NANATETSU ROCK FIREBALL COLUMN Vol.265



 日本の春を彩る風物詩である桜もすっかり散ってしまった今日この頃じゃが、わしの気分や視界は良好! 「ビバラス2017」への参加により、The-Kingのボスがきっと新しいコンセプトとセンスとを持ち帰ってくれたはずだからじゃ! 今後の新作が楽しみでたまらんわいって、ボス頼みばっかりもなんだか情けない気もするが、とにもかくにも永遠のロックフリークの鉄則は「温故知新」。 その「知新」を実現せにゃいかんヘヴィかつエネルギッシュな作業はボスにお任せするとして、わしは多少ライト感覚で自分勝手な気分が許される?!「温故」の方にせっせと精を出すことにしよう〜(笑)ってわけで今回は「30年前、1987年のロック」じゃ。

 1987年ってのは、個人的に一時期異常に盛り上がったMTV嗜好もかなり落着して、“音楽そのもの”に少しづつ回帰していった年のように思い出されるな。 ということはそれだけオキニのアルバムが多かったということなのじゃろう。 事実、30年前なのに割とすんなり新作の愛聴盤が浮かび上がってきたもんじゃ。 わしがとても前向きで時代に即して生きていた証拠じゃのお〜。
 フツーのサラリーマンからいわゆる業界人へと転身する直前でもあり、わしの頭はロック的にクリアになっていたに違いないって書いていてこっぱずかしくなってきたが(笑)、生粋の頑固者、トンカチ頭のわしをほどよく妖怪、じゃなくて溶解させてくれたイカシタアルバム・ベスト10をご紹介するとしよう〜♪

2017年ロック回想録C
30年前/1987年のロック
MTVブーム最盛期の渦中で、虚と実、新と旧がせめぎ合ったロックシーン充実の1年!


1 私の恋人の微笑みは、あの満月の輝きの比ではない 2 薔薇のつぼみを犯そうとする弾丸の狂気
ナッシング・ライク・ザ・サン/スティング■   ■アペタイト・フォー・ディストラクション/ガンズ・アンド・ローゼス■
 毎日、毎日MTV観賞に浮かれまくっていた当時、もっとも純粋に音楽が突き刺さってきた1枚じゃ。 確かスティング自らがペンを取った曲目解説がライナーノーツに掲載されており、各楽曲に込められた愛、死、孤独、生命に対するのメッセージや世界情勢へのアンチテーゼが綴られており、作品全編を覆う憂いに満ちた重苦しいオーラを理解する効果が素晴らしかった記憶がある。
 これはもはやロックの枠で括ることのできない、スティング独自の宗教観に根ざしたワールドワイドな視点とサウンドがひしめく長大な抒情詩的音楽集じゃ。 当時ワールド・ミュージックなる、世界各地の様々な音楽を包括するジャンル名が生まれて闇雲に奨励されたもんじゃが、真の意味でのワールド・ミュージックとは本作なり、じゃ。

