ROCK FIREBALL COLUM by NANATETSUVol.115
ロバート・ジョンソン生誕100周年に送る 「キング・オブ・デルタ・ブルース」の基礎知識 Volume 3〜番外編 幸か不幸か!? ビッグ・ロッカーのキャリアを激変させた“運命の出会い” 今年はロバート・ジョンソン生誕100年なので、前2回は「ロバート特集」にしたが、今回はちょいと横道にそれてみようかのお。 “悪魔と取引した”ことで、超人的なギターテクニックを授かったとされるロバート・ジョンソンじゃが、実際に「悪魔」ってのがいたのか、「悪魔」というのは一体誰なのか?ってのはさておき、何らかの“運命的な出会い”がロバートにあったことは間違いないじゃろう。 それは、人との出会いなのか、宗教からの啓示なのか、物質との関わり合いなのか。 とにかく“何か”がロバートのブルースマンとしてのレベルを激変させ、またそれゆえにモテモテ度も天井知らず(?)になって命を落とすことになったのじゃ。 そこでロバート・ジョンソンのまさに「天使か、悪魔か!?」のテンションには及ばなくても、相当の運命的な出会いによってロッカーとしてのキャリアが激しく変わったパターンをロック史の中からご紹介してしんぜよう。 人生における出会いというものが、本人にとっては「吉」なのか「凶」なのかは、第三者が断定することはできんが、少なくとも我々ファンをハラハラドキドキさせることになった、ビッグ・ロッカーたちの“運命の出会い”の数々じゃ。 おっとその前に、諸君はたったさっき、運命的な出会いをしたことを分かっておるか? そう、The-Kingの新作3アイテムじゃ。 よろしい、分かっておるな! ではそいつを確保して万全の体勢にしてこれから始まるオハナシを読んでくれたまえ〜♪ |
■ブルース・スプリングスティーンとジョン・ハモンド まずはロバート・ジョンソンとゆかりのある人物と、現代のビッグ・ロッカーとの出会いからいってみよう。 ロバート・ジョンソンは1938年8月16日に毒殺されてしまったが(エルヴィスの命日と同じ!)、そうとも知らずにロバートを探し回っていた男がいた。 アメリカ音楽界の伝説的A&Rマン、コロンビア・レコードのプロデューサーだったジョン・ハモンドじゃ。 自らが企画した、1938年12月のカーネギホールでのジャズ&ブルース・フェスティバル『フロム・スピリチュアル・トゥ・スウィング』にロバートを出演させて、その存在を世間に広く知らしめようとしておった。 事実、宣伝ポスターには出演者としてロバートの名が記載されておったのじゃ。 残念ながらジョン・ハモンドは、やがてロバート死去の事実を知るに至るわけじゃが、時代は変わって34年後の1972年、ハモンドの前に才気溢れる若きロッカーが現れた。 それがブルース・スプリングスティーンだったのじゃ。 「ロバートの再来だ!」とまでは言わなかったが、「ディラン以上の衝撃を受けた!」と語ったのは有名じゃ。 ジョンの鶴の一声によって、それまで“床を舐める”様な貧乏生活だったブルースはコロンビアとの契約を果たすことが出来たのじゃ。 しかしジョン・ハモンドとの出会いがブルースの成功への一本道になったわけではなかったんじゃ。 60年代にボブ・ディランやレーナード・コーエンなどの素晴らしいフォークシンガーを発掘していたジョンは、ブルースを新世代のフォークヒーローとして売り出したかったのじゃ。 これはロッカー志向の激しいブルースとは水と油。 その葛藤がファースト・アルバムにモロに出てしまってセールスは惨敗。 ロックでいくか、フォークでいくか。 決着が付かぬまま更にアルバム2枚が発表されたものの、ゴタゴタはやがてマネージャー問題を引き起して裁判沙汰にまで発展してしまったのじゃ。 そのお陰でブルースは2年間もレコーディングが出来なくってしまうのじゃよ。 ■ジョージ・ハリソンとクリシュナ ロックの歴史において、最初に我々ファンを驚かせた方向転換は、1960年代後半のビートルズの“脱ロックンロール”であり、それを先導していたかのように今でも思われておるのは、“静かなるビートル”と呼ばれたジョージ・ハリスンじゃった。 ジョージはインド神話に登場する神クリシュナを崇拝するようになってから、インドの宗教や哲学、伝統文化、はたまたインド音楽にまでどっぷりと浸り、ビートルズの世界に強烈な“インドの嵐”を吹かせた! いつもジョン&ポールの陰に隠れておったジョージにしてみりゃ、「さあーオレの出番だ!」って意気込んでいたかもしれんな。 やがてビートルズのインド化現象は、ロック界、ヤングカルチャー全体に波及して大ブームになりおった。 インドと言えばカレー!じゃのうて、ジョージ!!となったわけじゃ。 当時の日本において、インドっつったら宇宙のように遠くワケわかんない存在であり、「ビートルズもインド、ストーンズもインド!」なんて言われても、「はぁ、さいでっか・・・」と受け流すしかなかったもんじゃ。 しかしまあ、インド音楽だけではなくて、アシュラム(日常の修行)、瞑想、菜食主義などによるインド哲学や文化があっという間に欧米諸国に知れ渡ることになったんだから、ジョージはインド政府から勲章の一つや二つぐらいは授かってもよかろう! ジョージにとってのクリシュナは、「ジョージをビートルズ生活の缶詰状態から解放した幸福の神」ってのが常套句になっておるが、その一方では、インド文化大洪水状態は「不滅のビートルズ帝国崩壊」の序曲となり、さらにジョージのソロ活動においても、時たまファンが眉をひそめる極端に説教、哲学めいた楽曲の基盤となってセールを妨げたりと、必ずしも「吉」ばかりだったわけではなかったな。 極めつけの「凶」は、ジョージがクリシュナ賛歌として書いた「マイ・スイート・ロード」が盗作疑惑をかけられて裁判で敗訴したことじゃ。 それ以降、ジョージはロックシーンの表舞台から消えてしまうという事態まで招くのじゃ。 ■ジミー・ペイジとアリスタ・クローリー レッド・ツェッペリンが巨大なアメリカ市場を制覇して、他のバンドが足元にも及ばない大成功を収めたのは1970年前半じゃった。 その無敵の快進撃の様子がおかしくなり始めたのが1975〜6年頃。 まずジミー・ペイジの顔が突然しわだらけになり、ステージでは異常な量の汗を流してまともにギターが弾けなくなってきおった。 初の2枚組アルバム「フィジカル・グラフィティ」も、ツェッペリンらしからぬ完全趣味路線でセールスは惨敗。 さらにロバート・プラントが交通事故に遭い、長男は原因不明の死亡。 ツェッペリンはレコーディングもツアーもスケジュール通りにこなせなくなってきたのじゃ。 そしてドラムスのジョン・ボーナムまでが亡くなってしもうて、ついに解散にまで追い込まれたのじゃ。 このツェッペリンの70年代後半の不幸と失墜の原因は、ジミー・ペイジが崇拝する黒魔術の“呪い”を元凶とする声が多い。 ジミーは黒魔術の司祭アリスタ・クローリーの屋敷を、財にものを言わせて買収。 クローリーの霊力を独り占めにしていると、数多くの黒魔術信仰者からも非難されておったらしい。 神社仏閣や教会を私物化するようなものだから、いけませんなこういうことは! 音楽とビジネスとの両方の才に長けた賢者ジミーも、この暴挙によってツェッペリンの運気を一変させてしまったのかもしれん!? しかしツェッペリン中期の深遠な文学性に彩られた楽曲や、ジミーの変幻自在なギタープレイは黒魔術に導かれた魂の開放による産物でもある。 一般的には邪教と噂されておる黒魔術とやら、その善悪の正体は謎のままじゃが、少なくとも司祭アリスタ・クローリーは、ロック界の巨船ツェッペリン号を舞い上がらせ、やがて墜落に至らせる、まさに天使と悪魔の両方の手を持っていたのは確かじゃな。 ■トミー・ボーリンとディープ・パープル 「ハードロック永遠の経典」というべきディープ・パープル。 