレクション便り Volume 2
ここ数年間に発表されたロック・ドキュメンタリー映画を検証する!


■エイト・デイズ・ア・ウイーク/ビートルズ■

女の子たちはかく叫びけり!

 まるで遥か昔にたくさん観た「フィルム・コンサート」の映像みたいじゃ!(笑) まだ映像ソフトもインターネットも無い時代、“動くビートルズ”を観る為にはフィルム・コンサートしか無かった。 あちこちのライブ映像を細切れで繋ぎ合わせただけの編集フィルムじゃったが、本作はまさにあのノリじゃ!
 「誰もが知っているバンドの知られざるストーリー」ってフレコミじゃったが、新しい発見は果たしてあったかのお~(笑) いやいや、超マニアでもない限り、ビートルズ・ファンは今更新しい発見なんてどうでもええんじゃないかのお。 “動くビートルズ”が1時間半以上も続けて観ていられるだけで十分に幸せなんじゃないか!

 考えてみれば、ビートルズのライブは、他のロックバンドのように演奏のクオリティが云々されることは殆どないな。 「女の子たちの絶叫が凄すぎてなんたらかんたら」ばかり。 本作のライブ映像も、あらためてビートルズのライブ演奏を検証するもんじゃない。 ビートルズのライブの主役は、ジョン・レノンでもポール・マッカートニーでもなくて、会場を埋め尽くした女の子たちだったんじゃよ(笑) たったの約25分間(ビートルズの平均ライブ演奏時間)、ひたすら身体を打ち震わせながら涙を流して叫び続けた女の子たちじゃ。 それがなければビートルズのライブではないのじゃ。
 このロック史上唯一無比の異様なライブ状態が編集された作品が本作なんじゃ。 しかも、ええ歳こいたオッサンまで絶叫したくなってくるに違いない(笑) わし? わしは絶叫したいのを堪え続けておったら、仕舞にゃあ胸が苦しゅうなって涙が出てきたわい! 女の子からオッサンまで叫びたくさせるビートルズのライブとは?! それを知りたい方は是非観賞をオススメしたい!
 
 「新しい発見」に関しては前述の通り気が付くゆとりはなかったが、今まで色んなバンドのライブ映像やドキュメンタリー映像を観てきただけに、ひとつだけクダラネー事実に気が付いた(笑) 60年代に女の子たちがロックバンドのライブで熱狂するシーンってのは、実はビートルズのライブ映像の流用が多いことじゃ! バンドの演奏シーンじゃなくて客席の方のシーンには、バンドの肖像権とかは関係なかったのかもしれん?!
 ちなみに、実際に劇場で観るまでわしも知らんかったから一応書いておくが、本作はビートルズがライブ演奏を行っていた1966年までのライブ・ストーリーじゃ。 ラストに映画『レット・イット・ビー』における「ルーフトップ・ライブ」(アップルビルの屋上での演奏)が少しだけセットされておるが、1967年からのスタジオ盤とプロモ・ビデオのみの活動期、つまり後期のビートルズに関しては殆どタッチされておらんので期待せんようにな。


■リビング・イン・ザ・マテリアル・ワールド/ジョージ・ハリスン■

スコセッシが聴いていたジョージ・ハリスン


 数多くの黒人ブルース・ドキュメンタリーやローリング・ストーンズのライブ映画『シャイン・ア・ライト』、古くは『ウッドストック』や『ラストワルツ』を手掛けた巨匠マーティン・スコセッシ監督によるジョージ・ハリスンの伝記映画じゃ。
 ジョージ・ハリスンの音楽活動は、1970年末期には休止状態となり、80年代はほとんど隠遁状態。 90年代直前になって名作『クラウド・ナイン』を発表し、新バンドのトラヴェリング・ウィルベリーズを結成するなど復活の兆しをみせるまでは、ジョージは長らく空白期間を送っておった。 わしはこの謎の期間の真相を知りたかったが、残念ながらその部分に関しては殆ど触れられておらんかった。
 しかしさすがはスコセッシ監督。 通り一遍のドキュメンタリー映画に終わらせず、各所に素晴らしい映像編集をほどこし、いまひとつ影の薄く、インパクトに欠けておったジョージの人間性、音楽性を浮き彫りにした手腕はお見事じゃわい。
 スコセッシが着目したジョージ・ハリソン・ミュージックの本質とは「儚さ」だったのではないか。 例えば、花瓶に差したお花がどんなに美してもその生命は短い。 でも姿は無くなってもその香しさは観る者の心に残る。 スコセッシはジョージの音楽、そしてジョージというミュージシャンをそんな風に感じておったようじゃ。
 実際にスコセッシとジョージとの交流があったとはついぞ聞いたことがなかったし、二人が時間を共有した映像もない。 恐らくスコセッシ自ら本作の制作を願い出たに違いない。 とてつもない才能をまき散らすロックミュージシャンを撮り続けてきたスコセッシは、ジョージの「儚さ」もまたロック史に残る大きなパーソナリティとして限りなく惹かれておったってことじゃろう。

