NANATETSU ROCK FIREBALL COLUMN VOL.158



 「ロックンロール工房」や「勝手にブレイクタイム・コーナー」を拝見する度に思うんじゃが、50sロック・ファンはあの時代の文化全体をこよなく愛しておるよのお〜。 当たり前じゃがな! 音楽、ファッションはもとより、映画、インテリア、雑貨、車等など、もう50年代の文化を丸抱えで溺愛しており、他の時代の音楽ファンには類をみないその徹底ぶりは誠に恐れ入る。 「50年代にタイムスリップしたいなら、是非とも我が家へ!」なんてレベルにまで達しておる方も相当の数にのぼるんであろうな〜。 今回もThe-Kingより多彩な新作が登場したんで、新たなハイ・レベルの50sファンがまたまたThe-Kingの元へ集まってくることじゃろう!

 まあそんなハイレベルなフィフティーズ・ファンに対して、わしはコラムを読んで頂くなんて恐れ多い事じゃと常々思うておるが、今回はその50s文化のもうちょっと外側のオハナシ、あの時代のアメリカの野球メジャー・リーグ(以下表記はMLB)の世界をご紹介してみようと思う。 ベースボールは、ロックンロールが生まれる遙か以前より「ナショナル・パスタイム(国民的娯楽)」と呼ばれておったのじゃ。
 数々の日本人選手の活躍でMLBの存在が一気に近くなった昨今じゃが、その歴史に関してはまだまだ日本人は興味が薄いのが現状じゃろう。 そこでこのわしが1950年代だけに絞り、MLBの全貌が把握できるようなポイントをあげて書いてしんぜよう〜。 50年代繋がりってことで、50年代アイテムを愛するアクションの箸休め的感覚で、気軽にポップコーンでもやりながら気軽に読んでくれたまえ。

 (上写真は、1954年に新婚旅行で日本を訪れた、マリリン・モンローと、ヤンキースの大スター・ジョー・ディマジオ)




“アメリカン・パスタイム(国民的娯楽)”
メジャー・リーグ・ベースボールの1950年代へのご案内!

   

■スーパーメジャーリーガーがモンローを連れてきた! ■
 
 まずは何はともあれ、日本人に対する1950年代のMLB最大の功績は、ヤンキースのスーパースターだったジョー・ディマジオがマリリン・モンローを連れて日本にやって来てくれたことか!? いや、モンローがディマジオを連れてきた、って言った方が正しいのか。 1954年(昭和29年)2月、既に引退しておったディマジオとモンローは新婚旅行の逗留地として日本を選んで、4泊5日の日本滞在を楽しんだのじゃ。
 日本のマスコミの騒ぎは、そりゃ大変なものだったようで、記者会見では質問はモンローばっかりに集中したそうじゃ。 「たわけもの! ディマジオ殿を何と心得ておる!」って当時の日本のプレスを一括したいところじゃが、わしがもしその場におったら、野球の質問をディマジオにしながらも、顔はモンローに向けられておったろうな!?

(上写真は、日本滞在中のモンローを追った当時の雑誌の一面)


 その後モンローは南北朝鮮戦争の米軍基地へ慰問に訪れて、約10万人の米軍兵士の前でパフォーマンスを披露したんじゃが、この時のショットは素晴らしい写真が多い。 映画のスチールよりも、フォトセッションものよりも、モンローの艶めかしさ、躍動美が直に伝わってくるんじゃな。 心の潤いを渇望する米軍兵士たちと、彼らを癒したいと純粋に願うモンローとの間に最高の精神交遊があったからなんじゃろう!
 一方ディマジオは、モンロー不在の間は西日本で貧しい日本の少年たちのために野球教室を開催しておった。 モンローの慰問もディマジオの野球教室も、いずれも国家命令だったんじゃろうが、新婚旅行期間でさえ、ご公務を強いられるとは、当時の国民的大スターというのは大変だったんですな〜。

「10万人がアタシの前にいたのよ!ジョー、そんな経験無いでしょっ!」 (モンロー)
「いや、あるよ。 僕は毎日そうだったよ」(ディマジオ)

