NANATETSU ROCK FIREBALL COLUMN Vol.174

 前2回にわたりご紹介した“ダンディの始祖”ジョージ・ブライアン・ブランメルに続き、「2代目ダンディ」と呼ばれるお方をご紹介しよう。 “猛暑の急襲”で脳ミソゆでだこ状態になってオシャレがオロソカになっとる輩に喝!を入れて差し上げる連載企画じゃよ。 おっと、The-Kingの新作ノーマルパンツとネクタイで、すっかり元のロッカー気分に戻っておるはずじゃな。 要らん心配してしもうた! それでヨロシイ、ヨロシイ。 ではわしの企画にもお付き合いを頼むぞ!
 その「2代目ダンディ」の名はガンコ・アンタダレ・ナナテツ!じゃなくて、 ガブリエル・アルフレッド・ドルセー伯爵じゃ。 この名前を聞いても「アンタダレ?」じゃろうなあ。 ならば、フランスの高級香水メーカー「パルファン・ドルセー・パリ」の創業者といえば知っておる方も少しはおるかな?
 ガブリエル・アルフレッド・ドルセー伯爵(以降、ドルセー伯)は、ブランメルと丁度入れ替わるタイミング(19世紀中期)でイギリスの社交界で脚光を浴びたフランス人のその名も高きお洒落伯爵殿じゃ。

 このお方のスゴイところは、ブランメルの作り出した「絶対的ダンディのフォーマット」を参考にはしても、決して踏襲することはなく、ブランメル去りし社交界に「ニュー・ダンディ」として君臨したことじゃ。 どんな世界でも二代目ってのは先代のスタイルに敬意を表するところからスタートするもんじゃが、このお方は、まるで「ブランメルって誰でっか?」って感じで、その独自なダンディ路線で社交界の美意識を塗り替えてしまったのじゃ。
 そしてそのファッションのいくつかのパートは、香水をはじめとして現代にまで伝承されておるのじゃ。 ブランメルは「空前絶後のダンディ・キング」。 ドルセー伯は「永遠のダンディ・アイドル」。 イメージとしては、ブランメルはダンディ史上のエルヴィス。 ドルセー伯はビートルズってとこかもしれんな!


「ダンディと呼ばれし男たち」第3回~ガブリエル・アルフレッド・ドルセー伯爵
香水に、トップハットに、パンプスに、今もその名の残る、
社交界のダンディなアイドル&プロデューサー


■ 実際に「ダンディ」と呼ばれた最初の男? ■

 言葉の発祥ってのは諸説様々じゃが、「ダンディ」という表現で呼ばれていた最初の社交界人は実はブランメルではなくて、このドルセー伯だったという説も根強い。
 「ダンディ」という言葉が生まれた当時は、「派手に遊ぶ」「女性とのスキャンダルが多い」こともダンディの必須条件だったらしくて、「ブランメルを“ダンディ”と呼ぶには、彼はあまりにも禁欲的で、孤高であり過ぎた」というもっともらしい学説も残っておる。
 ブランメルとドルセー伯。 どっちが「最初にダンディって呼ばれた男」だったのか? まあこれはエルヴィスとビル・ヘイリーと、どっちが「最初のロックンローラーか?」ってのと一緒で、追及してもあんまり意味はなさそう。 「ドルセー伯が最初」って定義の仕方もある、 って感じで覚えておいてくれ。


■ “脱ブランメル流”ダンディ・ファッションとは? ■


 ダンディの先代ブランメルは、己のオシャレのセンスとテクニックで社交界入りを勝ち取った言わば「成り上がり」「叩き上げ」の社交界人だった。 ファッションから立ち振る舞いに至るまで、ブランメルのスタイルは時代や社交界に対して挑戦的であり、一部の隙もない「柔らかい孤高の鎧」で己をパーフェクトに武装しておった。
 一方、二代目のドルセー伯は生粋の貴族。 ナポレオン皇帝時代の高位の伯爵家に誕生あそばされたのじゃ。そのダンディ・スタイルは周囲から愛され、真似され、先述の通り現在でも「ドルセー・スタイル」が残されておるほどじゃ。 では2代目と先代との実際のファッションの違いを具体的にご紹介しよう。

■トップハット
 ブランメル・・・トップハットの型よりも、その被り方に徹底していたと言われておる。
 ドルセー伯・・・自ら考案した「ドルセー・ロール」と呼ばれる、クラウンの高い丸巻ツバ型のシルクハットを愛用。 何度かリバイバルでブームを迎えており、「ドルセー・ロール」の名は今でもファッション業界で残っておる。  

■ジャケット
 ブランメル・・・現在の燕尾服に近い、フィット感を重視した黒のフロックコート。 胸元の開きは小さく、そのささやかな隙間を純白の華麗なクラヴァットで演出。 大き目のボタンをしっかり留めて、ピッチリ着るのがブランメル流。 色は黒、及び濃紺。
 ドルセー伯・・・アウトラインにはフィット感を残すものの、胸元は“ゆとり感”を演出するために大きく開かれ、ボタンもルーズに留める。 ゆとり感を更に強調するためか、ラペル(上衿)は大き目で丸く反り返されておった。 黒の他には茶色のジャケットも愛用。