 スコセッシのロック・ドキュメンタリー映画を観ると、自ら出演した時のインタビュアーとしてのセンスが特に素晴らしい。 本作においても、エリック・クラプトン、ポール・マッカートニー、リンゴ・スター、アストリッド・キルヒャー(デビュー前のビートルズと深く関わったドイツの女性写真家)、ラビ・シャンカール(インド音楽の大家)らとインタビューを行っておるが、スコセッシ自身の尋問シーンは一切ないものの、結果として彼らからジョージの本質を聞き出すことに成功しておると思う。 それはわし自身がどうしても分からなかったジョージ・ハリスンの「儚さ」という魅力にようやく気が付かせてくれたコメントだったからじゃ。
 エリック・クラプトンはちとしゃべり過ぎで、ジョージをヨイショし過ぎじゃが、「もちろん、僕たちは女性の趣味も似ているし」って、よくぞそこまで言ってくれましたって感じじゃ!(笑) またパティ・ボイド(ジョージとエリックの元妻)も、“かわいいだけでアタマ弱い女”と陰口を叩かれてきた割には(笑)、ジョージの本質を詳らかにするステキなコメントを発しておる。 ロック史に残る2人の男性に愛され、それぞれから永遠の名曲「サムシング」「愛しのレイラ」を捧げられた女性にしては、とても清楚で控え目な態度は大変に好感が持てましたわい!

 なお本作はDVDの2枚組で総収録時間は3時間強。 1枚目は先述のドキュメンタリー映画。 2枚目はジョージの追悼コンサート『コンサート・フォー・ジョージ』の模様と舞台裏が編集された別種のライブ・ドキュメンタリー。
 『コンサート・フォー~』に関してはコンプリート映像ではないが、数多く集まった超一流ミュージシャンたちの真剣ながら和気あいあいとしたリハーサル風景が十分に拝めるぞ。 誰も「ジョージが~」等と口走ってはおらんが、何故だかその場にジョージが居るように観えてくるのも、スコセッシ・マジックなのかもしれん!


■ ジャニス・ジョプリン/リトル・ガール・ブルー ■

作り直せバカモノ!


 ジャニス・ジョプリンといえば、その歌声、音楽性は永遠にフォロワーすらも生み出させない、60年代末期のロックシーンを代表する超個性派シンガーじゃ。 しかしその絶大な存在力、知名度の割には、ファンが手にすることのできるジャニスに関するマテリアルの種類は僅かじゃ。 ボックス・セットもなく、未発表曲を集めたコンピレーション盤も少なく、伝記と呼べる読み物も極少数じゃ。 映画に至っては、ジャニスをモデルにした架空のロック・クイーン・ストーリー『ローズ』(ベッド・ミドラー主演)のみ。(アメリカのTV番組ではあったのかもしれんけど)だからこのドキュメンタリー映画には大いに期待した!
 ところが、本作には大変に失望させられたわい。 今のところ、何度も見直そうとは思えないのじゃ。 (今後は分からんけど・・・) 生前のジャニスが、スターになってからも書き送り続けた家族への手紙と、妹や弟の思い出話を中心としてドキュメンタリーは進行していくのじゃが、それはいいとして、ミュージシャンとしてジャニスに関わった連中のコメントがあまりにもヒドイんじゃな。
 もちろん、彼らには「偉大なる故人を貶める」様な悪意はないんじゃけど、これは映画の編集サイドの問題じゃ。 ジャニスのエピソードに関して、ジャニスの人間性を受け止め方によっては踏みにじる結果になるようなコメントが多すぎるわい。 本来であれば、編集の際にカットされて然るべきな痴話ばなしが逆にメインに据えられておるような印象が残るのじゃ。