ってな会話が9カ月後の離婚に繋がったって言われておるが、スーパースター同士の夫婦の会話の真意なんざ、わしには到底分からんわな〜。



■ “日本は50年経っても勝てない” MLB史上最強レベルと伝えられる16球団時代 ■
 
 
 ハナシをMLBに戻そう。 1940〜50年代のMLBは、その歴史上最強のレベルだったそうじゃ。 現在の30球団の約半分、16球団で形成されており、選りすぐりのプレイヤーだけがメジャーリーガーになることが出来たからだと言われておる。
 その16球団じゃが、アメリカ大陸の真中から右半分の地域に本拠地があったんじゃ。 当時はロスにもシスコにもシアトルにも、西海岸にはどこにもMLB球団は存在してなかったんじゃ。 ニューヨークに「ヤンキース」「ジャイアンツ」「ドジャース」の3球団があった他、合計5都市に複数のチームがあったのじゃ。
 じゃあ、どれぐらいレベルが高かったのか。 わしは実際には観てはおらんから説明が難しいが、ひとつの記録を挙げてみよう。 50年代には都合4回のMLBと日本プロ野球との親善試合が行われたんじゃが、驚くなかれその戦績はMLB側の79勝9敗4分で勝率.898! 日本が誇る400勝投手・金田も、300勝投手・別所もメッタ打ち状態。 ほとんどの試合が大差で日本の惨敗じゃった。 野球好きじゃったわしの親父殿の言葉を借りると、「横綱と平幕、いや十両。 プロと高校生が野球をやってる感じ」だったそうじゃ。

 全日本チームの一員としてゲームに参加した某有名選手の手記によると「歯が立たないなんてレベルじゃない。 こりゃ、日本人は50年かかっても勝てないと思った」 「しかも連中、毎晩毎晩飲み明かしていて全然ベストコンディションじゃない。 それでも相手にならないんだから情けなくなった」そうである。
 この選手の感想は当たっとるな。 あれから半世紀以上が経った現在、レベルが落ちたMLBとはいえ、日本の絶対的エースのダル君でさえ悪戦苦闘しとるんじゃからなあ〜。
(上写真は、40年代のスーパースターのディマジオ/左と、50年代のスーパースター・ミッキー・マントルの両雄)


■ TVとホットドッグがもたらした、MLB史上未曽有の繁栄期 ■ 
 
 
50年代にMLBベースボールを全米に普及させたのは、1955年に放映が開始された初のMLB専用のTV番組「ゲーム・オブ・ザ・ウイーク」じゃ。 アメリカでのTVの出現は1939年と言われておるが、50年代の好景気によって一般家庭へのTVの普及は大きく広がり、それによってMLB熱も全米規模に波及していったんじゃ。
 ここら辺のTV効果は、翌1956年にエルヴィスがメジャーシーンにデビューを飾り、その知名度、影響度を爆発的に広めていったことと同じじゃな。 インターネットが登場する半世紀前、いわばTVの普及が人々の“生活のあり方”“娯楽のあり方”を劇的に変えたのじゃよ。 左写真は、ソートーン・ウッズなる画家が描いた、1950年代にMLBワールドシリーズを迎えた街の様子じゃ。 TV、ラジオ、新聞等を見ながらワールドシリーズを楽しむ庶民の姿が活き活きと描かれた有名な作品じゃ。

 一方、ボールパーク(野球場)での“観戦のあり方”を変えたオハナシもしておこう。 それはな、「ホットドッグ」と「ポップコーン・ジャック」(ポップコーンを糖蜜で固めたスナック)。 アメリカの野球殿堂から発行されておるオフィシャルブック「AMERICAN BASEBALL」によると、「ホットドッグ」には、アメリカ人好みの味が全て詰まっておるそうじゃ。 塩っぽく、甘く、脂っこいフランクフルトに口直しのパン。 挟まれたフランクフルトの、初めに裂け目が出来て、次に中から柔らかい物が出てくるという基本構造も実にアメリカ的なんだとか。
 
 この「ホットドック」をボールパークで初めて売りだしたのは、1920年代後半のニューヨーク・ポログラウンド(ジャイアンツの本拠地)なんだそうで、50年代には16の本拠地全てで絶対的な売れ線スナックとなり、50年代半ばには総売り上げが1,000万本を突破したとか。 フランクフルト1,000万本って、一体どれほどスゴイ数字なのか想像出来んが、これが90年代には1,600万本にもなったとか。 1,600万本のホットドックを繋ぐと、当時の全フランチャイズ26都市を結ぶことができるとか!!
 「ホットドッグ」にかじりつき、「ポップコーン・ジャック」をほおばりながら、ビールやコークをグビグビ! そうやって思い思いに陽気に声援を送る野球ファン!1950年代のアメリカの平和を象徴する代表的な光景のひとつじゃ。
 左の写真はボールパークでホットドッグが売られた当時の容器。 右の容器には直火で温める装置が付いておる。



