NANATETSU ROCK FIREBALL COLUMN Vol.179

 今年は日米ともに野球の大記録ラッシュじゃな~。 「イチロー日米通算4000本安打」とか「上原連続31人斬り」とか「マー君世界記録26連勝」とか。 日本とアメリカとの両方で、同じ話題で盛り上がるってのがエエ! 早いトコThe-Kingも新作発表毎に両国のマスコミで大ニュースにならんかな~。 日米のロック・ファンの間では充分に話題になっとるから、そろそろかな(笑) わしも英語で原稿が書けるように猛勉強中じゃい! と大ミエ切っておこう!
 
 大記録中の中でも、やはりバレンティン選手のシーズン本塁打日本記録56本の反響はすごかったもんじゃ。 「56号」ってのは、実に49年ぶりに更新された大記録であり、一生のうちに何度も立ち会うことが出来ない希少なニュース体験じゃった。
 しかし何よりも、バレンティン選手が“余裕のゆ~ちゃん”でかる~く日本記録を抜き去ってくれたのが良かった! これが残り試合僅かって段階だったら、以前の様に「勝負するか、しないか」、「外国人選手に大記録更新はアリか?」なんて、マスコミとファンが大騒ぎするところじゃったからな。
 
  そこで今回は「56号」から視点を広げて、海の向こうアメリカのメジャーリーグ「シーズン本塁打記録」が巻き起こした大騒動をご紹介してみたい。 50sという時代を通して我々はアメリカに憧れてきたもんじゃが、その大騒動、大事件はゴールデン50sが終わった直後、1961年に起こった。 歴史的なヒーローが完全な悪役にされてしまった、スポーツ史上最大の不条理な事件だったんじゃよ。
 古き良きアメリカの愛好者たちの純粋な夢にドロをぶっかけるつもりは毛頭ないが、この事件もまた当時のアメリカの持つもうひとつの顔だったのじゃ。 それは、当時既に神格化されていた過去の大ヒーロー、ベーブルースへのあまりにも強過ぎるファンの信仰心が引き起こしてしまった悲劇じゃった。 


古き良きアメリカで起こった、不条理なヒーロー攻撃事件
偶像の破壊者、神話の冒涜者とまで罵倒された
ロジャー・マリスの悲しすぎる「ホームラン新記録61号騒動」


■ 1961年、アメリカはニューヒーローの出現を待ちわびていた ■

 話を進める前に、アメリカの1961年という年を軽く振り返っておこう。
 1961年といえば、前年に第35代大統領にケネディが選出。 ケネディの提唱した「ニューフロンティア精神」によって、アメリカが国家をあげて全世界に向けて“自由で逞しくて強いアメリカ”の大キャンペーンを始めた頃と言ってもええじゃろう。
 一方文化面においては、華やかだった50s時代、エルヴィスが牽引したロックンロール黄金狂時代が終わって変革期に入った時期じゃ。 兵役を終えた後のエルヴィスが、ロックを封印して映画界に進出して「ブルーハワイ」をかました年じゃな。 50年代が終わって、アメリカでは新しい夢と希望を託すことのできるヒーローを待望する風潮に満ち溢れていたはずじゃった。

 そんな時代のタイミングにおいて、ナショナルパスタイム(国民的娯楽)であるメジャーリーグ・ベースボールで絶好のブームが起きたのじゃ。 国民的ヒーローじゃったベーブ・ルースのシーズンホームラン記録60本を32年ぶりに更新する勢いで打ちまくるバッターが、それも同時に2人も出現したのじゃ。 ベーブ・ルースのニューヨーク・ヤンキースの後輩、ミッキー・マントルとロジャー・マリスじゃ。 二人が競い合いながらベーブ・ルースの「60本」に近づくホームラン競争に全米の野球ファンが熱狂した。

 アメリカ人にとってのベーブルースという存在は、日本で言えば「長嶋茂雄さんプラス王貞治さん」ぐらいの「ゴッド・オブ・ベースボール」じゃ。 シーズンホームラン60本という記録は、男子陸上100メートルの9秒台、水泳男子100メートル自由形の40秒台とともに、当時は誰も到達出来ない夢のまた夢の絶対的な聖域であり、そこに到達したベーブ・ルースへ寄せるアメリカの野球ファンの思いの強さは推して知るべしである。 そしてそれが破られそうになる!という熱狂ぶりも想像して余りあるな。