クラヴァット(ネッククロス)
 ブランメル・・・徹頭徹尾、白オンリー!
 ドルセー伯・・・黒のサテン地


 ブランメル・・・高級シャンパンで磨いたロングブーツ
 ドルセー伯・・・自ら考案した両サイドをV字型にカットしたスリッパに近いようなパンプス。 これは「ドルセー・ロール」同様に「ドルセー・パンプス」の名で今も残っておるスタイルじゃ。

香水
 ブランメル・・・ほとんど使用せん!
 ドルセー伯・・・後に自らのブランドを創業したほどの香水好き。 ジャスミン系の香水を手袋から香らせておった。

 お嬢ちゃま、お坊ちゃまたちを感激させた肖像画とお手紙 ■

 お次は社交界におけるお付き合いの仕方について。 「趣味やスポーツの話なんざ断固お断り」「スキャンダルは無用」「空気を読んだ上でぶちこわしてから盛り上げる会話力」がブランメルの振る舞いじゃったが、オルセー伯はこの点も正反対。 「楽しいお喋り」「スキャンダル大いに結構」「人様をハッピーにさせる気配り」が身上じゃったと言われておる。 ブランメルに対するドルセー伯のコメントは残されておらんが、ブランメルのスタイルに対するアンチテーゼだったのかもしれんな。 でもそこはお育ちのよろしいお方! あからさまな「反対」スタイルはとらず、「脱出」「脱皮」スタイルにすり替えての独自の「対話路線」を発揮したんじゃろう。

 そして更にドルセー伯には人を感動させる必殺技があった。 それは芸術の手腕じゃ。 絵画や文筆の才に長けており、相手が望む様な肖像画やお手紙をスラスラとやってのけていたそうな! 
 こりゃ、貴婦人たちもイチコロじゃ。 今も昔も、オンナはこれに弱い! いや、オトコも弱いな!! 「アナタはこんなに美しい!」「カッコいい!!」ってのをお世辞混じりの言葉だけじゃなくて、肖像画という目に見える形で示されたら感激しないヤツはおらんわな! 
 お手紙ってのも外交辞令のアフター・フォローとしては最適! 「あのお言葉は嘘じゃなかったのね」ってダメ押しを喰らわせるには申し分なしじゃ。 そこに得も言われぬ文才が発揮されておれば、鬼に金棒じゃよ!
 
 今風に言えば、楽器演奏、もしくはカラオケなんかで、お目当てのオンナを感激させちゃうスケコマシか!? いやいやレベルが違うぞ。 当時の社交界に出入りしておった貴族ってのは、仕事はほとんどしておらんが、情操教育だけはバッチリ! 芸術に関しては目の肥えた連中が多かっただけに、彼らを唸らせる絵画や文章ってのは簡単にはでけん。 それをやってのけ、しかも今でもドルセー伯の描いた肖像画が残されておるぐらいだから、間違いなく本当の芸術家だったのじゃ! 上写真、右写真は、いずれもドルセー伯の作品じゃ。


■ イギリスにカジノをもたらした遊びの天才! ■


 さて、オルセー伯が社交界で人気を博した絶対的な理由がもうひとつある! それは彼が高級貴族の爆大な資産と信用を駆使して、社交界を自らプロデュース出来たことであり、まずフランスからイギリスへ「カジノ」を持ち込んだことによって成されたのじゃ。
 オルセー伯がおった頃のパリでは、カフェやサロンの別室でにぎやかにバカラなどの賭け事が流行。 それをオルセー伯はロンドンの社交界でも流行させ、「サークル」と呼ばれる会員制サロンに発展させたのじゃ。
 そこでは女性客は閉め出され、選ばれた男性だけが「酒、タバコ、賭け事」を純粋に楽しむことのできる場になったんじゃ。 新しい遊びを提供したオルセー伯はたちまちロンドン社交界でもてはやされたってわけじゃ。 詩人バイロンや文豪ディキンズなどの文化人も、ドルセー伯爵がもちこんだブルジョワな「遊び方」にすっかり魅せられ、親交を求めたと言う。

 そして「カジノ」の他にもオルセー伯には切り札があった。 それは「ゴアハウス」という贅沢の限りを尽くした社交サロンの経営にブレッシントン夫人とともに携わったことじゃ。 当時の欧米諸国で大なり小なり名を上げた者なら誰しも夢見たのが「ゴアハウス」の常連として認められることだったそうじゃ。

 「カジノ」という新しい遊びを広め、「ゴアハウス」という究極の社交サロンを提供する。オルセー伯は社交界の名士にとどまらず、いわば興業者、プロデューサーとしても手腕をふるったのじゃ。 元々は平民であり、軍資金に限りのあった先代ブランメルには到底及びもつかない次元でオルセー伯は新しいダンディ・ライフを謳歌しておったのじゃ。 この伝説の社交サロン「ゴアハウス」があった場所には、今では「ロイヤル・アルバート・ホール」が建てられておる。