■ 5球団の相次ぐフランチャイズ移転劇 ■

 50年代のMLBは、フランチャイズ移転が次々に起こった時代でもあり、旧フランチャイズのファンを悲しませながらも、結果としてMLBが全米規模のスポーツへと大きく発展していく直接の要因になったのじゃ。 中でも最大の移転劇は、1957年にニューヨークのジャイアンツがサンフランシスコへ、同じくニューヨーク(ブルックリン)のドジャースがロスアンジェルスへとお引っ越しを果たし、西海岸初のMLB球団になったことじゃ。 
 他には53年にボストン・ブレーブスがミルウォーキーへ。 54年にフィラデルフィア・アスレチックスがカンサスシティへ。 同年セントルイス・ブラウンズがボルチモアへ。 複数のMLB球団を擁する5都市中、シカゴを除く4都市から、収益面の劣る方の球団が、わずか5年間の間に次々と新天地へと移っていったのじゃ。

 もっともファンに惜しまれた移転劇はブルックリン・ドジャース。 ニューヨークの野球ファンの中で、富裕層はヤンキース、中間層はジャイアンツ、低額所得者層はドジャースといった感じで色分けされており、スター選手よりもマイナーリーグから這い上がってきた選手や黒人選手を抜擢するドジャースは貧困層や移民たちに長く愛されておった。 本拠地エベッツ・フィールドも住宅街の一画にあって(上写真)、日本風に言えば、下町の住民が風呂上がりに下駄ばきで行くような庶民的なボールパークだったのじゃ。
 だからこそファンは「ドジャースの移転が決まった日は、我々のベースボール・ライフが終わった日だ」と言って深く悲しんだのじゃ。 このファンの嘆きの言葉のセンスは、後に「バディ・ホリーが死んだ日に、アメリカンミュージックは終わった」という有名な言葉を生む下地になったとされておる。 右の写真は、ドジャーズの優勝を喜ぶブルックリンの人々の様子を象徴する1枚じゃ。


■ 「くたばれ!ヤンキース」「来年があるさ!」 ■

 この年代の代表的な野球流行語も紹介しておこう。 ニューヨーク・ヤンキースと言えば圧倒的な優勝回数を誇る歴代最強チームじゃが、1950年代はまさに絶頂期! この年代10年間でリーグ優勝9回、ワールドシリーズ優勝7回という大王朝時代を迎えておった。 それ故にアンチ・ヤンキースも増え、彼らの合言葉が「くたばれヤンキース!Damn Yankees !」じゃ。
 またワールドシリーズでヤンキースに負け続けたブルックリン・ドジャーズのファンの間では「来年があるさ!Wait till next year!」じゃった。 「Damn Yankees !」はミュージカルや映画のタイトル、「Wait till next year」は小説のタイトルにもなったほど愛された言葉でもあったんじゃ。

 その他ではヤンキースの名捕手ヨギ・ベラの「ウィニング・アグリー Winning Urgly」とか「フォークでコーヒーを飲む Drinking coffee by fork」(発言者不明)なんてのもあった。 「 Winning Urgly」は“泥臭く(なりふり構わず)勝て”ってな意味じゃが、後にミック・ジャガーがいたくこの言葉に感心して同名タイトルの曲を書いておる。 「Drinking coffee by fork」ってのは、“どうにもならないお手上げ状態”の時の表現に使われたらしい。 フォークでコーヒーを飲む、か。 確かにお手上げじゃな〜まあアメリカン・ジョークじゃな。