じゃがラスト・アルバム「カム・テイスト・ザ・バンド」は、アメリカ南部の香り漂う“サザン・ロック”的ドロ臭いナンバーをいくつか聴くことができる。 このエッセンスを導入したのが、アメリカ人ギタリストのトミー・ボーリンじゃ。(御大リッチー・ブラックモアは既に脱退) このトミー・ボーリン、元々はパープル的サウンドとは無縁のタイプであり、ジェームス・ギャングというB級サザン・ロック・バンドを初めとして、各セッションでファンキーでブルージーな音を身上としていた男じゃった。 それがまさに「晴天のへきれき!」とも言うべき、突如畑違いのハードロック・キングのパープルのギタリストに採用されてしまったのじゃ。 世間的には、一夜にして富と名声に迎え入れられたシンデレラ・ボーイじゃが、現実は辛かったようじゃよ。 ライブでは「リッチーを出せ!」という罵声が続き、プレスインタビューでは勉強不足のアホなマスコミから「ローディーは下がって・・・」とコケにされたりとか。 彼が大活躍したアルバムもセールスは惨敗。 「リッチーを出せ!」の声は、「パープルをつぶす気か!」になった・・・。 やがてトミーはリッチーの連絡先を書いた大量のメモをライブでばら撒いたり、スライドギターしか弾かないという奇行が目立ち始めたもんじゃ。 聴衆がお待ちかねの“ハイウエイ・スター”“紫の炎”のギターソロすらスルーすることもあったもんじゃ。 トミーは完全にドラッグにやられてしまっていたのじゃよ。 やがてドラッグ・オーバードースで死亡。 リッチー・ブラックモアの後釜という、世界中のハードロック・ギタリストが夢見る地位に祭り上げられたトミー・ボーリンじゃったが、その代償はあまりにも悲惨だったのじゃ。 ■エリック・バードンと“ブルース” では最後に、ブルースという音楽にハマってしまったがゆえに、数奇な運命を辿ることになったロッカーのオハナシじゃ。 エリック・バードンはご存知アニマルズのリード・シンガー。 「黒人より黒い!」と言われる“ブルース命!”の歌いっぷりは、ロック史に燦然と輝いておる。 また本格的な黒人との混成バンドのウォーを結成したり、はたまた黒人系女性と結婚するなど、身も心も黒人文化に捧げた初めての白人ロッカーといってええじゃろう。 しかしシングル盤はそこそこヒットするが、アルバムはまるでダメオっつうジンクスがつきまとう。 金回りが悪いのか、私生活は目茶苦茶とか。 バンドも作っては壊しの連続だが、それでも歌唱力が買われて定期的にレコーディングの依頼は来るなど、人間として、また音楽家としてハッピーなんだか、そうじゃないんだか、さっぱり分らん。 お顔の方も年齢とともに「何を考えてんだか・・・」的不思議な老け方じゃし、身体は明らかにビール太りじゃがステージに立つと物凄い存在感を発揮する。 このオッサン、一体全体ナニモノ?って感じじゃ。 エリックが若かりし頃、先輩のブルース・シンガーがこう言ったそうじゃ。 「君は有名になるだろう。 でも決して幸せな人生を送れないよ」と。 エリック・バードンは、ロバート・ジョンソンのように、悪魔と取引をしていたのかもしれんな〜。 凄腕プロデューサー、宗教、メジャーバンド、そしてブルース。 出会った相手の姿かたち、また授かった名誉やチャンスは様々じゃが、それぞれ悲惨な段階で書き止めたままなんで、どうも「悪魔的出会い」にしか読んでもらえんかもしれんな。 でもブルース・スプリングスティーンのその後の快進撃は周知の通り。 「ロックかフォークか」の大問題に折り合いをつけて、「ネブラスカ」というフォーク的名作も発表しておる。 ジョージ・ハリスンは90年代に入ると充実した活動を再開。 かつての“インドの嵐”は表現に適度なスパイスを加えるさじ加減になって聴衆の心に届くようになったのお。 追悼コンサートにはインド音楽の権化ラヴィ・シャンカールの楽団による壮大なインド音楽交響曲がジョージに捧げられたもんじゃ。 