NANATETSU ROCK FIREBALL COLUMN Vol.216



40年前/1975年のロック
 桜満開!のシーズンとともに、諸君の気分もおおいに上がっておることじゃろう。 ハロー諸君、わしは相変わらず東南アジアにおるが、桜よりももっと諸君が羨ましいのは、The-Kingの新作ナッソーを目に出来ることじゃ。 さぞかし酒が美味いことじゃろう!(笑) って、前回も同じように“羨まし〜”を連発した覚えがあるが、それがわしの嘘偽りない現実なんで、どうか許してつか〜さい! まあ無いものねだりをしてもしょうがないんで、わしもこっちで盛り上がるしかない! このところ、旅先でロック・フリークと知り合う幸運が続いておるので、熱帯夜の中で現地の安ウイスキーをかっくらいながらハイ・テンションじゃ! そのままの勢いで書いてあるから、どうぞ“まっさん”じこみの日本の高級ウイスキーでもちびちびやりながら読んで頂きたい!

 昨年の「40年前/1974年のロック」で、“ロックがロックじゃなくなってきた”と書かせて頂いた。 もう一度だけ書くと、ある程度のキャリアを積んだロッカーたちが、牙をぬかれたように次々とアメリカンナイズされていったのが1974年じゃった。 シーンの流れに即応出来なかった連中は、未発表曲集みたいな新作でお茶を濁したりしておった。 そんな状況の中で迎えた翌1975年のロックが今回のテーマじゃ。 「ロックの軟弱化」が益々進んでいってもショーガネーが、ここで小さな奇跡が起こったんじゃ。 ロック・アルバムとしての名盤がこの年に続出したのじゃよ。 アメリカンナイズを匂わせながらもロッカーとしての威厳を保つ骨格をもう一度ビシッと正そうとするアルバムが、わしの記憶ではざっと20枚ほどあった。 それは、すぐそこまで迫っていた「ディスコ・サウンド」「パンク・サウンド」の大ブーム、つまりロックの歴史の血脈をぶった切ってしまうほどの一大商業主義時代の前に燃え上がったロックの最後の灯だったのじゃ!


40年前1975年のロック
ディスコとパンク旋風の前に起こった、ロックン・ロール決死の一撃イヤー! 



 あぁボスよ、アナタはサイコーだった! ココまでは!?
明日なき暴走/ブルース・スプリングスティーン■
 Amazonのレビューを参照してみてビックリ! 如何に本作に力づけられて青春時代を送ったか、70人以上の方々の今も消えない熱い想いが連綿と綴られておる。 「運命的な人生の敗北者たちを奮い立たせ、輝く未来へと駆り立てるとてつもないパワーが〜」とわしも一緒に大いに賛同したいが、皆さんとはちっとズレとるんじゃ、わしは。
 背中を押された、勇気をもらったというよりも、自分自身に限りなく、また美しく絶望させられたよ、コレには。 敗北者たちの生き様の詩的描写があまりにもリアル過ぎて、それをメロディラインが明確でドラマチックな構成のサウンドで激しいワルツの様に演られるからもうタマッタモンジャナイ! 逃げ場のない領域まで追い込まれ、そこで胸をかきむしられ、狂わされ、死ぬことすら厭わない“向こう側”まで連れて行かれてしまうのじゃよ。

 ジョン・レノンの様な突き放した優しさもない。 ボブ・ディランの様な口当たりの悪いが確かな鎮痛効果もない。 あるのは、敗北者たちの心臓を鷲掴みにしながら、自らが先頭に立って社会の壁に体当たりしていく“ボス”・スプリングスティーンの特攻イズムじゃ。 バックを務めるE-ストリート・バンドのプレイは、ボスとの運命共同体としてバンドの攻撃性を増大させる素晴らしい連帯感を発揮させておるんで、こっちは足軽として殿(しんがり)を担うべく食らいついていきたくなる! そんな自分がタマラナクかっこいいと感じてしまう、まさに決死のロックンロール共同幻想作品じゃ! 
 そして何よりも、ロック自体がリアリズムを失い、巨大なマーケティングに飲み込まれていった1970年代の半ばになってから本作が現れたことが衝撃じゃったな。 「まだ、ロックを信じていいのだ!」と頑固なロックファンは驚喜した。 だからこそ「私はスプリングスティーンにロックンロールの未来を見た!」というジャーナリスト(ジョン・ランドゥ)の名言が飛び出したのじゃ。
 しかし、結果としてロックンロールの未来は・・・。 現在のところ、ロック史に燦然と輝く最後のモンスター・ヒーローがブルース・スプリングスティーンであり、それを決定づけた作品が「明日なき暴走」であ〜る!  ●You Tube full-album● 