が、しかし・・・


■ 「61号を打たせるな!」 ■
 
 ミッキー&ロジャーのホームラン競争劇は50本を過ぎても続き、いよいよ「60本」が射程圏内に入った途端に状況が変わり始めた。 既に怪我で満身創痍だったミッキーのペースがガクンと落ち始めたんじゃ。 ロジャーの方は快調に飛ばしており、ファンの注目と喝采はロジャー一人に注がれるはずじゃったが、どっこい、とんでもない事態が始まった。
 ミッキーはヤンキース一筋のベテラン。 オクラホマ訛りが抜けない陽気な田舎者で、ファンの人気も絶大! 一方のロジャーは2年前にヤンキースに移籍してきた外様であり、両親は東欧クロアチアからの移民じゃ。 ロジャーはニューヨークのファンにとってはいわばよそ者(ストレンジャー)ってトコじゃ。 しかも無口で勤勉な銀行員!?みたいな容姿とキャラな“地味男(じみお)”君。 ニューヨークのファンが「どうせなら新記録はミッキーに」と密かに願っていたのも無理はない。 そしてロジャーがミッキーを引き離して一人で「60本」に近づくに連れて、ファンは事もあろうに「ロジャー攻撃」をおっぱじめたのじゃ。

 「あんなヤツにベーブ・ルースの記録を破らせてなるか!」

 それまで2人の共演に熱狂していたニューヨークのマスコミやファンが一斉にロジャーにブーイングを浴びせたんじゃよ。

 ロジャーの元には脅迫電話あり、剃刀の入った手紙ありの、嫌がらせが殺到。 マスコミは連日のベーブルース賛歌に加えて、ミッキーとロジャーの不仲説をでっち上げてロジャーを悪者に仕立ててファンのロジャー攻撃を煽る暴挙に出た。
 さらにコミッショナーまでが、ルースの時代の試合数154と1961年の試合数162の違いを指摘して、「ロジャーが61本打っても、それは参考記録でしかない」とまでのたまわった。 これに対してロジャーが「162試合制の日程は私が作ったのではない。 コミッショナーは私がルースの記録を破りそうになってから見解を出した」と反論したこともあって、ニューヨークのロジャー・バッシングは更に激しくなってしまった。

 ただただひたむきにプレーを続けていたロジャーは、ファンとマスコミのこの仕打ちに激しく傷つき、ノイローゼ気味で円形脱毛症になる始末。 あげくは「もう耐えられない」と監督に試合出場を拒否する事態にまでなった。
 結局ロジャーは気力を振り絞ってシーズン最終戦で61本の新記録になるホームランを放つのじゃが、歴史的な試合にもかかわらずその日の本拠地ヤンキー・スタジアムはわずか3分の1の観衆(約2万人)しか集まらなかった。 空席の目立つスタジアムの侘しい歓声に応えるポーズを一応はとってみせたロジャーだったが、心の中では「こんな理不尽でバカげた仕打ちがあってたまるか!」と叫んでいたに違いない。

 ジュリアーノ現ニューヨーク市長は、若かりし時にこの試合を観戦しており、うつむき加減に61回目のホームラン・ベースランをするロジャーの姿を「私が知る限り、もっと歴史的、そして気の毒なシーンだった」と回想しておる。

 1961年当時のベーブ・ルースを神聖化する風潮が強過ぎたためか。 よそ者(ストレンジャー)の快挙を祝福しない人間の歪んだ気質のためか。 新記録を樹立してニュー・ヒーローとなってもおかしくなかった男は、ヒーローどころか犯罪者のような扱いを受けてしまったのじゃ。 右の写真をよく見て頂きたい。 ロジャーが61号を打ったニュースを告げる新聞のトップ面じゃが、紙面のどこにも「新記録」という表記はなく、祝福する見出しすら見当たらない。 ヒドイ話じゃな。