ジミー・ペイジは、最近では不幸な呪縛から解き放たれたようなスッキリした容姿となり、同世代のロッカーの応援演奏に気軽に顔を出しておる。 黒魔術というよりも温泉にでも浸っておるような安堵な表情じゃ。 トミー・ボーリンは、残された2枚のソロアルバムが20世紀の終わりごろから再評価され始め、ようやく「ソロギタリスト」としての存在が認められておる。 「出会い」ってもんは難しいもんじゃのお。 衝撃度がデカければデカイほど、お相手の良し悪しの判断が付けられんものじゃよ。 えてして“悪魔”ほど魅力的に感じてノメリ込みやすいから困ったもんじゃ。 そこで人生云十年のわしから「悪魔にからめとられない方法」をひとつアドバイスしようかのお〜♪ 夢中になりそうなことがたくさんあったら、もうぜ〜んぶノメリ込んでしまえ〜! そうすりゃ、仮にその中のどこかに悪魔がおっても見過ごしてしまうわい! もちろん本道を忘れてしまってはいかんぞ。 諸君の本道とはすなわち、The-Kingブランドじゃ〜。 ここには決して悪魔はおらんから、安心してノメリ込むようにな! まずは、はよお新作ハイグレードナッソーをゲットせえ〜♪ 悪魔なんざ寄り付くことのできんキング・オブ・ロックン・ロールのご加護があるってもんじゃ! |
七鉄の酔眼雑記 〜七鉄の大相撲初場所観戦記! スポーツ観戦大好きのわしが、先日実に26年ぶりに両国国技館で大相撲を堪能してきた! 26年前の1985年初場所は、両国国技館のこけら落としの記念すべき場所であって、親父殿、お袋様、姉貴と家族4人揃っての観戦じゃった。 思えば親子4人が揃ってお出かけをしたのは、この時が最後じゃったな〜と、JR両国駅から国技館までの道程でちいとばかり感傷にふけってしまったわしじゃが、やはりスポーツも音楽と同じで、“生”が一番! 感動に震えてしもうたよ! 十両の序盤戦から観戦を始めて、最初は土俵上の取り組みよりも勝負審判の“元大横綱”貴乃花のお姿ばっかり見ておった。 しかし“現大横綱”の白鵬の横綱土俵入りは、あまりにも神々しくて圧倒されてしもうた。 白鵬の身体の中心にぶっとい柱でも入っておるような、まったく芯がぶれない美しくて力強い土俵入りじゃ。 土俵入りの際にまわしの上から締める白い横綱の真後ろの位置には、背中に沿って伸びる縦型の飾り綱があるが、これが終始静止しているように見えるのじゃ。 そして伝説の巨鳥「鵬」が羽ばたくがごとく大きく両腕を広げてせり上がってくる不知火型のダイナミックな動作は、ただただ感動! 対戦前にこの土俵入りを見てしまったら「こりゃとても勝てん・・・」って思わせてしまうじゃろう。 あまりにも感動し過ぎて、中入り後の取り組みの最初の2、3番はあんまり覚えておらんのじゃ。 翌日には巨人軍終身名誉監督の長嶋さんが観戦にいらしたそうじゃが、きっと長嶋さんも「ホワイトにダブル・ムーンにバードで白鵬ですね〜♪」なんつったナガシマ語も忘れて、白鵬に見とれていたに違いないじゃろう。 肝心の白鵬の結びの一番の取り組みも、若手の栃煌山をまったく寄せ付けない圧勝。 3秒くらいで終わったんじゃなかろうか? 普通なら、勝負が早くつきすぎで物足りないところじゃが、土俵入りの余韻に浸っておったわしは、「これで当然じゃ」と納得してしもうた。 一緒に観戦した友人連中は「横綱なんだから、もうちょっと相手に相撲とらせてやれよ」なんて屁理屈こねておったが、「相手にまったく相撲をとらせない横綱」もグレイトじゃ! 7〜8年前じゃったか、ゴルフのタイガー・ウッズのプレイを目の当たりに見て“心底恐れ入った”ことがあった。 それまでゴルフはあまり興味がなかったので、仕事と割り切っての取材だったのじゃが、「やはり超一流のプレイは見ておくべきだ!」と肝に命じたもんじゃ。 この度の白鵬の土俵入り、相撲は、ウッズ以来の生涯の思い出となる感動を頂いた体験となった! GO TO TOP |