 ジ・エンド、グッドバイ!     酒飲んでどこが悪い!?
■ロックン・ロール/ジョン・レノン■     ■今宵この夜/ニール・ヤング&クレイジー・ホース■
 前作『心の壁・愛の橋』が、ジョンのソロ最高傑作として聞いていたので、発売前に本作の収録内容が公表された時は「今度はなんでR&Rカバー集なんじゃ」と憤慨した。 んで聞いてみたら、「これは“ジョン・レノン流”R&R改訂集じゃ!」って脳みそがひっくり返りそうになったわい!
 10年あまりも前、ジョンのシャウトに世界中が熱狂した「ツイスト&シャウト」や「ミスター・ムーン・ライト」や「ロックン・ロール・ミュージック」のスピリットが更にパワーアップされて蘇ったんじゃ! 誰が作曲したとか、誰が最初に歌ったとか、そんな事はカンケーナイ! 俺たちのジョンが帰ってきたんじゃ!!って涙が出たもんじゃ。
 発表後しばらくは『明日なき暴走/ブルース・スプリングスティーン』よりもコイツが停滞したロックシーンを絶対に活性化させることが出来る!と勝手に期待したな〜。 まさかまさか、これが「サヨナラ宣言」だったとはなあ〜。 ジョンよ、それはカッコツケ過ぎじゃよ〜(涙)

 ジョン・レノンってシンガーは、ノリノリになってくると声調がガラリと変わるのじゃ。 別人の様に“ブチギレ”てオクターブが上がり、裏声も裏返り過ぎで凄みが増してくる。 ハイトーンだろうがロウトーンだろうが、こっちの胸に一直線に突き刺さってくる。 本作はオープニングの「ビー・バップ・ルーラ」からジョンはキレッキレじゃ。
 こう言っちゃ悪いが、今でも「イマジン」とかを「ジョンってステキだわ」なんてほざいておるネーチャンがいると、どんなにイイ女でも張り倒したくなるのは本作のせいじゃ。(笑)
 また当時はポール・マッカートニー&ウイングスが日の出の勢いじゃったけど、“胸の奥底を濡らす”ポールよりも、“一撃で胸を射抜く”ジョンに俄然肩入れしてしまうのも本作のせいじゃ! わしをモテない男にした元凶の作品じゃな(笑)  ●You Tube full-album

   多作家であるニール・ヤングの歴史において、わしにとっては今でもコイツがフェイバリット! ドラッグで絶命したバンドメンバーを偲び、酒でヘロヘロになってプレイした“暗くて不謹慎な作品”って言われておるけど、ふざけるな!
 生意気なようじゃが、亡くなった者が生ける者に残すべき言葉は、「俺の死を嘆き悲しんでくれ」の次に「俺の死を乗り越えてくれ」であるべきじゃ。 多少なりとも、わしのこの持論を理解して下さる者ならば、このアルバムは輝きをもって聞くことが出来るじゃろう。
 ほとんど一発録り。 ミスプレイも雑音もそのまんま。 ましてや聞く者の立場なんて念頭にすらない。 あるのは、ただただ、亡くなったかけがえのないメンバーへの惜別の念のみ。
 ブルースじゃ。 実にブルースじゃ。 「なんでそこに酒が要るのか?」って、あのな〜酒の要らない人生なんてあり得るか!ってわしが言ったら身も蓋もないけど、「ロッカーは常に最高の精神状態と体調によってレコーディングすべし。 ライブをやるべし。 それがファンへの礼儀である」なんてマジで思っておる輩には死んでも理解出来ない作品じゃ。