■ ダンディ夢物語・・・ ■

 あまりにも好対照な「ダンディ路線」を歩んだ先代ブランメルと二代目オルセー伯じゃが、人間として、男として、ダンディとして、どちらに魅力を感じるじゃろうか?
 最後に、オルセー伯の没落の要因も、ブランメルと同じ「借金苦」だったことを書き加えておこう。 オルセー伯は先述の「ゴアハウス」の経営に常道を逸した巨額の資金をつぎ込み、夫人の前夫の遺産を食い潰した後は借金に頼るのみ。 といっても借金の担保は「豪華絢爛たるゴアハウス」だからスポンサーは数知れず! 社交界という世間から隔絶された「竜宮城生活」しか知らない高級貴族の哀れな結末に向かって進むしかなかったようじゃ。 

 ブランメルにせよ、オルセー伯にせよ、自らの結末を悔いておったのかどうか、なんてことは知らんが、「ギャンブル癖」「借金苦」で自分の首を絞めてしまったって事実は現代に生きる者の観点から言えば決して「ダンディ」ではないな。 
 でもな、彼らは「ダンディ」の先駆者じゃ。 先駆者ってのは、マニュアルが存在しないだけに、どんな運命に翻弄されるか知るはずもない。 だから運命に身を委ねるしか、生きる術を知らなかったってことで、「借金苦」云々は人物評価の基準には相応しくない気もするな。
 なお、オルセー伯の華麗なるスキャンダルに関しては、わし自身があんまり興味がないんで割愛したのであしからず。 どうやら“両刀使い”だったらしいんで、ちょっとヒイテしまうから止めました。(笑) 

 高級貴族たちだけで成立していたかつての社交界ってのは、もはや「お伽噺(おとぎばなし)」みたいなものじゃ。 しかしそこを牛耳っていた者、絶大な人気を博していた者ってのは、神でもなく妖精でもなく、人間臭~い連中じゃ。 全知全能を傾けて、お洒落や社交術に独自のセンスを発揮することをいとわなかったからじゃ。 そして自らが作り上げた夢物語、幻想世界を更に強固にすることだけが、ブランメルやオルセー伯の様なキングのただひとつの生きる道だったのじゃ。 ダンディという言葉やスタイルは、こんな到底“アリエナイ”世界から生まれてきたことをお忘れなく!
 諸君においては、たとえThe-Kingファッションで「ダンディにキメられた!」って実感しても、限られた仲間内だけで披露する事無かれ。 ロックの世界にお伽噺は無用じゃ。 キマったらキマった分だけ世間にアピールせよ! それがロックンロール・ダンディ道の基本じゃぞ! 



七鉄の酔眼雑記
 ロック界のダンディ!?

  ジョージ・ブランメルにオルセー伯。 19世紀のイギリス社交界を闊歩していた、このミスター・ダンディと後のロックスターとの共通点を見出すのは簡単にはいかなさそうじゃな。 が、近い将来はロックンロール・ダンディの特集でもやってみたいと思うとる! ロック史上において「ダンディー云々」ですぐに連想される人物が2人おるんで、今回のところはちょっとだけ紹介しておこう。
 まず70年代中期ぐらいまで活動しておった、アメリカのブラック・オーク・アーカンソーっつうファンク系ロック・バンドに、自ら「ダンディ」と名乗った大馬鹿野郎!がおった。 ヴォーカルのジム・“ダンディ”・マングラムって男。 しかしルックスは古典的なマッチョ系スターで、ストレートのロンゲに上半身裸でぴっちりのパンツがトレードマーク。 そんな恰好でステージ狭しとセクシーアクションを繰り広げるおふざけパフォーマンスもあって「なんでこれでダンディって名乗るんかい?」って大いに理解に苦しんだ!? ヴァン・ヘイレンのデヴィッド・リー・ロスの兄貴みたいな感じじゃったよ。
 実は1957年にラヴァーン・ベイカーという黒人女性シンガーがヒットさせた「ジム・ダンディ」って曲があってな。 「困った娘っ子がいたらオイラの出番だ!」ってな田舎の色男賛歌みたいな曲じゃが、ジム君はこの曲が好きで芸名にしちゃったらしい。

 もう一人はグラム・ロックのスターじゃったマーク・ボラン。 彼の生前最後の作品のタイトルが「地下世界のダンディ/Dandy in the underworld」じゃった。 サウンドもルックスも、グラムロックからかけ離れたシンプル/モノクローム路線のこの作品は、マーク・ボランが新たなる境地で臨んだこともあって、発表当時は賛否両論じゃったが、今ではファンの間で人気が高い。 ちなみにマークはエルヴィスの死から丁度一ヶ月後、1977年9月16日に交通事故で亡くなっておる。
 ブラックフォーマルでキメタ?かのようなジャケットが「まるで遺影のようだ」とも言われたな。 「ダンディ路線」はマーク・ボランが辿り着いた聖域だったのかどうか、もはや知る由もないが、グラムロックのスターのダンディ路線ってのを、もうちょっと聞いてみたかった気もする。


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