 ポリス時代のスティングは、多彩な音楽ジャンルの要素を最新機器で美しくまとめ上げるセンスが抜群。 また歌うテーマを学術的に掘り下げていく姿勢は文学者並みじゃった。 パンクバンド出身者の中に、スティングほどインテリジェンスでハイセンスであり、しかも一人で勝手に極みに到達することもなく、大衆に浸透させる独特のポップセンスも兼備したプレイヤーはおらんかった。
 そしてソロ活動においては、その独自の試みの足を休めることなく、作品ごとに新しいテーマと新しいサウンド・ミキシング、そして新しいポップ性までも完成させ続けておる。 本作においては「イングリッシュ・マン・イン・ニューヨーク」「ウイル・ビー・トゥゲザー」の大ヒットシングル、ジミ・ヘンドリックスの名曲「リトル・ウイング」のカバー、シェイクスピアが題材となった「シスタームーン」等、そのラインナップの多彩さはソロ・アルバムの中でも抜群。
 また世界初のフル・デジタル録音によってサウンドに無限の透明感を創出しており、ヘヴィでモノクロームなコンセプトを聞き手に強制しないサービスをも施しておる。 東ヨーロッパのフィルムノワールの世界じゃが、朴訥ながらも説得力のあるスティングのボーカルによってほどよく天然色が加わっていくようなマジックがかかるのじゃ! 
      80年代後半のNo.1ハードロック・バンドじゃったガンズンのデビュー・アルバム。 本作の魅力とは、ロックのスタジオ・アルバムの普遍的なウイークポイント、つまり「ライブの迫力がスポイルされてしまう」ことの“度が過ぎておる”ことじゃ?! いや、“度が過ぎておる”ことが分かり過ぎることか?!
 バンド本来のダイナミズムが地下のマグマの様に燃えたぎってはおるが、決して表面化しないとでもいうべきか。 とにかく本作を聞いておるととてつもないフラストレーションを感じるのじゃ。
 聞き手をここまでイラつかせ、過剰な期待を勝手にもたらすアルバムなどそうはない。わしの経験では、レッド・ツェッペリンのファースト以来じゃな。
 ハードロックバンド最大のお役目は聞き手にカタルシスを与えることじゃろうが、ガンズンの場合はフラストレーション! それも今すぐにでも炸裂させたいマンモス級のヤツじゃ。 そこにガンズンは時代の武器ビデオクリップの威力を利用し、シングル3曲の映像を立て続けにぶちかまし、しかもその内1曲は全米No.1ヒット(“スイート・チャイル・オー・マイン”)となり、ファンのフラストレーションを見事に具現化した彼らはデビュー直後にあっさりと時代を圧倒してみせたのじゃ。

 ガンズン・ローゼスがロック史のその名を刻するほどの存在に成り得た要因のひとつは、一見古典的なハードロック・バンドでありながらも、先輩ロッカーたちが方法論の啓示だけで終わったスタイルを昇華させたことじゃ。 それはオリジナル曲のアコースティック・バージョンやカバー曲の大胆不適なアレンジのアピール、またレゲエからクラシックに至るまでの他ジャンルの導入など多岐にわたる。
 本作においてはそうしたロック・インテリジェンスの欠片も見せることなく、ひたすらフラストレーションを強要されるいわばアンダーワールド的なハードロック・サウンドが12曲も収録。 デビュー盤としては多過ぎ! これも知能犯としての彼らの策略だったのかもしれんが、ライブハウス・スケールからアリーナ・スケールのバンドに駆け上がる直前の真のハードロック・バンドたる未来のエネルギーが充満した名盤じゃ。

3 ニヒルなビートルが辿り着いた無我のポップ性
  4 決死の覚悟が導いたブリティッシュ・ロックの新しい夜明け
■クラウドナイン/ジョージ・ハリソン■    ■サーペンス・アルバス(ホワイトスネイク1987)/ホワイトスネイク■
 80年代はほとんど隠遁状態にあったジョージ・ハリスンが久しぶりに放った傑作じゃろう。 どれぐらい久しぶりかというと、70年の3枚組大作『オール・シングス・マスト・パス』以来ではなかろうか。
 かつて顕著だったインド宗教臭さも被害者意識も影を潜め、外界に向けて極めてポジティブに開かれた美しい楽曲が並び、実は当時のわしの「目覚めの1枚」としてオーディオ・タイマーにセットしていたほどのお気に入りじゃった。