 でも全然暗くならない。 苦痛を感じない。 朋友の死を乗り越えていこうとする作品だからじゃろう。 追悼とか復活祭とかで騒いだ後に、これから先何が出来るか?と真摯に取り組んでおるのじゃ。
 死という損失が大きいならば、次のステップなんかおいそれとは見つからない。 ならば酒でも飲んでフィーリングをチェンジしてから取り組んでみようぜ。
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 静寂の嵐    もうひとつのワイルド・サイド
■ブロウ・バイ・ブロウ/ジェフ・ベック
  ■ルー・リード・ライブ/ルー・リード■
 幾度となく「七鉄コーナー」で本作をご紹介してきたが、ここで最後にキメルとするならば、「彷徨えるギター天才児がたどり着いた究極のフォーマット」ということじゃ。
 ご存知の通り、それはギター・インストゥルメント。 ジェフ・ベックは本作発表から現在に至るまで(ほんの一部の作品を除き)、ギター・インスト・スタイルを貫いておる。
 ヤードバーズ〜ジェフ・ベック・グループ第一期&第二期、ベック・ボガード&アピスと、自分の勘に来たバンド形態やサウンドを追求してきたジェフじゃったが、彼はようやく気がついたのじゃろう。 己にロック・バンドをコントロールする能力が無い事。 エリック・クラプトンやジミー・ペイジへの挑戦が意味のない事を。

 本作は1975年当時まではまったく聞いたことのない新しいロック・サウンドじゃった。 だからと言って、評論家諸氏の様にフュージョン的とかジャズ的って強調したくはない。
 収録曲の原型はとてもメロディアスでリズミカルでエモーショナルなんじゃが、熱情的なアクセントはなくて、まるで静かな嵐がゆっくりと通り過ぎていくように進行していくのじゃ。
 自らのリーダース・バンドを大成させる事の出来なかったジェフは、「ヴォーカルなんてものが俺のギターを邪魔することに耐えられなくなった」負け惜しみを吐いておったが、彼が実に聡明だったのは、ギターサウンドを最大限にフューチャーするのではなくて、楽曲に対するスタンスを大幅に変更したことじゃ。
 もちろんそれはスピリチュアルな姿勢においてじゃが、社会、世相、恋愛対象等の表現対象への過剰な反応をプレイの核にするのではなく、傍観者としてなぞっていく語り部的なスタンスをとったのじゃ。 ある意味でとてもブルース的じゃ。(何で誰もそれを指摘しないんじゃ!) 語り部に大音量や過剰な脚色は不要。 最低限の音数と音色で朴訥と奏でるスタイルが、元々独特の手癖をもったジェフに見事にフィットしたのじゃ。
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 前年発表された『ロックン・ロール・アニマル』(当コラムVol.190で紹介)の続編ライブ盤であり、同じく演奏上手い! ツインリード・ギター最高!! 録音状態極上!!!の当時のライブ水準を遥かに越えたロック・ライブの名盤。
 って、そこがベルベット・アンダーグラウンドを神と崇める頑固なルー・リード・ファンが毛嫌いする理由でもある困った作品!?
 上手いといかんのか? 饒舌だとウザイのか? ノイズがないと落ち着かんのか? だったら、工事現場に行って「破壊は尊い」とか妄想しながら砂埃を吸って肺がんにでもなっちまえ!ってなもんじゃ。

