NANATETSU ROCK FIREBALL COLUMN VOL.192


の 「ダンディと呼ばれし男たち」を続ける中で、絶対に外せない人物、我ら50sフリークにとって大変に縁の深い「テディ」ことエドワード7世に連載10回記念!?としてご登場頂くことにするぞ!
 実際のところ、「テディ」の愛称を持つ人物としては知っておっても、元イギリス国王としてのエドワード7世を詳しく知る日本のロックファンは多くはないと存ずる。 ロック及びロック・ファッションとイギリス国王の存在とは、あまりにもかけ離れたイメージが強いからじゃ。
 しかしこのエドワード7世の残したファッション・リーダーとしての功績があってこそ、ナッソー・ジャケット、エドワード・ジャケットら50sファッション、その後のテッズ・ファッションが完成されたといっても過言ではないだけに、これを機会に是非とも「ロック・ファッションの大元の生みの親」として少々お勉強をしてみてはいかがのう!
 実は、3月の初めにThe-Kingが「エドワード・ジャケット」の驚愕の大連発をかました時に合わせてエドワード7世をご紹介する予定じゃったし、それが相応しいタイミングってもんじゃったが、諸般の事情により(笑)ズレてしまった事をお断りしておくぞ。(あの頃は飲み過ぎで書き終えることが出来なかったという噂もあるが) 

 詳しくは後述するがエドワード7世の国王在位期間は最晩年の1910〜20年間。 政治的な輝かしい業績は残しておらんが、この10年間はイギリスでは今も「古き良き自由の時代」と言われておる。 その要因は、何よりもエドワード7世が国民に絶大に愛されていたからに他ならないのじゃ。
 でもエドワード7世は清廉潔白で厳粛な人格者でも、低賃金労働者たちに絶えず救いの手を差し伸べた聖人でもなかった。 ハッキリ言うと、現代のウイリアム王子の更に上を行く!スキャンダラスな皇太子、そして国王であり続けたのじゃ! それでいて「世界でもっともたくさんの洋服を所有する男」と称されたほどのオシャレさんだったのじゃ。 いわば庶民がやりたい事、夢見る事を、次々とあっけらかんとやってのける事で支持を勝ち得た人類史上でも超!稀なハチャメチャなキング、プリンスだったのじゃ。 だからこそ、今でも「テディ」の愛称で人々にその存在を語り継がれておるのじゃ! 
 そんなエドワード7世を、わしも敬愛と親愛の念をもってあえて「テディ」と呼ばせて頂きながら、前編、後編の2回に分けて紹介させて頂くとしよう。 前編では、テディの特殊な生い立ちと、破天荒なプリンスぶりに焦点を当てるぞ。


ダンディと呼ばれし男:第10回〜元イギリス国王・エドワード7世

永遠のファッション・リーダーにして、異端のプリンス/キング「テディ」!
女帝との“丁々発止”に明け暮れた?若き日々の素顔に迫る!
 

序章:「テディ」か? 「バーティ」か? 

 まず「テディ」という愛称じゃが、お堅い文献では「テディ」ではなくて、「バーティ」と記されておる。 どっちが正しいんじゃろうか? 真実を懸命に調べてみたらズッコケそうになったわい! なあ〜んの事はない。 エドワード7世の本名(全名)はAlbert Edward(アルバート・エドワード)。 イギリスにおいてはアルバート君ってのは一般的に「バーティ」、エドワード君は「テディ」と呼ばれるのじゃ! まあ姓と名との両方から愛称で呼ばれたほど庶民から愛された方だったってことじゃよ。 例えば、わし頑固七鉄が「ガンティー」「テッティー」の両方で呼ばれるようなもんじゃ!(アホか、わしは!)


素顔のテディ@ 〜歴史的女帝の愚かな息子!?

 エドワード7世ことテディは紛れもなく英国のキング(国王)だったが、実は国王としての在位期間は1901〜1910年のたったの10年間。 国王に即位した時は既に60歳じゃった。 つまりそれまではずぅ〜と「皇太子様」だったのじゃ。
 テディの母親ビクトリア女王は、世界各地を植民地化・半植民地化して繁栄を極めた大英帝国を象徴する女王じゃ。 81歳の生涯の内、女王在位期間は実に64年にも及び、まさに歴史的な女帝。この母親の絶対的な存在があったため、長男のテディは延々と皇太子のまんまだったってわけじゃ。
 
 お母様のビクトリア女王、及びお父様のアルバート公のテディへの教育はすさまじかったらしく、それは半ば虐待に近かったそうな。 両親の度を越えた教育熱心ぶりにテディはすっかり嫌気がさしてグレテしまった! そんでもって、「オッカサンは不死身だしさ、どーせオイラは一生皇太子のままだバカヤロウ!」って、政治なんかよりも異性とかファッションとか、道楽の方に情熱を傾けるようになったってのが定説じゃ。 だからこそエドワード・ファッションってブームが生れた!ってことになっておる。
 ビクトリア女王はそんな息子を「どうしようもない愚かな息子」と公言して嘆いておったそうな。 ロック・ファッションの原型ともいうべきエドワード・スタイルを生み出した者が「愚かな息子」「不良皇太子」か。 ロックファンなら「さすがは我らがテディ!」って納得するじゃろうが、どうも事実は少し違うようじゃぞ!? これは今でいう「都市伝説」だったらしい!
 