 ポール・マッカートニーの様なスゴイ才能が光っておるわけでもなく、ジョン・レノンの様な聞き手の魂を鷲掴みにする説得力もない。 あるのは、穏やかに年齢を重ねたロック中年が、己のキャリアに素直に向き合うことで紡ぎ出した様な掛け値なしのピュアなポップセンスじゃ。 ジョージは本作によってようやくジョンやポールとはまったく違った聞き手との愛のカタチを完成させたと言えるじゃろう。
 それは50年代風でもあり、60年代風でもあるのじゃが、最終的な仕上げを名プロデューサーとして当時その名を馳せておったジェフ・リン(ELO)に任せたことは大正解だった!
 ギタリストとしてのジョージは、“弾き切れない”“前時代的過ぎ”“基本的なテクニック不足”等、厳しい評価を受けてきたものじゃが、本作においてはジョージならではの“手癖”が楽曲の中で美しく活かされており、遅ればせながらジョージのギタリストとしての真髄に気が付かされたものじゃ。
 リンゴ・スターやエリック・クラプトンらの豪華ゲストメンバーも、ジョージの“本気のリラックス・サウンド”に触発されて悠々たる泰然自若なサポート・プレイを聞かせてくれる。
     元ディープ・パープルの3人を中心に結成され、70年代後半からオールド・スタイルなハードロックサウンドを聞かせておったのがホワイトスネイクじゃ。
 ネームバリューの高いメンバーなだけに、レコード会社もアメリカ制覇への手を打ち続けておったが、ついに大輪の花は咲かずに解散・・・したはずじゃったが、結成からほぼ10年が経過した1987年、ホワイトスネイクは突如大爆発を起こした。
 本作よりアメリカ大手ゲフィン・レコードを契約を果たし、メンバーもヴォーカルのデヴィッド・カバーディル以外は一新され、しかも新しい布陣全員がL.A.メタル・バンドの様な金髪とド派手な衣装にイメージ・チェンジし、本作よりカットしたシングル2曲が大ヒットしてアルバムも怒涛の勢いでビッグ・セールとなったもんじゃ。

 本作のビッグ・セールスが印象深いビデオ・クリップの数々によって後押しされておったことは言うまでもないが、サウンドは70年代のブリティッシュ・ハード・ロックの新時代的なリメイクじゃ。(大ヒット・シングル“ヒア・アイ・ゴー・アゲイン”も既出曲のリメイク) ブリティッシュ・ハード・ロックにまとわりついておった古臭さ、むさ苦しさ、重苦しさを一掃しながら、逆に雪崩の様に一気に襲い掛かってくるダイナミズムを最新のアレンジによって創出させておる本作は、キンキラばかりの新進メタル・バンドでは到達できない完成度を誇っており、かつて栄華を極めたブリティッシュ・ハード・ロックが生き残るための絶対的フォーマットとしてこの時代に君臨したもんじゃ。
 しかしかつてのホワイトスネイクを支えた生粋のブリティッシュ・ロッカー揃いの旧メンバーは、このニュー・ホワイトスネイクをどんな気分で聞いたことじゃろう。 旧メンバー、また元ディープ・パープルのメンバーは誰一人としてこの路線を踏襲することはなかったしなあ。

5 甘くてノイジーな夜
6 猪突猛進という名のカッコ良さ!
ミッドナイト・トゥ・ミッドナイト/サイケデリック・ファーズ■    エレクトリック/カルト■
 80年代初頭にデビューした、ポスト・パンク/ニューウェーブのバンドが彼ら。 ネオ・サイケ・バンドともカテゴライズされておったけど、サイケほど病的でもなく(笑)、ましてパンクほど過激でもなく、ニューウェーブほどポップでもなく、その不安定で着地点の見えないセミ・アバンギャルドなスタイルが彼らの持ち味じゃったな。
 傑出した要素といえば、アングラ・シーンのセックス・シンボルのような、リチャード・バトラー(ボーカル)の存在感だったじゃろうか(笑) デヴィッド・ボウイやブライアン・フェリーといったダンディなロックスターからコマーシャリズムをとっぱらった様なキャラがリチャード・バトラーかのお。

