NANATETSU ROCK FIREBALL COLUMN Vol.230

■ロックまわり道紀行〜ポーランド

 現在わしは東欧諸国の五カ国目にあたるポーランド、古都クラクフという街におる。 数日前までは首都ワルシャワにおった。 いやあ〜寒い! 朝晩は下手したら氷点下。 昼間もせいぜい5°くらい。 北海道以外の日本の諸君よりも一足早く冬を体験しておるわけじゃ。 それに一日中霧がスゴイんで、写真撮影にひと苦労じゃ。 あ〜この霧、何とかならんかの〜ってところに、霧も暗闇も吹っ飛ばすようThe-Kingの鮮やかなパンツ&シューズの新作! 精神的な視覚がものの見事に晴れ渡ったわい! さあ、これで怖いものはない。 第230回に突入するぞ!

 わしがなんでポーランドに行ったかというと、ワルシャワの街並みを肉眼で見てみたかったから。 それから、クラクフから車で一時間半ほどのオシフィエンチムという地域にあるナチスのユダヤ人強制収容所アウシュビッツを訪問してみたかったからじゃ。 今回は、この明確な2つの目的による体験談を中心にして、少々のハプニングなんかを織り交ぜながらポーランドという国を簡単にご紹介していこう。
 って予定だったのじゃが、アウシュビッツの強制収容所は、すんご〜い重たい衝動をくらってしまい、気楽にご紹介する場所ではなかった。 また古都・クラクフにおいては、先述の通り連日真昼間からすさまじい霧だから、いまだにご紹介出来そうな写真があまり撮れない。 かような事情により、ワルシャワのみに焦点を絞ってお送りしたい。
 また、あくまでも個人的な理由で、実は早々にハンリー・ブダベストに戻らなきゃならんので、ポーランド滞在は10日程度になってしまい、地元の酒やタバコ、食べ物なんかをのんびりたしなむ時間がなく通過することになった。 それでも、ポーランド、ワルシャワは、初めて訪問したという目新しさを越えて大きなインプレッションを与えられたので、わし自身に対してもう一度行きたい! と自己暗示をかける様な書き方になっとるかもしれんが、その点はご了承というかご愛嬌!

七鉄のロック回り道紀行 東欧編 Vol. 4
“北のパリ”ポーランド・ワルシャワ。
ナチスに屈せず復活した鋼鉄のプライドが宿る街!


●Part 1 
ロックンロール発祥の必殺アイテムがワルシャワにあった!

 まずは、あまりにも意外過ぎるというか、嬉し過ぎるハプニングをご紹介しよう!
 場所はワルシャワ中央駅横の「ハードロック・カフェ」。 ここにエルヴィスが映画「監獄ロック」の撮影で着用した半袖シャツが展示されておった! もう震えが止まらない程感激してしまった!
 さらに同映画で公開時に製作された?と説明のある「オフィシャル・エルヴィス・フィギア」
(The-Kingのボスによると、たぶんそれは無いと思う、とのことだったが)
 さらにエルヴィスがネイティブ・アメリカンの血を引いていることを意識するために晩年密かに愛用していたというインディアン・ネックレス。
 75年6月3日の公演のエルヴィス直筆のソングリスト! いやあ〜久しぶりに興奮したわな!
 こんな超レア〜でスゴイブツがなんでポーランド・ワルシャワくんだりにあるんじゃ! 写真撮影を許可してくれた超美人の女性店員さんは、「この人、何をそんなに騒いでいるのかしら?」ってキョトンとしておるがカンケーネー。  ついでにあなたの美貌もこの時ばかりはカンケーネー(笑)

 残念だったのは、高さ2.5〜3mの位置に展示されておって、どうしても見上げる感じのアングルになってしまったことじゃな。 まさか「おい、脚立持ってこい!」とは言えんしな。
 それにだ、会計カウンターから振り向いた位置に展示されておって、お客が来店しても気がつかなくて素通りされてしまう可能性が大きいことが問題。 さすがにこのわしはめざとく見つけたが、もちっとアイテムの価値を考えて展示せんかい!って仕舞いにゃ腹も立ってきたが、それほど興奮しておったというわけ!