 ルー・リードのロックンロールはベルベッド時代から、実は美しい。 掛け値が無い。 裏が無い。 気負いが無い。 そして未来が無い。美しい音楽の典型じゃ。 そいつを数学的に綺麗に演るか、原始的に汚く演るか、そんな事は単なる方法論じゃ。 曲の本質が聞こえておれば、演奏のやり方はさしたる問題ではないはずじゃ。
 原始性に自由はない。 ひたすらガサツ。 数学性には自由と可能性がある。 このライブが行われた当時のルー・リードは自由を欲していたのだ。 それでいいじゃないか!
 ルーが歌っている時間が短い? 演奏が長すぎる? 確かにそうじゃけど、長い演奏を駆り立てているのはルーが書いた曲のパワーが成せる仕業なんじゃよ。 まるでマエストロではないか!! ルー・リード&ヒズ・バンドではなくて、ルー・リード・リトル・オーケストラとして聴いてみよう! 
 ソロ時代の名曲「ワイルド・サイドを歩け」が収録されとるが、ホモとかヘロインとかSMばっかりが“ワイルド・サイド”ではないぞ。 自己抑制、未知への試行もまた“ワイルド・サイド”なのじゃ。
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 あなたに聞いてもらいたい     羽ばたけ、エアロスミス!
■炎(あなたがここにいてほしい)/ピンク・フロイド■
■闇夜のヘヴィ・ロック/エアロスミス■
 日本ではキング・クリムゾンとともに“プログレの総本山”として認知されておるピンク・フロイド。 それは間違いではないものの、彼らをプログレの範疇だけで意識しておると本質を見逃してしまうことじゃろう。
 ピンク・フロイドとは、プログレである前に、ブルースでありロックであり、そしてポップでもあるのじゃ。 本作はそんな彼らの正体が明らかになった、前作「狂気」に続く大ヒット・アルバムじゃ。
 大ヒット・シングル「あなたがここにいてほしい」は逆立ちして聞いてもブルース。 プログレ大作の名曲との誉れ高き「狂ったダイヤモンド」も、その基本ラインはブルース・ロック。 この2曲に挟まれて配置された「マシーンへようこそ「葉巻はいかが?」はサイケデリックの時代を通り抜けてきたバンドでしか表現出来ない捻れたポップ・ソングなのじゃ。
 得体の知れない音楽の森の中で聴く者の視界を奪い、行先が歓喜か恐怖か見当がつかないスリルは薄れ、置き去りにしてきた日常の中に小さなダイヤモンドを発見していく(多少語弊はあるが)ウエットで演歌的な情緒までも本作の中には漂っておる。

 大概のプログレ・バンドはテクニック博覧会をやっとるみたいに、演奏が上手い。 クラシック的な重奏性、ジャズ的な即興性のどちらにおいても優れており、楽曲よりも演奏力で自分たちの存在を高みに導く“ミュージック・スポーツ”のような特性が強かったもんじゃ。
 ところが、プログレの中で評価も人気も一番手じゃったピンク・フロイドは、もっともミュージック・スポーツからは遠い位置におった。 あくまでも、まずは楽曲ありきであり、テーマを極限まで掘り下げて表現する音楽家本来の姿勢を彼らは貫いておった。 だからこそプログレ・ブームが終わってからも彼らはシーンに生き残ることが出来たのじゃと思う。
 「怖い」「長い」「説教臭い」という先入観を捨てて聞いてみてほしいピンク・フロイドの一枚じゃ。
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   「コイツラ、地道なライブ・サーキットの積み重ねでのし上がって来たな」って直感したサウンドじゃった!
 シングルヒットの影響やビジュアルの話題性(それも必要じゃが)よりも、ライブ、ライブ、とにかくライブ!で聴衆を熱狂させ続けた果てにたどりついた、ホンモノのトーンが確かに聞こえたのじゃ。  「酒と女とドラッグ」の匂いが充満した、危険な官能性を撒き散らすロックンロールじゃ。 ローリング・ストーンズやツェッペリンのように既に“出来上がったカッコヨサ”ではなくて、自らのロックへの信念とギミック無しのストレートなライブで時代を押し倒そうとする、命を削った覚悟を感じた久しぶりのバンドじゃった。
 本作はエアロスミスのサードに当たり、わしが聞いた初めての彼らの作品。 確か、まだ日本ではファーストとセカンドは発売されていなかったような記憶もあり(あっさり廃盤だったのか?)、当初わしはファーストのつもりで聞いただけに、余計にこのアルバムのショックは大きかった。