 ファーズの通算5作目にあたる本作は、それまでの作品がまるで無かったかのように、大幅に時代に歩み寄ったようなポップなアルバムじゃ。 MTVのビデオ戦略を計算してバトラーのビジュアル効果も狙いながら、彼らが売れることを大前提に製作したんじゃろう。 いわば彼らが初めてサウンドの着地点を見据えったってわけであり、しかしその結果、彼ら独特のサウンド・グルーブが失われてしまい、昔からのファンは容赦しなかったもんじゃ。
 まあよぉ聞いてみると、通常のポップ性と彼らのポップ性とは、なんかズレがある。バトラーのしわがれ声、声調は根本的にポップソングに似合わないんじゃな。 元々彼らの魅力はジャンル不明な奇抜性にあったわけで、ポップになったとはいえ、その奇抜性は失われておらんのじゃ。 アルコール臭の抜けない原酒、臭味を除去していない食材のような、ポップソングだろうがその原曲には存在したであろう毒っ気ってもんが、バトラー独特のハスキー・ボイスで表現されておる感じじゃ。
 アングラ界のロックスターが、ほんの一瞬だけポップ界に顔をのぞかせることを許された稀有な1枚として、わしにとっては名盤、迷盤?!になっておる。
      いつの時代もクラシック・スタイルのハードロック・バンドってのは存在する。 彼らの意固地なスタイルは時代性への挑戦であり、流行音楽への反抗でもあるが、セールス戦略だけは案外最新技術に乗っ取って行われるものじゃ。 この時代でいえば、煌びやかなサウンド・プロデュースやMTVのビデオじゃ。
 しかしそんなもんで虚勢を張ることなく、ライブハウスからの叩き上げのイメージを引っ提げながらメジャーシーンへじわじわと近づいていったのがカルトじゃ。 そのアクションはまさに“カルト”であり、わしの愛聴盤である本作のタイトルも“エレクトロニック”ではなくて“エレクトリック”じゃ! 質実剛健なる言葉がもっともしっくりとくるバンドであり、サウンドであった。
 80年代以降ずっと心の片隅にあった、“日本人が茶碗と箸で飯を食うように”“朝起きたら歯を磨くように”極々当たり前にハードロックをプレイするバンドはおらんのかってイラダチを見事に解消してくれたもんじゃ。
 
 キーボードやオーケストレーションの余計な装飾が無い! 楽器の生音ファースト! ボーカルがブサイクなシャウトをしない! リズムセクションの音がバッチリ! まあ自分の年齢が一気に20歳ぐらい若返ったような気分にさせてくれるアルバムじゃったなあ〜。 
 イアン・アストベリーのボーカルにはこの時代には珍しい内に向かってナイフを向けるような自虐的トーンがあり、どことなくドアーズの故ジム・モリソンを思わせたものじゃ。 まさか後年、ジムの代わりにドアーズのリユニオンに参加するとまでは想像できなかったがな(笑)
 元々彼らはサザン・デス・カルトという名のポスト・パンク・バンド、ゴシック・ロック(簡単に言うと、知的なパンクか?!)じゃった。 バンド名をシンプルにカルトと改めた後、アルバム発表毎にハードロックスタイルへ移行し、本作によってそのスタイルと演奏力は頂点に達したのじゃ。
 

7 チャック・ベリー大先生を偲ぶ!     8 さあ仕事だ!
■ヘイル!ヘイル!ロックンロール/チャック・ベリー ■  ■プリミティブ・クール/ミック・ジャガー■
 キース・リチャーズが企画を立てて実現した、大先生の故郷セントルイスで行われた「生誕60周年記念コンサート」。
 本作においては映像ばかり観ており、音楽だけ(CDだけ)で聞いた記憶がないので、いわばコンサート評みたいになってしまう点はご容赦頂きたい。
 前年に『ロックの殿堂』入りを果たした際、殿堂側から「ロックンロールを創造した者を一人に限定することはできないが、最も近い存在はチャック・ベリーである」とまで賛辞を贈られたこともあり、大先生の言動、プレイはプレッシャーからか?相当ぶっ飛んでおるようじゃ(笑) 大勢駆け付けたゲストの後輩たちを前にまるで王様のように立ち振る舞い、本来感謝されるべきキースも完全にガキ扱いされておるリハ・シーンはあまりにも有名。 まあこの偉人に対して、常識論や世間並の交友論は一切通用しないんじゃろうな!