●Part 2 ワルシャワの幻想/デヴィッド・ボウイ

 長い間ロックフリークをやっておるが、ロック・ナンバーのタイトルにポーランド関連語がつけられたのはただ1曲。 デヴィッド・ボウイの「ワルシャワの幻想」(原題は「warsware」)。 遠藤ミチロウが同じタイトルの曲を後に発表したが、これはまったく別の曲。
 「ワルシャワの幻想」はボウイにしては珍しい歌なしインスト・ナンバー。 シンセの鬼才ブライアン・イーノとの共作で、第二次世界大戦でドイツ・ナチスに徹底破壊され、後に完全復元に至ったワルシャワの苦難と驚異の近代史に捧げられたと言われておる。
 ちょっと陰鬱なシンセの中でボウイの唸り声というか、意味不明の呟きがちょいと挿入される逆説的アンビエント・ナンバーのような趣きがある。 ボウイはこの曲の出来栄えがことのほか気に入って、当時のコンサートのオープニング・ナンバーに使用しておった。1977年の来日公演もやはりこの曲からスタートしておる。

 まあ、ポーランド、ワルシャワなんてまったく知らない少年少女が聞いたら、まず間違いなく「ワルシャワってどんだけ暗〜い街なんだ?」って思うだろう。 わしもじゃったし、周囲もそうじゃった(笑) しかしその曲調から考えられないほどこの曲をボウイ・ナンバーのフェイバリットのひとつに挙げるロッカーは多く、まあ先述した遠藤ミチロウもその一人。 特に80年代にシンセの機能を駆使して新しいロックのスピリチュアル・ワールドを追求しようとしたヨーロッパの若手ロッカーに絶大に指示されておったな。


●Part 3 43年前、日の丸飛行隊を嘲笑ったポーランドの“鳥人”

 さてと、ここでワルシャワとは関係なしに、ポーランドの有名人を一人ご紹介しておこう。 この国の有名人といえば、とにもかくにも“ピアノの詩人”ショパンと、「地動説」を提唱した天文学者コペルニクス。 ショパン、コペルニクスに続くポーランドの有名人は人それぞれじゃろうが、わしの場合はヴォイチェフ・フォルトゥナ。 誰も知らんじゃろうな〜。 この方はスキー・ジャンプ競技において1972年の札幌五輪に出場した名ジャンパーじゃ。
 
 なんで今でもこの人の名を覚えておるかっつうと、それは日本中を激しく落胆させた人だからじゃ。 事の起こりは、札幌五輪の70m級ジャンプ(現ノーマルヒル)において、笠谷、近野、青地の日の丸飛行隊がメダルを独占して日本中が大騒ぎになったことじゃ。 当時日本選手がメダルを狙える競技は少なかったので、必然的に誰もが90m級(現ラージヒル)ジャンプでも日本人選手の同等の大活躍を期待したんじゃが、このフォルトゥナが日本人の切なる願望を打ち砕く大ジャンプをして金メダルをかっさらっていったのじゃよ!
 1回目のジャンプで、フォルトナに距離にして5mの大差をつけられた日本のエース笠谷は、2回目で「大ジャンプで逆転せんといかん!」と焦ったようで、早過ぎる滑り出しが横殴りの強風を食らうタイミングとなってしまいあえなく失速して7位に終わったのはよお覚えておる。 翌日の朝日新聞の見出しは「強風笠谷を攻撃」じゃった。 表彰台の真ん中に立ったフォルトゥナの笑顔は憎たらしかったなあ〜(笑)


●Part 4 世界でも希に見る、完全復元された首都ワルシャワ

 それでは、わしのポーランド訪問の目的とその結果について話そう。 ここまで読んで下さったら、ついでに是非!
 首都ワルシャワは、現在「北のパリ」と評されているほど美しい街じゃ。 しかしこの街(旧市街地)に古くから残っておる建造物は無く、全て第二次世界大戦前の姿が復元された街なのじゃ。
 大戦中、ヨーロッパ制覇を目論むヒトラー総統率いるドイツ・ナチスは当然のごとくポーランド・ワルシャワへ侵攻したんじゃが、ワルシャワ軍の抵抗は凄まじく、他国のように簡単には堕ちなかった。 ワルシャワ軍の屈強さに驚いたヒトラーは怒り狂い、ワルシャワ中心地の徹底破壊という手段に出て、歴史的建造物まで含めて闇雲にダイナマイトと火炎放射による焼き尽くし攻撃を強行。 それによりワルシャワの街はまさに焼け野原と化したのじゃ。