 エアロスミスというと、80年代のMTVブーム以降のポップ・ロック・バンドの様なイメージが強いが、それは第二期黄金時代の姿じゃ。 “ロック・バンドとして”真摯な姿勢を貫いてきた彼らの第一期黄金時代は本作からスタートし、僅か1〜2年でとてつもないビッグなバンドに成長していったものじゃ。
 以降『ロックス』『ドロー・ザ・ライン』『ライブ・ブートレッグ』と名盤が続くことになるが、それらはビッグ・バンドとしての完成品。 強引に時代を振り向かせてみせたエアロスミス決死の作品はこっちじゃ!
 プロデュースは70年代に名プロデューサーとして活躍したジャック・ダグラス。 60年代ロックを意識した様なちょいと時代遅れなリバーブが、はち切れんばかりのパワーを撒き散らすエアロのプレイに抑制を与え、より多くのロックファンの耳に届く効果を発揮しているといえよう。

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 80年代に向けて・・・
■フィジカル・グラフィティ/レッド・ツェッペリン■
 ツェッペリン自身のレーベル「スワン・ソング」からのアナログ盤2枚組による第一弾。 「自分たちのレーベルで、いきなり好き勝手な事やっとるな〜」という羨望と嫉妬の念はいまだに消えない!? 
 2枚組の名盤といえば、名曲揃いでバラエティに富んだ『ホワイト・アルバム/ビートルズ』に、全編これ熱きロックンロール!の『メインストリートのならず者/ローリング・ストーンズ』。 それらに比べると、どうにもビッグ・バンドの放漫ぶりが目立つ作品であり、70年代前半の「栄光のレッド・ツェッペリン・アウトテイク集」みたいじゃった。
 基本的にツェッペリン・フリークにのみ絶大な価値がある作品。 各メンバーの卓越した個性的演奏力、多彩な音楽的バックボーン、原典をオリジナルに昇華させるセンス。 フリークたちが「ははぁ〜そうでごぜーますだ!」と改めてひれ伏すツェッペリン・クラシックなんじゃ。 と、ここまでは、あくまでの発表当時のわしの印象なんで、ファンの方はどうかいきりたたないように。(笑)

 ジミー・ペイジという方は恐ろしく頭がキレる。 70年代後半から80年代にむけてのロックシーンの動きを予測して、誰よりも早く動いたに違いない。 ジミーが見据えていたのはロックのワールドミュージック化じゃ。 パンクが出てきて、ほんの一時期だけロック界はひっちゃかめっちゃかになったが、80年代のロックシーン周辺を見ると、ジミーの予想はある意味で当たっておった。
 ジミーのたったひとつの誤算は、ジョン・ボーナムの死によってツェッペリンが解散せざるをえなかったことじゃ。 ツェッペリンが全面的に先頭に立つことが出来なければ、もはや真のニューロックは成立しない時代だったんじゃよ。
 ロックのワールドミュージック化−その為にバンド・サウンドを解体して、全てのパーツを再点検するべく、ジミー・ペイジは本作をあえて“やりたい放題”にしたんじゃろう。 本作の中にはファンが聞くことが出来なかった80年代以降のツェッペリン・サウンドの原型がゴロゴロしておるのじゃ。 70年代のツェッペリン・サウンドが「旧約聖書」ならば、本作は『新約聖書』の草案じゃろう。
You Tube full-album●(←2015年発売デラックス・エディション)

全曲、是れ夜明け前!    10 去りゆく街への残り香
■モダン・タイムス(追憶の館)/アル・スチュワート■
   ■エリート・ホテル/エミリュー・ハリス■
 このお方は、“ブリティッシュ・フォーク・シンガー”とでも言うか。 アメリカのフォークシンガーよりも、私小説的ではなくてより音楽的。 “突然飛び込みエレクトリック・リードギター”が似合う独特の陰陽が同居するフォークソングを歌っておった。
 フォーク異例の8分を越える「モスクワへの道」という大曲があったが、そんな大胆な試みでも聞かせてしまう、滔々たるメロディーの起伏によって楽曲に確かな存在感を与えるシンガーじゃった。
 「飴玉でも舐めながら歌ってんじゃねえか?」と思える舌っ足らずで甘ったるいボーカルじゃが、マイナー調のオリエンタルなメロディと相まって、疲れた旅人の背中をそっと押してくれるような温かみがあった。 確かスチュワート家という没落貴族の末裔に当たる方で、作曲能力も歌唱法もキャラもいわゆる“毛並みの良さ”が感じられたもんじゃ。 ロックファンにも意外と好意的に受け止められておったと記憶しとる。