静かなる反抗と、遅すぎた栄誉■

 61本を記録したロジャーは数年後にカージナルスに放出され、2年連続の優勝を体験してからひっそりと現役を引退した。 最後のニューヨーク遠征には控え選手として参加したが、地元のファンがロジャーの名を何度もコールしても、絶対にグラウンドに出てくることはなかった。 それがかつて心無い仕打ちをしたニューヨークのファンへの、ロジャーのささやかな反抗じゃった。
 またロジャーの記録した61本はベースボール・レコード・ブックには「61*(シックスティワン・アスタリスク)」と記載された。 アスタリスクとは注釈付き、参考記録ってことで、決して新記録扱いはされてはいなかった。 

「やってはいけない事をやったってことだろう」

レコードブックの表記を見たロジャーはそう呟いたという。 
 
 時は流れ、悲劇のロジャー・マリスにようやく光が当たる時がやってきた。 1984年にロジャーがヤンキース時代に背負っていた背番号「9」がヤンキースの永久欠番に認定されたのじゃ。 野球人として偉大な記録を作ったのにもかかわらず、あまりにも不当な扱いを受けていたロジャーに対する、当時のヤンキースのオーナー、ジョージ・スタインブレナーからの敬意と温情だったのじゃ。
 ロジャーは当初この栄誉すら拒否する意向じゃったらしいが、スタインブレナーは更にロジャーの子供の通う高校に全面天然芝張りの豪華なベースボール・グラウンドを寄贈するなどして精一杯の誠意を表した。 これには、ニューヨーク、ヤンキースに対して頑なに心を閉ざしていたロジャーも感激。 「永久欠番認定式典」のために23年ぶりにヤンキースタジアムに登場。 失意の1961年から約四半世紀の後、ロジャーはニューヨークのファンからようやく万雷の拍手を持って讃えられたのじゃ。 それは真実のヒーローのあまりにも遅すぎる帰還じゃった。 その翌年、ロジャーは51歳という若さでこの世を去っておる。 ニューヨークのファンに温かく祝福されたことで、謂われのない「人生の重荷」から解放されたからじゃろうか・・・。

 なお61号の“シックスティワン・アスタリスク”扱いはその後も続き、1991年になってようやく正式な新記録の認定を受けることになった。
 また「61*(シックスティワン・アスタリスク)」という同名の映画が2003年に公開された。 ベーブ・ルースの60本に向かって、お互いに切磋琢磨するロジャーとミッキー・マントルの友情が描かれた映画じゃ。 二人の不仲説(ロジャーが悪玉)というロジャーにとって最後の冤罪も、この映画によってようやく払拭されたのである。


■ 「61号騒動」の教訓とは? ■


 「ロジャー・マリス61号騒動」のみならず、またスポーツ界のみならず、マスコミとファンが結託して勝手なストーリーをでっち上げ、話題の中心の人物を窮地に追い込んでしまう事例は今でもあるな。 それをバカなマスコミは反省もせず、「庶民の描く虚像と実像の間で戦うのが有名人だ」なんて言っておるから呆れてしまう。
 有名アスリートだろうが人気芸能人だろうが、彼らは我々一般人にとっては、自分の代わりに夢を紡いでくれる存在なのだ。 そんな彼らに対して敬意の欠片(かけら)でもあれば、「虚像と実像の間で戦え」などとは言えないはずじゃがな。 

 我々一般人は、目に見えて分かったり、金銭的に計算できる恩恵や厚意に対してはすんなりと「ありがとうございます」と言えるもんじゃ。 じゃが、日常生活をワクワクさせてくれ、非日常的な色彩をもたらす「夢を紡いでくれる人」の活躍に対しては、称賛こそしても「ありがとう」という言葉はあまり聞かれない。 興奮状態に我を忘れてしまって、感謝の念をどこかに置き去りにしているからじゃろう。
 なんつったりすると、ウルセーよ、ジジイ!って言われちゃうが、この部分に関しては、わしは今後何について紹介しても、(僭越ながら)評論をしても、決して忘れんようにしようと思っておる。
 って、別にThe-Kingの新作紹介をする前に、必ず「ありがとうございます」ってアイテムにむけてご挨拶しとるわけではないが、「Thank You ELVIS」「Thank You 50s」「サンキュー・ボス!」って敬意を払いながら書いておるつもりじゃ。 下手な装飾表現でコテコテに書き上げるよりも、その方が諸君にスムーズにわしの思いが伝わる気がするんで、またあらためてサラリと読んで、ガッツリお買い物してくれ~♪
 