 しかしポーランドの愛国心という名のプライドは、徹底抗戦だけに留まらず、焼け野原になったワルシャワを大戦後20年の歳月をかけてほぼ完璧に大戦以前の姿に復元したのじゃ。 元あった場所に同じ様な建造物を建てるだけではなくて、建造物のひび割れ、塗装の禿げ具合、レンガの欠け具合まで、市民一人一人の記憶をもとに特殊な技術を駆使して街の歴史を20年あまり戻してみせたのである! 復元が終わった当時は世界中で話題となり、日本においても何度もテレビで紹介された。
 そのTV番組を観た時の印象があまりにも強烈じゃった。 まさに建造物そのものに歴史が塗り込められておる。 怒りも悲しみも、またそれを乗り越えていこうとする勇気が渾然一体となってわしの眼に突き刺さってきたんじゃよ。 まあそれはテレビ映像の特殊効果によるものだったかもしれんが、どうしてもこの眼で観ておきたかったのじゃ。
 実物を観た感想というと、やはりテーマパークのような、何処か作り込み過ぎておる感は否めないものの、「もう一度、あの美しい街並みを取り戻すのだ」というワルシャワ市民の情熱がほとばしる見事な再現美であった! 「今度は二度と破壊させないぞ!」といった威嚇的な雰囲気もなく、時代がどう変わろうと、ワルシャワはワルシャワなのだ!という強い信念を確かに受け止めることができた。 こうした形で戦争被害からの逞しいプライドを見せつけられたら、戦犯国は「謝罪の念」を抜きにした「敬服感」をもつに違いない。 これが本当の意味でのプライドってやつじゃろう。



●Part 5 大戦前の建造物が今も残る「奇跡のプラガ地区」

 旧市街地とは対照的に、ナチスの破壊攻撃の難を逃れ、今でも大戦当時の建造物がいくつか残っておる奇跡の一画がワルシャワにある。 それはワルシャワの真ん中を流れる大河ヴィスワ川を挟み、旧市街地のほぼ対岸にあるプラガ地区じゃ。
 「治安が悪い、美しくない」という理由で観光客がほとんど寄り付かんらしい所じゃが、わしはあえてその「奇跡の一画」に行ってみた。 そこでわしを待っておったのは、建物全体が焦げ茶色に変色した、驚くべき古い佇まいじゃった。 かなり老朽化しておるのは一目瞭然であり、「ナチスの攻撃を回避した」というよりも「攻撃を耐え忍んだ」といった形容が相応しい!?

 既にかろうじて原型をとどめているといった感じで、見ておると覆いかぶさってくるんじゃないかと思うぐらいの危ない存在感がある。 中には建物全体が補修工事中のものもあり、正直なところ「今日まで保存されてきたんだから、もうお役御免、建て替えた方が安全じゃないのか」と思えるもんもある。
 しかし、ナチスに破壊されなかった現物証拠を保存し続けるというものは、ワルシャワのもうひとつのプライドなんじゃろうな。 とにかく保存のし過ぎで事故が起こらんことを祈るばかりじゃ。
 旧市街地ではワルシャワの気高きプライドを見せて頂いたが、プラガ地区においては、プライドを支える「屈強の精神力」とでもいうべきか。  ワルシャワのど根性がプラガ地区じゃ! まあ確かに霧深い夜に外国人が一人で訪れたら、とても無傷で出てこれそうもない雰囲気ではある!
 プラガ地区全体としては、ワルシャワのダウンタウン、ニューヨークでいえばブルックリンの様な風情が漂っており、家賃が安いこともあって多くの芸術家の卵たちが住んでおるという。 それだけにストリート・アートも多彩じゃ。
 旧市街地から架橋を渡ってプラガ地区に足を踏み入れると、丁度その入口付近に謎めいた少女の描かれたストリートアートがあり、わしはそれを「プラガのモナリザ」と密かに名付けた(笑)



●Part 6 ワルシャワのお土産にショパンはいかが?