 もう30年ぐらい前になるか。 読売ジャイアンツに入ってきた元メジャー・リーガーが、キャンプで千本ノックを浴びせようとした日本人コーチにこんな言葉を吐き捨てた。 「ふざけるな! ベースボールってのは、元々ガキの遊びじゃねえか。 ボールの取り方なんぞ分かってるゼ!!」と。 「ガキの遊び」とは、まずは楽しみながらやるってコトじゃろう。 何かとスポーツを「○○道」と位置付けて、苦しい修行の道こそ正しい!とする日本の野球人へのメジャーリーガーならではの反抗だったのじゃ。 
 「元々は子供の遊びを、大人が仕事でやっている」のがアメリカン・ベースボールであり、だからこそ観る者は純粋にひきつけられ、子供たちはメジャーリーガーたちに対して真っ直ぐな夢を見ることが出来るのじゃ。 そしてテレビの普及といくつかのフランチャイズ移転劇、そしてホットドッグ効果によって、MLBは全米規模で大人と子供が一緒に楽しむことのできる真の「ナショナル・パスタイム」になったのじゃ。
 またこの時代には黒人のメジャーリーガーが数多く登場したことも、MLB熱を更に燃え上がらせたんじゃよ。 まさに1950年代は、歴史的なニュー・ベースボール・ジェネレーションでもあった!
 諸君の娯楽のお時間は、The-Kingのアイテムを筆頭したアメリカン・フィフティーズ一色であることは想像に難くない。 The-Kingが新作を発表する度に、その情熱の炎はより大きく永遠のものになるじゃろう。 レンジの広い、その諸君のフィフティーズ愛の中に「50sMLB嗜好」がほんの少しでも加わったら、もっともっとフィフティーを愛するようになるかもしれん。 そんな兆しをThe-Kingのファンから感じとることが出来た時、またあらためてご紹介コラムを書かせて頂くことに致す! 



七鉄の酔眼雑記 〜もうひとつの50sベースボール・カルチャー
 
 フィフテーズ・ファンなら当然知っておると思うが、あの時代にスタートして、以後半世紀に渡って世界中で愛読された漫画があるな。 そう、愛すべきキャラ、チャーリー・ブラウンとその仲間たちがコミカルに(ある時はシリアスに)躍動する「ピーナッツ」じゃ。スヌーピーを生んだことでも知られる漫画家チャールズ・シュルツが生涯にわたって描き続けた名作じゃ。
 この「ピーナッツ」の連載には、10回に1回の頻度でベースボール・ネタが登場するんじゃ。 主人公チャーリー・ブラウンは、ひ弱でマヌケで情けない投手役。 捕手はピアノのことばかり考えている頼りないヤツ。 また犬がショートをやったり、観客が鳥だけとか、まあ漫画ならではのハチャメチャなストーリーじゃが、ベースボールネタのほとんどは非常に人気が高い!
 それは、「ひ弱でマヌケで情けない」ヤツが、“類友”の仲間たちと一緒に、どうやったらうまくいくか、ってことをタリナイ頭で一生懸命考えて、赤っ恥や失態を繰り返しながらも「小さくても尊い前進」を続けていくからじゃろう。 MLBとともに、漫画「ピーナッツ」もまた1950年代に躍動した、大人も子供も楽しめるカルチャーだったんじゃ。

 「ピーナッツ」のベースボール・ネタを読むたびに思うが、ホント、ベースボールひとつ、漫画ひとつをとってみても、アメリカと日本とではとんでもない距離があるなあ〜と。 だって日本の野球漫画の傑作は「巨人の星」じゃぞ。 野球少年が炎と化して父親とともに常識を越えた苦しい練習を命がけでやり抜くオハナシじゃ。 「巨人の星」の他には「誓いの魔球」「父の魂」、その後は「侍ジャイアンツ」とか「オレと金やん」(知っとるか?)とかあったが、みんな基本路線は同じじゃ。
 
 まあわしは日本人なんで、年端もいかぬ頃は「巨人の星」を読む運命であり、今でも大好きな漫画ではあるが、なんかこう歳を取ると!?、苦しい事、遠回りしなければいかん事はやりとうないわな。 それに架空のヒーローに憧れる気持ちも薄くなってしもうた。 だから、「ひ弱でマヌケで情けない」ヤツがほのぼのと活躍する「ピーナッツ」の方を読みたい。 っつうか、子供の頃、「巨人の星」じゃなくて「ピーナッツ」の方を読む運命にあったら、どんな大人になっていたんじゃろうな〜などと空想に耽ってしまうわな。 エルヴィスよりも、ジェームス・ディーンよりも、MLBよりも、「ピーナッツ」こそがアメリカン・フィフティーズの原風景なのかもしれんな〜。 未読の方はおススメしますぞ!


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