 21世紀の初頭にメジャーリーグ・ベースボール機構が作成した「歴史的ホームラン記録映像集」を観たことがある。 60本、61本、1998年のマグワイア選手の70本、2001年のボンズ選手の73本らの名シーンが編集されておるが、その〆のナレーションでは、ロジャー・マリスへ向けて次の様に語られおる。
 
「マグワイアもボンズもスゴイ。 でもロジャー・マリスの偉大さは、ゴッド・オブ・ベースボールのベーブ・ルースの記録を破ったことである」



七鉄の酔眼雑記 ~もう一人の被害者

 子供の頃にアメリカのシーズン本塁打記録がベーブ・ルースの「60本」と知った瞬間、「とんでもない記録だ!」って驚いたのをよく覚えておる。 当時の日本記録は王さんの55本であり、数字上は「王さんプラスたったの5本」なのに、その5本差がどういうわけだか50本差の様に感じてしまい、「やっぱりアメリカ人ってのはスゲーなー」と。 何故じゃろう。 それがベーブ・ルースという「ゴッド・オブ・ベースボール」が放ち続ける威厳ってやつなんじゃろうか。
 「アメリカでは60本」ってのを教えてくれたのは今は亡き親父殿だったが、ガキんちょのわしが感嘆しておると、すぐに親父殿は訂正した。 「いやいや、間違えた。 61本打ったヤツがいたな」と。 でも今度はあんまり驚かなかった。 「60本」の衝撃が強過ぎちゃってて、「61本」にまで反応する余力が残ってなかったってことじゃ。 親父殿の記憶も「61本」よりも「60本」の方が鮮明だったから、最初はミスったんじゃろうな。 やっぱりロジャー・マリスはどこか損な役回りの運命にあったのかもしれんなあ。 同情してしまうわな。

 “同情”といえば、大記録が達成された時に同情されるのは献上者。 ホームラン記録なら、打たれた投手じゃな。 たまたま巡りあわせで大記録達成の場に立ち合わなければならなくなったんじゃからな。 
 そう言えば、王さんに世界新記録の通算756号を打たれたS投手が、同情する周囲に対して「756号を打たれたSですと言えば、しばらくは酒がタダで飲めたよ」なんて話していたというを記事を読んだ時は、何だかこっちが救われた気がした。 そして「わしも是非とも一杯奢りたかった!」って思っちゃったものじゃ。

 ロジャー・マリスに歴史的な61号を打たれた投手は、当時レッドソックスに在籍していたトレーシー・スタラード投手。 記録献上の1961年はトレーシー投手にとっての実質的なルーキー・イヤーでもあったので、「61」という数字は彼にとってダブルの理由で忘れ難きものになったに違いない。
 ところが「61」は更にトレーシーにドラマを用意した!? 背番号が61になったとか、通算勝利数が61だったとかではないぞ。 何とトレーシーが61歳を迎える1998年に、シーズン61号記録が37年ぶりに更新されたのじゃ。 ベースボール・レコードブックのいわば最大の被害者クレジットが、61歳の時に晴れて消えたってわけじゃ!

 上の写真はロジャー・マリスが61回目のホームラン・ベースランをするシーンであり、写真中央に写っておる背番号39の投手がトレーシー。 トレーシー・スタラードという方がどんなキャラだったのかは知らんが、 この写真にはトレーシーのサインが書かれてある。 更に「マリス61」、そして日付まで付記されておる。 これを見て、トレーシーという投手はきっと自虐ギャグもかませることの出来る茶目っ気たっぷりの男だったと思いたいのお。 そして「61本が更新されたから、俺の名前がレコードブックから消えちゃったじゃないか!」と言えるほど度量の大きい人間であってほしい。 何故なら、彼もまたかつては「偶像の破壊者」「神話の冒涜者」と不当な扱いを受けていたに違いないからじゃ。



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