 ポーランド建国以来最大の有名人はショパンじゃ。 クラシック音楽というジャンルを越えて世界中で愛されておる音楽家、ピアニストじゃな。 実を言うとわしはショパンは苦手なクチでなあ〜。 明るい長調でもなんか追い詰められる気分になるし、物悲しい短調に至っては“感情の血飛沫”を感じ過ぎてもういたたまれなくなってくる。
 (唯一ショパン演奏を聴けるのは、“音のレントゲン医師”とわしが勝手に呼んでおる、イタリアのピアニスト・マウリッツィオ・ポリーニによる無機質な演奏)

 それでもワルシャワには至るところに「ショパンがいっぱい」なので、片っ端からメモリアルな場所を訪問した。 代表的なのは「ショパン博物館」。 ここはショパン生誕200周年の2013年に全面改装され、現代のハイテクを駆使してショパンを楽しんでもらおうという画期的な博物館。 入場券代わりのICカードを使って、様々な展示物の解説、付随する音楽を楽しめる仕掛けになっており、宇宙船のような館内で聴覚と視覚の両方からショパンの生涯を優しく、激しく訴えてくるのじゃ。 
 展示物の一端を紹介すると、ショパン最後の演奏に使われたピアノ、デスマスク、髪の毛、当時の肖像画や写真、衣装や帽子、直筆の手紙や楽譜、さらに指の鍛錬に使用された特殊な器具もある。
 わしはショパンではなくて、同時期に活躍したもうひとりのピアノの雄リストの大ファンであるが、ブダベストの「リスト博物館」とは比較にならないほど充実した設備と展示内容であり、その扱われ方の違いにちょっとジェラシーを感じてしまったわい(笑)

 その他、博物館の前には「ショパン・ストア」っつうお土産屋さんもあり、早い話がショパンのキャラクターズ・ショップ!「原宿ラブテン」のショパン版と思えば間違いない!(笑)
 またショパンの心臓が安置されておる聖十字架教会、ショパンが一時期勉学に勤しんだワルシャワ大学、ショパンが通ったカフェなどがある。 大小いろんな銅像も広場や公園に建立されており、「ワルシャワにいらした方は、どうぞショパンをお忘れなく!」って感じじゃな。
 ビックリしたのは、街中の歩道にちょっと立派なベンチが置かれていて、そのベンチからショパンの有名曲が流れ出すなんて仕掛けになっておった!お酒のラベルにショパンが起用されとるぞ!


 ワルシャワだけではポーランドの紹介には片手落ちであり、わしにクラクフの霧を晴らせる術はないもんかの〜って悩んでも仕方ないが、締切日前日になってようやく晴れてくれた(苦笑) でも原稿はとても間に合わないので、別の機会において、国別や都市別といった括りから離れた新しいテーマによって紹介してみたい。

 ちなみにクラクフで宿泊している宿のロケーションは、東欧各地で宿泊してきた場所の中では最高! なんせ、寝起きの一服のために喫煙用のバルコニーに出ると16世紀に建立されたヴァヴェル城と首都ワルシャワへと流れて行くヴィスワ川のハーモニーによる景色が広がっておる! 写真は撮影しておいたので(下写真)、どうかご覧あれ!  この景色が一泊わずか1000円程度の安宿から拝めるのじゃ。 霧がかかっていても神秘的で素晴らしいもんじゃ!
 このアングルは、喫煙所と、家族用の部屋の窓からしか見えない。 つまり非喫煙者、嫌煙者のほとんどは、宿を一旦出てわざわざ川べりまで歩いていかないと見れないってこと! 喫煙者としていつも肩身の狭い思いをしてきたので、この景色を見るとおかしな優越感に浸ることができる(笑) ワルシャワ中央駅から徒歩30分という不便なロケーションにある宿じゃが、意外なところに意外なメリットがあった!
 クラクフにも「ハードロック・カフェ」はあったが、展示物には見るべきものは少なかったのお。 まあワルシャワでエルヴィスの超貴重なメモラビリアに遭遇したから、それで充分じゃけどな。