 ジャニスの歌を聞いた者であれば、好き嫌いは別として、ジャニスが恵まれない少女時代を送り、またスターになっても凄まじいプレッシャーに苛まれる日常生活を余儀なくされたことは充分に理解できる。 そうした経験の上にジャニスの歌は成立しておるのじゃ。 しかし本作で聞けるコメントのほとんどは、ジャニスが自力で乗り越えてきた「既にどうでもよくなった過去」や激闘中だったトラブルばかりが語られておるのじゃ。 ジャニスの遺族は本作に対して激しい憤りを感じるのは想像に難くなく、わしのような長年のファンでさえも呆れてしまうわい。 これは稚拙な日本語字幕が原因なんじゃろうか・・・。
 とにかく、ジャニスの酒、ドラッグ、男、バンドとのトラブルのオハナシばっかりで、むかしっからロックを聞いてきた筋金入りのロックファンならば、「そんなこたあー当時は当たり前じゃねーか」ってなるぞ! 肝心の音楽の真相に関しては、ジャニスの手紙や遺族の少ないコメントから想像するしかないから悲しくなってくるわい。 70年代、80年代の作品ならまだしも、21世紀になってこのクオリティはねえーだろう。

 その昔、ジム・モリソンの伝記映画『ドアーズ』に対して、元ドアーズのレイ・マンザレクが「あれじゃ、まるでジムがただのクレイジー・シンガーみたいな描かれ方じゃねーか!」って激怒したことがあった。 まあ『ドアーズ』はドキュメンタリーではなくてフィクションの映画だったんで許される部分はあり、ジム・モリスンの詩人としてのインスピレーションが活写された空想シーンも数多くあったので、わしはレイ・マンザレクほどの怒りは感じなかったもんじゃ。
 本作に関して怒ってばかりいてもしょうがないので、わしならジャニスの何を描こうとしたか?ってのをチト考えてみた。 ジャニス最大のパーソナリティは、何はともあれ内臓と声帯を極限まで虐めまくる歌唱法じゃ。 何故あんな歌い方をするのか? またオリジナル・ブルースというよりも、日常のありきたりの欲望を何故神聖な願望として歌うことが出来たのか?ってトコじゃな。
 それを追求するためには、恐らくジャニスのシンガーとしての下積み時代を知る者への取材を徹底するしかないじゃろう。 田舎を捨てて単身ニューヨークへ“上京”し、グリニッジ・ビレッジのフォーク・カフェ辺りで歌い続けていた頃にオリジナル・スタイルの基盤が出来上がっていったに違いないと思えるからじゃ。 そしてその成果を映画編集の二つ目の核(一つ目は先述した家族への手紙)として大いに登用するじゃろう。 本作に決定的に欠けておるのは、そこなのじゃっ!


■ クロスファイヤー・ハリケーン/ローリング・ストーンズ ■

反逆と動乱こそ我が使命!

 ローリング・ストーンズ「50周年記念ドキュメンタリー」として発表された作品。 25周年記念として1993年に発表された『25×5』のクオリティが素晴らしかったので本作にも大いに期待したものの、ちょっと肩透かしを食らったような感じか?!
 50年間の活動が多岐にわたって映像年表のように進んでいくわけではなくて、デビューからロン・ウッドが加入した頃の1970年代中期あたりまでのライブ・ドキュメントに的が絞られておる。 それもライブにおけるワイルドなストーンズの姿や観客の暴れっぷりなんかを強調しまくる編集となっており、取り立てて目を見張るような映像はないものの、ロックンロール・バンドの基本はライブにあり!ってのを長年実行し続けてきたストーンズの底知れぬエネルギーをある程度は堪能できるはずじゃ。
 80年代以降の映像がほとんどないのは、それほどワイルドなライブをやってなかったってことか?! まあ80年代以降のライブに関しては、公演単体のコンプリート作品もあるし、『レッツ・スペンド・ナイト・トゥギャザー』や『シャイン・ア・ライト』といったライブ映画もあるから除外されたんじゃろう。 50年間の活動ドキュメンタリーなんかをまともにやりゃ~、それこそTV番組のように長編になってしまうので、そちらは解散後に取り組まれるに違いない(笑)