 収録された楽曲のクオリティは?ってえと、良い意味でも悪い意味でも、大先生のライブ・ディスコグラフィーの中では異色じゃ。 ライブごとに現地で適当なバックミュージシャンを見つけてはやりたい放題やってきた時代のロッカーだけに、名のある超一流のメンバーばかりが相手だと相当勝手が違ったんじゃなかろうか? まあその辺の苛立ちというか、未体験ゾーンみたいなもんが大先生をかなり困惑させ、だから王様のような態度でゲストを指揮したのかもしれんなあ〜(笑)
 完成度の高いプレイを期待すると肩透かしを食らうような、どうも座り心地の悪さを感じる一風変わった「お祝いパーティー・ライブ」なだけに、やはりソースとしては映像の方がええじゃろう。 しかし、大先生のルーツであるシカゴ・ブルース的なプレイはほとんどなく、あくまでも自分自身で創造したロックンロールの方に固執するスタイルは、大先生の面目躍如ってとこじゃろうな。 「“ポップン・ロール”で金を稼ぎ続ける後輩たちよ、これがロックン・ロールってもんじゃ」っつう大先生の意地が感じ取れるまで聞き続けてみてくれ〜い!
     ミック・ジャガーのソロ第二弾。 前作『シーズ・ザ・ボス』は、あまりにも時代性を意識したキモチワリー出来であり、ミックの隠されたロッカーとしてのコンプレックスみたいなもんが露出されたように感じたもんじゃが、本作では過剰な演出が排除されたハード・ポップスな仕上がりじゃ。
 デイブ・スチュワート(プロデューサーで当時ユーリズミック在籍)、ジェフ・ベック、サイモン・フィリップス(ヘビメタ畑のセッション・ドラマー)といったミックとは水と油のような存在が程よく裏方に回ることで、ミックのロック・スピリットが楽曲の表面に浮彫になっており、ストーンズ・ファンもある程度は我慢して楽しめる?!アルバムじゃ。 前作をクソミソにけなしておったキース・リチャーズも、本作に対しては多少寛容なコメントを残しておった気もするな!

 80年代から今日まで断続的に繰り返されるミックのソロ活動じゃが、結局何がやりたくてミックは一時的にストーンズから離れるのか? その本音とある程度の成功は本作にある! 自分だけのポップセンスが、どの程度アメリカン・マーケットで通用するのか?また如何にして通用させるべきなのか? これはミック流の時代測定作業なのじゃ。 目をつけたブルース臭の少ない優秀な人材と相まみえることで自分のアクと時代性の接点を見つけたようなミックのエネルギッシュな歌いっぷりを聞くことが出来るのじゃ。
 気合いが入り過ぎな感は否めないものの、80年代のストーンズのアルバムよりはミックは溌剌としておる様じゃ。 本作はチャートでは苦戦したが(全米41位)、アルバムの出来栄えにはミックは満足したようで、翌年の日本公演を含むソロとしてのワールドツアーには本作参加のメンバーたちで固められたほどじゃ。
 当時キースはミックのソロ活動に対して「ミック・ジャガーがイギリスやアイルランドのスタンダードやトラッドに取り組む!なんてアルバムなら大歓迎だぜ」と言っておったが、そんな博物館行きまっしぐらのビンテージ・シンガーになるのは、ミックはいつまでもまっぴら御免なのじゃ。 今でもそうみたいなんで、誠に恐れ入るわい!

9 アン・ウイルソン無くしてハートにあらず   10 “タマを持った”女性ロッカーの雄々しき軌跡
■バッド・アニマルズ/ハート■  ■シングルス/プリテンダース■
 前作『ハート』のメガトン・ヒットにより、80年代の長い低迷期を脱したハート。 時代に即したパワーポップ路線へのシフトチェンジは本作で更に強烈になったもんじゃ。
 70年代後半にツェッペリン流のヘヴィロック路線と、カントリーロック流のフォーク路線との絶妙な融合によってそこそこの成功をつかんでおったハートの原型はもはや跡形もなく、わしのような古くからのファンの多くはゲンナリしていたかもしれん。 かつて真摯な生き方をしていた恋人が、すっかり下品な成金になって帰還したような抵抗感を当時のハートにわしも感じたもんじゃ。 それでも「ハートを聞き続けよう」と思わせたのは、やはりアン・ウィルソン嬢の絶対的な歌唱力じゃった。 80年代流スタジアム・ロックのコケ脅かし的サウンド・コーティングをも退けてしまうアン嬢のよりスケールアップしたヴォーカルは凄まじかった。