素顔のテディA 〜痛快! テディ流陰陽の反抗

 実はテディの学業の成績は概ね優秀じゃったらしい。 両親から強要される勉強の態度も表面的には問題なく、学校の先生や家庭教師に歯向かう事もなかったという。 まあ元々血統がいいんだから、テキトーにやったって勉強なんざは軽いもん!だったのかもしれん。
 一方、皇太子様の教育というのは、余暇やお勉強の休憩時間までガッチリとカリキュラムが組まれており、興じる事の出来る遊びやスポーツまで指定されるもんらしいが、テディはこちらの方にことさら熱心に取り組み、スポーツ好き、遊び好きな少年、青年へと成長しておったそうな。 乗馬、ゴルフ、テニス、狩猟、サイクリング、ポロ、ヨット、パンティング(ボート漕ぎ)、各種カードゲーム等テディはお勉強の合間の気晴らしの術を次々と身に付けていったのじゃ。

 教育陣のスキを見つけてチャッカリお勉強部屋を抜け出すのも上手かったらしく、お堅い勉強を押しつけられながらも“気晴らしタイム”の作り方は上手かったらしい! 決して成績は“悪くはない”から教育陣もテディのこの態度を殊更問題視することも出来ず、それに乗じてテディの遊び上手のセンスは益々磨かれていったそうな。
 ここがテディ少年のスゴイとこじゃ! 世のガリ勉少年とは違って、お勉強で精根尽き果てることなく、余力を充分に残して気晴らしに全力を傾けることのできる体力と精神力があったってことは、テディ少年がケタハズレの器の持ち主だったってことじゃな。 
 つまり、これが「テディ流反抗」だったわけじゃ。 どんなに英才教育を押し付けられても、それに平行して冴えわたる“学業抜け出し”の勘と遊びのセンス! 表面的には親の教育に従いながらも、その実、周囲の期待を欺くことこそテディ本人にとってこの上ない快感、サイコーの反抗だったというわけじゃ。


素顔のテディB 度を越えた外遊と愛欲


 
スポーツ大好きで遊び上手に成長した皇太子テディを常々苦々しく思っておったビクトリア女王は、ひとつの“お仕置き”をテディに与えたのじゃ。 それは一切の公務、政務に就かせないことじゃった。 「あなたは、大英帝国のプリンスとしての修業が全然足りません!」っつったキビシ〜方針じゃ。
 そうはいっても、当時の大英帝国はヨーロッパの最強国。 周囲の国々との様々な勢力の“調整”“折衝”が必要とされる状況じゃ。 そこでビクトリア女王は、テディを非公式の大使として周辺諸国に派遣することにした。 これは「まさか外遊先でまで遊び呆ける事はないでしょう。 それに不測の息子とはいえ、我が帝国の皇太子たる者を送っておけば、とりあえずは不穏な動きを回避できるはずですわ」というビクトリア女王の読みもあったのじゃろう。

 ところが、前者においてビクトリア女王の目論見は完全に外れた! テディは外遊先でも様々な遊びの才能を発揮して、訪問先の要人たちと一緒に公然とお遊びの限りを尽くした! それに既にオシャレ王子との評判の高かったテディは、行く先々で大衆の人気を勝ち取っていったのじゃ。 特に頻繁に訪れたフランスにおいては、宝石を買いあさって「宝石王子」と呼ばれて話題を独占したり、人気女優サラ・ベルナール(右写真)と浮名を流したり、はたまた高級娼館にどっぷりと入り浸ってしまったりと、もうやりたい放題!

 テディの放蕩ぶりに呆れ果てたビクトリア女王は、テディ23歳の時にデンマークの王妃アレクサンドラとテディを半ば強制的に結婚させてしまった。 これでテディも少しはおとなしくなるだろうとフンダんじゃろう! ところがテディの暴走は結婚なんぞでは止まらなかったのである! 次々と愛人を作って宮廷に出入りさせ、後年56歳の時には妻アレクサンドリアに勝るとも劣らない美貌と品性を湛えたオメカケサンのアリス・ケッぺル(左写真)を公然と溺愛するようになった。
 ちなみにアリス・ケッぺルは、2005年にチャールズ皇太子と結婚したカミラ夫人の曾祖母(ひいおばあさん)なのじゃ! カミラ夫人は今でも「ダイアナ妃を死に至らしめた人物」的な目で見られておるようなフシもあるが、まさかそのひいおばあさんに当たる人物がテディ最愛のオメカケサンだったとは少々驚きじゃ。