 今回の寄稿において、先述したビートルズの『エイトディズ・ア・ウイーク』と本作を続けてチェックしたが、ビートルズのライブの熱狂は女の子たちが勝手に騒ぎまくっておることに対して、60年代のストーンズのライブの狂騒は、時代背景もあるものの、ストーンズ本人たちの観客への過剰な煽りっぷりも原因じゃ。 後々の回想インタビューでは本人たちは「怖かった」などと無責任な発言をしておるが、少なくとも元々ブルース・ピュアリストじゃったブライアン・ジョーンズやキース・リチャーズはデンジャラスなライブの雰囲気を大変にお楽しみのご様子じゃよ(笑) しかもストーンズの場合は女の子よりも男の子の暴走ぶりがすごい! 「アンチ・ビートルズ」として売り出されていただけに、観客の熱狂ぶりもビートルズとストーンズは非常に対照的にも映るわい。
 デビュー当時のストーンズのレパートリーのほとんは前時代的なブルースやロックンロールのカバーであり、“ちっこい”イギリスのガキどもが、なんで俺たちのカバーをやるだけでこんなに騒がしいライブになるんのだ!って大御所たちはさぞかし不思議だったじゃろうなあ(笑) 若きストーンズの連中は、ブルースやオールド・ロックを単なる音楽の一形態としてだけではなくて、観客を暴徒化させる道具として扱うコツを早くから掴んでいたってことじゃろうな。
 そして60年代に完全に会得したライブ術を基本として、70年代にストーンズは一気に巨大化するのじゃ! 劇場規模の小箱の狂騒ライブを、スタジアムを揺るがすとてつもないスケールのイベントへと昇華させた“ライブなストーンズ”の流れを感じることができるのも本作の魅力じゃ。 

 それにしても活動50周年にも及んで、どうしてストーンズは“ワルのイメージ”“アンチ・ビートルズ”に拘り続ける作品を発表するのじゃろうか。 まあロイヤルアルバートホールみたいな高貴な会場で、全員スーツで身を固めて演奏するストーンズなんて気持ち悪いことこの上ないが(笑)、70歳を過ぎてもワルを演じ続けられるってのはやっぱり彼らが今でもブルースがオーディエンスに与える“ゾクゾクするような罪悪感”ってやつに魅了され続け、それをロックでやることが楽しくてしょうがないんじゃろうな。
 一時期はそんな不良に拘るストーンズを「永遠に払拭できないビートルズ・コンプレックス」の裏返しなんじゃないか?って意地悪な見方もしたが、オールドモデルどっぷりのスタイルや民族音楽系に逃げ込むこともなく、少年時代に染み付いた感動をジジイになっても実践出来るってのは、例えそれが演技だとしても、ロッカーとして、人間として化け物としか思えんわな! 彼らは音楽家として滅びるまでこのスタイルを貫くのじゃろう。 本作はその決意表明として登場した映像作品なのじゃ。

■ バックコーラスの歌姫たち ■

裏方の矜持だけに留まらず!


 あくまでもコーラス・シンガーとしてロックの楽曲をバックから支えてきた女性シンガーたちの大特集映像集じゃ。 ローリング・ストーンズ、ブルース・スプリングスティーン、スティング、スティービー・ワンダー、マイケル・ジャクソンら超一流ミュージシャンに起用されたディーバ(歌姫)たちが続々と登場! ソロ・シンガーとして活躍する女性シンガー以上の力量を持ちながら、決してスターになることは出来なかったものの、彼女たちのコーラスがあってこそ名曲が仕上がるという「ロックの大いなる影」にスポットライトを当てた素晴らしく味わい深い作品じゃ。

 マニアならすぐにビッグ・ロッカーたちの貴重なレコーディング風景を期待するかもしれんが、そんなもんは一切無し! ディーバたちの力強い発言、凛とした存在感が作品の主役じゃ。

「歌うことは分かち合うこと。 競争することじゃないわ」
「声はどんな楽器よりステキよ」
「ポップスの歴史を見てよ。 覚えやすいのは私たちが歌ったパートの方よ」

等など、彼女たちの口から飛び出すフレーズはたまらなく音楽的で、しかも尊い! 裏方さん特有の悲哀も歪んだ自信もなく、バックコーラスを楽曲を支える欠かすことのできないパートとして誇りをもって担っておる者の自信が漲っておる。 インタビュー映像の途中に時折差し込まれるレコーディングやライブの映像からは、彼女たちが聞き手ではなくて、音楽とステキなセックスをしているように映ってくるもんじゃ。