 売れようが売れまいがハートの生命線はアン嬢の歌唱力じゃ。 どこまでも駆け上がっていく一種オペラチックなその唱法は御年を召してからも一向に衰える気配はなく、いわばB級のステーキを霜降り特上ステーキとして味わせてみせるシェフのような限りなき創意工夫とセンスが、80年代のパワーポップという新しい素材と巡り合ったことであらためて花開いたとも言えるじゃろう。
 プロデューサーのロン・ネビソンは売れ線ロックを作り上げる達人ではあったが、アン嬢の歌唱力があったからこそ彼の評価が格上げされたとわしは思う。 並レベルのシンガーが歌ったらただのコッテコテのパワーポップ・アルバムじゃ。 逆説的に言い放てば、煌びやかな紛い物をダイアモンドとして見せてしまうようなマジックが本作の魅力かもしれん?!
 ちなみにお金持ちになってその美貌に“飛び級”の拍車がかかったアン嬢の妹のナンシー嬢(サイド・ギター担当)。 このビジュアル・クイーンの妹ちゃんばっかり日本では話題になっておったが、彼女はバンドにおける特上のお飾りであり、ビデオやグラビアのビジュアル戦略における貢献者じゃ。 ロックの神様はまったく異種な個性を姉妹に分け与えたのじゃろう!
     本ベスト盤はこの企画では取り上げないんじゃが、本作は特例。
 この年わしはプリテンダースの日本公演を観賞して、クリッシー・ハイド姉御のプロフェッショナルな姿勢に感銘を受けたことで、当年発売のベスト盤(本作)まで買ってしもうたんじゃ。 ファンからのプレイヤーに対する大きな感謝の気持ちは、アルバムを買うことでしか伝えられんもんな!

 ギミック無しのどストレートかつポップなロックンロールで、若き男性ロックファンからも一目も二目も置かれていたクリッシー。 サウンドの性格上、スタジオ・テイクとライブ演奏の差はさほどないものの、全曲に渡ってクリッシーは全力投球であり、それに引っ張られる形でバックメンバーも手抜き無し。 スタジオ・テイクよりも数段高いテンションでプレイを貫いてくれた!
 しかもクリッシー自身が先導した結果なのに、強烈なソロを弾き終わった男性リード・ギタリストの労をねぎらうようにハンカチで彼の額の汗をぬぐっていたクリッシーの優しさにも、男として感動してしまったわい(笑)
 同年某ビッグロッカーのあからさまな手抜きプレイを見せられていただけに、この時のクリッシー&プリテンダースの真剣さは強烈な思い出じゃ。

 プリテンダースの魅力ってのは、やはり楽曲作りにおける男性ロッカーにはあまり見られないクリッシーのユニークな視点じゃろうな。
 それは男勝りの女のツッパリでもなく、男性社会であるロック界への挑戦でもなく、ましてやキワモノ的なフェロモンを出すわけでもない。 またロック特有の紋切型のキメのフレーズで真意を曖昧にしたり、私小説的にドロドロと情念を追求することもない。 いわばロックを線ではなくて点でとらえておるような潔さがあり、問題意識と同時に常に次の到達点が見据えられておるのじゃ。今日と明日との距離を必ず飛び越えようとする強い意志に貫かれたロックがプリテンダース・サウンドなのじゃ。


 今回の選モレの代表作は、
「ヨシュア・ツリー/U2」
「ブラザー・イン・アームス/ダイアー・ストレイツ」
「ザ・プリンセス・ブリッジ(サントラ)/マーク・ノップラー」
「エコー&バニーメン(バンド名と同名タイトル)」
「ソリテュード・スタンディング/スザンヌ・ヴェガ」
「トンネル・オブ・ラブ/ブルース・スプリングスティーン」
「パーマネント・バケーション/エアロスミス」
「ロビー・ロバートソン(本人名と同名タイトル)」
「サイン・オー・ザ・タイム/プリンス」
「レット・ミー・アップ/トム・ペティ&ザ・ハートブレイカーズ」
あたりかのお。
 ここまで加えて振り返ってみると、わしとしては珍しく滅茶苦茶ノンジャンルで聞きまくっておったことがよぉ分かるわい(笑)
 時代はバブル最盛期だったのかもしれんが、そんな事はまったく眼中にあらず、遅ればせながらの最後の青春を無意識に謳歌しておった事実が浮き彫りになるラインナップじゃ。 中年になりかけていたこのわしの最後の青臭さを美しくコーティングしてくれたこれらの作品群に、あらためて感謝の意を表したい!

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