 まあテディの“女グセ”は生まれながらの性格なのかもしれないが、サラ・ベルナールにしろ、アリス・ケッぺルにしろ、「この女性ならしょうがないか・・・」と周囲の雑音をシャットアウトしてしまうほどのサイコーの女性をモノにすることもまた、偉大なる母への反抗だったのかもしれんな。

 
テディの国とは戦争はしたくないよね

 書いて行く内に、段々とテディのスキャンダラスな側面ばかりを強調してしまったようじゃ。 でもわしはパパラッチじゃねーぞ! 前編の〆として、テディの栄誉をお守りする為に、テディのひとつの政治的貢献について語っておこう。
 前述した通り、テディは様々な諸外国に外遊しておった。 ヨーロッパ諸外国はもとより、遠くアメリカ、カナダ、インド、エジプト、トルコ、パレスチナまで訪問しておった。 行く先々で、要人たちと杯を交わして遊びまわり、なおかつ庶民の人気者になっていたテディ。 その行為は、意外な?かたちで実を結ぶことになるのじゃ。
 
 時代が「反大英帝国」の兆しが見えてきても、どの国も正面切ってイギリスに刃を向けてこなかった。 それは「あの愛すべきテディの国とは、出来るならば戦争はしたくない」という風潮を結果としてテディが植え付けたからなのじゃ! それはテディが国王に即位した後、1904年の英仏、1906年の英露協商という和親条約締結に結び付いたのじゃ。 だからテディ(もしくはバーティ)にはその愛称の他に公認の「ピースメーカー」というニックネームもあるのじゃ! 平和創造者って意味じゃ。 あっちこっちで遊びまわって注目を集めるだけでなく、各国との友好をしっかりと深めていた素晴らしき功績、称号じゃ。
 
 「ロックファッションの生みの親」として、若き日の反抗ぶり、破天荒ぶりも大いに結構じゃが、「平和創造者」、いやもっとヒーロー的に言えば「平和の使者」としての役割をテディがしっかりと果たしていたなんて、なんともクールじゃのお! そのテディのピース・メイカーのスピリットは、The-Kingにも受け継がれておるから、テディよ、今後もThe-Kingブランドを天国から見守っていてくれ〜。

 では、後編の次回では、世界中から注目を集めたテディのファッションについて紹介するとしよう!



  

七鉄の酔眼雑記 〜大いに吸おうではないか!
  
 4月1日の消費税アップに伴い、またまたタバコが値上がりしたな。 「え? アンタまだ吸ってるの?」って呆れられちゃうかもしれないが、ほっといてくれ! タバコとお酒はまだまだ止められそうもないわい。 
 しかしタバコに対する色々な締め付けが厳しくなるごとに、次の言葉を思い出すのお〜。

「諸君、これからは大いに吸おうではないか!」

 これはな、「テディ」ことエドワード7世が60歳にして国王に就任した時、要人を集めて開催されたパーティの第一声とも第二声とも言われておる言葉じゃ。 元々テディは愛煙家じゃったが、母・ビクトリア女王は大の嫌煙家。 ビクトリア女王の時代の宮廷は完全禁煙状態じゃったらしい。 そして女王が亡くなってテディ国王の時代になった途端、当然のごとく喫煙が許可、推進されたってワケじゃ。
 イギリスで一般的に「古き良き時代」と称されておる時代は、テディが国王だった20世紀最初の10年間。 その時代はこの言葉によってスタートしたと言っていいじゃろう! なんて書いたら、世の禁煙推進家さんたちから集中砲火を浴びそうじゃが、わしの言葉じゃない、テディ、エドワード7世様の115年前のお言葉じゃ!(笑)
 これが「大いに飲もうではないか!」なら、禁酒国以外ならどこでも、いつでも発せられとるし、わしなんか毎晩言っておる! しかし「大いに吸おう」ってのはなかなか聞かない言葉じゃなよ〜。 さすがはテディ! 色んな場面で伝説や語り草を作ることの出来る人物じゃい。 

 「昔のダンディはタバコの煙の立て方もダンディだ」って以前書いた覚えがあるが、残念ながらテディがタバコをくゆらせておる写真はお目にかかったことはない。 国王、皇太子たるもの、そこまでリラックスした写真の撮影はさすがにご法度だったのかもしれん。 でもだからこそ、テディの喫煙スタイルに対して想像が膨らむのお〜♪ ひょっとしたら、未成年の頃から、それもビクトリア女王の厳しい管理環境をコッソリと抜け出してトイレかなんかで隠れて吸っていたんじゃないか?なんて考えてみるのも楽しいわな! そう、テディとはそんな悪戯(いたずら)でさえ絵になるようなチャーミングな男性だったに違いない!



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