 ミック・ジャガーとデヴィッド・ボウイじゃったかな。 「素晴らしい女性コーラスがあってこそ、ロックは時代に乗ることができるのだ」といった趣旨のコメントがある。 まさに言い得て妙! ストーンズが「反逆者」、ボウイが「異星人」や「ストレンジャー」の視点からロックを奏でても、決して頓珍漢ではなくて時代性を反映して大衆を引き寄せることが出来たのは、女性コーラスの力量が絶大だったのじゃ。
 それは旬のエッセンスを融合するといった短絡的なサウンド・コーディネイトではなくて、「反逆者」や「ストレンジャー」と「時代」とのズレを、女性コーラスの導入によってフィジカリティーに、ダイレクトに、ニヒルに、コミカルに様々なニュアンスをもって変換することが出来ていたってことじゃ。

 本作は2014年度第86回アカデミー賞「長編ドキュメンタリー賞」を受賞しおった! こんな作品がアカデミー賞に輝くなんて、セレブのお遊戯会場にしか見えなかったあの式典も案外捨てたもんじゃないわい!(笑)  


■ サンセット・ストリップ ~ロックンロールの生誕地 ■ 

ゲット・ルース!(解き放て!)

 “ストリップ”っつったって、ヌードショーの事ではないぞ!(分かっておるとは思うが、念のため) これは映画の都ハリウッドとスターたちが住む超高級住宅街ビバリーヒルズを結ぶ路線の中で、もっとも華やかでイカガワシイ同名のストリート(“ストリップ”とは直訳すると“細い路地”)の誕生から現在に至るまでの変遇の歴史のドキュメンタリーじゃ。
 超高級ホテルのシャトー・マーモントから場末のストリップ小屋やバーまでがひしめき合うこの一画は、歓楽街として形をなした1940年代から現在に至るまで、おびただしい数の有名ロック・ミュージシャンたち、もしくは後に名を成すことになるロックスターの卵たちがひっきりなしにたむろすることでも有名な“もうひとつの”ロックの殿堂じゃ。
 また「ウイスキー・ア・ゴー・ゴー」や「ロキシー」といった、小規模ながらもロッカーにとって絶対的な登竜門のクラブがあることでも有名じゃ。 もちろん、ハリウッドが近いだけに、映画スターたちも然り。 有名無名にかかわらず、ロックや映画に携わる者たちが年がら年中出入りしてきた歴史を持つ、世界的にも実に稀有な一画がサンセット・ストリップなのじゃ。

 個人的な体験談をお許し願うが、わしは1985年春にこのサンセットストリップを訪ねており、「ウイスキー・ア・ゴーゴー」に近い「タワーレコード」と目の鼻の先にあった安宿に宿泊しながら、サンセットストリップの実態を体験したのじゃ。 ここはだな、ロックや映画の世界のスターやそれを志す者にとっての「永遠の幻想と一夜の幻覚の場所」じゃ。
 日常生活を完全に遮断した“ありえない”快楽を、金の有る無しによって特級からド底辺レベルまで享受出来るのじゃ。 もっと極端な言い方をすれば超高級ハーレムと“ちょんのま”とが混然一体となった地域じゃな。 そんな狂騒状態が延々と繰り広げられてきた場所が「サンセット・ストリップ」なのじゃ。 安宿のオバサンに言われたわい。 「アンタもストリップ・ライフに憧れているのかい?」って。 でもその口調は言外に「早く日本に帰りなさい」じゃったな! 大きなお世話じゃよ!!(笑)

 サンセット・ストリップに関わってきた大スターたちがコメンテーターとして続々と登場したり、他者の発言によってその名や関わり方が数多く作品内で紹介されていくが、おもしろいのは「関わり方」がクールだった者とドツボにハマッタ者との仕事、作品のクオリティが、ロックにしろ映画にしろ明らかに違っておること! クオリティの善し悪しではなくて、サンセット・ストリップでの過ごし方が表現者としての彼らの嗜好性や方向性に大きく影響しておるということじゃ。
 その辺に着目しながら本作を観賞すると実に楽しい! スターたちが我々に残した作品が、彼らにとってエンターテイメントな仕事じゃったのか、それともリアル・アートじゃったのか。 その一端を知ることができると思うぞ!

 なお日本語のサブタイトル「ロックンロールの生誕地」ってのはいただけんな。 サンセット・ストリップは50sロックの普及に大きく関与したわけではない。 ましてや、黒人ブルースとそのファンはほとんどお呼びじゃない。 サンセット・ストリップは、あくまでもハリウッド映画とアメリカン・ロックンロールが前進していく上でのいわば絶好の罪深き給油地、中継地なのじゃ。 

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