 1967年のデビュー以来、既に5枚の作品を発表しておったが、本作はワールド・ブレイクのきっかけとなり、アメリカンナイズ、ロック色が強まる直前の作品じゃ。
 先述のアル・スチュワート本来の魅力と、以降のヒットシンガーとしての魅力との交錯具合が絶妙じゃ。 70年代からプロデューサーとして名を馳せるアラン・パーソンズの味付けは賛否両論じゃったが、アルの楽曲から余計なフォーク臭さを軽く削ぎ落とされて磨き上げられておる事は確か。 この路線でもう1枚ぐらい作ってほしかったが、「アメリカントップ40」の時代がそれを許さなかったのが残念じゃった。
You Tube full-album● 
   70年代中期から始まったカントリー&フォーク系の「アメリカン女性シンガー・ブーム」を代表するお一人。 リンダ・ロンシュタッドの濡れた情緒性、ジョーン・バエズの天使的清楚性の中間に位置する、男心をサラリと刺激する清潔感溢れる色気がエミルー嬢の持ち味。
 カントリー・クイーン風でもあり、聖歌隊のマドンナ風でもあり、ロックも歌う姉御風でもあったな〜。 カウボーイハット&ジーンズからシルキーなロングドレスまで様々なファッションを着こなしながら多彩なイメージを振りまいておった。
 
 カントリーシンガーとしてのイメージが強いが、サードに当たる本作ではビートルズのカバー、ブルース系やスタンダード系のポップスまで歌いこなすマルチな才能を発揮。 決して歌い上げるのではなくて、聴衆との間にいつまでも消えない爽やかなインプレッションを残すリラックスしたスタイルが美しい。 前年に恋人だったグラム・パーソンズ(カントリー・ロック・シンガー)が亡くなっており、彼への追悼の意も込められておるんじゃろうが、実質的な二人の共演作の中からあえて軽快なカントリーナンバー「ビバ!ラスベガス」をセレクトするなど、聞き手に必要以上の思い入れを抱かせないスタンスが、本作最大の魅力じゃな。 
 「エリート・ホテル」とは意味深長なタイトルじゃが、裏ジャケで納得。早朝の小さなホテルの裏口でグレイハウンド(長距離移動バス)を待つエミリュー嬢の姿がある。 それはシーンのエリートでさえ、演奏で訪れた街が気に入っても、翌朝は旅立たねばならないハードな人生がシンボライズされておるのじゃ。
 なおギターでジェームス・バートンが参加しとる。一聴すればすぐにバートンのプレイと分かる! ●You Tube full-album● 


 前年の“不調”が嘘のようにロック・アルバムの傑作が続出した1975年。 それでも別の不吉な予感もあった。 エルヴィスの風貌がそろそろ心配になってきたことじゃ。 完全にロッカーとしてのオーラは消え去り、国民的英雄としての威厳もビミョーに崩れかかっておるようにわしには見えてきたのじゃ。 悪い予感ってのは当たるもんじゃよな・・・。 それでもエルヴィスの後輩の、そのまた後輩たちによる数々の傑作アルバムのお陰で、ロックシーンの現状には食らいつく意欲は萎えなかったもんじゃ。
 じゃが、人間ってのは不思議なもんで、ロックが衰退しておるのを感じておった反面、1975年あたりから自分の周囲が(彩度的に)とても明るく見えてきた様に思い出されることじゃ。 日本という国が豊かになってきたせいか、欧米の一般情報が入ってくる速度が上がったせいか、原因は何だかよく分からん。 ロックの衰退とともに、自分自身が人間としてひと皮むけたってことなのか? ロッカーとして情けない!かもしれないから、あんまり深く追求するのは止めておこう!(笑) とにかく1975年は、王道的ロックンロール最後の爆発の一年として覚えておいてくれ!