 今後は一度ハンガリー・ブダベストに戻った後、オーストリア、チェコ南部あたりをうろつき、それから徐々にギリシャ方面へ南下していく予定であります。 もう今以上に寒いのは耐えられんわい(笑) 
 諸君、わしの気分を高揚させて体温を上げさせるためにも、お買い物よろしく頼むぞ! 諸君の「清きショッピング」が七鉄の無事につながるのじゃ〜。 カイロ持ってきてないんで、タ・ノ・ム・ナ!



酔眼雑記 〜同じ曲を数千人で一斉演奏だと?


 ポーランドは前回ご紹介したウクライナよりもかなり西側ヨーロッパとの交流が長い国だから、ロック関連のネタを拾えるだろうと考えておったが、ヘヴィ・メタル以外はぜ〜んぜんダメ。 ウクライナのキエフにもあったロックンロール・カフェみたいなもんも、大手ハードロック・カフェ以外はまだ見つかっておらん。
 「ロック無しの国なのか」と諦めかけていたある日、奇妙な情報をネットで拾った。 それは毎年5月頃に、ブロツワフという街にヨーロッパ中のロック・ギタリストたちが集まる祭典があり、みんなでジミ・ヘンドリックのナンバーを演奏するから「Jimi Festival」って名付けられておる。
 しかしこの「Jimi Festival」ってヤツ、ネットで調べてもさっぱり実体がつかめない。 ブロツワフというのは、現在わしが逗留しておるクラクフから北西200キロの位置にある街じゃが、一応ホームページみたいなもんがあり、それによると毎年集まる数千人のギターオヤジ、ギター小僧たちが全員で「ヘイ・ジョー」を演奏するんだそうで、同じ曲を演奏する人数ではギネス記録らしく、毎年その記録を自ら更新していると誇らしげに記されておる。

 正直なところ、何じゃそりゃ?って感じ。 数千人が同じ曲を演るってどういう事? しかも何故「ヘイ・ジョー」なんてメジャーでもない曲を演るのか? そもそも何故ジミ・ヘンドリックス? さっぱり分からんわい。
 昨年は有名ギタリストも駆けつけたって、そのリストまで載せてあったが、わしが知っておったのは元ベーブルース、元ホワイトスネイクのバーニー・マースデンぐらい。 胡散臭いのは「Ten Years After」という表記。 このバンドの有名ギタリスト、アルヴィン・リーは既に物故者じゃぞ。 なんだか、その昔日本のTV番組でやっておった「勝ち抜きエレキ合戦」みたいな、ロックの夜明けを迎えたばかりの国特有のチンケな催しの匂いがプンプンする。
 実は今回の旅にジミヘンのブ厚い伝記を一冊持ってきておったので、ジミヘンとポーランドとの関わりを調べてみようと思ったが、残念ながらその本はバンコクの親しい友人に預けてしまっておるんで調べられん。 ってこともあって、このネタは「酔眼雑記」扱いにしたワケじゃ。

 そう言えばウクライナのストリート・ミュージシャンが「ヘイ・ジョー」を演っていたという話は、ここで書いたな。 「ヘイ・ジョー」という歌とポーランド(もしくは東欧)て何か関係があるのだろうか? ワルシャワの旧王宮前広場で歌っておった、下手くそだけどいい若者だったヤツに聞いてみりゃ良かったな。 選曲が60〜70年代ロックでビックリしてわしから話しかけたんだけれど、ヤツなら「Jimi Festival」や「ヘイ・ジョー」の事を知っておるかもしれん。
 とか書いていたら、調査のためにもう少しポーランドにいたくなってきたな(笑) せめて「Jimi Festival」が開催される5月前後じゃったら、フェスに行ってジミヘンとポーランドの何がしかを掴めるかもしれんが、まだ半年以上も先じゃ。 これはばかり次の機会にしておこう。




GO TO TOP