七鉄の酔眼雑記 〜なにが“やっぱり”じゃ、バカモノ!

 1970年代の中盤あたりまでの日本人のロック嗜好は、本場の英米より2〜3年遅れじゃった。 だから、ロックの「軟弱化」が進んでアダルト・オリエンティッド・ロック(AOR)的が主流となった1975年でも、日本国内に限ってはまだまだ「ハードロック」「プログレッシブ・ロック」がロックの二大勢力だったのじゃ。
 ただし、今になってあらためて振り返ると、それは男性のロックファンであり、女性のロックファンが本場で流行になっておった音に敏感になり始めていた頃が1975年頃だったと思うな。 やっぱり女性というのは、男性よりも“ススンデイル”ものなんじゃな〜。 わしの周囲でもおったよ。 スティーリー・ダンとかドゥービー・ブラザーズとかが好きな女性が。 男性ファンも女性ファンも、最新情報をゲットするソースは同じ、ラジオと音楽雑誌のみ。 だから最新、先進の情報に反応する彼女たちの感性がスルドカッタ!ってことなんじゃろう。 男性ってのは一度ハマルと徹底追求してしまうから、この点では女性に遅れをとってしまってもショーガナイわな。
 それと同時に女性ファンはアイドル的バンドにも夢中になるもんじゃ。 クイーン、キッス、ベイ・シティ・ローラーズ、エンジェル(知っとるか?)とか。 そこら辺が同じロックファンとして、男性側に上から目線をかまされることにもなるんじゃが、女性ファンに言わせれば、いつまでもツェッペリンやピンク・フロイドなんかに拘っておる男性ファンを「ムサイ!ダサイ!!」とか蔑んでおったんじゃろうな〜(笑) そう、あの頃は男性ロック・ファンと女性ロック・ファンの仲はあんまりよろしくなかったような記憶があるな! 更に1976〜1977年になるとディスコ・ミュージックとウエスト・コースト・サウンドの大ブームになり、やっぱり日本で飛びついたのは女性ファンの方が先じゃった!

 誤解を招かんように記しておくが、わしは別に「AOR」「ディスコ」「ウエストコースト」自体は嫌いなわけじゃない。 ロックとは別のジャンルの音楽として認識しておるつもりじゃ。 煌くミラーボールの下で「サタディ・ナイト・フィーバー」を踊ったこともあるし(“ですこ”で“ふぇーばー”!)、「これがロスからの蒼い風サウンドなんじゃのお〜」ってさわやか〜なフォークを一晩中聞いていたこともある。 あれはあれでヨロシイ。
 問題なのは当時の大多数のメディアの姿勢。 「ディスコ」「ウエストコースト」に対して、突然「ロック」を“オールドウェイブ”とか呼び出し、僅か1〜2年の間でロックを前盛時の遺物扱いするようになったことじゃ。 この頃に青春時代を過ごしていたロックファンの中には、メディアに影響されてロック熱が急速に冷めていった連中が多かったのは寂しかったわい。 ロックを聴かなくなることが、大人になるような、そんなフザケタ風潮まで生まれたもんじゃ。 でもそんな状況においても、しっかりとホンモノのロックを紹介していた数少ないメディア、個人って、実は今でも活躍している場合が多いのは嬉しい。 彼らのロック・スピリットは尊敬に値するな!

 まあどんなに凄いブームだろうといずれは下火になる。 「ロック」の息の根を止めてしまったような「ディスコ」「ウエストコースト」のブームも80年代になるとすっかり落ち着いたもんじゃが、ロックは意外なかたちで復権を果たすことになる。 それは「パンク(一部ネオ・ロカ)」と「ヘヴィ・メタル」じゃ。 わしはどちらもすぐには馴染めなかったが、メディアってのは実にいい加減なもんであり、今度は「やっぱり僕らはロックが好きだ!」とかヌカし始めた。 「何が“やっぱり”じゃ。 絶対に日本のロック系雑誌(一部を除く)は信じねーぞ!」って殺意に近い感情を覚えたもんじゃ。 まあこの辺の怨念の詳細は、また機会を改めて(笑)



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